イエス・キリストが十字架にかけられたということは、
何を意味しているのでありましょうか。
それは肉体の抹殺、
つまり「肉体なし」ということで
あったのです。
(参考 生命の実相第39巻 谷口雅春著)
第4章 仏教とキリスト教とはかくして融合す
(六)
イエスが臨(きた)り給うた目的は、結局、「人間は神の子」であって本来円満完全である。その円満完全さが、「罪あり」「老衰あり」「死あり」との観念で覆われている。その観念を取り去るためには、罪と病と死との根源である肉体を抹殺することが必要でありました。
この抹殺によってのみ、人間は生老病死の四苦を滅尽して永遠の生命(いのち)に入ることができるのであります。そこにイエスは自己の肉体を十字架につけてのち、復活したのであります。われわれも肉体を十字架につけたときに神の国に復活する。われわれはイエスの肉にたとえたるパンを食い、イエスの血にたとえたる葡萄酒を飲むとき、われらの肉体はイエスと共同の肉体と血となるのであります。そして上スの十字架(肉体の抹殺)と結ばれるとき、この肉体をもちながら、肉体がなくなり、病むことなく死することなき自由自在な霊的生命に復活することができるのであります。
何を意味しているのでありましょうか。
それは肉体の抹殺、
つまり「肉体なし」ということで
あったのです。
(参考 生命の実相第39巻 谷口雅春著)
第4章 仏教とキリスト教とはかくして融合す
(六)
イエスが臨(きた)り給うた目的は、結局、「人間は神の子」であって本来円満完全である。その円満完全さが、「罪あり」「老衰あり」「死あり」との観念で覆われている。その観念を取り去るためには、罪と病と死との根源である肉体を抹殺することが必要でありました。
この抹殺によってのみ、人間は生老病死の四苦を滅尽して永遠の生命(いのち)に入ることができるのであります。そこにイエスは自己の肉体を十字架につけてのち、復活したのであります。われわれも肉体を十字架につけたときに神の国に復活する。われわれはイエスの肉にたとえたるパンを食い、イエスの血にたとえたる葡萄酒を飲むとき、われらの肉体はイエスと共同の肉体と血となるのであります。そして上スの十字架(肉体の抹殺)と結ばれるとき、この肉体をもちながら、肉体がなくなり、病むことなく死することなき自由自在な霊的生命に復活することができるのであります。
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