先日購入した『 博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー 』を拾い読み。
(2005年5月著作 6月21日 第一刷発行)
この本では「ひさなり」と読み仮名が振ってありますが、
私としては敢えて「ひさすみ」と読ませていただいています。
(一新朋秀氏の論文にアルファベット表記がされているらしい)
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☆桐野作人さんのブログ「膏肓記」コメント欄を参照ください
さて、焦らず頭から読もう、と思いつつ、やはり気になるのは私生活。
というのも、以前にも書きましたが、曾祖父の姉・筆さんの元夫だったからなのです。
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☆2010年4月21日の記事「名越フデさん」
そこで、思ったことなどをつらつらと書いてみようと思います。
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まず、
「終章 晩年の町田久成」の中の「橋場の町田久成邸」の件を読んでみた。
「出家後の消息を伝える明治二十三年一月の『読売新聞』の記事」の紹介があり、
「浅草橋場にあった本邸と向島小梅の別邸」を売却したことなどが書かれていた。
☆ここで、「明治二十三年」に反応する私。
というのも、川上イサさんが記した日記(※↓後述『都見物日記』参照)が明治23年のものだったから
そのあたりの年代には自然と敏感に反応する習性がついた。(☆この部分、翌4月5日追記しました)
その先を読んで驚いたのは、
「明治十二年まで独身で家庭をもたなかった」(P.217)と書かれていたこと。
えっ?! そうだったの?
筆さんと離婚したのが明治17年9月12日。
これについては、名越時成さんのご子孫の内村氏から頂いた戸籍謄本のコピーに
「明治十七年 九月十二日 鹿児島懸日置郡石谷村 町田久成 妻 離婚に付き復帰」とあります。
亡き父・名越(左源太時敏 改め)泰藏の後を継いだ時成さんの戸籍に復帰しているのです。
町田久成さん46歳、筆さん39歳の時。
ってことは、やはり現在の久成さんのご子孫は筆さんの子供のご子孫?
読み進めると、「(島津)久光が鹿児島に戻った三年後の明治十二年に結婚している。」
とあり、
「‥‥(略)‥‥確かなことはわからないが、そのころ町田は浅草の橋場にも邸宅を持っており、橋場町二十九番地を公式の住所として内務省に届けている。」
「結婚後、三男一女をもうけたが、長男と妻を早く亡くしている。」と。
おや?ではその妻とは、筆さんではないの?
そして、
「出家のとき、二男で九歳の秀麿(明治十三年生まれ)と、
三男で七歳の茂(明治十五年生まれ)がいて、
後添えの千代が長女 媟子と二人の息子の世話をしていた。」
と書かれていて、私は益々困惑するのでした。
(ついでに言うと、私の祖父・篤彦が生まれたのは明治14年だからフデおばさんの二人の息子と同年代)
一瞬、その千代さんが筆さん?で、筆さんの変名?などと思いましたが、
そんなはずはない、と思い直しました。
更に先を読むと「町田久成の出家」のところには
「久光の死を見届けた町田久成は、奈良で内室の千代を出家させ、」(P.227)とあったのです。
(島津久光は明治二十年十二月六日、七十一歳で亡くなる)
正直なところ、筆さんに関する記録がほとんどない中で、
これも以前このブログでも度々取り上げてきた、左源太の長女・イサさんの『都見物日記』(※↓)には、妹・筆(フデ)に関する記述があります。
その中の5月10日の日記には、「(前略)‥‥、八時過ぎより泉岳寺御仏像、由良の助御墓、皆々四十七人のお前拝見いたし候。それから大円寺の名越家御祖先の墓へ御参りいたし、三人(※↓)にて草とり掃除いたし候。お筆どの子供の墓へも参り、少々下にて有之(これあり)候。此れより又浅草の観音に参詣仕候也。‥‥(以下略)」とあり、この「お筆どのの子供」とは、亡くなった長男では?と推察できると思うのですが、どうでしょう。
それから、ウチの曾祖父の戸籍にも「町田久成」の名が記されているのです。
久成さんと筆さんが離婚し、筆さんが兄・時成戸主の戸籍に復帰した日付けで
「明治十七年九月十二日 鹿児島懸日置郡石谷村 町田久成二女入籍ス‥‥(以下略)」として、「養女 テウ」という女性の名があります。
「テウ」は「ちょう」と読みますね。
ということは?もしかしたら「蝶子」とは同一人物?
と、ここで、「テウ」さんは明治16年生まれとあることに気づき
蝶子さんではないことは明らかになるのですが、(←❌ のちに「長女=長子ではない」と気付く)
(↑これについては2019年4月に『テウさんについて』に書きましたが「蝶子=テウ」のようです〈2021,3,30追記〉)
テウさんの明治36年生まれの男児もウチ(曾祖父・轟)の戸籍に記されています。
この方のご子孫は鹿児島におられるそうです。面識はありませんが、
前述の内村氏に教えていただきました。
前にも書きましたが、様々事情がありそうですし、あまり推測するのもどうかと思いつつ、あれこれ考えてしまうのです。
こんな風で、なかなか書き出せなかったのですが、どうにかまとめることが出来ました。
ちなみに、「奈良で内室の千代」さんを出家させた後の記述は
「久光三回忌の仏式供養に合わせて、明治二十二年十二月一日に滋賀県の園城寺で桜井敬徳和尚(剃髪の二週間後に示寂)の手により剃髪した。法名は久成(きゅうせい)とした。同時に二人の幼い息子も剃髪させ、稚児僧としてかれのそばにおいたと当時の新聞にもある。」
また、冒頭の「はじめに」の中には、こう書かれています。
「いまでは、かれの名を知る人は少なくなったが、明治時代の新聞にはしばしば登場して、数多くの話題をふりまいた文化人の一人である。JR西鹿児島の駅前に「若き薩摩の群像」という記念塔が立っている。‥‥(中略)‥‥その最上段に、当時の薩摩藩大目付で留学生の督学をつとめた二八歳の町田久成の姿がみえる。」
☆町田家については、お名前や家系図など今ひとつ把握しきれていないので、さらに勉強しようと思います。
☆もし町田家の方なり、この件(フデさんや蝶子さんなどにも)に関してなにかご存知の方がおられたら、ご一報いただけるとありがたいです。
コメント非表示希望の方はそのように明記して下さいませ。
(※)名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人で船や鉄道を乗り継ぎ大坂・西京・東京・日光・金比羅参詣などを巡った際の日記で、寺師若法師さんにより薩摩狂句の『さんぎし』に紹介されたもの。明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。
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《'17. 9.17追記》
幸いなことに、この約3ヶ月後のフォーラム『子孫が語る薩摩スチューデント』で町田家の方とお話しする機会を得、いくらか確認することが出来ました。