gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

毎日いろんなことが押し寄せる

2014-11-06 20:31:17 | 日記
毎日
いろんなことがある。
知人のこととか、
生徒のこととか
いろいろだ。
よくもまあ、
こうした中にいて
自分をちゃんと
保っているなあと
思う。
でもこれが
人生というものなんだとも
思う。
人間としてこの世に生を受け、
人生を生きるってことは、
ある意味、
大変なことなんだと
私は感じる。
毎日のように
いろんなことが
押し寄せてくるのだが、
それらをさばくのは、
神想観がたよりだ。
この方法を使うから、
毎日起こってくる出来事を
うまくさばき、良い方向へと
ハンドルを向けることができる。
神想観がないと、
次々に起こってくる出来ごとに
つぶされてしまうかも
知れない。
祈りだけが
頼りである。

実相心は不動心

2014-11-06 16:45:57 | 日記
神想観で
私たちが悟ろうと欲する実相とは、
不動心である。
参考になるかもと思い、
転載する。



(参考 正法眼蔵を読む 発無上心の巻 谷口清超著)
1<心々は木石の如し>(その1)
 釈迦牟尼世尊は、『涅槃経』によると、
「雪山(ヒマラヤ山)を大涅槃に喩う」
と言われたのであった。この喩えはまことに適切である。まさに喩うべき喩えだというのは、雪山を端的に捉えておられるからである。釈尊がヒマラヤ山を比喩としてかく提起されたのは、その雪山らしい偉大な崇高さを悟りの境地にたとえられたからである。
 中国の初祖、達磨太子は、「心々は木石の如し」と言われた。ここに言う心とは如なる心、本来心のことで、それは自他の本心と言ってもよい。それら凡ての人々、及び尽十方世界の仏祖、さらに天竜などの霊界の心全て(心々)は、たとえていうと「木石」である。つまりその心が物質として現れるのであるが、一方又木石の如く不動である。これ以外の心がどこかにあるのではない。この木石心は、従って有無空色等の境界に拘束されることがなくそこに閉じ込められるものでもない。何故なら心が主人公だからである。この木石心、即ち主人公の心をもって発心し修証する。心が木であり、心が石であるから、この石は境界に左右されることなく変動しないのである。この木石心の力をもって、実相(而今)の不思量底を思量し、実相を現成するのである。この木石心(実相心)の風声を見聞することによって、はじめて外道とは異なる本来の仏道を聴聞し、俗界を超越する。即ちこの木石心以外に仏道はありえない訳である。