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「時間の否定」と「空間の否定」という乗物に乗ることによってのみ、超時空の実相の世界に入ることができるのである。

2020-06-15 10:07:47 | 日記

「入竜宮不可思議境涯」というのは、
実相世界に超入した人の境涯である。
これは「時間の否定」と「空間の否定」という乗物に乗ることによってのみ、
可能となるのである。
これは祈りのことであるが、
“科学的祈り”も坐禅もこれを最後には目指すが、
神想観もこれを目的としており、
神想観は
時間・空間を超えて彼岸に渡る乗物の
最高の方法である。
「神様に対して“神の子”であることを
絶対他力の無条件無我全托する」ことで
可能である。
神の許にいる“神の子”だからが完全なることを委ね、
あとはサラリと放すのである。
(如意自在の生活365章 谷口雅春)
<入竜宮不可思議境涯のこと>
【“年寄らぬ”のは時間を超越している世界であるから、時間がないから年寄らぬのである。それは現象の尺度で“量”(はか)ることができ“ない”から“無量寿の世界”というのである。「即得往生」というのは“即座”にこのまま極楽浄土に“往(ゆ)”いて“生”まれていることである。“即座”であるから“死んでからでない”、従って時間の否定であり、“今このままで”である。“今このままで”極楽に往くというのは、「往かずして往く」である。『維摩経』にあるところの「不来の相にして来たる」であり、「去来なくして去来する」のであり、「場所の否定」であり、「空間の否定」である。「時間の否定」と「空間の否定」という乗物に乗ることによってのみ、超時空の実相の世界に入ることができるのである。
「無目堅間の小船」というのは、「目無し」とは「時間の目盛り無し」ということ、「堅間」とか堅く空間が詰まりて、無空間であること、その無時間・無空間の極微の絶対無の一点が「小船」という語で象徴せられているのである。すなわち“無時間無空間の絶対無”(相対の無に非ず)の関門を超えてわたしたちは竜宮に入るのである。これが入竜宮不可思議境涯である。】


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