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イエスの十字架の意味

2014-11-17 14:24:06 | 日記
イエス・キリストが十字架にかけられたということは、
何を意味しているのでありましょうか。
それは肉体の抹殺、
つまり「肉体なし」ということで
あったのです。


(参考 生命の実相第39巻 谷口雅春著)
第4章 仏教とキリスト教とはかくして融合す
(六)
イエスが臨(きた)り給うた目的は、結局、「人間は神の子」であって本来円満完全である。その円満完全さが、「罪あり」「老衰あり」「死あり」との観念で覆われている。その観念を取り去るためには、罪と病と死との根源である肉体を抹殺することが必要でありました。
この抹殺によってのみ、人間は生老病死の四苦を滅尽して永遠の生命(いのち)に入ることができるのであります。そこにイエスは自己の肉体を十字架につけてのち、復活したのであります。われわれも肉体を十字架につけたときに神の国に復活する。われわれはイエスの肉にたとえたるパンを食い、イエスの血にたとえたる葡萄酒を飲むとき、われらの肉体はイエスと共同の肉体と血となるのであります。そして上スの十字架(肉体の抹殺)と結ばれるとき、この肉体をもちながら、肉体がなくなり、病むことなく死することなき自由自在な霊的生命に復活することができるのであります。

草木瓦礫、風雨水火をして成仏させる

2014-11-17 14:03:34 | 日記
道元禅師の正法眼蔵は、
自分が成仏するときは、
同時に一切合財のものが
同時に成仏する、
と書いている。
実相においては自他一体だから
そういうことが言えるのだと思うが、
自分の実相が顕われるときには、
環境世界が
自然と
素晴らしいものになってしまうということは、
すごいことなんだなあと
思うのである。


(参考 正法眼蔵を読む 発無上心の巻 谷口清超著)
1<我と大地と同時成道す>
実相においては、ことごとくが仏であり、そこに差別や相違はいささかもあり得ない。従って発菩提心も釈尊と同時の発菩提心であり、修行も、菩提も、涅槃も、夫々が釈尊と同時である。仏道においては、身心はこれ草木瓦礫と一つであり、風雨水火とも一体である。これらをして成仏せしむる(仏なりと観ずる)、これが即ち発心である。虚空を捉えて造塔し、又造仏する。渓水を掬い取って造仏造塔する。これが阿のく多羅三みゃく三菩提(発無上正等正覚)である。発菩提心を百千万発やるのである。修証もまたかくの如く、百千万回やるのである。