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吾等はより高き自己表現の形式・・・差別的形式にまで顕現し出ようとする宇宙の本体の大目的に添わなければならない。

2021-01-18 11:06:12 | 日記
大事な所をピックアップします。
・神は個体としてでなければ、体験することの出来ない思考、感情、意欲の種々の気分に於ける体験を有つようになるのである。
・神はその驚異すべき「自己」を天体系統、及び生長する草木や、種々の生き物のうちにあらわし給うたのである。
・吾等は事物の現状を受けとって、それを己が欲する相に造りかえることができるのである。
・而して我等は此の聖なる神秘・・・神・・・との人格的関係にも入ることが出来るのである。
・吾等はより高き自己表現の形式・・・差別的形式にまで顕現し出ようとする宇宙の本体の大目的に添わなければならない。
(心と運命 谷口雅春)
【斯くの如くして神は個体としてでなければ、体験することの出来ない思考、感情、意欲の種々の気分に於ける体験を有つようになるのである。それ故に現在意識に属する光栄ある体験の少しの部分でも無(な)みするように吾人に教える哲学は、それがどんな哲学であるにせよ、もう吾等は甘んずることは出来ないのである。現在意識は個人格の発現であり、一層微妙な開展に達する能力なのである。自己意識個我の発現の時期に到るまで、神はその驚異すべき「自己」を天体系統、及び生長する草木や、種々の生き物のうちにあらわし給うたが、尚ただ機械的法則の行われる世界にのみ、自己を表現したのであった。が、これ等はある程度の意識を有し、霊性によって生かされているとはいえ、自ら独立して計画し選択する能力を未だ有していなかった。彼等は自分が逢遭した一切の事相を甘受したのである。が、吾等人間はかくの如き盲従をあえてせねばならぬことはないのである。吾等は事物の現状を受けとって、それを己が欲する相に造りかえることができるのである。吾等は計画をたて事業を始めることが出来るのである。吾等は自己を知り得るのみならず、凡ての他我・・・更に進んでは神(一層大なる自我)をも知ることが出来るのである。而して我等は此の聖なる神秘・・・神・・・との人格的関係にも入ることが出来るのである。それ故に若し吾々が、生まれ出て来た根元の無差別的生命の流れに還元することこそ望ましいと信ずるならば、より高き自己表現の形式・・・差別的形式にまで顕現し出ようとする宇宙の本体の大目的に悖戻(はいれい)するものと云わなければならない。】

吾々を関係させているところの全包容的な自我の中に、吾々が存在するのでない限りは、吾々は此等の他の自我に対する関係の意識をもつことは出来ない。

2021-01-18 10:30:59 | 日記
吾等は自我を神我と交換させ、
実相生命と一体化するのでなければ、
他の自我に対する関係の意識をもつことは出来ない。
つまり自他一体の神の国・愛の国に
住むことはできないのである。
実相と自分を融合させる神想観が
欠かせないのである。
・「個我」は普遍的自我・・・背後に潜む絶対我・・・に支持せられない限りは兎も角も存在することは出来ない。
・吾等は言葉の使い方を通じて「生命の全真」と「全実在の渾融」とを曖昧ならしめてはならない。然らば心の現在意識方面と潜在意識方面とは、一体であることがわかるであろう。
・吾等は合理化の力であり、単に現在意識の延長であるところの意志の力の使用によってのみ生きようとしてはならない。否それよりも吾等は永遠に吾等に関係しているところの内部的生命の本源と、力とに凭(よ)りかかって生活しなければならないのである。
(心と運命 谷口雅春)
【と同時に「個我」は普遍的自我・・・背後に潜む絶対我・・・に支持せられない限りは兎も角も存在することは出来ない。即ち、吾々を関係させているところの全包容的な自我の中に、吾々が存在するのでない限りは、吾々は此等の他の自我に対する関係の意識をもつことは出来ない。吾等は此の一体の感じを決して失ってはならない。何故なら、吾等が最も卑陋(ひろう)なる者の顔をのぞき込んで、人生の穢なさと着せ飾りの底に、吾等の兄弟なるもの姉妹なるものを見出すことが出来るのは、吾等の愛に全包容的な、自他一体の愛が宿っているからである。野に棲む禽獣でさえも、彼等は普遍的本質なるところの「宇宙の心」のうちに棲み、或る形式に於いて神の目的を表現しつつあるから、吾等の尊敬と愛護との目的物となることが出来るのである。斯くの如くであるから、動物の困窮に愛と注意とをそそいでやるのは気高き人間の義務なのである。
吾等は言葉の使い方を通じて「生命の全真」と「全実在の渾融」とを曖昧ならしめてはならない。然らば心の現在意識方面と潜在意識方面とは、一体であることがわかるであろう。そして前者は後者が客観的に顕現したものなのである。
 また吾等は合理化の力であり、単に現在意識の延長であるところの意志の力の使用によってのみ生きようとしてはならない。否それよりも吾等は永遠に吾等に関係しているところの内部的生命の本源と、力とに凭(よ)りかかって生活しなければならないのである。】