今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

初の3階建て住宅を許可(Ⅰ)

2010-09-14 | 歴史
1867(慶応3)年旧暦9月14日(新暦:10月11日)、人口が増えたため、江戸市街地の家屋で初の3階建て住宅が許可された。
江戸時代にはいかに富裕でも武家以外のものが三階建ての建物を造ることは許されず、慶応3年(1867)に なってはじめて京都、東京でこの禁令が解かれ、以後順次全国で認められるようになった。しかし、1919(大正8年)年に市街地建築物法(大正8年法律第37号。現在の建築基準法の前身)により木造高層住宅が禁止されたので、3階建以上の木造住宅はわずか50年ほどの間しか造られなかった。
1987(昭和62)年の建築基準法の改正で、一定の技術基準に適合する木造3階の戸建て住宅が準防火地域内に建てられるようになった。
3階建ては同じ広さの用地でも、2階建てより広い床面積の家が建てられ、日当たりが良い、眺望もあるなど多くの利点も兼ね備えている。現在の日本の都市部(準防火地域)における木造3階建ての住宅は、住宅の建築確認申請書には構造計算書を添付することが義務付けられている。これに対して、木造2階建て以下の住宅については構造計算書の添付が免除されているなど、法規上木造2階建てとは異なる特別の扱いを受けており、設計や建築工事に高い専門技術が必要とされる。ただし、特例として、2008(平成20)年12月まで、小規模な木造建築物(4号建築物)に限り、提出を免除されている(構造計算をしなくてよいというわけではない)。そのため、小規模な3階建て住宅は耐震面などの面に問題のあるものが少なからずあるとも聞いている。2007(平成19)年6月の建築基準法の改正は、マンションの構造計算書偽造事件の後遺症とも言うべき形で行なわれ、確認申請手続きが厳格化された。阪神・淡路大震災では、鉄骨の溶接不良、木造住宅の耐力壁の不足等が原因と見られる被害が多数発生したことなどから、建築士等の法的責任が強化されることとなったものである。
ところで、江戸時代に、どんなに富裕でも武家以外のものが3階建ての建物を造ることを許されていなかったのは、今のように地震等に対する耐震性の問題からではなく江戸幕府による江戸士民に対する倹約令(奢侈〔贅沢〕の禁止)によるものであった。
倹約令には単に節約の奨励、奢侈の禁止を目的とするものと、幕府の財政緊縮を目的とするものとがあるが、前者は、これによって士農工商の身分秩序を維持し、分限を越えた奢侈を抑えようとするもので、幕初から幕末までほとんど常時発せられた。
寛永(1624年~1643年)ごろの江戸の繁栄を極彩色で描いた六曲一双(6枚の曲=パネルで構成される屏風が2隻〔せき〕で1セットとなっているもの)の屏風『江戸図屏風』(国立歴史民俗博物館所蔵)があり、そこには当時の江戸の状況が克明に描かれている。画像は以下を参照。
国立歴史民族博物館>歴博ギャラリー>江戸図屏風
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/index.html
その左隻1扇を見られると判るが、江戸城内に天守が描かれているが、この天守は1657(明暦3)年の大火で焼失し、その後再建されることはなかったので、寛永期の江戸を象徴する建造物といえる。
初期の江戸において、表通りの角地に住することは有力上層町人であることを意味するが、左隻第3扇下(材木町、江戸下町の河岸〔材木の荷揚げ〕、向井將監屋敷)に描かれている表通り角地の、三階とよばれる城郭風の三階建ての建物は、初期江戸の町並みを表現しているものと見ることができる。この三階櫓は、奢侈禁令の一環として禁じられていたにもかかわらず、建設されたもののようである。冒頭の画像がそうである(もっと大きくは上記の歴博ギャラリー>江戸図屏風を見られると良い。当時、武士の系譜をひく町人も少なくなかったためかもしれない。しかし明暦の大火前後の建築規制で姿を消したので、前期の町並を特色づけたものの一つといえるだろう。
面白いのは、江戸時代の楽屋は3階建てを原則としたが、3階建築は許可されなかったため、実際の3階を「本二階」、2階を「中二階(ちゅうにかい)」と名づけ、表向き2階建てを装っていたという。こういうのを見ると結構、厳格な面とともに応用なところもあったようだな~。
江戸は、徳川家康が、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに勝利して天下人となり、1603(慶長8)年征夷大将軍に就任以後、(1867(慶応3)年旧暦10月14日(11月9日)の大政奉還まで、政治の中心となる幕府を置いていた都市である。
「江戸」という地名は、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』が史料上の初見だそうで、おおよそ平安時代後半に発生した地名であると考えられているようだ。地名の由来は諸説あるが、江は川あるいは入江とすると、戸は入口を意味するから「江の入り口」に由来したと考える説が有力で、当時の江戸は、武蔵国下総国の国境である隅田川の河口の西に位置し、日比谷入江と呼ばれる入江が、後の江戸城の間近に入り込んでいた。当時の江戸は、「ここもかしこも汐入の茅原」で、城下には「茅(かや)ぶきの家百ばかりも有かなし」(石川正西『聞見集』)であったと伝えられているそうだ(以下参考の※1参照)。
1590(天正18)年、後北条氏が小田原の役で豊臣秀吉に滅ぼされると、後北条氏の旧領に封ぜられ、開拓の命を受けた家康は、関東地方の中心となるべき居城を江戸に定め、同年の旧暦8月1日(八朔)、家康は駿府から居を移すが、当時の江戸城は老朽化した粗末な城であったが、家康は江戸城本城の拡張は一定程度に留める代わりに物資搬入のため船入堀(道三堀)の開削を手始めに、城下町の建設を進め、神田山(現在の駿河台。以下参考の※2参照)を削り、日比谷入江を盛んに埋め立てて町を広げ、家臣と町民の家屋敷を配置したそうだ。
関ヶ原の戦いを経て家康は引き続き江戸を武家政権の所在地と定め、1603年3月24日(旧暦2月12日)に江戸幕府を開き、江戸時代が到来する。首都は京都でありながら、幕府の所在する江戸が実質的に日本の行政の中心地となると、諸大名の普請役で、天下の総城下町づくりが始まり、徳川家に服する諸大名の屋敷が設けられ、江戸に居住する大名の家臣・家族や、徳川氏の旗本・御家人などの武士が数多く居住するようになるとともに、彼らの生活を支える商人・職人が流入し、また、参勤交代も慶長年間に始まり、町が急速に拡大すると、江戸の人口は急速に増加した。さらに、1657(明暦3)年の明暦の大火後の再建事業によって市域は隅田川を超え、東の本所・深川へと開発が進み、その人口は絶えず拡大を続け、「大江戸八百八町」といわれる世界有数の大都市へと発展を遂げた。
勿論この「大江戸八百八町」という言葉は、江戸の実際の町数ではなく一種の慣用表現として使われており、年代をおって江戸の町は拡大し、江戸の総町数は延享年間(1744~1748)に1678町となり、実に、八百八町の倍以上になっているそうだ。以下参考の※3:「東京都公文書館・江戸東京を知る」の江戸の範囲~天下の大江戸、八百八町というけれどを参照。又、※4「大江戸絵図」では、幕末の大江戸絵図を細かくマップで見られる。

初の3階建て住宅を許可(Ⅱ)と参考のページへ

初の3階建て住宅を許可(Ⅱ)

2010-09-14 | 歴史
家康の江戸入府(1590)から19 年後の1609(慶長14年)に、江戸を訪問したフィリピン臨時総督ロドリゴ・デ・ビベロは、江戸の人口は15万人と記録している(ロドリゴ・デ・ビベロ『日本見聞記』)そうだが、このころの江戸の人口はまだ、京都には遠く及ばず、伊達氏の城下町仙台と同じくらいだったそ うだ。それが、元禄時代(1688~1704)には人口約80万(同じころロンドン、パリが50万前後)となり、享保(きょうほう)年間(1716~1736)には約130万(1800年代初期のロンドンで約80万)で、面積約70万平方キロメートルの世界一の都市となっていたという( Yahoo!百科事典-火災参照)。ただ、流動が激しく、計算の仕方もまちまちで、実際のところは判明していないようだ。
当時江戸の全体面積の64%は武家地で人口約60万人に対し、 残りの狭い面積で武家以外の町人たちが生活していたそうで、これを、1平方㎞に換算すると約4万人が住んでいたことなるという。(以下参考の※5※参照)。
このような江戸人口の急速な増加と過密巨大都市への成長等は、さまざまな問題を生み出すようになるが、その中でも最大のものが「大火」であった。
江戸で記録された最初の大火は、関が原の戦いを終えた翌年の1601(慶長6)年閏11月2日に起っており、死者数などは不明だが、江戸全市が焼亡したとされている。以来、大政奉還の行なわれた1867(慶応3)年に至る267年間に、江戸では49回もの大火が発生している。江戸以外の大都市では、同じ267年間で京都が9回、大阪が6回、金沢が3回などであり、他都市と比較して江戸の多さが突出しているようだ。この大火の回数等は、「Wikipedia-江戸の火事」を元にしているが、ここでは、回数など魚谷増男の研究による 『江戸の火事』P.3を根拠としているようだが「Yahoo!百科事典-火災」では、江戸の大火を90回以上とするなど、その規模など、何を大火とするかで違ってくるのだろうが、木造家屋の密集した過密な都市構造であったため延焼規模も大きくなり、大きな火災に至ることが多かったことは間違いないだろう。ここで云う大火以外の火事も含めれば267年間で1798回を数えるという。
江戸城天守も消失したという明暦の大火後、幕府は、再建のため江戸の実測を行い、防火対策を伴う都市改造に着手。このときの防火対策は延焼の防止を主目的にしたもので、火除地(空き地)や広小路の設定、道路幅の拡張、防火堤の構築(高さ約7.3メートルで松を植え込んだもの)、建築規制(大名屋敷の瓦葺きや、3階建ての禁止)、武家地、寺社地の郭外転出などの施策が実施されたが、このような当時の防火対策の基本姿勢は、あくまで、江戸城を守ることを第一にした延焼防止にあった。
このため、庶民は逃げるほかに方法がなく、家財をかつぐか荷車に積んで避難をしていたが、消防活動(当時は破壊消防)に支障をきたし、また荷物の山に火がつくなどの理由で、幕府はこれを禁止。そこで庶民は、財産の保護のため、自衛対策として、こぞって穴蔵(床下に穴を掘った簡易な地下倉庫)を設け対応したという。
たび重なる大火は物価、賃金等の高騰を招き、幕府の財政を圧迫するだけでなく、諸藩も江戸詰屋敷の再建などで台所は火の車であった。諸藩の窮状は幕府の存在を脅かすことになるため、幕府としても、町屋を含めた本格的な防火対策をとらざるをえなかった。画期的に対策が進歩したのは、8代将軍徳川吉宗の時代である。その特筆すべき施策としては防火建築の奨励で、特定区域内は土蔵造以外は禁止し、町屋にも、それまで町人には贅沢として禁止されていた土で塗りこめる土蔵造や塗屋造(ぬりやづくり)(道路面の2階外壁のみ土塗漆食壁としたもの)を奨励した。また、これまで禁止されていた屋根の瓦葺(ぶ)きが許可されたが、これが容易であったのは、1674年(延宝2)近江国の西村半兵衛により従来の本瓦よりもずっと軽くて安い桟瓦(さんがわら。江戸では江戸葺瓦〔えどふきかわら〕と呼ばれていた)が発明されたことにもよる(瓦のことは以下参考の※7:屋根ミニ知識「屋根辞典」さ行【さ】参照)。
そのほか、江戸時代中期に入ると、市中の消防活動のために享保の改革によっていろは四十八組の「町火消」が組織された。「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるが、火事の多かった江戸の町家を守り続けたのはこの町火消しであった。しかし、表通りは立派な塗籠の「土蔵造り」や、これを少しお粗末にした瓦葦き・「塗家(や)造り」となっているが、市民の大部分を占める下層職人や日雇い人足の住む裏通り(横町・新道)や裏長屋は火事が起ると直ぐ、燃える木っぱ葦きのバラックでしかなく、それが相変らず大火延焼の原因をつくっていた。しかし、火事がおこれば、その復興のため物価も賃金も上がってまた景気がよくなるといった期待もあり、庶民は火事と喧嘩を「江戸の華」といっそ讃美し、「宵越しの金は持たぬ」という江戸っ子の気風をも生み出したようだ(以下参考に記載の※6:「江戸と火災」参照)。
又、1854(嘉永7)年には東海、四国など太平洋沿岸に地震火災が発生し、翌年には江戸を震源地とする直下型地震(安政大地震を参照)が発生して多くの焼死者・圧死者が生じた。
庶民の3階建て住宅を許可された1867(慶応3)年といえば、大政奉還が行われた年であるが、江戸時代の普通の家屋では、二階建てであっても、二階部分の軒が低く中二階になっており、中二階は物置として利用するためのもので、生活するためには利用していなかったとか。しかし、同年8月4日(慶応3年7月5日) には、築地に外国人居留地が着工され、また、江戸に滞在、あるいは横浜とを往来する外国人のために、宿泊施設を設ける必要から計画された築地ホテル館の建設条件が、イギリス公使の積極的な働きかけにより、大政奉還する3ヶ月前の1867(慶応3)年7月に幕府に提示され、その1ヵ月後に北町奉行所において施工の下命を清水組(現在の清水建設)の二代清水喜助が受け、翌・1868年10月(慶応4年8月)年に完成させている。日本人による初のホテル建設であり、完成した和洋折衷様式の規模は、三階建ての本館(一部4階、塔屋付)と平屋からなるもので東京の新名所としてたちまち評判となり、多くの見物人が訪れたという(以下参考の※8:中央区のまちづくり・築地・明石町界隈参照)。しかし、1872(明治5)年4月3日(明治5年2月26日)兵部省より出火した銀座の大火(銀座煉瓦街参照)により、銀座、築地一帯を焼く大火が起り2926戸が焼失。このとき築地ホテル館も全焼している。しかし、これが、日本の都市不燃化の発端となり、銀座にのれんが街の出現となった。その後、丸の内不燃街の推進も行われたが、一般建物の主流は相変わらずの木造であったため明治の中ごろまでは、東京になってからも数回の大火をみているが、消防機関がしだいに整備、充実されるにつれ、大火というほどのものは非常に少なくなった。これには水道の完成が大きく貢献している。
そして、1919年(大正8)市街地建築物法と都市計画法が同時に制定され、この時に木造3階建て(木造高層住宅)が再び禁止された。さらに1923(大正12)年には特殊建築物耐火構造規則が制定されて、日本も本格的な不燃建設都市へ一歩踏み出したが、不幸にもこの年に関東大震災が発生している。この地震では、日本の歴史上最多となる10万人以上の死者を出し、首都東京を含む広い範囲に被害を与え、火災の被害も大きかった。その後、1995(平成7)年の阪神・淡路大震災は都市部を襲った地震の典型例であり、特に、震源に近い神戸市市街地(特に東灘区・灘区・中央区〔三宮・元町・ポートアイランドなど〕・兵庫区・長田区・須磨区)の被害の様子は、テレビなどマスコミで伝えられ日本のみならず世界中に衝撃を与えた。そして、その後の建築基準法の見直しや防災意識の変化などに大きな影響を与えた。今では、火災よりもこれから何時発生するかも知れない東海地震などの大地震対策の方がより心配されるのであるが、どれだけの対策が講じられているのだろうか・・・・?
(冒頭の画像は、江戸図屏風・左隻第3扇下(材木町、江戸下町の河岸〔材木の荷揚げ〕、向井將監屋敷)に描かれている城郭風の三階建ての建物。国立歴史民族博物館所蔵。同博物館・歴博ギャラリーより借用)

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参考:
※1:付録 *「江戸の人口について」*(PDF)
http://www.toukei.metro.tokyo.jp/jugoki/2002/02qdj210003.pdf#search='江戸の人口'
※2:KANDAアーカイブ:神田資料室
http://www.kandagakkai.org/archives/article.php?id=000131&theme=067&limit=20&start=0&sort=kk
※3:東京都公文書館・江戸東京を知る
http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/07edo_tokyo.htm
※4:大江戸絵図(PDF)
http://onjweb.com/netbakumaz/edomap/edomap.html
※5:東京面白雑学・江戸の人口は世界一!!
http://www.juken-net.com/magajin/maga/35.htm
※6:江戸と火災(北後のページ>研究のページ )
http://www.research.kobe-u.ac.jp/rcuss-usm/hokugo/jishinkasai/nishiyama.html
※7:屋根ドットコム/屋根ミニ知識「屋根辞典」さ行【さ】
http://www.kawarayane.com/gekitan/dictionary/e.htm
※8:中央区のまちづくり・築地・明石町界隈
http://www.tokyochuo.net/meeting/town/edo/edo05_03.html
中野文庫 - 市街地建築物法
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/ht08-37.htm
江戸の火事 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E7%81%AB%E4%BA%8B
Yahoo!百科事典-火災 - 火災と防火の歴史
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%81%AB%E7%81%BD/%E7%81%AB%E7%81%BD%E3%81%A8%E9%98%B2%E7%81%AB%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/