☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

⑯ 継豊公の墓所

2022-07-15 09:42:47 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 おはようございます 

 今日もお読みくださって、ありがとうございます

 

前回の『⑮ 斉彬公の墓所』と、前々回『⑭ 島津斉興と真了院殿の墓所は別世界』(2022-07-13)の中程でも、斉興公の夫人・賢章院殿の墓が継豊公の隣にあると紹介しました。

 

そこで今回は継豊公の墓所付近を写した写真を並べてみたいと思います。

☆22代・継豊公の墓(2017年6月4日撮影) 右奥の2基は綱久夫妻の墓(=継豊公の曾祖父母)

 

(下の2枚は2008年2月29日撮影)

 

 

 

 

☆案内図

 

 ここで間違えそうなのが、「22代 継豊」の後方の3基の墓と左隣の3基の墓。

後方の3基については後述します。

まずは継豊墓左隣の3基です。

 

☆ 左の2基は斉彬男子の墓で左から「虎寿丸」「菊三郎」、右が「斉興夫人(賢章院殿)」の墓

(上・2008年2月29日撮影、下・2017年6月4日撮影)

 

 継豊公墓所の入り口から3基を見ると↓こんな感じ。右端に継豊の墓の頭の部分が写っています。

 

 

 3基に寄りで撮ってみたもの

・「虎寿丸」の神号 …「葦原角久美彦命」、かな?

・「菊三郎」の神号 …「王籬稚菊彦命」、王か玉かはっきりしませんが、お二人の墓面には「童子」とあります

・「斉興夫人(賢章院殿)」(右端)の神号は「玉垣堅壽姫命」、とあります。

 

☆ 継豊公の神号は「常隆眞秀香彦命(トコサカマホカヒコノミコト)」

 

継豊公の墓の後方から撮ったもの。

 

☆ 少し引いて撮ると、

左に「18代 家久」、中央の2基は「19代 光久夫妻」、右奥台座の上に「20代 綱貴」の墓が写っています。

 

 

☆一方こちら↓は継豊公の墓から後方を撮ったもの(2008.2.29撮影)

奥の3基は左から「重豪後夫人」「吉貴夫人(霊竜院殿)」「重年夫人(正覚院殿)」 

 

 継豊公の後方。画像の左1基は宗信公の墓、3基を挟んで右端は綱久夫妻の墓

 

☆ 下の画像2枚は2017年6月4日撮影の継豊墓所。左後ろの3基、コレで位置関係がわかると思います。

 

 

 

 

☆ 継豊夫人・瑞仙院殿の墓は、以前『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』(2022-07-05)でもアップしましたが、

父君・第21代 吉貴公墓所の右隣にあります。

 

 

次もお楽しみに


⑮ 斉彬公の墓所

2022-07-14 10:34:37 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 

福昌寺跡の島津家墓地、斉興公の後はこの方、

・島津斉彬(二十八代  藩主)… 斉興長男。母は鳥取藩主相模守斉邦の妹。弥姫(いよひめ)。周子。賢章院殿。

    文化六年(1809年)九月二十八日、江戸の芝藩邸に出生。

※ 文政四年(1821年)父・斉興の加冠により元服。同七年(1824年)十一代将軍徳川家斉に謁し、同年元服の礼を行って諱(いみな)を賜り 斉彬と改めた。

     (中略)

  安政五年(1858)七月十六日、藩内外多くの人々に惜しまれつつ亡くなった。歳50。

※ 斉彬は死に臨み、後嗣に異母弟 久光の長男・忠義を定めた。

 

『島津歴代略記』を読み始めた頃は、例えば「島津重豪(二十五代藩主)」とあったり、また別の書物などでは「八代藩主」とあったりして、混乱したものですが、そのうち、江戸時代の藩政になってから「藩主」と言われることで「島津氏当主」としての表記とが混在していたのだな、と気付いたのでした。

なので、

「島津氏第28代当主・第11代藩主、島津斉彬」となるのでしょうね。

斉彬公と英姫(左)、右奥にもなぜか「斉彬墓」がありますが詳しいことは存じません。

 

 

 

また、前回紹介した「斉興夫人=賢章院殿」の墓は↓継豊公の墓の隣にあります。

 

☆下の画像の3基のうち、右が斉興夫人、真ん中と左は斉彬公の男子の墓

 

 

 以上の画像は2008年2月29日に撮ったものです。

 

PC内の画像ファイルをチェックする中で、2017年6月4日に撮ったものもありましたので、並べてみます。

☆ 先の3基と同じく右が斉興夫人、隣り合う2基は斉彬公男子の墓

後ろからも撮ってみました。

2017年6月4日、墓所近くの生垣にクチナシの花が甘く香っていました。

 

 


⑭ 島津斉興と真了院殿の墓所は別世界

2022-07-13 10:51:57 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読み下さりありがとうございます 

 

今回は、島津久光公の御両親の墓所を画像でご案内します。

 

 

  墓所入り口から広場を横切り、

左手の区画が斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所。

 

案内図のこの画像で、右手やや下の部分です。

 

入り口の手水鉢。

 

階段を上ると、正面に斉興公の墓。

 

周りにはずらっと石灯篭。

 

背景に緑が広がります。

第27代 島津斉興之墓

 

石塀に囲まれ、そこだけ異空間な感じも。

こちらはお由羅様=真了院殿

お由羅様のお墓越しの斉興公の墓。なんだか、ますます二人だけの世界、という空気感

斉興公の墓、向かって左手に「島津周防忠教(ただゆき)=久光公」

2008年に初めて見た時もこんな感じでした。かなり風化も見られますが、刻銘は読めます。

 

ひとつ隣のものは更に風化が見られます。

 

ここで、ふと思ったのですが、久光公が「忠教(ただゆき)」だったのはいつ頃かな?ということで、いつものように『島津歴代略記』で確認。父親である斉興公の略歴から考えてみます。

 

・島津斉興(島津氏二十七代・藩主)… 斉宣長男。母は鈴木甚五郎勝直の女子。お八百。御内証様。宝鏡院殿。

    寛政三年(1789年)十一月六日、鹿児島に出生。

※ 享和五年(1808年)斉宣が隠居して斉興が襲封したが、若年だったため藩政は初め祖父・重豪が後見した。

         (中略)

※ 嘉永二年(1849年)、嘉永朋党事件、別名,高崎崩れ(俗に「お由羅騒動」)をきっかけに、

結局、同三年(1850年)斉興が引退し、斉彬が後を継ぐことになった。

    斉興は安政六年(1859年)九月二十日、鹿児島玉里邸に亡くなった。歳六十九。

 

亡くなった後の石塔に「忠教(ただゆき)」の刻銘があるということは、1859年時点ではそう名乗ったということ?

この辺詳しくないので参考にはなりませんが

また、久光公の兄・斉彬公が亡くなったのは安政五年(1858年)で、斉興公よりも一年早く亡くなったわけですね。

万延元年(1860年)久光は島津本家に復し、子・忠義を補佐して藩政を執り、「国父」と称えられることとなった。

残念ながら、『島津歴代略記』では一貫して「久光」で書かれているので、名前の変遷についてはわかりませんでした。久光公についての他の本を読めばそのうちわかるかも知れません〜

 

斉興公の夫人 … 鳥取藩主池田相模守斉邦の妹。弥姫。周子。賢章院殿。

        岡田小藤次利武の妹。お由羅。真了院殿。  

☆ちなみに、「斉興夫人=賢章院殿(弥姫)」の墓は継豊公の隣に斉彬男子二人の墓と並んで立っています。

 

墓所の右奥には外への出口があります。

墓所右手の石灯篭。風化しているものも見られます。苔むして、名前が読みにくくなっています。

 

「御中臈」ほか。

 

「御年寄 花田」など見えます。

 

刻銘の部分に苔が。

 

「徳寿院」などの刻銘もあります。

 

「◯壽院」?風化で不明。

 

もう一つ別のもの。こちらは「松壽院」とも読めるが不明。

 

左端、「徳壽院」か、他のものも埋もれて読めなくなっている。

 

 

長年の降灰なども影響があるのかも知れませんが、名前の半分ほどが埋もれています。

 

石塀にあいた出口から外へ。

お二人の墓所を後にすると、足元に石畳。

 

振り返ると、斉興公の墓が夕日に浮かび上がっていました。

 

目の前には、もはや見慣れた吉貴公墓所。特別な空間から解放されて、懐かしささえ感じました。

 

右へ行くと、久光公墓所前の大階段と広場に出ます。

 

☆参考になりましたでしょうか?

 

では、また。

 

 

 

 

 

 

 


⑬ 島津家歴代御当主の墓(4)ー忠治・忠隆・勝久

2022-07-12 11:05:05 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ ブログ記事のアップの順番、久光公の墓所紹介で後先になってしまいましたが、

島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌』(2022-07-11) に続き、

福昌寺跡の島津家歴代御当主の墓の続きです

 

 奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓

・左奥台座の墓が「12代・忠治」の墓、右が「13代・忠隆」の墓

・島津忠治(十二大守護職)… 忠昌長男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。

    延徳元年(1489年)一月二十七日、出生。

     永正五年(1508年)、父・忠昌の自刃により、若くして守護職を継ぐ。

  ※この頃領内には一向一揆が続発し、忠治はその鎮定のため身を安んずる暇も無いほどだった。

然るに、忠治は永正十二年(1515年)薩州吉田の吉田位清(のりきよ)を攻略中、八月二十五日、鹿児島に急逝した。歳27。

 

・島津忠隆(十三代守護職)… 忠昌二男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。

    明応六年(1497年)八月十四日、出生。永正十二年、兄・忠治の早逝により若くして守護職を継いだ。

翌十三年(1516年)備中蓮島の三宅国秀が琉球を襲わんと坊津へ来航したので、忠隆はこれを討って島津氏の琉球貿易の権益を守った。忠隆は薩州吉田に吉田位清を討つなど領内の平定を進めたが、領内には依然として不穏な情勢が続いていた。

    永正十六年(1519年)四月十四日、歿す。歳23。

 

そして「14代・勝久」の墓

・島津勝久(十四大守護職)… 忠昌三男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。

    文亀三年(1503年)八月十八月、出生。勝久ははじめ頴娃氏を継いだが、永正十六年(1519年)兄・忠隆が早逝したので、勝久は若くして守護職を継がねばならなかった。

 この頃、伊集院尾張守が隅州曽於郡(そのこおり)に、或いは新納忠武が志布志に叛するなど、領内はなお騒然としていたので、勝久はその鎮定に奔走せねばならなかった。

   (中略)

    天正元年(1573年)十月十五日、豊後瓜生島の沖之浜に歿す。歳71。

 

※ 以上、『島津歴代略記』を参考にしました。

「豊後で亡くなった勝久の墓がここにあるのは、どういうこと?遺骨は?招魂墓?」と思ったのですが、詳しいことはわかりません。

『ー 略記』を初めてじっくり読んだ時、忠昌公の子供、勝久ら兄弟のことを知ったばかりの頃は、苦労続きのこの親子、特に勝久公にはずいぶん思い入れを持ったものでした

 

今でも「当時は大変だったのだろうな」と思いますが、時代の流れとして、また島津氏以外のことも知ることで特別な思い入れは薄れていきましたけど(笑)

まだまだ不勉強ですが、郷土全体の歴史を捉えるのって、なかなか一筋縄ではいかないものだなぁ、という思いです。

その後、墓所へは行けていないので、またゆっくり時間をとって回ってみたいですね。

 

次はどこにしようかな〜

 それでは、また。

 


⑫ 島津久光公② - 久光公の墓と墓所内の石塔群

2022-07-11 16:39:21 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ 前回に続いて、今回は久光公のお墓とその周りの石燈籠群です。

 

「前左大臣従一位大勲位公爵島津公墓」とあります。

 

 燈籠群は全部は撮りきれないので、興味を持ったものだけですが、こちらには「島津珍彦」 ほか刻銘があります。

 

こちらには「北白川宮能久親王妃 富子」、さらに「公爵島津忠義」

 

「北白川宮能久親王」 がどういった方か気になってこのあと調べたところ、Wikiに以下の通り。

明治26年(1893年11月10日第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。遺体は安平から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっていた。日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示された。国葬に付され[27]豊島岡墓地に葬られた。

皇族としては初めての外地における殉職者となったため、国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北台湾神宮(台湾神社)、終焉の地には台南神社が創建された。」

「また通霄神社[28] をはじめとする台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされたが、敗戦後にこれら能久親王を祀った60の神社はすべて廃社となったため、現在は靖国神社にて祀られている」

とあります。

☆ 台南へ父の同窓会にお供をした際に、どこかでお名前を見たように記憶しています。あとでその時の画像をチェックしてみようかな。

 

また、「親王妃 富子」様についてはこちら→「北白川宮能久親王妃」

一部抜粋して紹介

「能久親王との間にもうけた一子成久王が北白川宮を継承したが、能久親王にはこのほかにも5人の側室との間に10人の子女があり、富子はその教育にも力を傾けた。

それも一段落ついた1923年(大正12年)、こんどは最愛の成久王を留学先のフランスで自動車事故で失うという悲劇に見舞われる。その悲しみからか以後は葉山の別邸でひっそりと過ごすようになった。1926年(大正15年)10月に台湾に渡り、能久親王を祀った台湾神社に参拝したのが数少ない表立った行動だった。1936年(昭和11年)に74歳で薨去。」

 

 

 今後も、久光公の御両親の墓所など、ご案内しようと思っているところです。


⑪ 島津久光公① - 墓所前広場と大階段

2022-07-11 15:42:38 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ 福昌寺跡にある島津家墓地、入り口を入ると、

 

島津家墓地の案内図(配置図)があり、

 

そのさきに広場が広がっていて、大階段が悠然と存在している。

私はこの広々とした空間と緑が心地よくお気に入りなのです 

 

 散策するように、画像をお楽しみください('17.6.4撮影、'18.6.13撮影を取り混ぜて)

奥には斉興公墓所と、さらに吉貴公墓所を始め、歴代当主の墓所があります。

 

午後の日差しが良い感じでした♪ 

 

 

 

 

 

☆ 鳥居の傷みが気になるところではある。左の柱、中程が細くなっているし。

大階段の上からの眺め。

こちらは墓所入り口を見下ろした景色。

入り口の右手には大きな神道碑が立っており、画像の下に写っているのがその台座。

神道碑には実は第二次大戦の鹿児島空襲の際に爆撃を受けた証拠の銃撃痕が残っているそうです。

 

側面の左淵の真ん中あたりの黒い点↓。これが弾痕だそうです。

 

 

 

☆ 次回は久光公の墓所内の様子です 

 

 

 


⑩ 島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌

2022-07-11 13:00:23 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆第十一代守護職・島津忠昌 … 立久長男。母は梶原三郎太郎弘純の女子。茂山夫人。

    寛政3年(1463年)五月三日、出生。

    永正五年(1508年)二月十五日、鹿児島清水城に突然自刃した。歳46。

※ 死に臨み、忠昌が吟じた西行法師の歌。

   願はくは花のもとにて春死なむ 其きさらぎの望月のころ

「11代・忠昌」夫妻の墓画像右手、台座の上の2基です。

 奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓が並びます。

☆ 忠昌公は領国統治も意のままにならず、失意のうちに永正五年(1508年)、鹿児島清水城に突然自刃。46歳で没しました。

 

忠昌公へ献花。

 

 このとき、奈良原助八満が忠昌に殉じて自刃。25歳だったそう。

福昌寺近くに碑が建っています。

 

 これが、2008年5月に初めて「かごしま探検の会」の町歩きに参加した時に、当時は島津氏や郷土の歴史について何の知識もなかったのですが、それでも「助八の死は島津家における初めての殉死」という東川さんの説明が強烈に印象に残りました。

 

関連記事 →『5月の歴史探訪フォトアルバム-1』 2008-08-02 (カテゴリー| 歴史探索

 

そのころはピンと来ていませんでしたが、『島津歴代略記』を読んで、少しずつ理解出来るようになりました。

 

 

 2019年にも説明板を撮っていました。新しいものになったようですが、内容は変わっていません。

 

 

 それでは、また。

 


⑨ 島津家歴代御当主の墓(2)ー忠国・立久

2022-07-10 12:59:50 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ 島津久豊長男、九代守護職・島津忠国の墓所。

島津忠国 … 久豊長男。母は伊東大和守祐安の女子。寿山夫人。

    応永十年(1403年)五月二日、日向穆佐高城(むかさたかじょう)に出生。

    文明二年(1470年)一月十四日、加世田に歿す。

  ※ 逝去に先立ち病床を見舞った立久に守護職を譲っている。歳68。

「9代・忠国」夫妻の墓

 

 

☆ 忠国夫妻の墓の後方、石塀の向こうには福昌寺の「歴代住職墓地」があるそうですが、まだ踏み入れたことはありません。

 

 

 

☆ その斜め後ろには、忠国の二男・島津立久、十代守護職の墓所があります。

・島津立久 … 忠国二男。母は新納近江守忠臣の女子。心萃(しんすい)夫人。

   永享四年(1432年)十一月五日、鹿児島に出生。

   文明六年(1474年)四月一日、逝去。歳43。

「10代・立久」夫妻の墓

撮り方に癖があるのか、なぜか左が下がってしまってます(^^;) 

 

以上、『島津歴代略記』参照。

 ほぼ画像整理目的なので、簡潔に。

それでは、また。

 


⑧ 島津家歴代御当主の墓(1)ー師久・氏久、 宗久も

2022-07-09 21:39:45 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

皆さま、こんばんは〜

 

ちょっと前に『2018年6月13日、島津家墓地にて出会う

   (2022-07-07 カテゴリー | 福昌寺跡島津家墓地) の

「島津齊徳之墓」の紹介画像で墓所奥の区域を望む写真を1枚載せました。↓コレ 

 

間に3つの記事を書いて「妙心院殿の墓」ではフライング気味に写真をチラッと載せましたが(笑)、今回は、ようやく歴代当主の方々の墓所巡りの画像です 

 

 お馴染み、案内図です。

 

 画像の中央付近、「齊徳(忠重男子)」から左の区画は歴代のご当主の墓所です。

ここには「薩摩6代 師久」夫妻、「大隅6代 氏久」夫妻、「9代 忠国」夫妻の墓を始め、

10〜14代までの当主の墓が並んでいます。

 

 

前に『第六代薩摩守護職・島津師久』(2022-07-07) で少しだけ「薩摩六代 島津師久」の墓の写真を載せていましたが、その1年後、この2018年6月13日の画像ファイルにたっぷり残っていたので、少しずつご紹介したいと思います。

 

 まずは、「薩摩第六代 島津師久之墓」、それに隣り合う「島津宗久」の墓です。

  

・ 島津師久 … 六代薩摩国守護職

  島津貞久三男。母は大友因幡守親時入道 道徳の女子。

  正中二年(1325年)八月十六日、出水木牟礼城に出生。

※ 父の守護・貞久は文和元年(1352年)頃には、嗣子・師久には薩摩国を、同じく氏久には大隅国をと国政を分けて委ねているが、師久は薩摩国の守護所を川内(せんだい)碇山城に置いた。(『島津歴代略記』より抜粋)

 ( 右端に父が写ってます↓見切れてますけど〜

島津宗久は、「第五代 島津貞久次男」だそうです。

 

ここで改めて『島津歴代略記』で確認しました。

・貞久二男。母は大友因幡守入道道徳の女子。梅林夫人。元享二年(1323年)出生。

「暦応三年(1340年)薩摩の宮方=反守護方渋谷氏を討たんとして一月二十四日、川内(せんだい)隈之城(くまのじょう)に急逝しました。歳十九。」

そして、宗久様の神号が、なんというか…美しい 

「貴桜真恒彦命(うずさくらまとこひこのみこと)」だそうです

 

 そして、師久・宗久墓の右となりに、「大隅第6代 島津氏久之墓」があります。

 

3基並んでいますが、案内図で確認すると、

向かって右は氏久夫人、中央の氏久墓を挟み、左は氏久女子となっています。

 

・島津氏久 … 六代大隅国守護職

   貞久四男。母は大友因幡守親時入道道徳の女子。梅林夫人。(「梅」は木偏に作りの部分の毋は「丹」)

     嘉歴三年(1328年)四月十一日、出水木牟礼城に出生。

     嘉慶元年(1387年)五月四日、鹿児島に歿す。歳60。

  ※ 氏久の系統をその官位「陸奥」から、「奥州家」と称す。(『島津歴代略記』参照)

 

それではまた。 

 

 


鎌倉殿と島津家の伝承、鶴嶺神社の「遷塔之記」

2022-07-09 14:24:33 | 鶴嶺(つるがね)神社

 シリーズ「福昌寺跡島津家墓地」の記事が続いていますが、

 ちょっとここで、閑話休題です。

 

先週の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の「紀行コーナー」では鎌倉の「持仏堂」の紹介がありましたが、源頼朝の墓、石塔の足元には丸十紋が映し出されていたので思わず見入ってしまいました。

謂れをご存じない方には「なぜここに丸十紋が‥‥?」と思われたでしょうね。

 

今、再放送を見ていて、ここにも書いておきたくなったのです。

で、試しに「持仏堂 鎌倉」でネット検索したところ、鎌倉市のHPに「源頼朝の墓」として

「島津重豪が‥‥」と紹介されていたので嬉しかったです

 

鎌倉市のHPより↓

「現在、墓のあるあたりに、かつては頼朝の持仏堂があり、頼朝の死後は法華堂(ほっけどう)と呼ばれました。墓の層塔(そうとう)は1779年(安永8)に島津重豪(しまずしげひで)により大御堂(おおみどう)から移されたものといわれ、国の史跡に指定されています。

明治時代になり、それまでは一緒にまつられることも多かった神と仏を離す神仏分離(しんぶつぶんり)の政策により、1872年(明治5)墓前に白旗神社が建立されました。」

 

☆ 鹿児島市の仙巌園は島津家別邸でした。今は歴史と観光のスポットとなって久しいですね。

そのお隣には島津家所縁の「鶴嶺神社」があります。「鶴嶺」と書いて「つるがね」と読みます。

 

 

☆ そこには「遷塔之記」があり、鎌倉との関わりが書かれています。

【概略】

平成になって鎌倉の墓塔を修復する際に試作された雛形塔が、「頼朝公没後800年」を記念して、鎌倉の墓所を再興した鹿児島島津家に寄贈すべく、鎌倉市民有志により「源頼朝公墓所再興報恩塔」として遷座(平成11年8月建立)

 

 2008年(平成20年)2月に訪ねた際に撮っていました。

「源頼朝公御石塔」の札が立っていました(2008年2月撮影)

☆ 現在では、島津氏初代・島津忠久公が「源頼朝と丹後局の間に生まれた」というのは伝承であると知られるようになりましたが、重豪公の頃の話ですから、公はご先祖とされる頼朝公の墓が荒廃しているのを見て悲しんだことでしょうね

 

「薩藩史談集」(重野安繹ほか著)によると、

丹後局の父は武蔵国比企郡(埼玉県)の豪族比企掃部允(ひきかもんのすけ)、母は比企局(ひきのつぼね/頼朝の乳母・比企尼)ということです。(『島津歴代略記』参照)

 

「鎌倉殿の墓」と島津家との繋がり、広く知っていただけると嬉しいです

 

追記および一部訂正:(2022.7.10  PM11:25)

  たった今尚古集成館のHPを読んだところ、

『島津家初代・忠久誕生にまつわる説話』として詳しく書かれていました。(←リンクをクリック

母親は丹後局であり、彼女が惟宗広言(これむねひろこと/貴族)に嫁いだため、島津家初代は「惟宗」を名乗ったと系図にあり、専門家の間では忠久の父親はこの広言(ひろこと)、あるいは惟宗忠康ではないかと考えられている、とのことです。

「とはいえ、頼朝の庶子であるという説話を、島津家や家臣をはじめ、多くの人々が尊重し、現在まで伝わっているという点も、また欠いてはならない歴史」とも。

 また同じく尚古集成館のHPに『比企家とのつながり』として系図などと共に詳しく書かれています。