肉体の“我”を砕き「自己神性」を自覚し得るために
内在の神性が私の生涯にわたり、
どのように導いて来たのか、
これは
自分の自覚として感じることはあっても
ここでは書けない。
ただ私はその「神性」のあざやかなしわざに
畏敬の念をもつ。
結局のところ現象展開しているものは総じて
仏の説法であり、
それも実相を説いているのであって
究極的には実相独在へと導くのである。
(参考 神と偕に生きる真理365章 谷口雅春 日本教文社)
【わたしたちが「自己の神性」を自覚するのは、肉体人間の努力によるのではなく、「内在の神の催し」即ち他力によるのである。肉体の「わしの努力」「俺の精進」などによって「自己の神性」を自覚し得るものではない。この点に於いてはパウロの言ったように「肉は益なし」である。「神性」が内から催し、「神性」が内から導くことがなければ結局私たちは「自己の神性」を自覚することはできないのである。私たちが或る事業に失敗し、躓き、打ち砕かれて、もう力つきて現象的な何物にも頼ることができなくなって心が神に向うようになる経過は、実は、そうでもしなければ肉体の“頑張り”や“気負い”や“傲慢”が打ち砕かれないので、「内在の神性」が其の人を導いて肉体的傲慢を打ち砕くために、そのように生活の道筋を導いている事があるのである。】
自分の意思とか意図とか能力とか
そういうものを超えた力で
自分に対して何かが起こってくることもあるのであって、
不可抗力な環境の変化が続くこともあるのであり、
その渦中にある人は、
自分の意思と努力では何もできなくなることもあるのであるが、
これが“自己神性”の働きによるものであることが、
上の雅春先生のご文章で分る。
先生の仰るとおりだと思う。