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凡ての逆境の諸問題を解決するには自己に宿る(又は祈る相手に宿る)実相の叡智にすべての問題を委ねよ。

2020-01-18 11:11:09 | 日記

凡ての逆境の諸問題を解決するには
自己に宿る(又は祈る相手に宿る)実相の叡智にすべての問題を委ねよ、
ということである。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【わたしは、これら凡ての逆境の諸問題を解決するにはこうこうせられるがよいといちいち具体策をわたしの心に描くことはしなかった。わたしがしなければならぬことは、彼の内にはすべてを知り給う神の叡智が宿っていて万般の人生問題の回答を彼の生活経験の中に、彼にちょうど納得できるような具合に彼を導き給うようになっているのだと信じてその叡智にすべての問題を委ねることなのである。もしわたしが、彼が何を為すのが適当であるかを彼のために商量しようとするならば、実際には私の考えに浮ぶことは、彼のためよりも、わたしから見て適当だと自分が思うものを描き出すことになるのである。】


奇瑞の実証体験というものは仮相に過ぎない現象を、それは本当は非実在だと認めることが出来るようになった時あらわれて来るものなのである。

2020-01-18 11:01:25 | 日記

奇瑞の実証体験は
「現象非実在」と認めることができるようになった時に
あらわれて来るということだ。
「現象非実在」というのは「実相独在」ということである。
現象は本当にあるものではないという“現象ナシ”の真理を
覚る必要がある。
そうなって奇瑞と見える現象が
現われて来るのである。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【奇瑞霊験という語はふつう肉体の病的状態が癒されたことを表現する語ではあるけれども、同時に色々の種類の“欠乏”とか“不調和”が神癒によって好転した体験を表現するにも使われるのである。後者の如き体験をも“真理の実証”とか、“神癒の証し”とかわれわれが呼ぶのは、その事実の内には、その底に働き給う神の聖なる法則を眼の当たり見せられる思いがするからである。奇瑞の実証体験というものは暗い否定的な想念や、抑圧された不快感情や、及びその人の肉体、及び事件に神の聖なる生命の流れが還流するのを妨げていたと見えたところの仮相に過ぎない現象を真実在だと思い違えていたものが、それは本当は非実在だと認めることが出来るようになった時あらわれて来るものなのである。人は彼の住む人生のひとつひとつの領域に於いて真実在の実相の真理を素直に受けとることが出来るようになった時、真理はその人を自由ならしめるのである。】


“科学的祈り”(神想観)の原理を簡潔に要点化

2020-01-18 10:32:48 | 日記

このアディントン著述・雅春先生訳の本が告げる内容ではあるが、
神想観においては
まず
1 内なる神の許に往く(目を瞑れば其処は“神の国”です)。
2 神と共に存在している“神の子”を心の目で観ながら「神の子円満完全」と言葉を使用して念じる。
3 常に神を意識しつつ祈る。
このやり方は投稿者である私のやり方でもあります。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【神は決してわたし達が病気や不幸や不如意から癒されることを拒み給う方ではないのである。われわれの生活に、凡そ“善きもの”が流れ入る道を閉鎖しているのは自分自身なのである。父なる神の有ちたまえるもの凡ては“神の子”たる自分のものなのである。われわれの為すべき役割は、“神の子”たる者は、神の国の世嗣であり、しかもその“神の国”は自己の内に在る、ということを受け容れることなのである。】


神の“生命”は人間に既に宿っている。

2020-01-18 10:11:44 | 日記

人間に宿る神の“生命”について
アディントン氏は
以下の如く説明している。
(奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)
【キリストとは人間として“神の生命”が顕現せられたものであり、常に永遠に変ることなく完全であらせられる吾々の実相である。】
【神は“大生命”であり、大生命というものは完全であり、十全であり、欠くることなく円満完全であって、この事は昨日も今日も変ることなく、永遠に常恒不変なのである。この神の生命が人に宿ってわれらの生命となり給えるのであるから、内部の条件や環境などに依存してその完全さが変化するようなものではないのである。人間に内在して人間を通じてその実相を表現しようとしていられる神の完全性を、何ものと言えども、傷つけたり妨げたりすることはできないのである。環境条件などというものは神に対して何の力もないのである。本当に実在する力は神のみである。】