23日の記事「7年ぶりの串木野・羽島(2)」でふれた、「時成の年齢」について、書いてみようと思います。
まずはその前に、館内の展示物は非常に見応えのあるもので、かなり充実したものでした。
館内に入ると音声が聞こえてきました。14〜15分ほどの紹介動画が2本交互に放映されています。
ちなみに、その動画ではフリーアナウンサー(元・公共放送局アナウンサー)の住吉美紀さんが語ってらっしゃいます。
「スミきち」さんにこんなところでお目にかかれるとは思っていませんでしたが、ご活躍のご様子でなにより、と思いました。
スミきちさんは弁士に扮装したり、羽島の岩場に立って留学生たちの残した手紙や当時のエピソードなどの紹介をしたりしています。
留学生たちが出発前の2か月間ほどお世話になった逗留先のご子孫の紹介などもあります。
当時の様子を想像するのに十分な内容でした。
また、長沢鼎の自筆雑記帳もあり、一番若かった長沢少年の苦悩が現れている「prison(監獄)」の落書き(殴り書き?)も見られました。
貴重な資料ばかりで何度も来てみたいと思わせる展示です。
さてそこで、前述の通り、表記が17才だったり21才だったりという問題。
正直ちょっとばかり戸惑ってしまいました。
この「時成の年齢」に関する資料があります。
県の歴史資料センター黎明館の調査史料室・前室長・内倉昭文氏から頂いた、前室長ご自身による
黎明館調査研究報告 第29集(二〇一七年三月)別刷
「※名越時敏(左源太)」小考(二) ー "誤説" の訂正など ー
の中で取り上げて下さっていますが、様々な刊行物や展示を見て年齢表記が不統一であることに疑問を抱く方もおられるのではないかと思います。
(※ ご承知とは思いますが、名越時敏は世間一般に知られている名越左源太のことで、名越時成の父)
細かいことではありますが、『鹿児島県史料 名越時敏史料 一 』に集録されている「名越時敏日史」には時成(幼名・壮之進)の生年月日が明記されていて、当時は満で17才だったことがわかります。
ついでながら、時敏の著書「常不止集(とことわしゅう)」「続常不止集」などによると、時成より前に「長男・源太郎」がおり、不幸にも一歳に満たないうちに、流行していた疱瘡(天然痘)で亡くなっていることが記されており、時成については「長男」ではなく「嫡子」と表記されてもいるようです。
また、同じく『同史料 二 』に集録の「名越時敏日史」にある左源太時敏の、息子・時成の異国への派遣に関する「弁明」にも「(時成は)まだ年若く修行中の身であり、今派遣されるとその(修行の)時期を逸してしまう、二十一・二才になれば、お受けしたいのだが、」というような内容で、長男を幼くして亡くし、また嫡男である時成までも失ってしまうのではと心配する親としての心情が現れていると、紹介されています。
以上のようなこともあり、このブログで時成に関するあれこれを書くことにしました。
鹿児島県歴史資料センターの調査史料室長だった内倉氏は4月から別の部署に異動されたということなのですが、これまで本当にいろいろご教示いただき、親子共々大変感謝しております。
ここで、心より御礼申し上げます。(また改めて伺いますね)
留学からの帰国後についてもあまり知られていない名越時成ですが、いえ、知られていない人物であるからこそ、時成のことに限らず、諸氏の情報についても、混乱を来さないよう、せめて年齢その他、現時点で分かっていることについては、今後再度検証された上で、統一表記されることを望みます。
☆来年2018(平成30)年は明治維新百五十周年ということで、また大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」の放送予定もあり、ますます関連イベントなどやそれに伴う資料・刊行物・ネットでの情報提供なども増えることでしょう。
関連する機関の方々には、記念事業の一過性に終わらせることなく、今後の更なる検証が成され、益々興味を持ってもらえるような魅力ある展示・行事となることを願うばかりです。