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「内なる神性」の聖なる催し

2020-01-31 10:29:05 | 日記

肉体の“我”を砕き「自己神性」を自覚し得るために

内在の神性が私の生涯にわたり、

どのように導いて来たのか、

これは

自分の自覚として感じることはあっても

ここでは書けない。

ただ私はその「神性」のあざやかなしわざに

畏敬の念をもつ。

結局のところ現象展開しているものは総じて

仏の説法であり、

それも実相を説いているのであって

究極的には実相独在へと導くのである。

(参考 神と偕に生きる真理365章 谷口雅春 日本教文社)

【わたしたちが「自己の神性」を自覚するのは、肉体人間の努力によるのではなく、「内在の神の催し」即ち他力によるのである。肉体の「わしの努力」「俺の精進」などによって「自己の神性」を自覚し得るものではない。この点に於いてはパウロの言ったように「肉は益なし」である。「神性」が内から催し、「神性」が内から導くことがなければ結局私たちは「自己の神性」を自覚することはできないのである。私たちが或る事業に失敗し、躓き、打ち砕かれて、もう力つきて現象的な何物にも頼ることができなくなって心が神に向うようになる経過は、実は、そうでもしなければ肉体の“頑張り”や“気負い”や“傲慢”が打ち砕かれないので、「内在の神性」が其の人を導いて肉体的傲慢を打ち砕くために、そのように生活の道筋を導いている事があるのである。】

自分の意思とか意図とか能力とか

そういうものを超えた力で

自分に対して何かが起こってくることもあるのであって、

不可抗力な環境の変化が続くこともあるのであり、

その渦中にある人は、

自分の意思と努力では何もできなくなることもあるのであるが、

これが“自己神性”の働きによるものであることが、

上の雅春先生のご文章で分る。
先生の仰るとおりだと思う。


慧可断臂(その1)

2020-01-30 12:38:04 | 日記

慧可が実相を求めて達磨大師のもとに赴き、

自らの臂を断って達磨に道をもとめた、

という話は仏道の話として有名だが、

道元も正法眼蔵で取り上げている。

私はこの部分を読むと涙が出てしまうのだが、

臂を断って実相の悟りをもとめるほど、

こうした求道は禅の世界では古くからあったと

思われるのである。

いのちをかけて求道する人が連綿として続いてきた、

これが仏道の歴史においては本当のことであろう。

だからこそもっと安全にさとれるために

雅春先生は『生命の実相』を書かれたのだと

私は思う。

慧可の話は何回か投稿する。

(正法眼蔵を読む 行持の巻 谷口清超著)

我又何人

 この教えをきいて、慧可は少林寺のある少室峰に赴いた。その時あらわれた神は、祖師自身の永遠の修行の守護神であった。年の暮もおしつまった冬の寒天、十二月九日の夜だったといわれている。大雨大雪でなくても、深山高峰の冬の夜は、思うに、人が窓の外に立っていられるようなものではなかった。竹の節が寒気のため破れるほどであった。さらにその上大雪が地面を蔽い、山を埋め、山峰を蔽いかくしていた。その雪を踏み分けて道を求めた。どれほどの困難であったかは想像もつかない。遂に祖師の住み給う室にたどりついたが、入室をゆるされず、一瞥すらも与えられなかったのである。

 その夜慧可は、眠らず、坐せず、又休むこともなかった。直立不動で、夜の明けるのを待った。夜中雪は情け容赦もなく降り続いた。腰まで雪に埋まったが、その雪の上に泪(なみだ)が滴々とこぼれ落ちた。すると泪が泪をよび、いろいろと昔のことを省みた。そしてこう思ったのである。

「昔の人は、道を求めるのに、骨を叩いて髄を取出したという。あるいは自分のからだを刺して血を流し、飢えた相手を救った。釈尊の前生では、髪を路に布いて泥を蔽って師をお通しした。峰から身を投じて飢えた虎に自分の肉体を与えられた。古人は皆かくのごとくして命をすてて道を求められたのに、今の自分は、果してどうであろう・・・」

すると、道を志す気持ちはいよいよ高揚するのであった。

 


表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。

2020-01-30 10:55:09 | 日記

神の国は自分の裡に在るというのに、

なかなか自分の手に入らない。

ここでは

どうすれは実相が自覚され、

“神の子”になり得るのかの方法を

雅春先生はお説きくださっている。

(参考 神と偕に生きる真理365章 谷口雅春 日本教文社)

【神想観の目的は、自己の内なる仏性(キリスト教的に言えば“汝の内なるキリスト”)を目覚めしめるところの方法である。その内なる仏性を目覚めしめる方法は必ずしも一種類ではないのである。「南無阿弥陀仏」とひたすら称名念仏するのも、内に宿りたまう阿弥陀仏を目覚めしめ、此処がこのまま阿弥陀仏の極楽浄土であることを目覚めしめる方法である。坐禅し調息するのも、その一つの方法である。公案を授けられて、一心にそれを解決しようとして精神がギリギリの一点に到達するのもその方法の一つである。この精神がギリギリの処に到達するというのは、人間自我の頭脳的知恵が極限に達して崩壊することである。人間的はからいの完全抛棄であり、其処に神我があらわれる。禅も念仏も一如である。

「自己の内に宿る仏性」又は「汝の内に宿るキリスト」という場合の「内」とは「肉体の内」ではないのである。わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。すべての善きものは悉く、この深く湛える根源より発するのである。これをキリストは「天の父」と称したのであり、その「天の父」のまします「わが存在の深奥なるところ」を「神の国」と称したのであり、「神の国は汝の内にあり」と喝破されたのである。キリストが「我みずからにては何事をも為し得ず、天の父われに在して御業を為さしめ給うなり」と言ったところの「何事をもなし得ない我みずから」とは、波たちさわぐ表面の自我であり、その表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。】

「表面の自我の無力さを自覚してこれを抛棄したとき内面の深く湛える奥底の自我(天の父)が表面活動に入り大いなる業を成就するのである。」

ということが“内在の神”を自覚させる方法である。

自我を除れないことにつき

神に無条件降伏し、

つまり神様に絶対他力の無条件全托した時に、

自我が抛棄され、

神我(天の父)が表面活動に入るのである。

自我が除かれて神我が入るのである。

谷口先生が実相世界というものにつき

「わが存在の深奥なるところに、現象の自分の想念が波立てども、決して波立たずに、深く一切を湛えて不動にしてそのまま一切をあらわすところの根源的な存在があるのである。」

とお書きになっていることに

私は注目する。

実相というものの在り方についてのご説明だ。

 


仏教で言うならば平生業成の念仏のほかに「別時の念仏」があるようなものだ。今が臨終の念仏と思いただひたすら宇宙の本源に心を振り向けよ。

2020-01-30 10:23:11 | 日記

全ての人の本体である“神の国”を現象的に受けとるには

「現象ナシ実相独在」の真理を

さとる必要がある。

時間空間世界は仮存在のスクリーンみたいなもので、

それを現わし出している見えない神の理念が

本当に在るものだと

覚らねばならない。

それには

つまり時間・空間を十字架につける、

つまり時間も空間も実在としては存在していないと

気がつく必要がある。

こうして現象展開のもとになる“いのち”の世界の存在に

気がつかねばならない。

これがヨハネ伝に書かれている「新しく生れる」ことである。

【(ヨハネ伝第3章)

1 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。

2 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。

3 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国に入ることはできない。

4 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。】

「新たに生れる」ために行う行法が神想観である。

神の与え給いし実相の完全さを受けるのは

概ね、神想観によって、

心を唯、神のみに、

実相のみに振り向けることによってである。

実相を顕現するための神想観は、

自分を捨ててつまり神に全託して真剣にやらないと

“神の国”は自分のものにならない。

谷口先生はこれを「別時の念仏」に

譬えている。

「今が臨終の念仏と思いて、ただひたすら宇宙の本源に心を振り向けよ。」

と結んでくださっている。

実相を得ようとする時には

生半可な祈り方では達成できないだろう。

(参考 神と偕に生きる真理365章 谷口雅春 日本教文社)

【神想観に於いては、ただ心の扉を開いて、神の与えたまいし実相の完全な状態を、素直に受け、観じさせて頂くよりほかに何らの仔細もないのである。それは神の恵みを受け観ずるのであって、自分の精神力によって実相の完全な状態を遮二無二製造するのではないのである。誌友会に列席して人の聖き信仰体験をきいたり、『生命の実相』を読んだりするのは、神を理解し、自分の心境を、神と実相世界とに波長を合わせ得るような状態にまで向上させるに役立つのであるけれども、愈々神の与え給いし実相の完全さを受けるのは概ね、神想観によって、心を唯、神のみに、実相のみに振り向けることによってである。仏教で言うならば平生業成(へいぜいごうじょう)の念仏のほかに、「別時の念仏」があるようなものである。今が臨終の念仏と思いて、ただひたすら宇宙の本源に心を振り向けよ。】