藤原敏之先生は
ユーチューブ動画で観るご講話において
説いている。
【現象は心の影であって
本当にあるものではない。
現象に見えるものの正体は自分の心である。
だが現象は本当にあるものではなく、
そこに本当にあるものは見えない実相の“神”なのだ。
人間の肉体も実際は神のいのちの道具であり容れ物に過ぎない。
梅の木の中に梅の木のいのちと心がある。見えずともある。
肉体の奥の奥に人間のいのちと心がある。“生命の実相”だ。
それが“神の子”である。
すべての現象は心の影だが
そのすべての現象の奥に見えない神のいのちがある。
円満完全大調和の理念だ。
現象一切なし、代わりに“生命の実相”、“実相人間”、
即ち“神の子”がいる。
現象にあるものは神しかない。見えない神以外存在しない。
「現象ナシ実相独在」である。
無いものは無いと決めたら、実相が顕われる。
現象があると思っていたら実相は顕われない。
真理がはっきり分った時に実相はあらわれる。
実相というものは
確かにあるものであって
これを確実に求めこれによって人を救うのが
本当の宗教だ。】
白隠禅師坐禅和鑚をふと思いついたので
書いておきます。
白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 水と氷のごとくにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを不知(しらず)して 遠く求むるはかなさよ
譬(たとへ)ば水の中に居て 渇を叫ぶがごとくなり
長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり
闇路にやみぢを踏そへて いつか生死をはなるべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり
布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等
其品多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ
悪趣いづくにありぬべき 浄土即ち遠からず
辱(かたじけな)くも此の法(のり)を 一たび耳にふるゝ時
さんたん随喜する人は 福を得る事限りなし
いはんや自ら回向して 直に自性を証すれば
自性即ち無性にて すでに戯論(げろん)を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し
無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として 謡うも舞ふも法の声
三昧無碍の空ひろく 四智円明の月さえん
此時何をか求むべき 寂滅現前するゆゑに
当所(とうじょ)即ち蓮華国 此身即ち仏なり