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あなたが悪しき習慣を棄てる場合、先ず第一に、あなたは“神の愛に陶酔する”ところの“神を信仰する情熱”によって心を奪われるのである。

2020-06-18 10:12:37 | 日記

われわれが悪しき習慣を、病を、罪を棄てようとするとき、
私たちは“神を信仰する情熱”によって
心を奪われるのである。
それ(実相の自覚)には「神の子と神の国」の素晴らしさに
心を奪われるということが
先行するのである。
私が30代後半に通った谷中全生庵の座禅会で
中川宗渕老師が詠んだ一休の歌を思い出すのである。
「本来の面目坊のあで姿
一目見てより恋し初めしか」
吾々も実相の素晴らしさに心奪われる時が、
真理キリストの顕れるときであるのだ。
(信仰の科学 谷口雅春・F.ホルムス共著)
【あなたが悪しき習慣を棄てる場合、何か他に“あなたの心を奪うもの”が必要なのである。先ず第一に、あなたは“神の愛に陶酔する”ところの“神を信仰する情熱”によって心を奪われるのである。信仰的情熱enthusiasmという言葉はin(
の中に)とgod(神)という意味である二つのギリシャ語から語源を発しているのである。本来その言葉は、食事を摂り、崇拝の酒を飲み乾したる信仰の帰依者が、実際に指導霊なる神を己が肉の宮に入れ、その神に憑かれた、という意味なのであった。彼は事実“指導霊なる神に呑まれた”のであった。これが完全に生命を満たし、そして魂を高めたところの神授の陶酔なのであった。“神の霊に満たされし”者は低き欲望とか卑劣なる欲望を全く抱くことがないのである。これが“最後の晩餐”または“ミサ”の本来の意義なのである。キリストの肉体に関わる象徴的儀式によって、人間はキリストとなるのである。】


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