<遊去の話>

「遊去の部屋」「遊来遊去の雑記帳」に掲載した記事と過去の出来事についての話です。「遊去のブログ」は現在進行形で記します。

コロちゃん<穴掘り>

2017-03-25 08:50:56 | 「遊去の部屋」
 コロは穴掘りが得意です。それは小さいときからで、これはもう才能といってもいいくらいです。その最初は「脱走用のトンネル」で、<脱走>のところに書いたとおりです。はじめは脱走する目的で掘るのではないと思いますが、一度掘り出すと掘ること自体が目的になり、もうどうにも止まらなくなってしまうようなのです。穴が大きくなればなるほど、また深くなればなるほど達成感があるのか、ますます気力が充実してくるみたいです。それで仕方なくコロの小屋を移動して裏口の庭のところに持ってきて鎖につなぎました。
 犬も小さいときはよくいたずらをします。とにかく何でも手当たり次第に物を噛みます。そんなことはこちらも分かっていますから、紐の切れたサンダルなどを与えてちゃんと先手を打っておくのですが、これにはちょっとコツがあるのです。渡すときもすぐには渡さず、最初はチラチラ見せて欲しがらせておき、犬がやって来たらわざとくるりと背中を向け意地悪をするのです。そうすると犬は前に回ろうとしますから、そうしたらまたくるっと回って背中を見せるということを数回繰り返してからわざとしくじったかのように噛み付かせます。そこから引っ張り合いになるのですが、このとき無理に引っ張ってはいけません。犬の歯を傷つけないように適当に加減して行います。それから如何にも取られたというように奪わせておいて、そのあと2,3度取り返すまねをしておけばいいでしょう。これで犬はもう得意になっていますから、スリッパの値打ちもずいぶん上がったわけで、しばらくはこれを噛んで遊ぶから静かになるはずです。
 ところがコロの場合はどうも予想外のことが起こります。しばらくするといきなり静けさを破ってガシャンという音。コロが噛むのに飽きてスリッパをくわえたままと首を激しく振ったのです。これは犬の習性だから仕方がありませんし、これだけなら別に問題はないのですが、そのうちに口がすべってスリッパが、所かまわず飛んで行くから大変です。トタンの塀や壁にぶつかるくらいなら何でもないのですが、これがガラス戸なんかにぶつかったときには凄まじい音がして腰を抜かしそうになります。幸いなことに狭い間隔で木の桟があるので直接ガラスにぶつからず助かりましたが、こうなるともう放ってはおけません。
 叱ってスリッパを取り上げると、コロは少ししょげた顔になって、すごすごと小屋の中に入っていきます。これでよしと思ってまた仕事に取り掛かるのですが、少しすると裏口の戸がパチパチと音をたてはじめ、そのうちにバチバチ鳴り出したので、あわてて見に行くとガラス戸に土やら石やらが飛んできてぶつかっているのです。戸を開けると、コロが庭に穴を掘っていました。直径50cmくらいはある大きな穴です。むこうを向いて掘っているので掘った土はみんな後ろ足の間から戸の方に飛んでくるのです。コロはもう穴掘りに夢中で、さっきのしょげた顔は何処へいったのやら、目はキラキラ輝いて力がみなぎっているのですが、振り返ったコロの鼻は泥だらけでした。

 散歩のとき、稲刈りの終わった田んぼでよくコロを放してやります。そうするとコロは喜んで、あっちへ走り、こっちへ走り、殆んど全力疾走するのですが、あるときのこと、ぴたっと走るのを止めて、地面に鼻をすり寄せ匂いを嗅ぎ始めました。それから7、8mとんとんと軽く走り、そこでまた匂いを嗅ぎました。それからまた戻って匂いを嗅いで、今度は別の方へ歩いて行き、またそこで匂いを嗅ぎました。そういうことを5,6回繰り返したあと、今度は猛然と地面を掘り始めたのです。踏ん張った後足の間から土が吹き出すように飛んで行きます。しばらく掘ると今度はぴたっと掘るのを止め、鼻を穴に突っ込んで匂いを嗅いでいます。再び掘りだしたときはさらに凄い勢いです。そしてそこへ頭を突っ込むといきなり何かをくわえて引きずり出しました。最初はネズミか思いましたが、それは実はモグラでした。大きなモグラです。相撲でいえば横綱級でしょう。私はびっくりして駆け寄ってコロからモグラを取り上げました。驚いたことにモグラの毛皮は全く傷ついていません。犬の牙で噛まれているのに何ともなっていないのです。私が背中の皮をつまんで持ち上げるとモグラは手足をばたばたしてもがき、そこへコロがぴょんぴょん飛びかかります。私はコロの首輪をつかんで、コロに「えらいえらい」をしてからモグラを放してやりました。モグラは凄い勢いで地面を掘り出し、あっという間に潜ってしまいました。その速いこと。私は、そのあまりの速さに、もう一度潜るところが見たくなり、思わず潜っていくモグラの背中をちょっとつかんで引っ張ってしまいました。ところが、モグラの背中の毛はすべすべで、つかんでも力が入らずとても引っ張り出すことはできませんでした。コロを放せばあっという間にモグラを引っ張り出したでしょうが、それはしませんでした。モグラにとっては命がかかっているわけだから死にもの狂いのはずなのです。地面に消えて行くモグラの背中を見ながら、こんなときに背中を引っ張るなどということはするものではないなと思いました。

P.S. コロは今までに地面を掘ってモグラを3匹捕まえています。
2003.1.13

★コメント
 今の家に引っ越してから、庭でモグラが死んでいるのを2度見ました。地上で死んでいるモグラを見たのはこれが初めてでした。
 山でキャンプをしていたときに奇妙なものが動いていくのを見つけたことがあります。モグラでした。灰色の小さなネズミくらいの大きさで、細長く突き出した鼻には試験管ブラシのように粗く毛が生えています。その様子から考えてモグラかなと思いましたが、確信は持てませんでした。
 モグラが死んでいるのを見たという話は聞いたことがありますが、それは当然地上でのことです。多くの場合は地下で死ぬのだろうけど、土の中では人の目につくことはありません。そこで「モグラは太陽の光に当たると死ぬ」と言われたりしたのでしょう。私が見たのは夕方でしたが、まだかなり明るく、それでも元気そうに土の上をまっすぐ進んで草むらに消えました。
 そのモグラは、コロの掘り出したモグラと比べるとかなり小さくて体長は半分以下でした。子供だったのかもしれませんが、それまでの人生で私が見たモグラはその一匹だったのでモグラというのはこういうものだと思っていたのです。そういうこともあってコロがモグラを掘り出したときには驚きました。「横綱級」と書いたのはそのためです。ところがうちの庭で死んでいたモグラも2匹とも横綱級でした。
 日本に広く分布しているモグラには何種類かあるようなので種類が違ったのかもしれません。いずれにせよ庭にも畑にもモグラはたくさん棲んでいます。モグラは大食漢なのでそれだけエサになる生き物がいるということでしょう。いろんな生き物がたくさんいるということは豊かな多様性を保っているということだからこれでいいのだろうと考えています。

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まつろわぬ青春の日の行方(2) <プール>

2017-03-15 08:24:41 | 「学生時代」
 五月の連休明けのことです。正午になると出浦先生が言いました。「プールに行くぞ。」
水着がないというと自分のを貸してやるから行こうといいます。殆ど同時に実験室のドアが勢いよく開き、「今日は行くんやろ!」と白衣姿の津田先生。すると、後ろで「よし、行こ!」と助教授の駒井先生が立ち上がり、私はもう抜けられなくなりました。当然のことながら,私はダイエーの温水プールに車で行くのだろうと思いました。ところが研究室のある建物を出ると、みんなは楽しそうに話しながら学内を歩いていくばかりです。私はどこに車が止めてあるのかと思いながら後に付いていきましたが、着いた所は学内のプールです。もちろん屋外で、50mプールの水面は青空を映してピリッと張りつめています。100%、冗談だろうと思いました。ところが、みんなはさっと服を脱ぎ捨てるといきなり飛び込んで、そのままクロールで泳いでいきました。
 無茶苦茶な話です。夏でも泳ぐ前には準備運動をするものだ。私は一人、放っておかれた形になりました。仕方なくプールサイドで手首や足首を回したり、膝の屈伸をしたりしていましたが、みんながターンをして戻ってくるのを見ているとどう考えてもこれはあべこべだと思いました。仕方なく足先をちょっとプールに浸けると、その冷たいこと。そうは言っても今さら止めるわけにはいかないので、ぱちゃぱちゃと体に水をかけるともう後には引けなくなりました。

 私は、クロールはできませんでした。基本的に、泳ぐのは海だったからです。そして、泳ぐ目的は、魚を突いたり、貝を取ったりすることで、それを浜で焼いて食べるというのが「泳ぎに行く」ということでした。そこで役に立つのは平泳ぎと潜りだけです。その季節も7月から盆までで、そもそも暑いから泳ぎに行くのであって暑くもないのに泳ぐ必要はありません。
中学生のとき学校にプールができて「水泳の授業」というものがありましたが、それは笛が鳴ったら一斉にプールに入り、次の笛では一斉に上がるだけ。結局、プールというのは泳げないものが溺れないための施設だと思っていました。目は痛いし、消毒の臭いはするし、おまけに、水が冷たくて上がりたくても笛が鳴るまで上がってはいけないときています。だいたい、魚もいないプールで泳ぎたいと思ったことはありませんでした。

 私は泳ぎ出しましたが、もちろん、平泳ぎです。出浦先生は派手に波しぶきを立てながら豪快に泳いでいきます。駒井先生は短いストロークで軽快な泳ぎです。津田先生はちゃぽんちゃぽんという音を立てながらのかわいい泳ぎ方でした。泳ぎにも性格が出るようで、なるほどなあと思いました。そして、500m泳ぐとプールを上がって昼食というのがいつものパターンのようでした。
 一月ほど経った頃、私もクロールがしてみたくなりました。見様見真似でやってみましたが、手足をばたばたしているだけで溺れているのと変わりません。息ができないのです。「これを付ければ泳ぎやすい」といって出浦先生が自分のゴーグルを貸してくれました。そんなものをするのは初めてでしたが、付けてみるとこれはいいと思いました。「よし」と思ってクロール始めましたが、何も目に入りません。何かが手に当ったので向こう側に着いたか、やはり、クロールは速いなあ、そう思って足を着くと、そこはプールサイドだったのです。つまり、大きく曲がり、7mくらい進んでプールサイドにぶつかっただけでした。
 この機会にクロールをマスターしようと思いました。それには先ずバタ足からだと言います。プールにはビート板があったのでそれで練習すればいいと教えてくれました。私はそんな小学生のようなまねはしたくなかったのですが、教えてもらう以上、言われたことはしなければなりません。ビート板をつかんでプールサイドを蹴るとすーっと体が進んでいい感じでした。止まりかけたところでバタ足を始めたのですが全く前に進みません。そして、すぐに足が疲れてきて続けられなくなりました。こんなことはありえないと思いました。足をばたばたすれば進むものを思っていたので、そこに技術があるなどとは考えたこともなかったのです。それでもう一度やってみたのですが、今度は後ろに進んでいるということがわかりました。
 「下駄をはいとるからや」ということでしたが私にはその意味がわかりませんでした。研究室に戻って、元水泳部だったという院生にその話をしました。彼は自分の足の甲を見せて、「ここを後ろに反らすことができんだらバタ足はできん」と教えてくれました。彼はそれができません。それで平泳ぎをやったということでした。私は僅かに反らせることができました。すると院生は「それならクロール、できるわ」と言ってくれたのでまたチャレンジする気になりました。
 バタ足の次は腕のストロークです。それにはビート板を股に挟んで練習します。頭が沈んで息がしにくいので何度か水を飲みましたが、少し慣れると体がぐんぐん前に進みます。足がなければこんなに速く進むものなのかということを知り、気分は浮き立ちました。バタ足の練習をし、ストロークも練習をし、これで大丈夫だろうとビート板を外したとたん、体が深く沈んで溺れそうになりました。全く息ができません。それで大切なことは足と手のタイミングと、それに合わせた体のローリング、それによって呼吸のリズムをつくり出すことだということがわかりました。各要素は問題ないのに組み合わせたとたんに組織全体が崩れていくというのは世間ではよくあることだというのもうなずけます。
 それでも何とかクロールはできるようになりました。ドルフィンキックも練習してバタフライのまねごとも覚えました。ただ、背泳ぎだけはどうもする気になれませんでした。海で泳いでいた私には、だいたい、「前を見ないで進む」というのは感覚的に違和感があるからです。これは普通、後ろを向いて歩かないのと同じです。まあ、ここまでやればいいだろうと思ったのですが9月になってもプール通いは終わりません。水はだんだん冷たくなってきて気分は水に入りたくなくなってきています。
 10月になりました。水面は空を映して青く澄み、秋の色をしています。水泳部も練習を終えました。冗談じゃないと思いました。心の中に徐々に不安が募ります。いったいいつまで泳ぐのか。それが問題です。この人たちはまともじゃないと思いました。考えてみれば、5月の連休明けに泳ぐことからして常軌を逸しています。しかも、この冷たい水の中に準備運動もせずに飛び込むのです。私が準備運動をした方がいいのではというと、ここまで歩いてきたのが準備運動だといいます。「年寄の冷や水」だと楽しそうに話す助教授は50代半ばです。抜けられないことを悟った私は覚悟を決めるしかありませんでした。
 ついに11月に突入しました。泳ぎだすとその瞬間に息が詰まりそうになりました。肺の中に冷たい空気が入るためか、呼吸のたびに肺の中がペパーミント入りのタバコを吸ったような感じになります。泳いでも体温が上がらず、関節がギシギシ動く感じで、手と足のタイミングが合いません。水から上がった後の風の冷たさは「因幡の白ウサギ」の気分。もうだめだと思いました。そして「そろそろ終わりにしようか」という声を聞いたのは11月も10日を過ぎた頃でした。

 大学を卒業して田舎に帰ってからは主に川で泳いでいます。しかし、機会があればプールでも泳ぐようになりました。そしてクロールができるようになって平泳ぎは楽な泳ぎ方ではないことを知りました。平泳ぎでは首を上げていなければなりません。頭はかなり重いのです。その点、クロールでは頭は水に浸かっているので浮力が働いて、その分だけ首への負担は軽くなります。ゴーグルを使うようになってからは平泳ぎでも顔を水に浸けて泳ぐようになりました。そうすれば川の底の景色や生き物を見て楽しむことができます。そうなると底の線を見て泳ぐプールより自然の川や海の方がずっと良くなります。とはいっても川や海で泳ぐのは夏の間だけですが…。


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まつろわぬ青春の日の行方(1) <出浦先生>

2017-03-12 09:06:26 | 「学生時代」
 電話がなった。『誰だろう、こんな時刻に?』
 生徒達に静かにするように言うと電話に出た。その頃、私は、夜、家で中学生を教えていて、そのとき部屋には5,6人の生徒がいた。「静かに!」と言って静かにするわけがない。電話の声が聞き取りにくく右手で耳を押さえ、左耳に集中した。
 電話は「先生」からだった。そして、これが最初で、最後の電話となった。十二指腸潰瘍の手術をして、今は休職中だという。卒業してからまだ三ヶ月、あんなに元気だったのにとても信じられないことだった。そして、結局、私が、卒論で先生の指導を受けた最後の学生となった。葬儀の日、棺の横に座った奥さんとその横で泣いているまんまるい顔の幼い二人の姉妹を見ていて、大学での先生の様子は自分が必ず書き残そうと心に決めた。

 私が講座選択で土壌肥料を選んだのは、農芸化学科で唯一、この講座だけが農場を持っていたからでした。先生の研究テーマは「腐植」といい、土壌有機物の性質を調べ、それを分類することでした。私はそのとき有機農法や自然農法に興味を持っていたので何か通じるところがありそうだと思ったのですが、実際にはまったくつながりはありませんでした。しかし、所謂、「研究」というものがどのように進められていくものかということについてはしっかり学ぶいい機会になりました。
 先生は40歳くらいで、助手。いつも灰色の作業服で、白衣を着ているところは殆んど見たことがありません。ついでに言うと実験しているところも見たことがありません。大学の研究者というよりは町工場の作業員という雰囲気でした。机に向かうというよりは、腕組みをして、やや太めの体を椅子の背もたれに預け、斜めに座って実験室の天井の方を眺めていることが多く、急に立ち上がると流しへ行き、お茶を入れては戻ってくるという具合で、先生が何を考えていたのかはわかりません。おそらく、何かを考えているというのではなく何を考えればいいかを考えていたのではないかと思います。そこが先生のユニークなところで、科学技術をベースにした近代農法の旗手として邁進する大学の方向性に何か乗り切れないものを感じていたのではないでしょうか。
 私は二回生の頃から大学の勉強に疑問を持ちはじめ、それで自分で畑を借りると野菜を作り始めました。大学の授業にも出なくなったので殆どの単位を落とし、四回生のときには卒業に必要な単位数の半分しか取れていない状態で、みんなが卒論の実験に取り組んでいる昼間、私は単位を落とした科目の授業に出て、その空き時間で実験をするという始末。夜になるとそのまま家庭教師に行き、その帰りに大学に戻っては、また実験の続きをするという生活です。10時頃から12時頃まで実験をし、それから時々、先生と大学の正門前の「九州ラーメン」を食べに行くこともありました。
 アルバイトのない日はずっと実験です。先生は7時になると必ずラジオをつけました。英語ニュースです。耳を慣らせるために聞いていると言っていましたが、私の周りの先生はみんな英語が話せました。そこでは英語は普通のことだったのです。考えてみれば、論文も英語で書くのだから当然のことかもしれませんが、私は、中学生のときに教科書で英文手紙の書き方を習って以来、ずっと英語が使えるようになりたいと思って勉強してきましたが、未だに思うように使えません。人生の残り時間が少なくなった今、もう諦めて、最後のシゴトに集中しろと自分に言い聞かせようとしているのですが、まだ思いを捨てきれずに困っています。
 家庭教師のある日はそちらで夕食が出ました。たいていは食べ過ぎて勉強どころではなくなります。しっかりもてなすことで、その分、しっかり仕事をしてもらおうということなのでしょうが、家庭教師で成果を上げようと思うなら、出す夕食は軽食にすべきです。満腹の私が大学に戻ると、先生は鍋を片手に何か食べていたことがありました。水に溶いた片栗粉を鍋に入れ、そこに砂糖を加え、かき混ぜながら加熱すると、半透明な糊状のものができます。「学生のとき夜中に腹が空くとよく食べた」と言っていましたが、その味は私も知っていました。薬っぽいその味が頭に浮かび、その日に出された夕食の話はできませんでした。

 今、思うと、先生は、そんな私の実験にずっと付き合ってくれていたのです。家では幼い子供たちが帰りを待っているというのに。「ピンクレディーの振り付けがうまくできるようになったよ」と先生はよく話してくれました。
 先生からの電話を受けて私は友人と先生の家に見舞いに行きました。ぎょっとしました。黄疸で顔が黄色なのです。その姿は数か月前の先生からは想像できないものでした。それでも私はそれが最後になるとは思いませんでした。そのときに川で取った鮎を持っていき、焼いて食べたのですが、あのとき鮎を持って行って本当に良かったなと思います。

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犬も歩けば

2017-03-11 08:46:33 | 「遊来遊去の雑記帳」
 この前、コロが、道路脇の丸い反射板を付けたポールに頭をぶつけました。「グゥフン」と「ギュフン」を同時に言ったような奇妙な声を上げました。地面のにおいを嗅ぎながら歩いていたためですが、まさか、犬が本当にポールにぶつかるとは。ぶつかる瞬間までサッとよけるだろうと思っていたのに……、プァー コロちゃん!
2002.1.15

★コメント
 実は、私にもこれと似た体験があります。山に登るためにある鉄道の終着駅に着きました。そこからバスに乗り換えて登山口まで行きます。改札口を出るとバス乗り場はどこだろうと横を向いて駅の外を眺めながら構内を歩いていきました。突然、「バチッ」という音が聞こえたような気がしました。そして頭の中がぐらぐらっとすると目の前に星が飛びました。駅の構内の太い柱にまともにぶつかったのです。一瞬、意識が飛んだような気がします。倒れはしなかったものの膝に来ていました。ボクシングでまともにパンチを食らったときはこんなものではないかと思います。次に来たのは顔面のすごい痛み、無防備でぶつかるとこんなに危険なのかと思いました。それから自分が柱にぶつかったことがわかるとそれを見られたことへの恥ずかしさ、早くそこを立ち去らねばと思いながら、このまま山に登って大丈夫だろうかと考えていました。

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「青虫」とします。

2017-03-07 08:10:10 | 「遊来遊去の雑記帳」
<無題>                              2002.1.8
正月に畑に行ったら、キャベツに青虫がいました。かわいそうに、キャベツは葉が穴だらけです。それにしても、この寒さの中、どうして青虫が生きられるのでしょうか。考え込んでしまいます。

<寒いことはー>                          2002.1.9
まあー、それはー、えー、寒いことはー、寒いです。でも、まあー、何というか、えー、これは、まあー、生まれた以上ー、仕方ぁーないんじゃぁーないですか。

★コメント
 知人が<掲示板>を作ってくれました。そのタイトルが「遊来遊去の雑記帳」です。そのとき「遊去の部屋」はスタートしていたのですが、こちらも同じ知人が作ってくれたものでした。「遊去の部屋」は<ホームページ>ということで目次のある形式にしてくれたので、まとまった内容のものを一つずつ書き、知人にメールで送るとそこに載せてくれました。そこに「掲示板を作ったから、こちらは自分で書き込んで」という連絡が入ったのです。
 <ホームページ>と<掲示板>と両方同じでは意味がないだろうと思いました。そこで<掲示板>というものがどういう性質のものであるかも知らないまま、短いものを書けばいいのかなと思って書き込んだものがこれでした。
 そのとき私は、寒い時期には虫は冬眠するか卵の状態でいて、暖かくなったら活動を始めると思っていたのです。だけどよく見てみると真冬でも活動している虫がたくさんいることに気付きました。1月に山の休耕田の水たまりにアメンボウがいるのを見たこともありました。きちんと観察することが大切だなとは思いましたが、しかし、こんなことを書いて何か意味があるのかなあとも思いました。

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