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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

ブラジル独立記念日(Ⅰ)

2010-09-07 | 記念日
今日・9月7日は「 ブラジル独立記念日」である。
ブラジル連邦共和国、通称ブラジルは、南アメリカに位置する連邦共和制国家である。ウルグアイ、アルゼンチン、パラグアイ、ボリビア、ペルー、コロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、フランス領ギアナ(つまりチリとエクアドル以外の全ての南米諸国)と国境を接している。また、大西洋上のフェルナンド・デ・ノローニャ諸島、トリンダージ島・マルティン・ヴァス島、セントピーター・セントポール群島もブラジル領に属している。
国土面積は851.2万平方キロメートルで、日本の22.5倍。国土面積はアメリカ合衆国よりは約110万km2小さいが、南アメリカ大陸で最大の面積を誇る国家であると同時にラテンアメリカ最大の領土であり、ロシアを除いたヨーロッパ全土より大きく、面積は世界第5位である。
国土面積の約63%を占めるといわれるブラジル高原(以下参考の※1:Yahoo!百科事典-ブラジル高原参照)が、北部のアマゾン盆地(セルバ)以南、中央部から南東部にかけて横たわり、この地域に国民の大部分が居住している。
気候は、アマゾン地域は熱帯雨林気候、中部高原と海岸平野は亜熱帯気候、南部は温帯気候で最も豊な農業地帯となっている。
ブラジルは5つの地域に別れ、それらの地域は26の州(Estado エスタード)と1つの連邦直轄区(首都ブラジリア)から構成されている(詳細は「ブラジルの地方行政区分」を参照)。
人口は、約1億9,400万人(2008年国連統計)を擁する。民族は、欧州系(55%)、混血(38%)、その他(アフリカ系東洋系等)であり、南北アメリカ大陸で唯一のポルトガル語圏の国である。又、宗教は、キリスト教(カトリック約74%、プロテスタント約15%。2000年地理統計院)の国である(以下参考の※2 :、※3 参照)。
ブラジルの最初の住民は、アジアからやって来た人々(狩人)で、彼らは紀元前8000年頃には、現在のブラジルの領域に到達していたという。現在のブラジルとなっている地には遠く離れたインカ帝国の権威は及ばず、この地には原始的な農耕を営む、トゥピー・グアラニー系の、後にヨーロッパ人によって「インディオ」(インディアン)と名づけられる人々が暮らしていた。1492年にコロンブスがヨーロッパ人として始めてアメリカ大陸に到達した7年後の1500年にポルトガル人のカブラルがバイーア州の南のポルト・セグーロ(以下参考に記載の※4:「こんな国だよブラジル」のPorto Seguroブラジルの始まり参照)を「発見」して「イリャ・デ・ヴェラクルス(Vera Cruz島)」と命名(後の「サンタ・クルスの地(Terra da Santa Cruz)」)し、ここをポルトガル領(植民地)と宣言、以降他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。当時、赤色染料の材料となるブラジルという名の木(パウ・ブラジル(Pau-Brasil) )が多く産出されたことにより、次第にこの地をブラジルと呼ぶようになったといわれる。
ポルトガルは1530年頃より、砂糖の生産と牧畜を中心に植民を開始し、働く労働力としてまず先住民インディオを奴隷化した後、それが足りなくなるととポルトガルはアフリカ西海岸を中継地とし、アンゴラやベニン、コンゴ、モザンビークを植民地とし、そうした種族の異なるアフリカ人奴隷を大量にブラジルに連行して、ポルトガル人農場主の農場で酷使するようになる。18世紀にはミナス・ジェライスで金鉱山が発見されたためにゴールドラッシュが起こり、ブラジルの中心が北東部から南西部に移動し、1763年にはリオ・デ・ジャネイロが植民地の首都となった。18世紀の間に実に30万人のポルトガル人がブラジルに移住し、金採掘のためにさらに多くの黒人奴隷が導入されたという。こうして、18世紀中ごろまでにほぼ現在の版図をしめるまで開発を進めた。
一方、本国のポルトガルは、ナポレオンによる大陸封鎖令に反抗したことをきっかけに、1807年、フランス軍に侵攻され、翌・1808年、ポルトガル王室(摂政ジョアン王子=後の
ジョアン6世と、女王マリア1世)がブラジルに逃亡すると共に、リスボンから植民地ブラジルのリオ・デ・ジャネイロへ宮廷を遷した。これは、ヨーロッパ史上空前の新大陸遷都である。以降リオの開発が急速に進んだ。以後ポルトガルはそれまでの富の独占という対ブラジル政策を180度転換し、1815年12月16日には、ブラジル公国(実質的には植民地)を本国と同格の王国に昇格させ正式に国名も「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」と改称し、リオデジャネイロがその王国の首都に定められた。
1811年にはフランス軍もポルトガルから撤退し、ナポレオン戦争も終結するがその後も王室は遷都先のブラジルに留まり続たが、1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、国王ジョアン6世が革命委員会の要求によって、翌年ブラガンサ家の王子ペドロを連合王国の摂政として残し、ポルトガルに帰国し立憲政府を立ち上げた。しかし、このとき本国ポルトガルと同格のはずであったブラジルの地位が一地方として格下げされ、リスボンに移った中央政府の統治下におかれることになったことから、ブラジル独立運動の機運が一気に高まり、穏健派・急進派を代表とするブラジル人勢力がペドロに独立を勧めたことから、翌・1822年9月7日に、ペドロはサンパウロのイピランガ川のほとりで「独立か死か!」との、いわゆる「イピランガの叫び」をあげて、ブラジルの独立が宣言。ペドロがブラジル帝国皇帝ペドロ1世(在位1823-1831)に即位したという。この9月7日の日がブラジルの「独立立記念日」となっている。その後、ヨーロッパから大量に移民導入をおこない、コーヒー栽培等の振興がはかられたが、奴隷制廃止で帝政の基盤であった地主階級が離反し、1889年11月15日デオドロ・ダ・フォンセカ元帥によって率いられた軍部が無血クーデターを起こし、帝政は崩壊し、ブラジル共和国が誕生した、その2年後に共和国憲法を制定して連邦制・大統領制になった。しかし、軍部のクーデター以降、軍部による政治介入が続くこととなる。1964年にカステロ・ブランコ将軍が、大統領に就任して以降1985年まで、軍事独裁政権が続くが、1985年1月に行われた大統領選挙(国会議員を中心とする間接選挙)では広範な国民の支持を得た連立野党のタンクレード・ネヴェスが勝利し民主化後21年ぶりの文民大統領が出現した。1989年11月には29年ぶりに大統領の直接選挙に復帰した。詳しくはブラジルの歴史参照。
どうしてこのブログで、「ブラジルの独立立記念日」のことなど書く気になったのかと言えば、私自身が最近ブラジルのことに少々関心を持つようになったからである。
先ず私の地元である神戸が、少々ブラジルとのかかわりがある。
ブラジルと日本との外交関係は1895(明治28)年の修好通商航海条約調印から始まり、1897(明治30)年に両国内に公使館を開設。1908(明治41)年6月には日本からの本格的移民が開始され、第1回ブラジル移民の船笠戸丸が家族、781人を乗せて神戸港を出航したのが同年4月28日のことである。総理府(現在の内閣府)が1966(昭和41)年に、笠戸丸がサントスに入港した6月18日を「海外移住の日」に制定している。
「一九三〇年三月八日。神戸港は雨である。細々と烟る春雨である。…三ノ宮駅から山ノ手に向う赤土の坂道はどろどろのぬかるみ…この道が丘に突き当って行き詰ったところに黄色い無装飾の大きなビルディングが建っている。…是が「国立海外移民収容所」である」。第1回芥川賞を受賞した石川達三の小説『蒼氓』は、これから始まる移民収容所での日々と、夢の国ブラジルでの生活さえも暗喩するかのような冒頭で始まる。政府の移民奨励政策によって、神戸の高台に「国立神戸移民収容所」(現・神戸市中央区山本通3-19-8)が開設されたのは、笠戸丸の神戸出港から20年後の昭和3年(1928年)3月のことであった。

ブラジル独立記念日(Ⅱ)と参考のページ

(冒頭の画像は、「独立か死か」(1888)。ペドロ・アメリコ画。Wikipediaより)

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