神が現象界にはたらくのは「創造力「としてである。
つまり人間は実相に属することを
神に創造してもらえばよいのである。
・スクリーンの上に映出せられたる絵は物質、肉体、状態、形象等に譬うべきである。
・それは顕現せるところの宇宙の本体なのである。
・「物質は最も低き階級に顕現せる霊なのである」
・それ故に吾等がスクリーンの上に、現実的なる像を如何にハッキリ見ようともそれは実は光(「霊」の譬喩)で成り立っているのである。
・それは永遠の本質を分ちもち、そして想念が永続する限り永続するものである。
・吾等は神と一体なるが故に、自分の想念するところのものは亦彼の観念なのである。
・「神」は個人的偏寄(かたより)なき「心」としては吾々に創造力として活(はた)らきかけるのである。
・それ故に自分(人間)の心に描くところのものは何であろうともスクリーンの上に録(しる)し出される・・・即ち自分の肉体及び自分の事件として顕現するのである。
・結局人間は、実相に属する物事を、神に創造してもらえばよいのである。
(心と運命 谷口雅春)
【スクリーンの上に映出せられたる絵は物質、肉体、状態、形象等に譬うべきである。それは顕現せるところの宇宙の本体なのである。それは空間及び時間の範疇に於いてあらわれた「霊」である。「物質は最も低き階級に顕現せる霊なのである」それ故に吾等がスクリーンの上に、現実的なる像を如何にハッキリ見ようともそれは実は光(「霊」の譬喩)で成り立っているのである。それは永遠の本質を分ちもち、そして想念が永続する限り永続するものであるが故に、これを幻の世界と呼ぶは、如何に愚かしきことであろう。若しこれをしも真実(リアル)でないと云うならば、何物も実在ではない、神も亦実在ではないと言わなければならない。
自分は想念なしに神を考えることは出来ない。吾等は神と一体なるが故に、自分の想念するところのものは亦彼の観念なのである。そして「神」は個人的偏寄(かたより)なき「心」としては吾々に創造力として活(はた)らきかけるのである。それ故に自分の心に描くところのものは何であろうともスクリーンの上に録(しる)し出される・・・即ち自分の肉体及び自分の事件として顕現するのである。】
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