新約聖書「ルカによる福音書」
第16章 律法と神の国
14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った
新約聖書「ルカによる福音書」
第16章 律法と神の国
14 金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った
奇蹟が起こるには既に与えられていることを確信するだけでよい
イエスが行なったような奇蹟が起こる為には
実相にぴったりの波長を起こせばよいのである。
つまり実相円満完全の
強烈な確信が
必要なのである。
(参考 祈りの科学 谷口雅春著 日本教文社)
ヨガナンダは「人間は神の子であるから泣きついたり懇請したりすることはいらないのであって、神の子である所の吾々はただ神に要求すればいいのである」といっているのであるが、実は要求する必要もないのである。それはすでに与えられているのである。それは己に放送局の放送が今現にあるのと同じであって、ただ放送の波が目に見えないにすぎないのと同様である。吾々は信仰によって波長を合わしさえすればいいのである。即ち信仰とはすでにあるもの(実相)と同じ波長を自分の心に起こしてそれを確認することである。「すでにある」と確認する事ができなければ神への堅き信仰ということはできないのである。「すでにある」と信ずることのできるもののみ「すでにある」実在とぴったり波長を合わす事ができるのである。
神の創造は常に行われている。
ということは
実相世界は不断の創造が行われている世界なのである。
ただ人間は、
神の創造の有意志的な指導的な役割を
与えられているのである。
つまり、
実相世界という「幽」の世界の創造活動を、
「顕」の世界で自由な心を使って実現するのが
人間の目的なのである。
実相を目に見える形で実現するのが
人間の仕事なのであるが、
人間は“神の子”なのだと自覚して
神の力を使って創造活動をすれば
実相の創造活動と
人間の創造活動とが
ひとつになるので、
理想的な生き方が可能となるのである。
「吾動けば天地動く」ということであって
人間はとてつもなく素晴らしいことが
できる存在なのである。
ただそれには真理を知ることと、
実相の富を現象化する所の
間断なき祈りが必要なのだ。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【神は生きているから動かずにいられないのであります。動くということは生命の波をおこすということであり、生命の波をおこすということは、「無」が形を現わして「有」となることであります。換言すればそれは「創造する」ということであります。神は創造せずにいられないのです。神は創造をやめることはできない。時々刻々何らかの創造が行われているのであり、しかもその創造は、法則に従って自動的に行われているのであります。その点に於てはその創造は機械的に進行するように見えます。ただ人間のみが、神の創造の有意志的な指導的な役割を与えられているのであって、吾々は神の創化作用の方向を自己の自由意思でリードし得べき偉大なる力を与えられているのであります。吾々を中心として神はその創造を意識的に形の世界に完成し給いつつあるのであります。だから人間は神の創造の意識的中心をなすものであって「吾動けば天地動く」ということはこういう意味からもいうことが出来るのであります。】
“神の子”であることを自覚すれば、
過去の業にはもはや縛られることなく、
実相円満完全の生き方が
できるようになるのである。
神の子は神の国で
健康、安全、平和、調和、愛に満ちた生き方を
しているからである。
どうすればそういう方向に行くことができるのかの鍵は
ひたすら実相の真理を求めることと、
神想観の継続である。
特別な「超」といったような事が
必要であるとは思わない。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
<法則と秩序との此の宇宙に於いては、自己が播いた想念の果実を獲り取る、すべての結果には原因があるのである。>
【大抵の人々は、原因結果の法則に支配されて生活しているのである。東洋の宗教では、この因果の法則を“業”と呼んでいる。奇蹟というものは“神の法則”の示現であるのである。わたし達が原因結果の法則に支配されて生きているときには、われわれは過去に犯した間違いに従って、すなわち旧(ふる)き誤れる想念の支配下に生きているのである。法則と秩序との此の宇宙に於いては、自己が播いた想念の果実を獲り取る、すべての結果には原因があるのである。】
<私達が“神の法則”の世界に入って生活するとき、“第一原因”が超自然の世界から働きかけてくれるので、それが奇蹟となるのである>
【しかしながら、わたし達が“第一原因の世界”―アレキサンダー・ポープがいみじくも、“汝、最も理解しがたき偉大なる第一原因”と称したところの“神の法則”の世界に入って生活するとき、結果は原因に等しいのであるけれども、“第一原因”が超自然の世界から働きかけてくれるので、それが奇蹟となるのである。】
<奇蹟と称するも、その事件の奥には“法則”がはたらいているのである。>
【奇蹟と称するも、その事件の奥には“法則”がはたらいているのである。すべての奇蹟は“神の法則”と調和して行われる。“神”と“神の創造”とは一体である。唯一の原因者であり創造主であり、すべての生きとし生けるものの生命のエッセンスであるところの神は、神みずからを本源として実質として、創造の御わざを行ない給うほかはないのである。これこそ、イエスが「天にまします汝の父が完全であるが如く、汝も完全であれ」と言い得た所以であるのである。だから読者諸君よ、ひとたび奇蹟というものの本質が理解されるならば、もうそれは、奇蹟と言い得ないということは興味あることである。われわれはただ自己の信ずるところのものを身をもって体験するだけである!】