☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

「於枝様」に気付いた話

2022-08-04 12:47:37 | 名越左源太と家族

昨日、FBにも書いたのですが、以前このブログで書いた記事の画像を目にして、あることに気づきました。

小松帯刀清廉の誕生日に 』(2020-12-03) カテゴリー| 曾祖父・轟のこと

以下、FBで投稿したものをそのまま載せておきます。

===================

今日(8月3日)、拙宅ブログでこの6時間以内に読まれた記事リストを見て、その中の一つをチェックしてみたところ、その中の画像から気付いた事がありました。

記事タイトルの「小松帯刀の誕生日」はこの際関係ないのだけど、『鹿児島県史料 名越時敏史料 一』のp.74に文久二年(1862年)の正月の名越家の家族構成を書いてあり、よくよく見てみると、その中で「文化二年乙丑八月三日誕生 於枝様 一 母上様御歳五十八歳」とあるのです!
 
それに気付いたのが今日、8月3日とは‥‥。
 
ただ、「於枝様」と名前に様付で書いてありますし、文化二年は1805年、高祖父・名越時敏は「拙者四十四歳」とあり「母上様」との年の差は14歳なので、時敏の実母ではなさそうですね。
 
 
今までは高祖父・時敏や、曽祖父・轟(当時は郷十郎)の二人の姉と兄弟について知りたいと、このページの下段ばかり読んでいて、上段の端にある両親のところをよく読んでいなかったのですが、時敏の父・名越盛胤についても初めてちゃんと読んでみたのです。
 
「天明七年丁未十月七日誕生 一 父上様当年御歳七十六歳」とあり父上については名前は書いていません。
 
ここで自作の「家族・親族の生没年カレンダー手帳」を見ると、こちらも旧暦・新暦の違いはありますが亡き父の次兄の誕生日と同じでした!
 
同じ日といえば、時敏三男の吉次郎(曽祖父・轟の長弟)の誕生日が、私の亡き父と同じ日だったことにまたビックリ!
前にも一応目を通してはいるはずなのですが、今日はこれについても改めてメモを取りました。今日の収穫でした♪
 
なお、三男・吉次郎と四男・徳熊(曽祖父の弟達)については詳しいことはわかっておりません。
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『新 南島雑話の世界』

2022-07-22 12:36:06 | Books

 今日は記録がてら、本の紹介です

 

一昨日のこと、午前中にFBをチェックしたら、歴史関連のグループでご自身の本の紹介を投稿された方の画像の一つに、名越(なごし)護さんによる書評(推薦文)が書かれていたのですが、その名越護さんの紹介に著作としてこの『新南島雑話の世界』が載っていました。

 

「新‥‥?!」と思い早速検索かけたら、某通販サイトに今年の5月10日発行とあり、最近出されたばかりの本があったことに気付きました。(ただし、購入後に奥付をみると、4月20日発行とありました)

 

『南島雑話の世界』の続編とのこと。

その日のうちに、早速近所の書店に買いに行くと、1冊、ありました

支払いの時に、つい、「ここに載ってるのは先祖が書いた本なんです。曽祖父の父親なんです。」と話してしまいました。

カウンターの青年は驚いたように「あぁ、そうなんですね!」と言ってくれました

「また入れておいてくださいね。」とお願いして家に帰りました。  

 

以下に、上記リンクの紹介文を上げておきます。

 

幕末奄美の貴重な生活記録

幕末期の薩摩藩士・名越左源太(1820~81)。 『南島雑話』は、左源太が5年間の奄美遠島中に、島内の動植物、魚介類や農耕儀礼、冠婚葬祭から伝説に至るまで、奄美の風土をつぶさに観察、取材し、詳細な図入りで書いた民俗・博物誌。幕末期奄美の暮らしを知ることができる貴重な記録である。 本書は、著者が原文を読み込み、黒糖や焼酎の製法など生業を中心に、自然、民俗を現在と比較しながら紹介。左源太の描いた図絵も多数収録する。

なお、本書は前著『南島雑話の世界』の続編に当たるもので、祭事が中心の前著に対し、本書は、生業、民俗、動植物を中心にする。著者は、奄美大島出身で、昭和初期~中期に残る奄美の古風の体験が本書にも生きている。

※ 画像は南方新社さんのページより拝借

 

 

 

 

 

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㉑ 島津重豪の娘・敬姫

2022-07-21 12:50:03 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもご覧いただき、ありがとうございます

私はブログを書くのも読むのもPCを使うのですが、スマホだと読みにくかったりしないだろうかといつも気にしつつ、つい長々と書き、画像も大きいものにしてしまいがちです、、、

今時はスマホでご覧の方も多いかもしれませんね。

 

PCで見ると、「このブログの人気記事」という表示があり、

今日は『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018-03-20 カテゴリー| 歴史探索)が5番目に上がっていました。

ありがたいことです   

 

で、どんなこと書いていたっけ?と、読んでみたところ、

そこにある画像について、

「「島津安藝忠剛」と「島津山◯忠厚」 こちらも今和泉島津家。忠剛は、忠冬の父で篤姫の父でもありますね。
※写真で見るだけでは山◯がよくわかりません‥‥あとで調べてみます。」と書いていました。

 

画像が小さく、またこの2008年の写真をPCファイルなどで探しても見つからないので、「島津忠厚」(今和泉島津家第8代当主)についてネット検索してみたのです。

 

吉貴公の祖父・島津綱久墓など』や『19代・光久公などの墓所』で「敬姫(島津重豪女)」の墓を確認しましたが、この方について今日知ることができたので記しておきます。

 

Wikiで「島津忠厚」を読んだところ、島津重豪の三男とあり、長兄・島津斉宣で、次兄は奥平昌高で豊後国中津藩第5代藩主(中津藩奥平家9代)とありました。この関係性は初めて認識したところです。

さらには、奥平昌高が継いだ奥平昌男へは、昌高の異母姉・敬姫が嫁ぐはずだったと!

 

昌高の姉・広大院(=茂姫、徳川家斉室)の項を読んでいたところ、

「弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に奥平昌男婚約者)がいる。」とあり、

それで気付いたのです

 

なるほどそれで、福昌寺墓地の案内図に珍しく「敬姫」と名前表記がされていたのですね

 「鍋保丸(綱貴男子)」の上のあたりに↓「敬姫(重豪女子)」とあります

 

 

 奥平昌男に嫁ぐはずだった「敬姫」は、若くして19歳で亡くなったとありました 

そして、その奥平昌男自身も失意のうちに24歳で亡くなり、重豪次男が「末期養子(まつごようし)」として家督を継いだ奥平昌高ということなのですね。

(Wikiによると「天明6年(1786年)9月20日、急逝した中津藩主奥平昌男末期養子として6歳で家督を継ぐ」とあります)

 

また、奥平昌高の子供たちを見てみると、その中に「女子:島津忠寛正室」とあったのです。

島津忠寛は佐土原藩最後の藩主で、その三男が西南戦争で戦死した 島津啓次郎(1857年 - 1877年)なのですね。

これまでは個別にそれぞれについて読んでいましたが、ここで繋がり、関係性がよく分かりました。

 

何がきっかけになるか、わからないものだな、と思った次第です 

 

結局、最初の「島津山◯忠厚」 の表記についてはまだ判明しません

 

 では、また書きます

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関勇助誕生の地

2022-07-21 09:54:31 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

 皆さま、おはようございます

 

以前、『維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)』(2017-09-19 カテゴリー| 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008) で「関勇助誕生之地」の画像を貼って紹介していますが、この一帯を歩いて回った2008年当時はほとんど知らないことだらけでした。

 

 画像を後で見直す中で「関勇助誕生之地」に関しても、説明板を読んではみたものの、当時はあまりピンときていませんでしたが、この「関 勇助」という人物は斉彬公が最も信頼を寄せていた方なのだということです。

 

改めて調べてみると、「かごしま市観光ナビ」に観光スポットとして紹介されているようです。

2008年に撮っていた案内板(下の画像)の説明をより詳しく紹介しています。

 

【関 勇助】 (せき ゆうすけ)

生没年不詳
名は広国、南塘と号した。城下高麗町(現・高麗町)に生まれた。

1851(嘉永4)年、島津斉彬が藩主となると、深く勇助の人柄と学問を愛し重く用いた。すなわち、常平法(飢饉の年のために備える法)の施行、城下士外城屯田兵の制度、藩内諸郷に郷校を設けて育英の事業を起こすなど、勇助の業績によるものが多かった。

また、蝦夷地(北海道)開拓計画のための調査立案や、大政の権限を朝廷に帰すための七ヶ条の意見書の添削など、重要な仕事のほとんどは斉彬が勇助にさせたものである。

勇助は、当時の著者たちの指導・教育に大変熱心で、西郷隆盛や大久保利通など多くの人材を世に送り出した。ひとえに勇助が日本の国の将来を考える思慮深い人物だったからであろう。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)

以上、「かごしま市観光ナビ」より

 画像は2008年当時のものです。

 

 

 その後ここへは行っていないので、現在の様子がわかりませんでしたが、鹿児島市とは別のサイトのページで画像が見られました。リンクサイトを読むと、この方も「お由羅騒動」で謹慎処分を命じられていたことがわかりました。

 

 「関 広国」が本名、「関勇助は通称」とWikiにはありました。

今のところ、極一時期の動向しかわからないようです。

==========================

追記:2022.7.21  12:45

芳 即正著『島津斉彬』のp.85~86に関勇助のことが少し載っていました

 

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⑳ 玉里2代・島津忠済の墓所

2022-07-17 22:33:26 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 今回は、玉里島津家2代・島津忠済の墓所です。

案内図には「久光男子」とあります。

 

☆玉里邸は斉興公が隠居後に暮らし、ここで生涯を閉じたと『島津歴代略記』にもあるので、初代は斉興公かと思っていたところ、Wikiで確認したら、明治4年に分家して出来たのが「玉里島津家」とありました。

Wiki(上記の各リンク)に詳しくあるので、そちらをお読みいただくとして、ここでは写真を並べることにします。

 今回の写真は2018年6月13日に撮ったものです。 

福昌寺墓地の東側の石塀。

 

 

 

手前の入口へ。

 

 島津忠済墓所入口の門扉です。

 

 福昌寺墓地へのメインの入口よりも右手にこの門扉があります。

  

中へ入ってみます。

 

 

 

 

 

 

 

「従一位勲一等公爵島津忠済卿・田鶴子 墓」

 

 

 

  

 

 

 

 

大正五年二月とあります(Wiki 情報によると、忠済卿は大正4年8月19日歿)

 

島津久大(ひさなが) は忠済卿の三男(Wiki「島津忠済」の項による情報)

 

男爵・島津隼彦 、男爵・島津忠夫

 

(一部敬称略

 

木漏れ日が良い感じの静かな空間でした。

 

 

☆ 実は私の母校が玉里島津家屋敷跡地に今もあるのですが、あの頃は「日本史」どころか郷土史にも疎く、まさかこうして歴史をあれこれ綴ることになるとは、全く想像もしていませんでした(笑)

 

では、福昌寺跡の島津家墓地については一先ずこの辺で。

 

ありがとうございました

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⑲ 19代・光久公などの墓所

2022-07-17 11:52:02 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 今回は19代・島津光久公の墓などの画像です。

 

☆ 19代・光久公は「初代藩主・島津家久」の二男。

なので「第2代藩主」ということですね。

以前(2017年6月)に撮った写真は、光久公のお墓を意識して撮ったものではありませんでした。

この画像は光久夫妻の墓があるあたりを区画入り口から撮ったもので、

中央に写っているのは「20代 島津綱貴」の墓です。

 

 

 また、19代・光久公の長男が島津綱久様で、綱久夫人・真修院殿との長男が20代・綱貴公ということになります。

☆ 20代・綱貴公のご両親の墓(画像左:真修院殿、右:島津綱久様)は、継豊公の墓所の後方に。

 

 

・こちらは継豊公の墓石の背面を撮った際に光久公夫妻の墓所が写り込んだもの(画像左端の2基)

 

「綱久夫妻」と「光久夫妻」、案内図で確認してみます。

 

 

☆ 『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』(2022-07-03)で、すでに紹介していました鍋保丸の墓の、石塀の向こうにある「三夫人の墓」 ですが、

左から、「敬姫(重豪女子)」「重豪夫人」「斉宣夫人」の墓石です。

・「重豪夫人」 … 一橋家徳川宰相宗尹(ムネタカ)の女子。保姫。慈照院殿。かな?(未確認)

・「斉宣夫人」 … 秋田藩主佐竹右京太夫義和の姉。梅姫。光照院殿。かな?(同じく未確認)

光久公墓所区画の同じ入り口から奥を撮った別の写真、中央に写っています。

 

これは同じ画像で『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』(2022-07-03にも書きましたが、

その際にはお名前の確認までは至りませんでした。

 紛らわしいのは「斉宣実母」はあっても「重豪実母」がなかったり、

「重年実母」は「継豊後夫人」と書かれているのに、「重年夫人」なのに「重豪実母」の表示が無かったり、

そのうち「重豪夫人」と「重豪実母」や、「斉興夫人」と「斉興実母」が途中からこんがらがって来たりするのです 

 

 

☆ 綱久様は御当主ではないので、当然ながら歴代藩主の一覧にお名前はありません↓

また、以前『島津継豊公の後の夫人(2) ー 島津重年公の実母・嶺松院殿の墓』で、

「24代・重年公の墓」と「重年公の実母の墓」を紹介しました↓(重年は23代・宗信の弟であり、22代・継豊の二男)

 

 

「〇〇実母」の表記は、光久公墓所奥にも3基、 まとまってあるようです。

☆ 案内図上部に「斉宣実母」「斉興実母」「吉貴実母」と並んでいます。

斉宣公の実母は重豪後夫人(側室?)「堤前中納言長卿の女子。お千万。御内証様。春光院殿

斉興公の実母は斉宣後夫人(側室?)「鈴木甚五郎勝直の女子。お八百。御内証様。宝鏡院殿

吉貴公の実母は綱貴後夫人(側室?)「二階堂十郎左衛門宣行の女子。お重。蘭室院殿

と、なります。

 

それぞれここまで照合が大変でした(はぁ‥‥疲れた

 

 以前、「カテゴリー| 島津家の女性」として『歴代藩主の母親は?』(2021-08-24)を書きましたが、墓所の写真を整理する中で思いがけず確認することができました。

今後、気が向いたら書くかもしれませんが、元来気紛れなので先の事はわかりません

 

 では〜。

 

 

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⑱ 重年実母・嶺松院殿の墓の周りにあるのが、斉宣公の子供達の墓だったことに気付く!

2022-07-16 17:31:45 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 ちょっと気付いたことを書いておきます 

 

昨年3月の『島津仲家の女性のお墓が福昌寺にあった!』(2021-03-07 )カテゴリー| 福昌寺墓地探訪

に載せた画像の墓石があった場所確認のために『島津歴代略記』巻末の「長谷場御墓(福昌寺跡)略図」を見てみたところ、島津仲家の女性「壽賀」などは「年寄ほか」の一つとして記載されていることを確認。(「壽賀」はNo.97)

 

 

 

 

 そこで、重年公の墓の周りの墓もちゃんとチェックし直してみたのです。

墓所にある「福昌寺墓地 案内図」には「24代 重年」の墓と「重年実母(=継豊後夫人)」の表記しかありませんが、

 

『ー 略記』の略図によれば、

 

 「24代 重年」墓(No.86, 画像上部)の左には「重豪女子」(No.85)、

右には奥から「斉宣男子」が2基と手前に「重豪子」の墓、

また「重年実母」=「継豊後夫人(嶺松院殿)」の墓(No.93)の周りには、

左サイド奥から「斉宣女子」1基「斉宣男子」2基、

右サイドには奥に「斉宣男子」

右手前には「地蔵」と、‥‥「斉宣後夫人」(No.95)の墓があるんですね

気付かなかった〜!でも、後夫人は4人、そのうちのどなたのかがはっきりしません。

 

(島津仲家の女性「壽賀」の墓はNo.97)

 

 

※それならば、と「斉宣後夫人」をチェック!(『島津歴代略記』より)

 後夫人のうち、吉貴墓所の向かいにあるのが「蓮亭院殿」の墓 ( 奥州二本松藩主丹羽左京太夫長祥の妹。享姫)。

   ☆ 関連記事『寿国寺にあった4人の島津家女性の墓 』(2022-07-06

また、 「蓮亭院殿」以外の「斉宣後夫人」は次の通り

・貞心院殿 … 久留米藩主有馬中務大輔頼貴の女子。恒姫。

・芳蓮院殿 … 秋田藩主佐竹右京太夫義和の妹。お梅。幸(たか)姫。敦姫。美栄姫。

・宝鏡院殿 … 斉興公の実母。

 「斉興実母」=宝鏡院殿の墓は、吉貴実母と並んで「20代 綱貴」の墓のそばにあります。

 

ということは、重年実母の墓(No.93)の右横にある墓(No.95)は、

残る2人の後夫人、「貞心院殿」と「芳蓮院殿」のどちらかのお墓ですね。 

 

 こうして書いてるうちに、前の記事には書いてないけど誤認識・間違いがあったことに気付いたので良かった 

「No.77 斉宣後夫人」を「宝鏡院殿」と間違えてメモしてることに気付き訂正できた

 ←「宝鏡院殿」=斉興実母はNo.61に。

それでは、また

 

 

 

 

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⑰ 継豊長男・宗信公の墓所にある三基の墓

2022-07-16 10:21:03 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 

いつもありがとうございます

以前にも継豊公の嫡男で23代・島津宗信とその実母については『④ 第22代・継豊公夫人の墓、二つ』(2022-07-05)などで触れていますが、宗信公の墓所をもう少し、いくつか画像を追加してご紹介します。

 

☆ 前回の『⑯ 継豊公の墓所』でも書いた通り、

継豊公の墓の右後方にあるのは、第20代・綱貴公のご両親、綱久夫妻の墓です。

・綱久の長男・綱貴、その長男・吉貴が継豊の父です。継豊は綱久の曽孫ということですね。 

 

☆ また、左後方にある3基の墓は、

 左から「重豪後夫人」「吉貴夫人」「重年夫人」。(以下『島津歴代略記』より)

・左、重豪後夫人 … 玉貌院殿か、春光院殿か、清貌院殿。(慈光院殿の墓は吉貴公墓所にある)

・中、吉貴夫人 … 霊竜院殿。桑名藩主松平越中守定重の女子。福姫。

・右、重年夫人 … 垂水家島津備中貴儔の女子。都美。正覚院殿。(=重豪実母)

 

 第22代・島津継豊公の墓(2017.6.4 撮影)

 

 

☆綱久夫妻の墓から、隣の3基と宗信公の墓を取り込んで撮りました。 

 ↓左端に写っているのが宗信公の墓('08.2.29撮影)

 

 

 

 宗信公の墓所を吉貴公墓所の後方の通路から見てみると、こんな感じです。

 

上の画像、右下に少しだけ写っているのは、吉貴公墓所の後方にあるコレ↓です。

 

 

また、継豊公夫人「浄岸院殿=竹姫」の墓の方向から見るとこんな感じ。↓左手は宗信公墓所

 

同じ場所からもう一枚、右の立木の奥には台座の上にある「継豊夫人=瑞仙院殿」の墓が写っています↓

 

☆ 吉貴公の墓所後方から向こうに見えるのは、継豊公の墓所。左の小さな階段を上ると宗信公の墓所

↓黄色い墓石が3基と奥に1基、継豊公の墓が見えます。

   中央の緑に隠れていますが↓「継豊夫人・瑞仙院殿」の墓があります。

 

☆ それぞれの位置関係がお分かりになるでしょうか? 

では。

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⑯ 継豊公の墓所

2022-07-15 09:42:47 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 おはようございます 

 今日もお読みくださって、ありがとうございます

 

前回の『⑮ 斉彬公の墓所』と、前々回『⑭ 島津斉興と真了院殿の墓所は別世界』(2022-07-13)の中程でも、斉興公の夫人・賢章院殿の墓が継豊公の隣にあると紹介しました。

 

そこで今回は継豊公の墓所付近を写した写真を並べてみたいと思います。

☆22代・継豊公の墓(2017年6月4日撮影) 右奥の2基は綱久夫妻の墓(=継豊公の曾祖父母)

 

(下の2枚は2008年2月29日撮影)

 

 

 

 

☆案内図

 

 ここで間違えそうなのが、「22代 継豊」の後方の3基の墓と左隣の3基の墓。

後方の3基については後述します。

まずは継豊墓左隣の3基です。

 

☆ 左の2基は斉彬男子の墓で左から「虎寿丸」「菊三郎」、右が「斉興夫人(賢章院殿)」の墓

(上・2008年2月29日撮影、下・2017年6月4日撮影)

 

 継豊公墓所の入り口から3基を見ると↓こんな感じ。右端に継豊の墓の頭の部分が写っています。

 

 

 3基に寄りで撮ってみたもの

・「虎寿丸」の神号 …「葦原角久美彦命」、かな?

・「菊三郎」の神号 …「王籬稚菊彦命」、王か玉かはっきりしませんが、お二人の墓面には「童子」とあります

・「斉興夫人(賢章院殿)」(右端)の神号は「玉垣堅壽姫命」、とあります。

 

☆ 継豊公の神号は「常隆眞秀香彦命(トコサカマホカヒコノミコト)」

 

継豊公の墓の後方から撮ったもの。

 

☆ 少し引いて撮ると、

左に「18代 家久」、中央の2基は「19代 光久夫妻」、右奥台座の上に「20代 綱貴」の墓が写っています。

 

 

☆一方こちら↓は継豊公の墓から後方を撮ったもの(2008.2.29撮影)

奥の3基は左から「重豪後夫人」「吉貴夫人(霊竜院殿)」「重年夫人(正覚院殿)」 

 

 継豊公の後方。画像の左1基は宗信公の墓、3基を挟んで右端は綱久夫妻の墓

 

☆ 下の画像2枚は2017年6月4日撮影の継豊墓所。左後ろの3基、コレで位置関係がわかると思います。

 

 

 

 

☆ 継豊夫人・瑞仙院殿の墓は、以前『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』(2022-07-05)でもアップしましたが、

父君・第21代 吉貴公墓所の右隣にあります。

 

 

次もお楽しみに

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⑮ 斉彬公の墓所

2022-07-14 10:34:37 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 

福昌寺跡の島津家墓地、斉興公の後はこの方、

・島津斉彬(二十八代  藩主)… 斉興長男。母は鳥取藩主相模守斉邦の妹。弥姫(いよひめ)。周子。賢章院殿。

    文化六年(1809年)九月二十八日、江戸の芝藩邸に出生。

※ 文政四年(1821年)父・斉興の加冠により元服。同七年(1824年)十一代将軍徳川家斉に謁し、同年元服の礼を行って諱(いみな)を賜り 斉彬と改めた。

     (中略)

  安政五年(1858)七月十六日、藩内外多くの人々に惜しまれつつ亡くなった。歳50。

※ 斉彬は死に臨み、後嗣に異母弟 久光の長男・忠義を定めた。

 

『島津歴代略記』を読み始めた頃は、例えば「島津重豪(二十五代藩主)」とあったり、また別の書物などでは「八代藩主」とあったりして、混乱したものですが、そのうち、江戸時代の藩政になってから「藩主」と言われることで「島津氏当主」としての表記とが混在していたのだな、と気付いたのでした。

なので、

「島津氏第28代当主・第11代藩主、島津斉彬」となるのでしょうね。

斉彬公と英姫(左)、右奥にもなぜか「斉彬墓」がありますが詳しいことは存じません。

 

 

 

また、前回紹介した「斉興夫人=賢章院殿」の墓は↓継豊公の墓の隣にあります。

 

☆下の画像の3基のうち、右が斉興夫人、真ん中と左は斉彬公の男子の墓

 

 

 以上の画像は2008年2月29日に撮ったものです。

 

PC内の画像ファイルをチェックする中で、2017年6月4日に撮ったものもありましたので、並べてみます。

☆ 先の3基と同じく右が斉興夫人、隣り合う2基は斉彬公男子の墓

後ろからも撮ってみました。

2017年6月4日、墓所近くの生垣にクチナシの花が甘く香っていました。

 

 

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