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神想観は“神”のみ観じる

2020-01-27 13:16:10 | 日記

神想観は

神のみ観じるということを

始めました。

「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る」と宣言したら

もうそこは不生不滅の実相の世界です。

そこは神のコトバが振動している神の国であるから、

「初めに言あり。言は神とともにあり。言は神なりき。」

とヨハネ伝の聖句を念じるということは

まさに実相を観じていることになります。

ここは霊的世界であるから

光輝く“霊”の世界を観る感じを持つわけです。

そして

「神の子円満完全」と言葉で実相を観じるときは、

まさに“神”それ自体を観、そして言葉で念じます。

“神”をじかに観じるという事は、

大事なことだと気づきましたが、

まさに人間の本体は“神”であるからです。

ストレートに神を現成させるのです。


ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである。

2020-01-27 10:54:49 | 日記

人間は“神の子”であるから、

“神の子”を自覚すれば

実相の自由を得るのである。

因縁因果の法則を超えた世界に

入るからである。

 

これが“神の子”である人間の本当の生き方である。

人間としての自分が

“神”の生き方にその時にはなっているのである。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

<「人間は環境の奴隷として造られたものではないのである。環境こそ人間の被造物であるのである」>

【「人間は環境の奴隷として造られたものではないのである。環境こそ人間の被造物であるのである」とベンジャミン・ディズレーリはいったのである。聖パウロは「キリストは自由を得させん為に我らを釈(と)き放ちたまえり。されば堅く立ちて、再び奴隷のくびきに繫がるな」(ガラテア書第5章1節)といっているのである。ここに言う‟自由”とは“霊的自由”であり“神の子としての自由”である。わたし達すべては、今こそ立ち止まりて、脚下照顧し、人間は環境の奴隷としてその絆に縛らるべきものでもなければ、人間関係をも含む色々の条件にも屈従しなければならぬような者ではないことを想起せよ。然り、時には、肉眼には如何にも現実に存在するかのように見える肉体の症状にさえも屈従して奴隷の絆に繫がれる必要はないものなのである。】

<今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。>

【人間が自由であるのは、“神の子”であり、至上者(いとたかきもの)の子であるからである。それであるから、己が人生、己が環境を支配する権を与えられているのである。今まで自縄自縛していた自分自身の直ぐ今此処に、“神の子”としての実相の自由があることをわれわれは見ることができるのである。ひとたび、われわれが、自己内在の自由を見出すならば、外界は常に内部の自由に一致したものとなるのである。それを奇蹟と見るならば、それはまことに奇蹟でもある。まことに奇蹟の時は今であるのである。】


神様が働いて下さるから奇蹟が起るのである。人格としての神を知るべきである。神を抜きにした信仰はあり得ない。

2020-01-27 10:30:19 | 日記

私は信仰者が先ずすべきは

神は何処に居るのか“神の子”はどこに居るのかを

探し出すことであると

思うのである。

神様の存在抜きで

奇蹟がどうのこうの、こんな良いことがあったとか、

発表したりするのは、

お門違いである。

奇蹟というのは

人間が、つまり人格が神にふさわしくなった時に、

神にふさわしいことが法則に則って現象にあらわれることを言うのだから、

吾々は“神の子”を自覚し、

“神の子”の如く生きようとすれば

良いのだ。

それを心の面からやるのであって、

“神の子”の自覚を中途半端にして

現象的行動からやっても

方向がちがう。

最初にすべきは“神”と“神の子”の居場所を

探すことである。

存在の探求だ。

両者の居場所が掴めて来れば

もう神からの働きは充分に自分に対して

為されているはずだ。

神を求め始めた時から、

神からの癒し(働きかけ)は始まっているのだから。

発心(初発心)が起これば、

もう実相探求の軌道に乗っているといえる。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【「汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ。(イエス)」

信じようと信じまいと、いずれにせよ、あなたは、誰かが奇蹟的な神癒を受け得るための媒体になることができるのである。なにも、あなたは、ある宗教の狂信者になる必要はないのであり、あなたが神癒の媒体になるためには、ある宗教宗派に所属しなければならぬということもないのである。神癒はあなたの努力を通してあらわれて来るように見えるかも知れないが、それは逆説的であるのであるけれども、神癒の技術を身につける予備条件は先ず「われみずからは何事をも成し得ず、天の父われにいまして御業を成さしめ給うのである」(イエスの語)ということを確乎として信ずることである。それでいて、あなたは、他の人が“必要な信仰”を受け容れるための“扉”となることができるのである。宇宙には、あなたが“ある”よりも一層大なる力が存するのであって―その力は人生のあらゆる面に内在しており、その力にとっては何事も不可能というものはないのであり、而もその力はあなたの信仰にしたがって、あなたを通して、そしてあなたのために働いて下さるのである。おそらく、人類の歴史を通して神癒のページをひもといて一瞥して御覧になれば、神癒というものが、どんなに普遍的に存在するものであるかを一層よく理解されるであろうと思う。】