今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

理化学研究所設立(2-1)

2014-06-19 | 歴史
理化学研究所設立(2-2)
理化学研究所設立(参考)


何時もブログを書くのに参考にさせてもらっている「今日は何の日~毎日が記念日~」の6月19日のところに、
「1917(大正6)年のこの日、理化学研究所(理研。※1)が、東京都文京区本駒込に設立された。
1958(昭和33)年に「理化学研究所法」(※2)にもとづく特殊法人になり、1957(昭和32)年から1966(昭和41)年の10年間かけて、現在の埼玉県和光市に移転した。」・・・とあった。

現在、ノーベル化学賞を受賞(2001年)した野依良治が理事長を務めるなど、多数の科学者を擁し、物理学化学工学生物学医科学など基礎研究から応用研究まで広い分野での研究を行ってきた日本有数の巨大研究機関である理化学研究所は、3年後の2017年には創立100年を迎える古い歴史をもつ日本を代表する研究機関の一つである。
創設以来、鈴木梅太郎寺田寅彦中谷宇吉郎長岡半太郎嵯峨根遼吉池田菊苗本多光太郎湯川秀樹朝永振一郎仁科芳雄菊池正士など多くの優秀な科学者を輩出してきた理化学研究所は、国際的にも高い業績と知名度を持ち、日本国外では、“RIKEN”の名称で知られている。
日本国内には和光市以外に、仙台市、つくば市、名古屋市、神戸市など全国に8つの主要拠点を持ち職員の数は3502人を数える(平成26年4月1日現在)。
あらゆる分野の研究をしている理研であるが、我が地元神戸では、現代の科学技術の発展にとって不可欠なツールとして文部省のイニシアティブにより開発主体の理研を中心にしたプロジェクトにより開発された「スーパーコンピュータ(京)」が供用を開始している(※1:理研の計算科学研究機構(AiCS)参照)。
兵庫県佐用町播磨科学公園都市内には世界最高の性能を誇る大型放射光施設「SPring-8(スプリングエイト)」を擁している(※1の放射光科学総合研究センター参照)。
この理研、日本だけでなく、海外の4ヵ所の施設(アメリカ、イギリス、シンガポール、北京)にも職員が665人いる。
そんな日本を代表する巨大な機構である理研が、小保方晴子ユニットリーダー(あるユニット[編成単位]のリーダー)の「研究不正」問題で揺れに揺れている。
理研などが、マウスを使っての実験により、外からの刺激で体細胞を初期化することにより、どんな細胞にでもなれるまったく新しい「万能細胞」の作製に成功した・・・と発表したのは、今からまだ、約5ヶ月ほど前の今年(2014年)1月28日のことであった(※1理研Hの2014年1月29日60秒でわかるプレスリリース参照)。
この新しい細胞を発見した理研の発生・再生科学総合研究センター(CDB。神戸研究所。※1のここ参照)の小保方晴子ユニットリーダーらは、この新たな万能細胞にSTAP(スタップ)細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)と名付けた。
いったん役割が定まった体の細胞を外からの簡単な刺激(酸による刺激らしい)だけで万能細胞に変わることはありえないとされていた。そんな生命科学の常識を覆す画期的なこの成果が、翌29日、英科学誌ネイチャー電子版のトッ プ記事として掲載された。

上掲の画像は、2014年1月29日、STAP細胞について説明する理研 発生・再生科学総合研究センター(神戸市)の小保方晴子研究ユニットリーダー。

しかし、ネイチャーに発表したSTAP細胞の論文が外部から不自然との指摘を受けて後、3月10日には小保方氏らとのSTAP細胞の共同研究者である若山照彦・山梨大教授が論文に問題があるとして論文撤回を呼びかけたことから、小保方氏らによるSTAP細胞論文に改ざん捏造(ねつぞう)疑惑があるといった問題が浮上し、日本中に激震が走った。
それに対して小保方氏は「論文に誤りがあることは認めるが、STAP細胞はある。200回以上作成に成功した」として、論文を撤回する意思のないことを記者団に表明。その後ほとんどの論文の共著者が撤回に同意するも、小保方氏は論文撤回に同意せず理研側と対立していた。
世間の一番の関心事は、論文の捏造問題などより、「STAP細胞が本当にあるのかないのか」・・ということであった。
しかし、結局、6月3日、小保方氏が論文撤回勧告に同意したため、STAP細胞の研究成果はその根拠を失い白紙となった。
そして、STAP細胞が存在するかどうかについては、ゼロから検証するために理研が再現実験をすることになった。

上記に掲載の画像は、STAP細胞を巡る経緯と主な論文著者の発言(6月5日付朝日新聞朝刊より)
論文問題で、6人の外部有識者で作る理化学研究所改革委員会(委員長・岸輝雄[※3]東京大名誉教授)は6月12日、「研究不正に至った経緯と背景を分析し、再発防止策を盛り込んだ提言をまとめ公表した。
そして「小保方晴子ユニットリーダーが所属する発生・再生科学総合研究センター(CDB。神戸市)を “構造的な欠陥がある”として早急に解体することを求めた」との報道があった。
提言書は組織内部に問題の背景があったとし、小保方氏の採用では、通常実施する英語による公開・非公開のセミナーをせず、推薦状もない状態だったのに内定を決めるなど「にわかには信じがたい杜撰さ」と批判。
IPS細胞を凌駕する画期的な成果を獲得したいというCDBの強い動機が、成果主義の負の側面として問題化したと認定。又、論文作成に関わった笹井芳樹副センター長については、「研究の秘密保持を重視するあまり、外部からの批判や評価が遮断された閉鎖的な状況を作り出した」・・・とした。
そして、2000(平成12)年の発足以来センター長を務める竹市雅俊ら幹部の責任は重大だと指摘。人事異動などでは構造的な欠陥を取り除くのは難しく「早急にCDBを解体すべきだ」として、竹市・笹井両氏を後退させ人事を一新するよう求めた。
また、理化学研究所本体についても、「事実の解明に対する積極性を欠き、問題をわい小化しようとしている」などと厳しく批判。 そして新たに見つかった疑義についても十分な調査を行うよう要請するとともに、その上で京都大学IPS細胞研究所との協力関係を構築するなどして研究体制を作り直すことを提案した。
一方、STAP細胞の存在を調べる為に理研が実施している再現実験について「いまのやりかたでは小保方氏が作成に成功していたのかが明らかにできない」などと問題視。専門家の監視のもと、小保方氏が加わって実施すべきだとした。

「理研改革委の提言骨子」は以下のようなもの。ここでは6月13日朝日新聞朝刊記事を引用したが、詳しい提言内容は以下参考の※4を参照されるとよい。
その、2週間後6月12日には、またも、STAP細胞論文の共著者の一人若山照彦教授が、記者会見し、小保方氏の「STAP細胞」から作られた細胞を調べた結果、細胞の元になったマウスと遺伝情報が一致しなかったと明らかにした。ただ、「絶対にないと言い切ることはできない」としているが、これで、「STAP細胞」があるという証拠はなくなり、存在を否定する結果が次々出ている以上、小保方氏の作製に成功したという「STAP細胞」は他の種類の万能細胞であった疑いが更に強まったことになる。
さて、この問題の中心人物である小保方氏は引き籠もったまま出て来ないが、これに対してどう説明するつもりなのか。
ただ、小保方氏らが作ったとするSTAP細胞がES細胞などから作ったとは見られない面もあると言われており、まだまだ判らない点は多い。
小保方氏にとっては、もう、専門家の監視のもと「STAP細胞」を再現して見せるか、作ったということがもし虚偽であったのなら、すべての真実を明らかにするしかないだろう。
今回の問題が起こった本当の理由はなんだったのだろうか・・・。誰もが感じている原因は、「何となくこんなことだろう」と思うことがYAHOO!知恵袋(※5参照)に書かれていた。真実か否かは知らないが凡そはそのようなことだろうとは私も思っている。
ただ、神戸の発生・再生科学総合研究センター(CDB)は阪神・淡路大震災(1995年=平成7年1月17日発生)後に、神戸復興のために神戸市が医療産業都市のポートアイランドに誕生させものた。現在世界で初めてIPS細胞を患者に使う臨床研究などのプロジェクトも進んでいる(※6のここ他※7参照)。
若し、このCDBを解体するとなると、神戸医療都市(※8参照)の柱が失われ、産業集積効果は損なわれる(※6のここ参照)。
小保方氏のような人が一人ここから出たからと言って、若い優秀な研究者を育てるためにも、組織を潰してしまうようなことがないことを願っている。
この論文改ざん問題が発生した時の理研の対応には異常さが見られたが、そこには、YAHOO!知恵袋(※5参照)にも書かれているように国からの予算の獲保の問題があったと考えられている。理研の平成26年度予算は834億円で、約人口20万人の自治体に匹敵する(例:熊谷市人口202千人で、一般+特別会計予算合計は約900億円。熊谷市HP参照)。理研の場合、その予算の9割以上が税金から捻出されている。これはすごく恵まれた条件にあることは間違いない。
昔と言っても、2009(平成21)年11月、理研の「次世代スパコン事業」(京)が行政刷新会議事業仕分けの対象事業として取り上げられ、民主党蓮舫議員から「2位じゃダメなんですか」の指摘で大論議となったことはマスコミで面白おかしく報道されたので、国民の誰もが知っている通りであるが、結果的には「限りなく見送りに近い縮減」となった。その後の大臣折衝などを経て、要求額よりかなり減額されたうえ予算がつき、理研により神戸ポートアイランドに整備された(※9参照)。
更に理研そのものに関しても2019(平成22)年4月の事業仕分け第2弾の「独法(独立行政法人通則法による法人)仕分け」でも取り上げられ「研究実施体制のあり方について抜本的見直し」が指摘されていた。そのようなことから国からの莫大な予算確保のためには それなりの成果を挙げなくてはならない・・・との意識が過剰になったのではないかと思われる。

上掲の画像は、「京」が設置された理化学研究所計算科学研究機構(神戸市)

安倍晋三政権が、政府予算の面で優遇する「 特定国立研究開発法人」(仮称※10参照) の導入が昨年12月に閣議決定している。
「特定国立研究開発法人」に指定されると、国から巨額の予算がつき、国際的に優秀な「スター研究者」を億単位の報酬で招けるなど、資金を自由に使えるようになり、その分自由な研究もやりやすくなる。
従って、これに指定されたいが為に、理研がよく調べもせずに小保方氏に論文を発表させ、成果をアピールして「特定国立研究開発法人」になろうという魂胆があったとしか思えない。
発表後、すぐに論文の疑惑問題が発生したが、今度は、慌てて、ノーべ―賞級の世界的偉業と言われた新しい「STAP細胞」が本当に発見されていたのか否かの検証を行うこともなく、その障害となる「小保方ユニットリーダーだけが論文を捏造、改ざんした」と一方的にしかも拙速に決めつけ、露骨な「トカゲの尻尾切り」をしてでも、その場を切り抜けようとしたドタバタ劇であったように思われる。
結局この不祥事から、当初は「産業技術総合研究所」と一緒に決定する予定だった理研の「特定国立研究開発法人」決定を政府は見送ることにしたが、こうなってしまったのは理研の自業自得である。この問題で小保方氏の責任は非常に大きいが、彼女も理研に所属する以上理研の方針に従い踊らされてしまった人物ではないかと私は思っているのだが・・・。
この論文が発表された当初、NHKを始めとする日本の大手マスコミは、こぞって「日本の女子力はたいしたものだ」「世界に誇れる日本の女子力」「リケジョ」など苛烈なまでの賛辞を送ったものだ。そして、小保方氏のような「リケジョ」になりたいと張り切っていた若い女性も多くいたが、その人たちの夢を破ってしまった。ただ最近、民間会社でも阿部政権でも「若い女子」の活用とかいって人気取りしている節があるが、何かブームに便乗するような形で「若い女子」だけを特別扱いして騒ぐのはどうだろう?。
男女平等の世の中、力のある人は男でも女でも公平に扱えばよいだけのことである。もしそれが出来ていないところがあればそのような企業や団体を指導すればよいだけのことではないか・・・。。

ところで、このSTAP細胞の論文問題で世界中から注目を浴びることになった理化学研究所(理研)って、この問題が発生するまで「どんな組織で何をしているところ・・?」と聞かれても、よく知らない人が多くいたのではないだろうか。
我が家の女房殿も「理研って、“ふえるわかめちゃん”や“わかめスープ”など(ここ参照)を作っているところ・・・」と言ったことぐらいしか知らなかった。
そこで、今日は今話題になっている、理研のことをこのブログで取り上げた。
理化学研究所は、明治維新(1868年)からほぼ50年後、日本の科学技術近代化の黎明期に当たる1917(大正6)年、日本における資本主義の父とも呼ばれる大実業家、渋沢栄一の呼びかけで創設された伝統ある研究組織であるが、其の理研の設立された当時の状況を見てみよう。
日清(1894年~1895年)・日露(1904年~1905年)の両戦争の中で進んできた日本的産業革命は1908・9年(明治41・42年)頃には確立され不況の中で資本の集積が進みつつあった。
こうしたなか、日本の科学の状況は、まだ西洋の模倣が主であったと言ってよい。創造的な研究成果もあがり始めてはいたが、主に欧米に出向いての仕事であり、国内での創造的科学研究を可能にする基礎づくりが強く求められていた。
1908(明治41)年~1909(明治42)年頃の創造的成果につながりのありそうな出来事を蔵書の『朝日クロニクル 週刊20世紀紀』1908-9年号を参考に書けば以下のようなものである。
1908年
4月、癌研究会発会式(会長青山胤道男爵..。評議員に山極勝三郎がいる。※11参照)。
6月、陸軍、臨時脚気病調査会を設置し7月4日発足式(初代会長:森林太郎[=森鴎外]。委員に鈴木梅太郎も在籍)。
6月細菌学者ロベルト・コッホ夫妻が北里 柴三郎に招かれて来日。
7月、池田菊苗が、グルタミン酸塩を主成分とする調味料製造法の特許を取得。
9月小川正孝が新元素「ニッポニューム」(Nipponium: Np。「原子量が約100の43番目の元素」)発表(ただし、原子番号75のレニウムの誤認。※12参照).
この他、この年長岡半太郎が、ゼーマン効果の実験研究開始(※13参照)。又、中村清二が、『帝国理学研究所設立の必要』を『時事新報』に書く(※14の参考文献のところ参照)。
1909年
3月、木下季吉(在英)が、α粒子写真作用発見(※15参照)。
4月、秦佐八郎が留学先のドイツで、パウル・エールリヒとともに、梅毒の特効薬サルバルサンを発見。第27回ドイツ内科学会で発表。
同4月、高峰譲吉(在米)、タカジアスターゼの日本での特許取得。
5月鈴木三郎助うま味調味料味の素」を工場生産して、売り出しを開始した。

恐るべき伝染病の原因が特定の病原微生物(細菌)によって起こることが明らかになったのは1870年代からで、予防法、治療法も次々開発された。
開拓者はドイツのコッホエールリッヒ、フランスのパスツールらであった。
彼らのもとへ19世紀末から北里柴三郎志賀潔秦佐八郎ら、日本の青年医学者たちが留学し、北里は、留学先のコッホのもとでベーリングと共同で破傷風の純粋培養に成功(1889年)し、翌年破傷風血清療法を開発し、帰国後は、香港でペスト菌を発見(1894年)した。そして、帰国してすぐ、日本に伝染病研究をする必要があることを訴えた。直ちに私財を投じて応えたのは、福沢諭吉であった。
北里は私立伝染病研究所(現:東京大学医科学研究所)の初代所長となり、所員らと共に華々しい成果を上げる。後に同研究所の東京大学への移管が通告されたとき辞職し、北里研究所を作った。
北里と同じく私立伝染病研究所に勤めた志賀は、1897(明治30) 年に、ここで赤痢菌を発見した。

理化学研究所設立(2-2)

理化学研究所設立(参考)

(冒頭の画像は大正期の理化学研究所、画像はWikipediaより)

理化学研究所設立(2-2)

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理化学研究所設立(参考)

 

上掲の画像向かって左:北里柴三郎明治43年撮影。右:晩年の志賀潔と孫の岡明(立っている人。ここ参照)と研究室でのもの。(朝日クロニクル 週刊20世紀紀掲載のもの借用)画像クリックで拡大

志賀は、その後ドイツのエールリッヒのもとに留学し、1904(明治37)年に化学療法剤トリバンロートを共同で開発。秦も同伝染病研究所に勤め、ここからエールリッヒのもとに留学して、1909(明治42)年サルバルサンの発見を助けた。このように、留学した年若い医学者たちが多くの成果をあげて世界中から感謝、称賛された。
この頃。日本では脚気病も軍部で特に問題になっていた。
ドイツのフィッシャーにタンパク質科学(タンパク質の化学的特性質を研究する学問分野)を学んで帰国した鈴木梅太郎は、栄養障害説をとり、1910(明治43年)年米ぬかの中にある脚気に効く成分(ビタミンB1)を抽出し、「オリザニン」と命名する(日本の脚気史参照)。当時脚気の原因については、伝染病説、中毒説、栄養障害説が対立していた。
がん(癌)も問題であった、細胞 病理学説を唱えるドイツのウイルヒョーに学んで帰国した山極勝三郎は師の説に従って、刺激によるがんの発生を考え、イエウサギ(ペット用に品種改良されたウサギ)の耳の内側に毎日コールタールを塗布し、1915(大正4)年、がんの実験的発生に世界で初めて成功する。
高峰譲吉が早々とタカジアスターゼやアドレナリンの研究(1901年発見)で成果を上げたのは、アメリカにおいてであった。アドレナリンは世界で最初のホルモン抽出、結晶化であった。当時の日本ではそれが行えるだけの条件はなかった。
ただ、池田菊苗の「味の素」の発明は一味違った発明であった。東京大学とドイツのオズワルドのもとで純正化学を学び1901(明治34)年東大教授となった池田が1907(明治40)年、昆布から「うま味」のもとであるグルタミン酸塩を取り出す仕事を始め、鈴木三郎助と組んで工業化に成功した。
ここで見落とせないのは、成功の基礎に物理化学があったことと、池田が取得した特許は「うま味」の素以外にも多数あったことである(彼が生涯において取得した特許は、国内で32件、海外で17件もあるという。※16参照)。
池田と対照的なのが長岡半太郎や木下季吉の研究である。磁気歪の研究(長岡)や原子構造の土星型有核模型(長岡。※13参照.)などは、日本の物証物理学も早くも国際水準に及びつつあったことを示している。ただ、こうした優れた人材は育ちつつあったが、社会的基盤が弱かったということである。

高峰譲吉は1913(大正13)年に築地精養軒にて日本の学術・工業を盛んにするには創造的科学研究を可能にする大研究所が必要だと説き、これが、理化学研究所誕生の契機となった。高峰が必要だと説いた研究所は、1911(明治44)年に創設されたドイツの「カイザー・ヴィルヘルム協会」を模して構想されたものらしい。
これは、1908(明治41)年に中村清二が『時事新報』に書いた、『帝国理学研究所設立の必要』という所論と同様のものであったようだ。
この理研設立の経緯については、以下参考に記載の※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」に非常に詳しく書いてあるので、理研誕生の経緯についてはこれ以降、この記事を参考に書かせてもらう(一部捕捉をしているが)。

この計画は、当時で、およそ2,000万円(現在では約320億円に相当=米価換算)の資金で研究所を設立しようとするものであったが、まず500万円くらいの資金で差し当たり最も急務とする「化学研究所」の設立を企画した。翌1914(大正3)年、実業界の大御所渋沢栄一と池田菊苗、鈴木梅太郎ら化学、応用化学、農芸化学、薬学界の長老が連名で議会に化学研究所設立の請願書を提出した。
この請願は、議会の解散もあって目的を達成することはできなかったらしいが、研究所設立に追い風が吹いた。1914(大正3)年6月に第1次世界大戦が勃発、わが国は西欧からの医薬品や工業原料の輸入が絶たれ、また制限されたりしたことから産業上、多大な障害を来すこととなった。そこで、農商務省は化学研究所設立を農商務大臣(大浦兼武)に建議したが、ただ化学だけでは範囲が狭すぎるため、化学と物理学の両面を包含した「理化学研究所」を設立すべきとの意見が出された。
日本薬学会初代会長長井長義冶金学者の渡辺渡(※18参照)、工学博士・東京工業試験所の所長高松豊吉、物理化学者・東京化学会(日本化学会の前身)の会長桜井錠二、農学博士古在由直が特別委員となって協議し、渋沢栄一、菊池大麓、渋沢の盟友で官僚出身の政治家・実業家中野武営らも加わって新たな草案を練り上げ、設立計画の大要、研究事項などを決めた。これを主な実業家や関係者に送り、賛同を求めることになった。
渋沢、中野らは三井家総領家である北家当主三井八郎右衛門三菱財閥の4代目総帥岩崎小弥太をはじめ、財界・民間から研究所設立に必要な資金の寄付金を募る一方、時の総理大臣大隈重信が内務、大蔵、文部、農商務各省の大臣および学者、実業家を招いて設立発起協議会を開くなど、設立への準備は整い始めた。さらに、政府の補助も認められ、これに基づき、「理化学を研究する公益法人に対し、国庫補助を為す法律案」が可決され、1916年(大正5年)3月6日に公布された。
これを受けて、創立委員長に渋沢栄一、常務委員に桜井錠二、当時の三井財閥総帥団琢磨、中野武営ら7名が就き、研究所の建物・設備については、物理関係は長岡半太郎、大河内正敏、化学関係は池田菊苗、井上仁吉(?後東北帝国大学工科部長から2代目総長になった人?)に委嘱された。そして、委員長らの寄付の勧誘が功を奏し、設立に必要な額200万円を上回る寄付金を集め、「財団法人理化学研究所」が1917(大正6)年3月20日に設立された。
つまり、理研は、政府の補助金、皇室の御下賜金、産業界の寄付金を基に設立されたのである。
ところで、ここでは「理化学研究所が3月20日に設立された」と書いてあるが、冒頭に書いたように、「今日は何の日~毎日が記念日~」では、「6月19日、、この日、理化学研究所が、東京都文京区本駒込に設立された。」・・・とある。
蔵書の『朝日クロニクル 週刊20世紀』には、3月20日「理化学研究所の設立認可」とあるので、法人組織として登記し、スタートした日(設立)は3月20日だと思うのだが、ひょっとしたら理研としての活動を始めた日、営業開始(創業)を設立日と勘違いしたのか?それとも何か他の理由による単純な誤りなのだろうか?・・・・。そのような日付の問題は、この際、ここでは無視して以下話を続ける。

この創立当時の理研の最もユニークなところは、参考※17:「理化学研究所の誕生と軌跡」にも記されているように、今でいうところの新技術の研究開発や、新事業の創出を図ることを目的として、大学などの教育機関・研究機関と民間企業が連携した「産学連携」、それに、政府・地方公共団体などの「官」をも加えた、大規模な「産学官連携」を実現したことにあるのだろう。

理研は、1917(大正6)年、伏見宮貞愛親王殿下を総裁に奉載(1917~1923Sし、副総裁に渋沢と菊池大麓帝国学士院長、元文部大臣)を迎え、初代所長に菊池が就任して活動を開始した。
物理部の研究員として東京帝大の大河内(造兵学)、鯨井恒太郎(電気工学)、化学部は鈴木梅太郎(農芸化学)、田丸節郎、和田猪三郎(純正化学。※19参照)の各教授、東北帝大から真島利行(有機化学)らが選ばれた。しかし、初代所長の菊池が就任5カ月で急逝、その後を継いだ古市公威(土木学界の長老)も1921(大正10)年9月、健康上の理由で辞任し、大河内が第3 代所長に就任したが、この大河内こそが、理研の黄金期を作り上げた人物であった。
当時第1次世界大戦後の戦後不況で、予定していた財界、産業界からの寄付金はなかなか集まらなかった。大河内は、研究成果の実施企業を自ら設立し、財政的に自立する方途を講じようと2つの改革を実行した。
その第1が研究体制の一新、つまり、研究室制度を打ち出した(1922年=大正11年)ことであり、第2が、研究成果の実用化であった。
当時の研究体制は、長岡を部長とする物理学部と池田を部長とする化学部の2つしかなく、しかも、2つの部は激しく対立していたらしい。
そこで、部制を廃止して主任研究員制度を新設し、主任研究員は大学教授との兼任も可能とし、長岡や池田をはじめとする14の主任研究員が研究室をもち、所長の直下に同列に並べられ、敵対していた両部の部長も、一主任研究員となった。
そして、主任研究員に研究テーマ、予算、人事の裁量権を持たせ、研究者の自由な創意を育む環境を作り上げ、すべての主任研究員には、同等の権限を与え、平等にすることを基本に置いたのである。
ところがWikipediaに寄れが、この研究室制度は理化学研究所を活性化したのだが、湯水のごとく研究費が投入され財政難に陥ったという。同年、鈴木梅太郎研究室所属の高橋克己が長岡半太郎や寺田寅彦の助力を得て魚のタラの肝油から世界で初めてビタミンAの分離と抽出に成功し、試作品として売り出したところ、肺結核の特効薬との噂が広まり患者の家族らが殺到する事態となった。
大河内所長はその様子を見てこれを製品化することを決断し、鈴木梅太郎研究室をせきたてて4ヶ月で製品化にこぎつけた。既存の医薬品企業と提携せずに理化学研究所の自主生産で「理研ヴィタミン」を販売し財政難を乗り切った。1924年(大正13年)には理化学研究所の作業収入の8割をビタミンAが稼ぎ出す結果となったという。
上掲の画像は、ビタミンA製剤「理研ヴィタミン」の雑誌広告(1938年=昭和13年)。こうした商品の収益が「科学者たちの楽園」を支えた。ビタミンAの1カプセルあたりの製造原価は1,2銭だったが、理化学研究所はこれを10銭で直接販売したため利益幅は大きかったというが、そりゃあそうだろう、薬九層倍と云われる世界。製造直販ならもうかってしかたがないだろう。
1927(昭和2)年には、理化学研究所の発明を製品化する事業体として理化学興業を創設し大河内所長が会長に就任。理化学興業と理化学研究所は工作機械、マグネシウム、ゴム、飛行機用部品、合成酒など多数の発明品の生産会社を擁す理研産業団(理研コンツェルン)を形成していった。
最盛期には会社数63、工場数121の大コンツェルンとなったという。そして、1939(昭和14)年の理化学研究所の収入370万5000円のうち、特許料や配当などの形で理研産業団各社が納めた額は303万3000円を占めたという。その年の理研の研究費は231万1000円だったので、理化学研究所は資金潤沢で何の束縛もない「科学者たちの楽園」だったようだ。のちに理研コンツェルンの事業を継承した会社には事務機器、光学機器などの製造を行っているメーカーのリコー理研グループと呼ばれる企業群がある。
1937(昭和12)年にには、仁科芳雄研究室が日本で最初のサイクロトロンを完成させた(1944年には大型のサイクロンも完成)。
1941(昭和16)年には、陸軍の要請を受け、仁科が中心となって原子爆弾開発の極秘研究(ニ号研究)さえ開始していたようである。

上掲の画像は、1950年8湯川秀樹博士(向かって左)と仁科芳雄。「技術的には可能であっても、大規模な施設や技術者養成などで巨額の経費と時間がかかる。…大量生産せざるをえないことなど考えあわせると無駄が多い」-1943年6月原爆について陸軍首脳から問われ、こう書いたメモを渡している。という。『朝日クロニクル 週刊20世紀』1939年号より。

1946(昭和21)年、太平洋戦争終結とともに連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指命により理化学研究所、理研工業(理化学興業の後身)、理研産業団は解体され、仁科研究室のサイクロトロンも海中に投棄された。そして、公職追放された大河内所長に代わって仁科が第4代所長に就任している。
GHQは1947年(昭和22年)12月、過度経済力集中排除法の施行により、理研産業団を財閥とみなし、解体した。
そして、一時は、産業団だけでなく理研本体も解体すべきという意見も出されたが、「日本再建のためには、理研本体は必要不可欠」という仁科の主張に、マッカーサー占領軍司官の科学顧問であったハリー・ケリーらGHQ科学技術課が理解を示したことから、辛うじて理研本体は残り、戦後、株式会社「科学研究所」、特殊法人時代を経て、2003年(平成15年)10月に文部科学省所轄の独立行政法人理化学研究所として再発足したのが現在の理研である。

組織として研究所が存在する意義は、相互作用に他ならない。規模が大きいほど、その知が織りなす「総力」を高める仕組みが求められる。
だが、理研はバブル崩壊後、資金量を膨張させながらも、人材と組織の分散を繰り返してきた。今の理研は設立当時の理研とは違う。
研究不正が起きた原因には、CDBおよび理研本体の「貧弱すぎるガバナンス体制」があるとされている。小保方氏とSTAP論文問題は、理研の組織の片隅で起きた特異な事件ではないように思う。
もう一度、これを機会に、創業精神に立ち返りこれからの理研のあるべき姿を再構築すべきだろう。決して、「理研」が「利権」にだけはならないようにして欲しいものだ。


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参考:
※1:理化学研究所
http://www.riken.jp/
※2:独立行政法人理化学研究所法
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H14/H14HO160.html
※3:岸輝雄 プロフィール - あのひと検索スパイシー
http://spysee.jp/%E5%B2%B8%E8%BC%9D%E9%9B%84/1048949
※4:研究不正再発防止のための提言書 - 理化学研究所(Adobe PDF)
http://www3.riken.jp/stap/j/d7document15.pdf#search='%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E3%81%AE%E6%94%B9%E9%9D%A9%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A+2014%E5%B9%B46%E6%9C%8813%E6%97%A5'
※5:STAP細胞、小保方氏の問題ってなんですか?- YAHOO!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13128469713
※6:高橋 政代 氏 インタビュー『この人に聞く』(1) : Trend ... - 科学技術振興機構
http://www.jst.go.jp/ips-trend/column/interview/10/no01.html
※7:再生医療とIPS細胞の医療情報ニュースサイト「エヌオピ」
http://n-opi.com/news/clinical/
※8:神戸医療産業都市構想 神戸医療産業都市構想とは? - 神戸市
http://www.city.kobe.lg.jp/information/public/online/photo/number21/special_features/
※9:神戸市HPスーパーコンピュータ「京(けい)」
http://www.city.kobe.lg.jp/information/project/supercomputer/
※10:特定国立研究開発法人(仮称)の 対象法人候補について - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/cstp/siryo/haihu118/sankou1.pdf#search='%E7%89%B9%E5%AE%9A%E5%9B%BD%E7%AB%8B%E7%A0%94%E7%A9%B6%E9%96%8B%E7%99%BA%E6%B3%95%E4%BA%BA'
※11:年表 - 癌研究会
http://www.jfcr.or.jp/about/history/timeline.html
※12:小川正孝新元素「ニッポニウム」の発見者
http://www.chart.co.jp/subject/rika/scnet/19/sc19_1.pdf#search='1908+%E5%B9%B4+9%E6%9C%88++%E5%B0%8F%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E5%AD%9D'
※13:原子構造の変遷
http://www.geocities.jp/ikuro_kotaro/koramu/gensi.htm
※14:戦前の日本天文学会
http://www.asj.or.jp/geppou/archive_open/1997/pdf/19970703c.pdf#search='%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%B8%85%E4%BA%8C+%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E7%90%86%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E8%A8%AD%E7%AB%8B%E3%81%AE%E5%BF%85%E8%A6%81%E3%80%8F%E3%82%92%E3%80%8E%E6%99%82%E4%BA%8B%E6%96%B0%E5%A0%B1'
※15:原子(原子核)
http://www15.wind.ne.jp/~Glauben_leben/Buturi/Gensi/Gensibase4.htmhttp://www.ajinomoto.com/jp/aboutus/history/pdf/his00_2.pdf#search='%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%8F%8A%E8%8B%97+%E5%8F%96%E5%BE%97%E3%81%97%E3%81%9F%E7%89%B9%E8%A8%B1+%E3%81%86%E3%81%BE%E5%91%B3%E4%BB%A5%E5%A4%96'
※17:理化学研究所の誕生と軌跡(Adobe PDF)
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/publications/riken88/riken88-1-1-1.pdf#search='%E5%89%B5%E7%AB%8B%E6%99%82%E3%81%AE%E7%90%86%E7%A0%94'
※18:度 辺 渡 の 生涯 と 日 本鉱 業 会*(Adobe PDF)
http://ir.nul.nagoya-u.ac.jp/jspui/bitstream/2237/17244/3/206.pdf#search='%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%B8%A1++%E5%86%B6%E9%87%91%E5%AD%A6%E8%80%85+%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80'
※19:白金よりも高い稀有金属を日本で発見 - 神戸大学 電子図書館:新聞記事文庫
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10071834&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

理化学研究所のまとめ検索結果(89件)-NAVERまとめ
http://matome.naver.jp/search?q=%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80&slot=4&sf=1
小保方晴子・理化学研究所研究ユニットリーダー
http://hashigozakura.wordpress.com/tag/%E5%B0%8F%E4%BF%9D%E6%96%B9%E6%99%B4%E5%AD%90%E3%83%BB%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80%E7%A0%94%E7%A9%B6%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BC/
理化学研究所 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E5%8C%96%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E6%89%80



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