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彼自身を神が神の肖像(にすがた)としてつくられた者であるからその造り主の如く完全であると祈った。

2020-01-08 10:10:20 | 日記

アディントンが

バズという聴力を70パーセント失い、

神経症であった青年を祈った時の祈り方について

氏は以下の如く書いている。

彼の内に宿る“神の子”を祈ったのだった。

「彼自身を神が神の肖像(にすがた)としてつくられた者であるからその造り主の如く完全であること」

とアディントンがバズを把握していること及び、

「彼の内に宿り給える神の完全なる力を瞑視することをつづけた」ということが

バズ氏の神癒の鍵となっているのだと感じた。

まさに「信」と「観」ではなかろうか。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【彼を治療するにあたって、わたしの念ずる内容は、“バズ”は完全なる宇宙大生命と一体である”ということであった。わたしは「宇宙大生命はあらゆる方面にわたって、その完全さを彼に注ぎ給い、その完全なる大生命の流れは、彼の全心身に貫流し、彼の人生経験の一切に満ちわたって導いてい給うのである」と念ずることにした。わたしは黙念のうちで、「彼は神の御声のみを聴く」ように求めた。という意味は、彼は、内部の耳をもって、彼を解放するところの真理を聴く、そして彼自身を神が神の肖像(にすがた)としてつくられた者であるからその造り主の如く完全であること、そしてその造り主なる神の生命は彼の内に今も在(ましま)すということであった。わたしは、彼の内に宿り給える神の完全なる力を瞑視することをつづけた、そして人生の行路は突兀たる輪廻の道だと彼が考えている事によって影響されることを拒絶した。三回目に彼と会った時、わたしは“次の日曜日に教会に出席するように”と彼に提案した。】

 


この内在の生命はただ“円満完全さ”のみを知るのである。この内在の“完全なる生命”に自分自身の魂の波長を合わすとき、神癒の奇蹟が起るのである。

2020-01-08 10:05:51 | 日記

アディントンが

バズという神経症の青年を祈った時の祈りは効果を著わした。

彼の“神の子”であることを祈ったその原理について氏は以下の引用文の如く書いている。

アディントンの祈りによってバズ氏の心の波長が彼(バズ)の内在の“完全なる生命”(実相)と

波長があった時に実相が顕われたわけである。

投稿者思うに

ストレートに“神の子”“神の国”を想う必要があるだろう。

つまり“神”を観じることである。

それも神に対座して祈るのがよいのではなかろうか。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【彼の健康及び彼の生活万般に於ける変化を、わたしは、どのように説明したら好いだろうか? どこかに、大生命の流れが障りなく完全な流路をつくって彼を貫流させるところの一線がある。その線に沿って彼は生活しているのである。何人も実相世界の完全さを自己の生活に実現したと欲するのである。誰にも、その潜在意識の底の底にイエスが「此の世に創造られぬ前より神と偕に有ちたりし栄光を今御前にあらわしめ給え」と祈ったところの“神と偕に有ちたりし其の栄光”ある「実相の完全」さを奪還したいところの願いが宿っているのである。その“完全なる生命”は自己の内に、“今其処に”あるのである。その“内に宿る”“完全なる生命”が神癒のシテなのである。この内在の奥底の生命はただ“円満完全さ”のみを知るのである。この内在の“完全なる生命”に自分自身の魂の波長を合わすとき、神癒の奇蹟が起るのである。】


2020年1月勉強会資料第1集

2020-01-08 09:32:54 | 日記

冊子目次

1 肉体がなく、“霊妙な存在”が存在する

2 時間があらわれ、空間が出現するところの縦横十字の交叉点上に坐せ

3 この現象の世の本体は“実相世界”(神の理念世界)です

4 胎児の人体をつくりつつある「心」は、「神秘なる智慧」なのである。

5「現象丸ごとナシ」とはっきり決めたら「実相」の「独在」が顕われる。

6 「久遠の今」の一点に於いて自己の生命の振動があるだけなのだ。

7 生命の振動の持続の意識が時間なのであります。

8 イエスの「十字架」と、キリストの「復活」の本当の意味

9 現象は生命の振動そのものである

10 この現象の世で実相を生きるべし

11 「迷い」は、どうして起るのか



1 ヨハネ伝3章にある「新たに生れる」ということは、肉体が此処に生きているのではなく「霊妙な存在」(神)が生きているのであると自覚することであります。
2020/01/03
肉体あるがままに“霊妙なる存在”(神の子)の示現である。

これが“生命の実相”の覚りであります。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社) 

【生長の家ではこういうように「現象空無」を説くのでありまして、この見える世界を一たん夢の如く、幻の如き世界と否定してしまうのであります。しかし否定のままでは、「無い世界」に生活することができない。そこで大否定の後に大肯定が出て来るのであります。それが即ち『甘露の法雨』にあるところの「肉体の奥に、物質の奥に、霊妙極まりなき存在あり。これこそ神に造られたる存在及び人間である」と書いてあるのでありまして、その実在の世界に、その実在の人間が生きているのであります。現象の空無がここでくらりと一転して、はかなき生命を生きていながら、永遠不滅の実在生命を生きているのが自分だという事になるのであります。肉体を現わして、生活していながら、肉体が此処に生きているのでなく、「霊妙な存在」が生きているのである、「実在」が生きているのである、“Iam”が生きているのである、神が生きているのであると自覚するのであります。「吾の置き換え」であります。この自覚の置き換わりがヨハネ伝3章にあるところの「新たに生れる」であります。「もはや吾生くるにあらず、キリスト吾にあって生くるなり」のパウロの自覚もそれであります。かかる自覚に於いてはキリストは如何なる病気といえども癒されないものはなかったのであります。そのキリストが自分の中にあって生きているという自覚が、体験としてはっきりつかめますと、もはや病気は“ない”のであります。】

2 「十字架を負いて我に従え」と云うのは、一切の時間的空間的なるものの本源に立ち帰り、時間・空間が出現する縦横十字の交叉点上に坐せと云う意味なのです。
2020/01/02
本当は空間もないし、時間もない。

唯、仮に斯ういう時間空間という縦横の枠をつくり出して、生命が自己表現をしているのです。

永遠不滅の無時間の、久遠のいのちが、そこに自己を表現しているのです。

その“久遠のいのち”と現象の自分の心とがひとつになるのが

さとりなのだと思われます。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【時間空間があらわれているので、その中に「因」があり「果」があり、是が因縁因果の世界であって、そこにいろいろなものが起っているかの如く現われているのですけれども、併し、時間的つながりもなく、空間的ひろがりもないのだとしたならば、そしたら、迷いということもなければ或いは因縁因果のくるしみということもないのであって、何にもないのです。唯、ここに形もなければ、(形があるということは、空間があるということである。)空間もないし、時間もない。唯、そこに仮に斯ういう時間空間という縦横の枠をつくり出して、その面に絵をかくかのように生命が自己表現をしているのです。永遠不滅の無時間の、久遠のいのちが、そこに自己を表現しているのであります。それを説いたのがイエス・キリストであって、「神の国は汝の内にあるのだ」と云うイエスの言葉は、すべての空間的時間的なあらゆるものを吾々は自己の内に握っていると云う意味であります。イエスが「十字架を負いて我に従え」と云ったのも、要するに一切の時間的空間的な持ち物を抹殺して時間的空間的なるものの本源に立ち帰れ、そこから時間があらわれ、空間が出現するところの縦横十字の交叉点上に坐せと云ったわけであります。】

自分の本体は見えない“いのち”であると、

そして目に見えているものは、

その“いのち”の表現であると

さとりなさい、ということであります。

その“いのち”と一体化するのが

神想観なのです。

 

3 この現象の世の本体は“実相世界”(神の理念世界)です
2020/01/01
私たち一人一人の見ている世界は、自分の“いのち”の、時間・空間スクリーンにおける振動の連続体であります。その“いのち”の振動は、生まれた時から一瞬も休まず継続しているのですが、本当は、この五感で感じる現象世界は物質世界ではないのです。物質として見えるものは物質ではなく“いのち”の振動の波動を五感が捕捉したものであります。“物質”と見えるものは見えない神の“いのち”が物質に見えているということです。例えば食べ物は見えない“神のいのち”、人間は見えない“神の子”と見るべきであります。

いのちの波動を感受するための感受器官は五官でありますが、この五官が感じる五感は受けとったものを、本当はいのちの霊的波動であるのに関わらず固い物質として認識してしまう錯誤を犯すのであります。現象世界は丸ごと自分の“いのち”(生命の実相)の表現です。物質と見える現象世界は自分の“いのち”(神の理念)の波動であり霊的なものだと知ることが実相把握の第一歩です。

時間についてはどうでしょうか。五感の認識は時間が存在していると錯誤します。私は今パソコンで文章を書いておりますが、時間が経過したと思ってしまいます。“いのち”の振動の持続の意識が時間であり、意識は実在ならぬ現象心の働きなので、現象非実在だから時間も非実在なのです。私は現象における今ここでパソコン打ちしているみたいですが、実際は、本体である“神の子”が実相世界にいて、“永遠の今”、相応する“いのち”の振動をしているのです。

すべての人が道元禅師の言う「法華転法華」的存在です。初めは実相(法の華)の現象化した物質に転ぜられますが、真理をさとると法華(実相)を転ずる側に立ちます。これが人間存在の根本的在り方であり、実相世界は万物調和、生かし合い、助け合い、向上し合いの、仏世界それ自体であると道元は説きます。これが“いのちなるもの”真理キリスト、つまり実相世界であり現象世界の本体です。

 

4 胎児の人体をつくりつつある「心」なるものは、無限に聡明であり、習わず修めずして自ら知っているところの「神秘なる智慧」なのであります。
2019/12/25
谷口雅春先生は

神の智慧について説明をされた後

次のようにまとめて書いておられます。

この「神秘なる智慧」こそ

「人間の本体」「人間」そのものであるのです。

つまり

“神の子”であり、“生命の実相”なのです。

神想観においては

この「神秘なる智慧」そして「意識ある生命」に対して

絶対他力で無条件全托をいたします。

これが成し終った段階で

「真理キリストの復活」があるのです。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

<胎児の人体をつくりつつある「心」なるものは、無限に聡明であり、習わず修めずして自ら知っているところの「神秘なる智慧」なのであります。>

【ところで「意識(こころ)ある生命」と申しますと、直ぐ我々は、「心」と云うものを、脳髄の作用のように考えたがりまして、「心」が先か、「脳髄」が先かで迷うのであります。しかしながら母親の胎内で、胎児の人体が構成せられている状態を観察いたしますと、無論、母親の脳髄は、胎児の内臓をどう云う様に造ろうなどと考えてやっているのではありません。また胎児自身にも、まだ脳髄が完全に出来上っていませんから、胎児の脳髄が自分の身体をどう云う風に造ろうかなどと考えている訳でもありません。また世界の人体のどんな優秀な脳髄も、いまだ嘗て脳髄の一片を製造する方法を知らないのであります。そうすると胎児の人体をつくりつつある「意識(こころ)ある生命」の「心」なるものは、どんな人間の脳髄よりももっと無限に聡明であり、習わず修めずして自ら知っているところの「神秘なる智慧」だと云わなければならないのであります。】

この「神秘なる智慧」こそ

“神の子”であり、“生命の実相”なのです。

<「人間の本体」「人間」そのものなのです。>

【この「神秘なる智慧」そして「意識ある生命」こそ「人間の本体」「人間」そのものでありまして、それにまかせ切るとき、この複雑な人体が製造されるのであります。】

 

 

5 「現象丸ごとナシ」とはっきり決めたら「実相」の「独在」が顕われるしかない。
2020/01/01
藤原敏之先生は

ユーチューブ動画で観るご講話において

説いている。

【現象は心の影であって

本当にあるものではない。

現象に見えるものの正体は自分の心である。

だが現象は本当にあるものではなく、

そこに本当にあるものは見えない実相の“神”なのだ。

人間の肉体も実際は神のいのちの道具であり容れ物に過ぎない。

梅の木の中に梅の木のいのちと心がある。見えずともある。

肉体の奥の奥に人間のいのちと心がある。“生命の実相”だ。

それが“神の子”である。

すべての現象は心の影だが

そのすべての現象の奥に見えない神のいのちがある。

円満完全大調和の神の子の理念だ。

現象一切なし、代わりに“生命の実相”、“実相人間”、

即ち“神の子”がいる。

現象にあるものは神しかない。見えない神以外存在しない。

「現象ナシ実相独在」である。

無いものは無いと決めたら、実相が顕われる。

現象があると思っていたら実相は顕われない。

真理がはっきり分った時に実相はあらわれる。

実相というものは

確かにあるものであって

これを確実に求めこれによって人を救うのが

本当の宗教だ。】

 

6 初めから時間とか空間とかいうものはない。「久遠の今」の一点に於いて自己の生命の振動があるだけなのだ。神の子の理念の現成である。
2020/01/02
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

時間も空間も始めから“ナイ”

生命の自己表現の手段として

仮に五感が現わしたものなのだ。

実際にあるのは“生命の振動”のみなのだ。

実相円満完全理念世界の現成だ。

【死ぬとか生きるとかいうのは、時間があり、空間があり、その時間的流れに於いて何年生きてみたとか、何処其処で生れて、何処で死んだとかいうことが出て来るのですけれども、初めから時間とか空間とかいうものがなかったならば、人間は結局、生れるということもなし死ぬるということもないのがあたり前であります。実相に於いては吾々は生れることもなく死することなき存在であります。吾々が女性の子宮から生まれたというのは、要するにそういうような幻を心に描いただけであります。描くというのは生命が振動して、その振動の波によって空間のない世界に空間を幻術師の現す蜃気楼のようにパッと映し出したのであります。そして吾々は空間を無限の点の連続であるかの如く考えておりますけれども、無限の点があったら、ツェノンを俟つまでもなく、結局は吾々はそれを通過する事ができないので、空間的のひろがりはないものである。時間的にも空間的にも何にもない。無時間無空間の奥にある「久遠の今」というものが、それが自分の生命であります。そこでは一切の時間空間か皆一点に掴まれているのであって、吾々はその「久遠の今」の一点において自己の生命の振動によって一切のものを創造しつつあるのであります。】

 

7 生命の振動の持続が時間なのであります。生命の振動が止ったら時間がなくなってしまう。生命振動の意識が時間であります。
2019/12/12
時間というものは

空間というものも含めて

アルと思っているからアル、

つまり非実在なのです。

本当はナイのです。

現象は非実在でも

実相は実在しています。

ところで時間というものは

非実在の現象世界において

これも非実在の意識が

「生命の振動」の持続を意識して

存在していると思っている存在です。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【そう云う変りやすいものが相対時間でありましてそれは決して本当の時間ではないのであります。過去・現在・未来に属する相対時間と云うものは要するにこうしたものであります。吾々は吾々の相対的活動を、地球の公転・自転の運動の何分の一だけ働いたと云う様な標準を求めるために、こう云う相対時間を使いますが、それは結局「目盛り」に過ぎないのであって、本当の時間「実在の時間」というものは、過去、現在、未来というものの流れを超えたところの存在、「永遠の今」「久遠の今」「今此処の生命」であって、この今此処一点の生命が、「久遠の今」に生きているのであります。】

【さて此の絶対時間~換言すれば、「久遠の今」というものは一体何であるかというと、生命そのものである。「今此処の一点」の生命が振動する。生命の振動の持続が時間なのであります。生命の振動が止ったら時間がなくなってしまう。生命振動の意識が時間であります。】

 

8 イエスの「十字架」と、キリストの「復活」の本当の意味
2019/12/12
キリストが十字架にかけられたことが

何を意味するのか、

雅春先生のご説明です。

すばらしい解釈です。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【そうした肉体の自覚を磔(はりつけ)につけた時に、即ち肉を十字架でクロス・アウトして、「本来なし」として打消してしまった時に、初めて実相の人間「霊なる人間」が復活するのであります。それがキリストの歴史的事実にシンボルとして現れている真理であって、「十字架」なるものは「肉の抹殺」であると共にそれは「復活」の印であります。十字はクロス×とプラス+の同時的存在のシンボルであります。詰りイエスはすべての人間に対して、人間の本体と云うものは、すべて神聖受胎であり、神のいのちが宿って来たものであって、肉のいのちだと思うのは嘘である。それをクロス・アウトした時に始めて本当の永遠のいのち、穢れないところのいのちが自覚されてくる。即ち肉のイエスが死んでキリストが復活して来ることを教えんがために出現せられたものであります。イエスの「十字架」と、キリストの「復活」なるものとを斯う云う風に生長の家では、説明しているのであります。】

 

9 実際は現象的な時間も空間もそんなものはない。現象は生命の振動そのものである
2019/12/17

「人間・神の子」の自覚より、

「神の子・人間」の自覚に入ってくると、

視えない「いのち」としての‟神の子”が

振動によって現象展開しているのだと

分ってきます。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【実際、空間的“ひろがり”というものは、ここからここまで本当にひろがっているのではないのであって、実は‟ひろがり”はないのです。ひろがりがないのにひろがりありと見ているのです。無空間なのであります。ただ無空間上に生命のみがある。無空間の生命であるから分割することが出来ないのであります。従って、実は「彼」と「我」と云うが如く全然別々の存在はない。彼も我も唯一神の心の中にある観念的存在なのであります。それが心の波に依って活動写真を映すようにひろがって、空間的存在としてひろがりがあるように見えるのであります。そしていのちの振動に依って時間的流れがある様に感じられているのであります。実際は現象的な時間も空間もそんなものはない。(現象無の哲学)吾々は大きさもなければ目方もないし、何年何月から何日まで生きているというようなそんな短命な存在でもない。時間を超え空間を超えたところの「久遠の今」の生命~それが人間であるのであります。ですから人間は死なないものだと云うこことが出来るのです。】

 

10 この現象の世で実相を生きるべし
2020/01/06
多くの人が、

谷口雅春先生の教えに一旦は触れた人までが、

“生命の実相”の真理を

求めても得られっこないとか、

求める必要がないものと思っているのは、

完全な間違いであります。

“生命の実相”の真理把握は

現象生活を希望と生き甲斐をもって生きるために

必要なのであります。

確かに各人が実相において“神の子”なのですから、

自覚しようがしまいが“神の子”ではあります。

しかしこの現象世界は

実相を顕の世界に実現するために神が設定した舞台ですので、

“神の子”が“神の子”を実現するためには、

現象世界における“神の子”の実相探求と、

知恵と愛の行動、向上への願い、助け合いの実践等が

要るのです。

それらは自己に具有している本体でありますが、

その本体である“神”を自由意思によって実現することが

尊いのであります。

「この現象というものは心の現われであって本当にあるものではなく、

本当にあるものは見えない“神の国”である。

つまり実相である。」

藤原敏之先生の説いたこの自覚があれば、

現象にどんなつらいことがあっても

乗り切ることができます。

精神論ではなく、

実際にそうなります。

この現象世界で実相を生きることを可能とするべく、

谷口雅春先生は真理宣布の一生を貫きました。

雅春先生のご遺志を継ぐ者は

そのことをすべきなのです

 

11 「迷い」は、どうして起ったかと云うと、五官に依って見るべからざるところの「いのち」をそれによって見ようとした―そこに迷いが発生したのであります。

2019/1/7

五官によってでは

「いのち」は観ることができないのです。

しかし多くの人は物質を物質と思っていて

「いのち」とは思っていないので、

そこに迷いが発生するのであります。

「いのち」は五官では見ることができない。

「いのち」を観るには霊によるしかないのです。

ものを物質と見て「いのち」と観ない限り、

残念ながら「エデンの楽園」に

戻れないのであります。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【まことにも生きた人間は骨と皮と肉とで出来ているようなそんなものでないのであります。人間は「神のいのち」そのものであります。この「神のいのち」なる「霊的人間」を「物質人間」と見、病いに冒されるものと見る「迷い」は、どうして起ったかと云うと、五官と云うものの用途を誤って、五官に依って見るべからざるところの「いのち」をそれによって見ようとした―そこに迷いが発生したのであります。その迷いの念が忽然と発生した。「忽然」すなわち「ひょっこり」と云うのは、何時と云う一定の時がないのであって、何時でも吾々が五官に依って“もの”の本質を見ようとした時に“ひょっこり”其の迷いが始まるのであります。それを創世記では「アダムとイヴとが蛇の智慧に騙された」と云う象徴物語になっているのであります。「蛇の智慧」とは地(即ち物質)の上を這うところの五官の智慧であります。物質ありとするところの五官智に騙されて、「人間神の子」の本質、いのちの本質を見ることを忘れてしまったところに「エデンの楽園」からの追放、すなわち「病気、不幸、災難」等があらわれて来るのであります。だから再び「楽園」を奪還して病気・不幸・災難等のない世界に出るには、一度徹底的に五官世界の否定―すなわち、どんなに病気があらわれていても「病気なし」と否定し、実相の円満完全なる世界と人間とを観なければならないのであります。】