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この現象の世で実相を生きるべし

2020-01-06 17:22:34 | 日記

多くの人が、

谷口雅春先生の教えに一旦は触れた人までが、

“生命の実相”の真理を

求めても得られっこないとか、

求める必要がないものと思っているのは、

完全な間違いであります。

“生命の実相”の真理把握は

現象生活を希望と生き甲斐をもって生きるために

必要なのであります。

確かに各人が実相において“神の子”なのですから、

自覚しようがしまいが“神の子”ではあります。

しかしこの現象世界は

実相を顕の世界に実現するために神が設定した舞台ですので、

“神の子”が“神の子”を実現するためには、

現象世界における“神の子”の実相探求と、

知恵と愛の行動、向上への願い、助け合いの実践等が

要るのです。

それらは自己に具有している本体でありますが、

その本体である“神”を自由意思で実現することが

尊いのであります。

「この現象というものは心の現われであって本当にあるものではなく、

本当にあるものは見えない“神の国”である。

つまり実相である。」

藤原敏之先生の説いたこの自覚があれば、

現象にどんなつらいことがあっても

乗り切ることができます。

精神論ではなく、

実際にそうなります。

この現象世界で実相を生きることを可能とするべく、

谷口雅春先生は真理宣布の一生を貫きました。

雅春先生のご遺志を継ぐ者は

そのことをすべきなのです。


“科学的祈り”による神癒の原理は、時の流れを通じて廃ることなく今日にも厳存していて、19世紀に於いてそれが再発見せられて今日に至っている。

2020-01-06 10:53:39 | 日記

イエスの祈りは

“内に宿り給う神の大生命の許に往く”

という方法であった。

アディントンはこのイエス自身の祈り方が

クリスチャン・サイエンスが行なっているまさにそのやり方であると、

言っているのである。

イエスの祈り方は

その原理はずっと伝わってきていたので、

19世紀にクリスチャン・サイエンスの人たちによって

再発見されて

再び陽の目を見たということである。

神想観もこのイエスの祈り方を

“採用している”のである。

それは雅春先生ご自身が

『神癒への道』でこう書いておられるので

確かである。

【この立場に於ける思想は今日メタフィジカル・ムーヴメントの人達によって、指示せられているのであります。生長の家の哲学も此の新しき科学と調和する哲学を採用して出発しているのであります。】(谷口雅春)

“採用”というのは、

仏教の哲学等も入っているからなのですが、

“実相を観じる”という基本の方法は、

ホルムス等のクリスチャン・サイエンスから

ヒントを受けられたのでした。

『心と運命』というホルムスの原著が

雅春先生の直接感銘を受けたご本でした。

生長の家の万教帰一という思想は

キリスト教の思想でありかつ、

仏教の思想でもあるというのが

投稿者の考えです。

というのは釈迦もキリストも

同一のことを説いているからです。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【どのようにしてイエスは人を癒したのであるか? 彼は科学的な祈りを用いた。彼は患者の悩んでいる症状から心を一転して“父の御許に往った”のである―即ち“内に宿り給う神の大生命の許に往った”のである。われわれも亦、イエスが使ったところの力を用いることが出来るか? 出来るのである。今日われわれは奇蹟が行なわれる方法であるところの“科学的祈り”を理解して、それを利用することが出来るのである。あらゆる迷信を投げ棄て、誤った信仰や偏見をかなぐり棄て、心の扉をひらいてイエスの教えを素直に受け入れる心境になった人ならば誰でも神癒の力の通路となることができるのである。“科学的祈り”によるところの神癒―その原理は、時の流れを通じて廃ることなく今日にも厳存していて、19世紀に於いてそれが再発見せられて今日に至っているのである。】

【神癒というものは何も、ある宗教宗派や信仰のグループにのみ独占せられているものではないのである。奇蹟的な神癒は今日では、多くの献身的な信仰者の祈りの業を通じて日毎に発生しているのである。】

実相を祈ることは

宗派や教団に関係なく

できることなのである。

私はこのブログで祈り方の方法を記して来たので

その通りにご自分で“実相を観じる祈り”をして頂けたら、

それで神様に祈ることが可能だと思っている。

そのつもりで

投稿しております。

 


イエスの垂訓「人間はつとめて怠らず祈らなければならない」の如く「間断なく祈る」ということが、 “実相顕現”のための吾らの今後の根本課題である。

2020-01-06 10:09:58 | 日記

人間は“神の子”であるから

常に絶え間なく“科学的祈り”を続ける必要が

あるのである。

間断なく“科学的祈り”(神想観)を続けることが

どんなに素晴らしい現象を現わすことになるかは、

アディントンはこの『奇蹟の時は今』の中にも書かれてるが、

氏の他の著書には

祈りについてのみ書かれているものがたくさんある。

エメット・フォックスの著書も

祈りの素晴らしさについて書いたものが中心だ。

実を言うと

実相が顕われるのは

祈りの追求によるのである。

すべて実相が顕われるのは

祈りの深まりによるのであり、

「間断なく祈る」ということが、

吾ら信仰者の“実相顕現”のための根本課題であるのだ。

(参考 奇蹟の時は今 アディントン著・谷口雅春訳 日本教文社)

【一般に“祈り”というものが考えられている通念によると、それは唯、危急に臨んで神の助けを得るためにのみ用いられるものであるとか、それは、ある特定の時に於いて、教会とか、或いはその他の神聖な場所に於いてのみ執り行われる一種の儀式であると考えられているのである。しかしながら、あなたはパウロの誡告(いましめ)に随って、またイエスの垂訓であるところの「人間はつとめて怠らず祈らなければならない」という教えに従って、常に絶え間なく“科学的祈り”をつづけることができるのである。わたし達は“科学的祈り”というものについて益々理解を深めて行くに従って、それが一時的な危急の時の助けを得るところの一方法であったり、日々、祈りの儀礼を行なうことによってわれわれが心の平和を得るだけのものではなく、日常われらが人生の行路を歩むときの一そう価値ある指針を提供してくれるものであることが解ってくるのである。】