興味深い思念法が
ここでは紹介されている。
イエス・キリストを“神の子”であると
思念する方法である。
「一仏一切仏」という仏教の言葉もあるのだから
イエス・キリストを“神の子”と観て観じる人や
釈迦を“仏”と観じる人があっても
間違ってはいない、と私は思う。
(参考 神癒への道 谷口雅春著 日本教文社)
【さて、ルーハス・ムーズリ氏がその著書に書いているところの「キリスト吾に宿る」という自覚を呼び起こすために念ずる所の思念の言葉を次に紹介しようと思うのであります。
「尊きキリストの生命(いのち)、吾が体の、吾が事件の、すべての中に流れ入り給いて、吾のすべてのすべてとなり給うのである。神よ、私の霊をしてあなたの霊とならしめ給え。そしてあなたの霊をして私の霊とならしめ給え。私の意思をして、あなたの意思とならしめ給え。あなたの意思をして私の意思とならしめ給え。私の心をしてあなたの心とならしめ給いて、あなたの智慧と理解とやさしき心遣いとを私のものとならしめ給え。私の体をしてあなたの体とならしめ給え。あなたの体をして私の体とならしめ給え。あなたの骨をして私の骨とならしめ給え。あなたの肉をして私の肉とならしめ給え。あなたのハートをして私のハートとならしめ給え。私の全細胞をして、健康と癒しの力とをもって満たし給いて、わが生命に完全なる救いを受けしめ給え。私の身体のすべての器官及び私の肉体のすべての働き、更に私の心の働き及び魂の力に於いても完全なる救いを与え給え。」ムーズリ氏はこの様な思念を行なって、実際にイエス・キリストの霊が自分の全細胞に満ちわたる事を想念するのであります。】
ムウズリ氏のこの思念法では
実際のイエス・キリストを思い浮かべて
観じているのである。
ただ肉身のキリストを観じているわけではない。
また熱心なキリスト信者の神癒には、
実際にイエス・キリストが現れて癒しがあった、という例が、
かなりたくさんあるのである。
これは注目すべき点であり、
熱心な信者の場合には
こうしたことが多くあるのである。
イエス・キリストが来てくれて
実際に癒しを行っていると考えても
よいように思う。