gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

吾々の心は「宇宙の心」の一部分であり、吾々個人の心とは、「個人の心」ではなくして、「宇宙の心」のうちの其の一部を、吾等が使用している部分なのである。

2020-01-29 10:30:58 | 日記

吾々個人の心は

どの人であっても

「宇宙の心」の其の一部を、

吾等が使用している部分なのだ、

ということであります。

華厳経に「一仏一切仏」という言葉があると

いうことです。

私たち一人一人の心は

「実相の心」一つなのであるという真理が

以下のご文章に記されております。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【大体、個々別々の孤立した心が吾らの心として人間の数だけあると思うのが間違いである。各個人は決して個々別々に離れ離れに孤立した存在ではなく、普遍の「宇宙の心」の中にある其の一部分の心であり、随(したが)って「宇宙の心」を通して互いに一体であるのである。「宇宙の心」は一切の心を包容するのであるから、吾々の心は「宇宙の心」の一部分であり、換言すれば、吾々個人の心とは、「個人の心」ではなくして、「宇宙の心」のうちの其の一部を、吾等が使用している部分なのである。「宇宙の心」は『一』つであるから、「宇宙の心」は同時に『健康』と『不健康』との両方の念を起すことは出来ない。しかし吾々は「宇宙の心」は神であるから、「健康」の念のみを起していることを知るのである。だから病者が起している「不健康」の念はウソであり、非真実であり、ニセモノであることを知るのである。だから「不健康」と見るのはウソであると信じて、「健康」のみを神想観中(また出来るならば、行住坐臥)観るのである。】


祈る人が彼の病気を存在しないと、真に信じ真に観ると云うことは宇宙の心が「彼の病気は存在しない」と観る事になり彼の病気が消滅することになるのである。

2020-01-29 10:12:30 | 日記

祈りによって病気が消滅する原理を

谷口雅春先生は以下の如くお書きくださっています。

最初に要点を拾ってみました。

・思念者の心も患者の心も、祈る人の心も祈られる者の心も結局は「宇宙の心」の中にある。

・宇宙には唯一の神のみが存在し、そして唯一の心のみが存在する。

・一部分の心で知ったことは、結局全体の心で見たことである。

・祈る人が彼の病気を存在しないと、真に信じ真に観ると云うことは全体の心(宇宙の心)が「彼の病気は存在しない」と観る事になり彼の病気が消滅することになるのである。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【思念者の心も患者の心も、祈る人の心も祈られる者の心も結局は「宇宙の心」の中にあると云うことである。宇宙には唯一の神のみが存在し、そして唯一の心のみが存在する。「彼」の心「我」の心と区別し得るのは、その顕われに於いてのみである。「彼の心」も「吾の心」も結局は、「唯一の心」の一部分である。一部分の心で知ったことは、結局全体の心で見たことである。それは一部の皮膚が「熱い」と火傷(やけど)をして自覚したときには、人間全体の心が「熱い」と火傷を自覚しているのと同様である。また眼と云う身体の一部が物を見たと云うことは、その人全体の心が物を見たことになるのと同じである。だから病人の周囲の人が(特に病人に関心をもっている人、愛により執着により繫がっている人、祈ってやろうと云う念により、特に病人に結ばれている人)が静に彼の病気の非存在をみとめてやると云うことは、それは直ぐ形にはあらわれないにしても、実際に、彼の病気を非存在とすることなのである。祈る人が彼の病気を存在しないと、真に信じ、真に観ると云うことは全体の心(宇宙の心)が「彼の病気は存在しない」と観る事は、彼の病気が消滅することになるのである。】


「見えるものは無く、見えないものが在る」という真理の言葉の力強さ

2020-01-28 20:05:10 | 日記

「見えるものは無く、見えないものが在る」と語っている、

藤原敏之先生の宇治における練成会講話でのお言葉は

まことに力強く、

説得力があり、

私に行動する勇気を与えてくれている。

この現象世界は物質世界のように見えているが、

それらは実在としてあるものではなく心の影であって、

だから「ナイ」のであり、

見えない理念としての“神”が

存在しているのだ。

実際この現象の世が

物質であるのか神であるのかの観方によって

心配ばかりの生活になったり

絶対安心の生活ができたりする。

この世は見えない“神の国”であるという真理が、

絶対的な「信」になるためには、

潜在意識がそうだと受け容れることが必要であり、

知的に知ったとしても

それだけでは真理は現象生活に役立たない。

「神の国は汝の内に在る」とイエスは言うが、

その真理と現象の心との一体化が必要であり、

それの実現が“信の形成”である。

信が形成されると、

この現象の世が非実在であって、

代わりに理念としての

見えないもの(神)が在ると体感として把握できる。

この世が“神の国”と実感できる。

信仰の基本は「信」である。

でもその前に真理への希求が必要だ。

私は何故“生命の実相”の探求に向ったのかと自己に問えば、

「この現象の世は真実世界ではないのではないか」という疑問が、

多分根幹にあったのだと思う。

真実の存在が感じられなくて、

空虚な感じで安心感がなかったのだ。

もう一つは、

家族と親しい人たちを幸せにしたい、

という願いのためであった。

こんな存在の探求なんて

人が馬鹿にするようなことを生涯求め続けるなんて

よくやって来られたものと思っているが、

「見えるものは無く、見えないものが在る」
という真理の体感的な「信」の形成は、

私はこの人生を生きてきて良かったのだ、

とほっとした気持ちになる。