吾等は自我を神我と交換させ、
実相生命と一体化するのでなければ、
他の自我に対する関係の意識をもつことは出来ない。
つまり自他一体の神の国・愛の国に
住むことはできないのである。
実相と自分を融合させる神想観が
欠かせないのである。
・「個我」は普遍的自我・・・背後に潜む絶対我・・・に支持せられない限りは兎も角も存在することは出来ない。
・吾等は言葉の使い方を通じて「生命の全真」と「全実在の渾融」とを曖昧ならしめてはならない。然らば心の現在意識方面と潜在意識方面とは、一体であることがわかるであろう。
・吾等は合理化の力であり、単に現在意識の延長であるところの意志の力の使用によってのみ生きようとしてはならない。否それよりも吾等は永遠に吾等に関係しているところの内部的生命の本源と、力とに凭(よ)りかかって生活しなければならないのである。
(心と運命 谷口雅春)
【と同時に「個我」は普遍的自我・・・背後に潜む絶対我・・・に支持せられない限りは兎も角も存在することは出来ない。即ち、吾々を関係させているところの全包容的な自我の中に、吾々が存在するのでない限りは、吾々は此等の他の自我に対する関係の意識をもつことは出来ない。吾等は此の一体の感じを決して失ってはならない。何故なら、吾等が最も卑陋(ひろう)なる者の顔をのぞき込んで、人生の穢なさと着せ飾りの底に、吾等の兄弟なるもの姉妹なるものを見出すことが出来るのは、吾等の愛に全包容的な、自他一体の愛が宿っているからである。野に棲む禽獣でさえも、彼等は普遍的本質なるところの「宇宙の心」のうちに棲み、或る形式に於いて神の目的を表現しつつあるから、吾等の尊敬と愛護との目的物となることが出来るのである。斯くの如くであるから、動物の困窮に愛と注意とをそそいでやるのは気高き人間の義務なのである。
吾等は言葉の使い方を通じて「生命の全真」と「全実在の渾融」とを曖昧ならしめてはならない。然らば心の現在意識方面と潜在意識方面とは、一体であることがわかるであろう。そして前者は後者が客観的に顕現したものなのである。
また吾等は合理化の力であり、単に現在意識の延長であるところの意志の力の使用によってのみ生きようとしてはならない。否それよりも吾等は永遠に吾等に関係しているところの内部的生命の本源と、力とに凭(よ)りかかって生活しなければならないのである。】