福昌寺跡の島津家墓地、斉興公の後はこの方、
・島津斉彬(二十八代 藩主)… 斉興長男。母は鳥取藩主相模守斉邦の妹。弥姫(いよひめ)。周子。賢章院殿。
文化六年(1809年)九月二十八日、江戸の芝藩邸に出生。
※ 文政四年(1821年)父・斉興の加冠により元服。同七年(1824年)十一代将軍徳川家斉に謁し、同年元服の礼を行って諱(いみな)を賜り 斉彬と改めた。
(中略)
安政五年(1858)七月十六日、藩内外多くの人々に惜しまれつつ亡くなった。歳50。
※ 斉彬は死に臨み、後嗣に異母弟 久光の長男・忠義を定めた。
『島津歴代略記』を読み始めた頃は、例えば「島津重豪(二十五代藩主)」とあったり、また別の書物などでは「八代藩主」とあったりして、混乱したものですが、そのうち、江戸時代の藩政になってから「藩主」と言われることで「島津氏当主」としての表記とが混在していたのだな、と気付いたのでした。
なので、
「島津氏第28代当主・第11代藩主、島津斉彬」となるのでしょうね。
☆斉彬公と英姫(左)、右奥にもなぜか「斉彬墓」がありますが詳しいことは存じません。
また、前回紹介した「斉興夫人=賢章院殿」の墓は↓継豊公の墓の隣にあります。
☆下の画像の3基のうち、右が斉興夫人、真ん中と左は斉彬公の男子の墓
以上の画像は2008年2月29日に撮ったものです。
PC内の画像ファイルをチェックする中で、2017年6月4日に撮ったものもありましたので、並べてみます。
☆ 先の3基と同じく右が斉興夫人、隣り合う2基は斉彬公男子の墓
後ろからも撮ってみました。
2017年6月4日、墓所近くの生垣にクチナシの花が甘く香っていました。