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「見えるものは無く、見えないものが在る」という真理の言葉の力強さ

2020-01-28 20:05:10 | 日記

「見えるものは無く、見えないものが在る」と語っている、

藤原敏之先生の宇治における練成会講話でのお言葉は

まことに力強く、

説得力があり、

私に行動する勇気を与えてくれている。

この現象世界は物質世界のように見えているが、

それらは実在としてあるものではなく心の影であって、

だから「ナイ」のであり、

見えない理念としての“神”が

存在しているのだ。

実際この現象の世が

物質であるのか神であるのかの観方によって

心配ばかりの生活になったり

絶対安心の生活ができたりする。

この世は見えない“神の国”であるという真理が、

絶対的な「信」になるためには、

潜在意識がそうだと受け容れることが必要であり、

知的に知ったとしても

それだけでは真理は現象生活に役立たない。

「神の国は汝の内に在る」とイエスは言うが、

その真理と現象の心との一体化が必要であり、

それの実現が“信の形成”である。

信が形成されると、

この現象の世が非実在であって、

代わりに理念としての

見えないもの(神)が在ると体感として把握できる。

この世が“神の国”と実感できる。

信仰の基本は「信」である。

でもその前に真理への希求が必要だ。

私は何故“生命の実相”の探求に向ったのかと自己に問えば、

「この現象の世は真実世界ではないのではないか」という疑問が、

多分根幹にあったのだと思う。

真実の存在が感じられなくて、

空虚な感じで安心感がなかったのだ。

もう一つは、

家族と親しい人たちを幸せにしたい、

という願いのためであった。

こんな存在の探求なんて

人が馬鹿にするようなことを生涯求め続けるなんて

よくやって来られたものと思っているが、

「見えるものは無く、見えないものが在る」
という真理の体感的な「信」の形成は、

私はこの人生を生きてきて良かったのだ、

とほっとした気持ちになる。


2020年勉強会資料1月第2集

2020-01-28 10:58:10 | 日記

1 人間の自覚の領域が神の国であり、それは常に我らの内にある天国である

2 「信」の形成

3 自分の本体は実相人間、つまり“神なるもの”である。

4 ヨハネ伝の聖句を使う神想観の方法と原理

5 人間の本体が見えない‟神“です。

6 神の姿に造られている完全人間、それが本当の人間であるから滅びない。

7 肉体は影でありその奥に既に出来ている滅びないところの「実相の人間」がある。

8 神様が働いて下さるから奇蹟が起るのである。人格としての神を知るべきである。

9 実相の自由を知るべき。人間は環境を支配できる。

 

1 神はわれわれ皆のいのちの源泉であり、創造主である、そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常に我らの内にある天国である。
2020/01/21
私が見る世界は全て私の念の産物だ。

40年前には心配や恐怖の念が

それに相応する現象を作り出していた。

心の明るい人は明るい環境をつくり出すし

暗いことばかり考えている人はそのように暗い人生を作る。

三界は唯心の所現だから、

心一つで自由に思った通りの現象を創り出すのが

人間である。

ではあるのだが、

実は「神の国」が

どの人の心の奥にも

人間の本体として存在している。

「人間の自覚の領域が神の国であり、それは常に“我らの内”にある天国である。」のだ。

法華経のいう「髻宝珠」(けいほうじゅ)である。

イエスは

「“神の国”は汝の内に在る」と言ったのだし

祈る時には「内なる神の許に往く」べしと教えたのである。

本当の生き方は

此の世は“神の国”なのだから、

“神の子”と自覚して生きることなのだ。

それは吾々一人一人の自覚にかかっている。

此の世は実は“神の国”だと

自覚することで“神の国”が顕われ出る。

自覚するだけでよいのだ。

だから真理が大事なのだ。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【天国とは或る一定の場所ではないのである。しかし一種の心の状態をいうのであって、神の力が今此処にわれらと共に現前し給うという自覚を指すのである。そのことはこの偉大なる“主の祈り”に如何にもハッキリとあらわれているのである。神はわれわれすべては同じ父を分ちもつのである、それだから“天にまします吾らの父よ”と呼ぶ。神はわれわれ皆のいのちの源泉であり、創造主である、そしてその自覚の領域が神の国であり、それは常に我らの内にある天国である。ひとたびこの“主の祈り”に秘められたる意味を理解するとき、わたしたちは自分自身を自己の内にある神の完全な力から離れていると考えることはできなくなるのである。】

 

2 「信」の形成

2020/1/23

はじめに結論を言います。

《「信」が運命や一切を変えるのですから、信」のきっかけとなるその人特有の何かが、きわめて大事なのであります。これは求めて行けば神から授かるものです。》

神想観で実相を観ずる言葉は

自分の神への「信」につながるものなら

どんな言葉であっても、物であっても

いいわけです。

別に雅春先生のお言葉である必要はなく、

キリスト教の聖句でも

仏教の言葉でもいいのです。

現世や前世での宗教的接触がある場合もあり

人により馴染んできた宗教的内容が

皆異なるからです。

ですから実相を理解し

潜在意識を納得させ本心での理解の動機となる言葉は

人により異なるから

そのへんのところを藤原敏之先生は

沢山の例をご著書で挙げられているのであって、

どうしてこの言葉が実相の「信」につながったのか、

傍では理解できないことがよくあります。

でもこれこそが神様のその人への特有の導きであって、

本人はそれで納得しさとったわけです。

アディントンも雅春先生も

神の導きの方法は人によってその人なりに行なうのであると

書いてくださっております。

私の場合は神想観で

ヨハネ伝の

「始めに言があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。」

「言葉は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。」

「その名を信ぜし者は、神の子となる権をあたえ給えり」

という聖句を念じているうちに

この聖句が潜在意識に根を張ってしまったのす。

「信」の形成であります。

「信」が運命や一切を変えるのですから、

「信」のきっかけとなるその人特有の何かが、きわめて大事なのであります。

 

3 自分の本体は肉体人間でなく、実相人間「神の子・神なるもの」であるという自覚が、「新たに生れる」ということである。

2020/1/23

「新たに生れる」とは

「もはや吾生くるにあらず、キリスト吾にあって生くるなり」のパウロの自覚がそれです。

「肉体が此処に生きているのでなく、“霊妙な存在”が生きているのである、“実在”が生きているのである。」

という自覚は、

自分は本当は肉体人間でなく、

実在人間、実相人間、“神の子”であるという

自覚であります。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

<はかなき生命を生きていながら、永遠不滅の金剛不壊の実在生命を生きているのが自分だと云うことになるのであります>

【こういうように仏教では「現象空無」を説くのでありまして、この見える世界を一たん夢の如く、幻の如き世界と否定してしまうのであります。しかし否定のままでは、「無い世界」に生活することができない。そこで大否定の後に大肯定が出て来るのであります。それが即ち『甘露の法雨』にあるところの「肉体の奥に、物質の奥に、霊妙極まりなき存在あり。これこそ神に造られたる存在及び人間である」と書いてあるのでありまして、その実在の世界に、その実在の人間が生きているのであります。現象の空無がここでくらりと一転して、はかなき生命を生きていながら、永遠不滅の金剛不壊の実在生命を生きているのが自分だと云うことになるのであります。】

<肉体を現わして、生活していながら、肉体が此処に生きているのでなく、「霊妙な存在」が生きているのである。>

【肉体を現わして、生活していながら、肉体が此処に生きているのでなく、「霊妙な存在」が生きているのである、「実在」が生きているのである。“I am”が生きているのである。神が生きているのであると自覚するのであります。「吾の置き換え」であります。】

<キリストが自分の中にあって生きているという自覚が、体験としてはっきりつかめますと、もはや病気はないのであります。>

【この自覚の置き換わりがヨハネ伝第3章にあるところの「新たに生れる」であります。「もはや吾生くるにあらず、キリスト吾にあって生くるなり」のパウロの自覚もそれであります。かかる自覚に於いてはキリストは如何なる病気と云えども癒されないものはなかったのであります。そのキリストが自分の中にあって生きているという自覚が、体験としてはっきりつかめますと、もはや病気はないのであります。】

 

4 ヨハネ伝の聖句を使う神想観の方法と原理

2020/1/25

これは私投稿者の自分の方法であることを、初めに申し述べておきます。

神想観で

「吾れ五官の世界を去って実相の世界に入る」と宣言したら

もうそこは神の国だ。

神の国というのは人間のある“意識の状態”である。

ということは瞑目しなくても

自己の裡に在るのである。

私は神想観においてヨハネ伝冒頭にある聖句、

「初めに言ありき。言は神と共にあり。言は神なりき。」

と念じるようになった。

それに「言は肉となりて吾らのうちに宿った。」を付け足す。

これは「神の国」即ち“実相”(真理キリスト)が

自己の裡に存在していることを言葉で観じることなのである。

「私は“神の子”である」と“神の肖像”(イメージ)を言葉で観じることも良いのだが、

私は潜在意識に納得させ「信」の形成を目的として、

真理キリストの聖句を“そのまま”観じているのである。

ヨハネ伝冒頭の聖句は

神創造の霊の世界を観じることである。

ここは霊の世界、光の世界であるから、

心の眼で、そのような世界と想うのである。

そこに現象展開する以前の“神の言”がある。

イエス・キリストがなさったように「神の許に往く」ということが

「初めに言ありき。言は神と共にあり。言は神なりき。」

「言は肉となりて吾らの内に宿りたまえり。」

と言葉で念ずることであるのである。

キリスト吾れに宿ると確信した時に約束されていることは、

【しかし、言は、自分はこれを受け入れた人、その名を信ずる人々には神の子となる資格を与えた。(ヨハネ伝第1章12節 新共同訳)】

(参考 ヨハネ伝講義 谷口雅春訳 日本教文社)

【然し、コトバが創造主であり、そのコトバが自分に宿って自分の生命となっていると云う真理を受け信じた者は、神の子となる権を与えられていると云うのであります。「その名を信じた者」と云うのは、「名」はコトバであり「実相」であります。自分の「実相」が宇宙の創造者たるコトバと同体であると知った者は、既にもう神の子である。世を照らす光がやって来た。それはお前の生命(いのち)の中に宿っているではないか。その光を見よと云うのであります。見ると云うことは知ることであり、知ることが信ずることなのであります。】

さらにイエスが真理であることを信じた時に、どのようなことが起るかについても、記述が聖書にあるのです。

【7:37

祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

7:38

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

7:39

これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。(日本聖書協会)】

(参考 ヨハネ伝講義 谷口雅春訳 日本教文社)

【やがて仮いほの祭りの終りの日がまいりました。イエスは大衆の前に立って大声疾呼して言われました。「人々よ、若し渇いたならば我に来りて飲め。我を信ずる者は、聖書に書かれている通り、腹の中から滔々として大河の水の如く流れ出でるぞ」と。此の「活ける水」と云うのは、イエスを信じた者が、その腹の中から湧き出て来る真理の霊(みたま)―還元すれば「内在の神の霊」―を指して言われたのであります。】

【さて、ここにイエスが「人もし渇かば我に来りて飲め」と言っておられるところの此の「我」と云うのは一体、何を指しているのであろうか。・・・(省略)・・・これは肉体イエスのことでない。イエスは今「実相」そのものの顕現として、神性そのものの実現として言っておられるのですから、各人に内在する「神の子」(神性)のことなのであります。】

【各人内在のキリストを信ずる者には活ける生命の水が滾々と流れ出ることになると言われたのであります。】

“生命の実相”が自己に宿っていることへの「信」が、

活ける水が腹から流れ出ることになるのであり、

その「信」は

新約ヨハネ伝の聖句にあると信じて観法を行うことは、

これも一つの確かな方法であります。

 

5 人間の本体が見えない‟神“です。

2020/1/26

人間は見えない‟神”が

自分の本体です。

それが自分に宿っていて

私の肉体とか行動とかの指導をしています。

現象世界のすべての事物も

本体としての見えない‟神”の現われです。

だからもともと人間の本体は神の世界に中心者として

存在しているのであって、

現象世界にその本体が本体として現れたことはないです。

だから人間の本体は初めから神の世界に完全体として居るから

不生不滅です。

生や死を司っているのもその本体なる完全身です。

この私の自覚は神想観によって生まれたものです。

神想観の方法はアディントンの

『奇蹟の時は今』から多く習いました。

神想観の根拠となる宗教観は

谷口雅春先生の『ヨハネ伝講義』から学んだキリスト教の宗教観です。

これらの聖典から学び神想観を不断に継続すれば

自分の本体が神だと

少しずつ分ってきます。

「超」のつく宗教体験は必要としません。

 

6 神の姿に造られているところの完全なる人間、それが本当の人間であるから滅びないものなのです。人間は其の時に総てのものを従わせる力を与えられたのです。

2020/1/26

人間は理念である、ということから、

神の肖像としての“神の子”の原理的な在り方、

万物の中心的存在であるという在り方、

“神の子”としての気高い生き方が、

実在なのかと思われます。

あと永遠向上で、不滅理念であるということも

推察できます。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【「現われの相」と云うものは「本当にあるものでない」のであって、永遠ではないのであります。「永遠に在るもの」こそ「本当に在るもの」であります。神の言葉で造られたところの永遠に消えないところの、「本当のもの」が実在なのであります。実在こそ永遠に必ずあるので、「本当にあるもの」は永遠に消えないのであります。人間も世界も「本当にあるもの」は滅びないものであります。「みこころの既に成れる世界」こそ永遠にあるものであって、本当にあるものは病気にもならない。年寄りにもならない。死なないものである。神様が一たび人間を造られ、その人間は「神の姿に造り給えり」と聖書にありますが、神の姿に造られているところの完全なる人間、それが本当の人間であります。】

【本当に在る人間「実在の人間」は永遠なのであります。死なないものです。そして何ものにも外界のものには左右せられないのであります。】

【是は創世記に書いてありますが、万のものを神様がお造りになって、そして万のものを従わせよ、斯う仰せられたのです。かくて人間は其の時に万物の霊長としての権利を与えられた。すべての他のものに従わされるものではないのであって、総てのものを従わせるところの力を与えられたのです。是は永遠の真理であって、それは消えないところのものなのであります。】

 

7 肉体の方は影でありその奥に既に出来ている滅びないところの「実相の人間」がある。それが本当の人間です

2020/1/26

“神の子”とはどういう存在であるかの

ヒントを得られるご文章です。

“神の子”は理念ですから

見えない存在であるのです。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

<「本当に在る人間」と云うのは「神の姿に造られた」人間>

【さて「本当に在る人間」と云うのは一体どんな人間かと云いますと、それは「神の姿に造られたり」と云う人間であります。】

<肉体の方は影でありその奥に既に出来ている滅びないところの「実相の人間」がある。それが本当の人間です。>

【ここに画家があるとして、画家の心の中に薔薇の「美しい花の姿」があるとします。その心の中の「薔薇の花」には寸法はありません。併しそれを表現するには、縦横―時間空間の枠内のカンバスに描いて表現するほかありません。それと同じく「無限である神の姿」は無限のままでは表現されませんから、時間空間の枠内に嵌めてそれを表現するのであって、

是が肉体と見えてあらわれるのであります。だから肉体の方は影であってその奥に既に出来ている滅びないところの「実相の人間」がある。それが本当の人間であります。】

 

8 神様が働いて下さるから奇蹟が起るのである。人格としての神を知るべきである。神を抜きにした信仰はあり得ない。

2020/1/28

私は信仰者が先ずすべきは

神は何処に居るのか“神の子”はどこに居るのかを

探し出すことであると

思うのである。

神様の存在抜きで

奇蹟がどうのこうの、こんな良いことがあったとか、

発表したりするのは、

お門違いである。

奇蹟というのは

人間が、つまり人格が神にふさわしくなった時に、

神にふさわしいことが法則に則って現象にあらわれることを言うのだから、

吾々は“神の子”を自覚し、

“神の子”の如く生きようとすれば

良いのだ。

それを心の面からやるのであって、

“神の子”の自覚を中途半端にして

現象的行動からやっても

方向がちがう。

最初にすべきは“神”と“神の子”の居場所を

探すことである。

存在の探求だ。

両者の居場所が掴めて来れば

もう神からの働きは充分に自分に対して

為されているはずだ。

神を求め始めた時から、

神からの癒し(働きかけ)は始まっているのだから。

発心(初発心)が起これば、

もう実相探求の軌道に乗っているといえる。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【「汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ。(イエス)」

信じようと信じまいと、いずれにせよ、あなたは、誰かが奇蹟的な神癒を受け得るための媒体になることができるのである。なにも、あなたは、ある宗教の狂信者になる必要はないのであり、あなたが神癒の媒体になるためには、ある宗教宗派に所属しなければならぬということもないのである。神癒はあなたの努力を通してあらわれて来るように見えるかも知れないが、それは逆説的であるのであるけれども、神癒の技術を身につける予備条件は先ず「われみずからは何事をも成し得ず、天の父われにいまして御業を成さしめ給うのである」(イエスの語)ということを確乎として信ずることである。それでいて、あなたは、他の人が“必要な信仰”を受け容れるための“扉”となることができるのである。宇宙には、あなたが“ある”よりも一層大なる力が存するのであって―その力は人生のあらゆる面に内在しており、その力にとっては何事も不可能というものはないのであり、而もその力はあなたの信仰にしたがって、あなたを通して、そしてあなたのために働いて下さるのである。おそらく、人類の歴史を通して神癒のページをひもといて一瞥して御覧になれば、神癒というものが、どんなに普遍的に存在するものであるかを一層よく理解されるであろうと思う。】

 

9 ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである

2020/1/27

人間は“神の子”であるから、

“神の子”を自覚すれば

実相の自由を得るのである。

因縁因果の法則を超えた世界に

入るからである。

 

これが“神の子”である人間の本当の生き方である。

人間としての自分が

“神”の生き方にその時にはなっているのである。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

<「人間は環境の奴隷として造られたものではないのである。環境こそ人間の被造物であるのである」>

【「人間は環境の奴隷として造られたものではないのである。環境こそ人間の被造物であるのである」とベンジャミン・ディズレーリはいったのである。聖パウロは「キリストは自由を得させん為に我らを釈(と)き放ちたまえり。されば堅く立ちて、再び奴隷のくびきに繫がるな」(ガラテア書第5章1節)といっているのである。ここに言う‟自由”とは“霊的自由”であり“神の子としての自由”である。わたし達すべては、今こそ立ち止まりて、脚下照顧し、人間は環境の奴隷としてその絆に縛らるべきものでもなければ、人間関係をも含む色々の条件にも屈従しなければならぬような者ではないことを想起せよ。然り、時には、肉眼には如何にも現実に存在するかのように見える肉体の症状にさえも屈従して奴隷の絆に繫がれる必要はないものなのである。】

<今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。>

【人間が自由であるのは、“神の子”であり、至上者(いとたかきもの)の子であるからである。それであるから、己が人生、己が環境を支配する権を与えられているのである。今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである。それを奇蹟と見るならば、それはまことに奇蹟でもある。まことに奇蹟の時は今であるのである。】


メタフィジカル・ヒーリングによって人生を支配せんと欲するものは、実相の真理を、単に表面の意識でのみならず、潜在意識の底の底までも貫徹せしめねばならない。

2020-01-28 10:12:17 | 日記

私は神のコトバだけを

一日にできるだけ多く使う生活を

3年ほど前からしてきました。

神のコトバが潜在意識を支配してしまうまで、

真理の言葉を沢山使うのです。

自然にそのようになって来たので、

この生活スタイルになってしまっているのは、

神様の導きかと思います。

聖経『四部経』10回の黙読、

真理の聖典の読書、

真理の多種類のネット投稿、

一日3.4回の神想観など

真理の言葉の使用が徹底しています。

人間はコトバで世界を創造するので

私のやっていることは全部

雅春先生が下で書かれている理にかなっているかと

思っています。

意識的にすべきは

「メタフィジカル・ヒーリングによって人生を支配せんと欲するものは、この真理を、単に表面の意識でのみならず、潜在意識の底の底までも貫徹せしめねばならない。」

ということです。

ひたすらに、喜び勇んで、

このことをやるのです。

(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)

【創造とは不可視の霊なる実質に対して或る形を与えるということであります。まず形は意識に思い浮べられて現われるのであって、それは発明家がものをこしらえるのも同じことであります。そこで吾々が何事かを現象界に造ろうと思うならば、まず意識の世界に、その欲する所の「何ものか」をはっきりと心に具体的に思い浮べることが必要なのであります。この思い浮かべが、「生命の波」即ちコトバであって、大宇宙の大生命の波に感応交流して、大生命を動かして一切のものを造りださせる働きをするのであります。メタフィジカル・ヒーリングによって人生を支配せんと欲するものは、この真理を、単に表面の意識でのみならず、潜在意識の底の底までも貫徹せしめねばならない。】

ここで

「まず意識の世界に、その欲する所の“何ものか”をはっきりと心に具体的に思い浮べることが必要なのであります。」

と書かれておりますが、

実相顕現を目指す人は、

実相顕現を目標にすべきであります。

このことは鉄則です。

目標としないことが

顕われるわけがないからです。