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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「天満天神繁盛亭」開館日

2007-09-15 | 歴史
昨・2006(平成18)年の今日(9月15日)、大阪天満(大阪市北区)に、大阪大空襲後60年間上方落語には無かった常設小屋(定席。以降に出てくる寄席参照)「天満天神繁盛亭」が開館した。(プレオープン(Pre-opening。「pre」=「前もって」)は9月9日、プレ公演は9月10日)
「大阪人が二人寄れば漫才になる」と言われるほどに、大阪の演芸では戦前から漫才が主流となり、上方落語は衰退し、定席もなくなったままであった。
2003(平成15)年に上方落語協会第6代会長に就任した桂三枝は、行く先々の会合で「大阪はどこに行けば落語を聞けるんですか」と尋ねられ、答えに窮し、それが原動力になり、小さくてもいいから、建てて、みようか」・・・と始めたそうだ。用地は大阪天満宮の好意により、無料で提供され、建設費用の1億8,000万円は、住民や企業が託した約1億8000万円の寄付などにより建てられらた上方文化の新しいシンボルである。
寄席」(よせ)と言う言葉を聞くと、「落語」を連想するほどであるが、「寄席」というのは、都市において落語・浪曲・講談・漫才・手品などの技芸を観客に見せるための席亭(興行主)が経営する常設の興行小屋のことであり、かつては落語以外の講談や浪曲や色物など各分野それぞれの寄席が存在していたが、現在では落語寄席が殆どである。落語寄席も経営や後継問題により数は減り、昨年、大阪に「天満天神繁盛亭」開館するまでは、東京の鈴本演芸場新宿末廣亭浅草演芸ホール池袋演芸場の四席のみとされていた。
寄席が落語と切り離せないのは、落語家にとって寄席が修行の場であり芸を磨く唯一無二の舞台とされること、観客も贔屓の演者の成長と演者ごとの演出の違いを楽しむという点にあり、「完成品」を見せるホール落語と違い寄席落語には「未完成」なりの面白さ、真剣さがあるからだという。(新宿末廣亭初代席亭の北村銀太郎の発言らしい)
落語というものが芸として世に出たのは、江戸時代中期と言われているが、上方落語は、京都の初代露の五郎兵衛や大阪の初代米沢彦八が道端に舞台を設け、自作の噺を披露して銭を稼いだ「辻咄」(つじばなし)や「軽口」(かるくち)が落語の起源といわれている。
寛政~文化の時代にかけて盛んになり、「桂一門の祖」初代桂文治など色々な人が出てくるが、とりわけ初代文治は大阪で初めて寄席を開き、また声色鳴物道具入りの芝居話を創始したことで知られる。文治は3代目、4代目と東西に並立するが、上方4代目の弟子である桂文枝は文治を継がず、以来上方桂一門は文枝を止め名とした。その門下の初代桂文之助(のち2代目曽呂利新左衛門)、桂文都(のち月亭文都)、桂文三(のち2代目桂文枝)、初代桂文團治も人気・実力ともに高く、「四天王」と称されていたそうだ。この桂一門と並んで現代の上方落語の主力門派を成す笑福亭一門は天保~安永期には既に成立しており、この両門派に立川、林屋(林家)を加えた4門派が明治期までの上方落語の主流を形成していた。
明治期に入ると、2代目文枝襲名をきっかけに四天王は割れ、2代目文枝らを中心に滋味で噺をじっくりと聞かせる「桂派」と、文都、2代目文團治(のち7代目桂文治)、初代笑福亭福松、3代目笑福亭松鶴らを核とする派手で陽気な「三友派」が鼎立(ていりつ=対立)するようになる。この他諸派がたくさん出来ては消えつつも2代目文團治の7代目文治襲名前後に全盛期を迎えた。この間、大阪では3代目桂文三、初代露の五郎、3代目桂文團治、2代目林家染丸、初代桂枝雀、初代桂ざこばなどの名人上手を輩出.。また東京から初代橘ノ圓、2代目三遊亭圓馬、5代目翁家さん馬らが移住し、寄席を盛り上げていたという。
大阪では明治時代から昭和初期の大阪市内、特にミナミ法善寺周辺には、北側に、浪花三友派の象徴であった「紅梅亭」(後に吉本興業が買収し「西花月亭」)、南側に桂派の象徴であった「南地金沢亭」(同じく吉本の買収後「南地花月」)が存在し、しのぎを削っていた。他にもキタ北新地の「永楽館」(同じく吉本の買収後「北新地花月倶楽部」)はじめ、上本町、堀江、松屋町、新町、大阪天満宮界隈などに十数軒の落語専門定席が存在していた。
そして、大正から昭和初期にかけても初代桂春團治、2代目桂三木助、3代目三遊亭圓馬、2代目立花家花橘、初代桂小春團治(のち舞踊に転じ花柳芳兵衛)らが人気を集めていた。
しかし、1912(明治45)年、天満天神宮の裏門に面した一角にあった二流どころの「第二文芸館」(吉本が買収後「天満花月吉川館」)を吉本吉兵衛・せい夫婦(吉本興業)が借り受け、奇席の経営に乗り出した。明治末期のこの界隈は、毎日が天神祭りのように人通りが盛んで、この界隈だけで、飲食店や土産物屋が立ち並ぶ中に8軒の寄席があり、「天満八軒」と呼ばれていたそうだ。第二文芸館は、その内の一軒であった。当時の寄席は、主流だった落語が中心で、その合間に数組の色物(漫才や物まね、曲芸など)を添えるのが、ごく常識的な番組編成だったが、文芸館はその常識を破り、落語より色物を中心にするという異色の番組編成を行った。これが、今の吉本興業へと発展の出発点となるのであるが、これを皮切りに寄席や諸派を買収。1915(大正 4)年には傘下の端席のほとんどを「花月」と改名し花月派(無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派)を結成。そして、当時、桂派、三友派の二大勢力の争いが三友派の勝利にほぼ確定していた、1918(大正 7)年には、法善寺裏という演芸のメッカにあった超一流の演芸場「金沢亭」を買収。その後も1921(大正10)年に非主流の浪花落語反対派と提携して勢力を伸ばし、後に反対派も吸収。そして翌年、三友派の象徴ともいえる寄席「紅梅亭」を買収して三友派も吸収。上方演芸界全体を掌握する事になる。
そして、吉本が寄席での番組構成を漫才主体にしたことや桂春団治など落語家の専属契約を推し進め、自社の経営する寄席である「花月」のみの出演としたこと、また、看板落語家の相次ぐ他界もあって、上方落語の寄席文化は壊滅した。
戦後は、上方落語の復興機運の高まりとともに、ミナミ戎橋松竹が開場し、大阪唯一の寄席として人気もあったようたが、1957(昭和32)年に経営難から閉鎖された。その後、大阪では地域の有志が寺や公民館、蕎麦屋などを会場に「地域寄席」という形で寄席文化を継承してきたが、昨年、悲願であった寄席「天満天神繁昌亭」が半世紀ぶりに開場したのである。落語は、衣装や道具、音曲を極力使わず、身振りと語りのみで物語を進めてゆく独自の演芸であり、高度な技芸を要する伝統芸能でもある。これからは、じっくりと、優秀な落語家を養成し巣立ちさせて欲しいものである。
(画像は私のコレクションの絵葉書より「桂派・三友派合併落語相撲記念」明治40年7月の記念印押印有り。表書きの相手先住所は「南地芝居裏戎橋・・・」、○○様となっており、差出人住所欄には単に「南地」とだけ書いてある。住所の下欄には「暑中お見舞い」とだけ書いてあり、ご贔屓筋に宛てたものだろう。当時主流派の桂派は、「南地金沢亭」を本拠としていた。1906(明治39)年、対立する「浪花三友派」を仕切っていた堀江「賑江亭」席亭の藤原重助が死去したことにより桂派は三友派と和解。「桂・三友両派大合同興行」を行った。この絵葉書は、その時のものであろう。絵葉書の小屋は、南地金沢亭ではないか。以下参考に記載の「なんばグランド花月(NGK)-オフィシャルサイト-歴史の窓」の花月という名の由来に掲載されている南地花月写真と照らしてみると判る。芝居裏地図ありここ↓
http://homepage3.nifty.com/nadokoro/nadokoro/55-2/55chuo2.htm
参考:
天満天神繁昌亭
http://www.hanjotei.jp/
社団法人・上方落語協会
http://www.kamigatarakugo.jp/
(社)落語協会
http://www.rakugo-kyokai.or.jp/Top.aspx
Category-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/Category:%E6%BC%94%E8%8A%B8
なんばグランド花月(NGK)-オフィシャルサイト-歴史の窓
http://www.yoshimoto.co.jp/ngk/ouyou/history/h-bnum.html
はなしの名どころ-大阪市
http://homepage3.nifty.com/nadokoro/nadokoro/vol5.htm
[PDF]なにわの近現代史Ⅱ「落語戦争」
http://redfieldskardia.at.infoseek.co.jp/0707.htm

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