今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

万歳三唱の日

2007-02-11 | 記念日
今日(2月11日)は、「万歳三唱の日」
1889(明治22)年、帝国憲法発布の記念式典で、初めて万歳三唱が行われた。
大日本帝国憲法は、1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本の憲法である。「明治憲法」、あるいは単に「帝国憲法」と呼ばれることも多く、現行の日本国憲法との対比で「旧憲法」とも呼ばれている。
明治14年の政変を契機に発せられた「国会開設の勅諭」によって1890(明治23)年の国会開設が決まり、立憲国家の枠組みも整えられていった。また自由党立憲改進党が結成され、政党勢力も活性化した。1884(明治17)年には将来の上院の基礎をつくるべく華族令が制定され、翌年には内閣制度が発足した。この後、伊藤博文の欧州での調査を経て、政府内部でも憲法草案の作成が進められ、紀元節である、1889(明治22)年の今日(2月11日)大日本帝国憲法が発布され、新皇居正殿にて明治天皇から第2代内閣総理大臣・黒田清隆に、7章76条からなる憲法の原本が授けられた。憲法発布式典は約10分間ほどで終わり、式典後、天皇と皇后は、青山練兵場の臨時観兵式に臨んだ。この時、観兵式に向かう天皇の馬車に向かって日本で最初の今のような万歳が三唱されたという。
憲法発布宮城二重橋御出門之図 →http://www.library.metro.tokyo.jp/17/024/17a00.html
それまで日本には、一同で慶賀を発声する統一された言葉がなかったが、西欧においては君主や大統領が通るときには、帽子やハンカチを振りながら、声を出して讃えていることから、日本でも統一した祝福の言葉を考えようという事になり、当初は文部大臣森有礼が発する語として「奉賀」を提案していたが、「連呼すると『ア・ホウガ(阿呆が)』と聞こえる」という理由から却下されたという。また、「万歳」として「マンザイ」と読む案もあったが、「マ」では「腹に力が入らない」とされたことから、後に文部大臣・東京帝国大学総長になった外山正一博士から謡曲高砂の「千秋楽」の「千秋楽は民を撫で、萬歳楽 (バンザイラク) には命を延ぶ」と合わせ、漢音と呉音の混用を問わずに「万歳 (バンザイ)」」としたらどうかという意見が出て、協議の結果全員一致で賛成となったそうだ。そして、11日の日の当日、発案の外山博士が音頭をとって二重橋外において陛下奉迎の際、声高らかに「バンザイ」を発声したというのである。国民は、憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。また、当時の自由民権家や新聞各紙も、同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝ったという。
日本の新聞でどのように報じられたかまた、外国などでの反応はどうだったかなどは以下を見られると良い。大日本帝国憲法発布模様=1889(明治22)年2月12日付『時事新報』↓
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/teikokukennpoumoyou.htm
JOG(242) 大日本帝国憲法↓
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog242.html
この時、明治天皇は、36歳であった。立憲君主としての自身と貫禄がとみにこのころから備わったといわれている。それまで天皇のお守り役であった維新の元勲たちは亡くなり、諌め役の山岡鉄舟 も前年末には亡くなっていた。うるさがたが亡くなって、後は、憲法起草の中心・伊藤博文をはじめ腹心の部下ばかりとなっていた。その伊藤が、後年「当時院(憲法審議の枢密院)の内外に於いて、極端なる保守主義の時流在りせしにも関わらず、陛下の聖断は殆ど常に自由進歩の思想に傾き給ひしを以って、我国民は遂に現在の憲法を仰ぐを得るに至れり」と語っているという。では、帝国憲法のどこが自由進歩かというと、天皇は、神聖にして犯すべからざる「機関」であるというという解釈を可能にしたからだろうという。(週間朝日百科「日本の歴史」)事実、大日本帝国憲法は、国家の統治権は天皇にあるとし、その上で実際の政治は各大臣の輔弼 (ほひつ=助言)に基づいて行われると定めた。また、天皇に政治的責任をおわせないこともうたわれた。明治14年の国会開設の勅書の約束どおりに憲法を欽定(きんてい=君主の命令による選定)して、天皇が、いささか、誇りとするのも当然であろう。
帝国憲法発布の日は前夜からの雪で、東京市中は一面の銀世界となったが、高村 光太郎は”幼いころ誰かににおぶわれて、上野で、天皇の馬車と騎兵隊を迎える列にあり、その時に土下座した”体験があり、そのことを、自らの戦争中の姿勢を省みながら、自身の生涯を振り返る形でまとめた連作詩『暗愚小伝』の中の「土下座(憲法発布)」の冒頭でかたられる。
暗愚小伝(冒頭部分)→http://uraaozora.jpn.org/takaangu.html
この時、高村少年は、馬車に乗った人の姿が二人見えたとき、「眼がつぶれるぞ」と言って、頭を強く押さえつけられたという。そう言えば私なども子供の頃、天皇陛下の顔を見たら「眼がつぶれるぞ」という言葉を、おじいさんかおばあさんかに聞いた事がある。実際にそれを信じていた人達が戦後までいたように思う。
又小説家永井荷風は、随筆「花火」の中で、以下のように書いている。
”明治二十三年の二月に憲法発布の祝賀祭があつた。おそらく此れがわたしの記憶する社会的祭日の最初のものであらう。数へて見ると十二歳の春、小石川の家にゐた時である。寒いので何処へも外へは出なかつたが然し提灯行列といふものゝ始まりは此の祭日からであることをわたしは知つてゐる。又国民が国家に対して「万歳」と呼ぶ言葉を覚えたのも確か此の時から始つたやうに記憶してゐる。何故といふに、その頃わたしの父親は帝国大学に勤めて居られたが、その日の夕方草鞋(わらぢ)ばきで赤い襷(たすき)を洋服の肩に結び赤い提灯を持つて出て行かれ夜晩(おそ)く帰つて来られた。父は其の時今夜は大学の書生を大勢引連れ二重橋へ練り出して万歳を三呼した話をされた。万歳と云ふのは英語の何とやらいふ語を取つたもので、学者や書生が行列して何かするのは西洋にはよくある事だと遠い国の話をされた。然しわたしには何となく可笑(をか)しいやうな気がしてよく其の意味がわからなかつた。”・・・と。
又、夏目漱石も小説「趣味の遺伝」の中で以下のように書いている。
”左右の人は将軍の後(あと)を見送りながらまた万歳を唱(とな)える。余も――妙な話しだが実は万歳を唱えた事は生れてから今日(こんにち)に至るまで一度もないのである。万歳を唱えてはならんと誰からも申しつけられた覚(おぼえ)は毛頭ない。また万歳を唱えては悪(わ)るいと云う主義でも無論ない。しかしその場に臨んでいざ大声(たいせい)を発しようとすると、いけない。小石で気管を塞(ふさ)がれたようでどうしても万歳が咽喉笛(のどぶえ)へこびりついたぎり動かない。どんなに奮発しても出てくれない。」・・と。(永井荷風の随筆「花火」、夏目漱石の小説「趣味の遺伝」は以下参考記しておいたネット文庫で読めるよ)
どうも、荷風も漱石も、余り「万歳」が好きではなかったというより嫌悪感を持っていたようだ。その時の時代背景もあるからね~。最近は、余り、万歳万歳と唱える機会も少なくなったが、私自身は、日本としての統一した祝福の言葉があっても良いと思っているのだが・・・、今のような平和な時代になっても、好ましく思わない人が結構いるようだね~。
(画像は、『憲法発布式』。憲法を総理大臣黒田清隆に渡す明治天皇。左端市は皇后。明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画絵葉書より)
参考:
大日本帝国憲法 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95
明治十四年の政変 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%8D%81%E5%9B%9B%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
華族 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E6%97%8F
中野文庫 - 華族令
http://www.geocities.jp/nakanolib/kou/km40-2.htm
内閣 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%96%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
第4章>3>51.アジアで最初の立憲国家
http://www.tsukurukai.com/05_rekisi_text/rekisi_pagefile/rekisi_text_30_51.html
紀元節 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E7%AF%80
山岡鉄舟 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B2%A1%E9%89%84%E8%88%9F
観兵式 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E5%85%B5%E5%BC%8F
正殿 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E6%AE%BF
外山正一 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%B1%B1%E6%AD%A3%E4%B8%80
国立国会図書館史料にみる日本の近代
http://www.ndl.go.jp/modern/index.html
能 『高砂』
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~shimizu/menu.htm
大日本帝国憲法
http://constitution.at.infoseek.co.jp/teikoku.htm
暗愚小伝(冒頭部分)
http://uraaozora.jpn.org/takaangu.html
日本ペンクラブ:電子文藝館/永井荷風作随筆「花火」
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/novel/nagaikafu.html
夏目漱石作「 趣味の遺伝」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1104_14948.html
大日本帝国憲法発布模様=1889(明治22)年2月12日付『時事新報』
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/teikokukennpoumoyou.htm
[PDF] ジャン・コクトーの日本訪問(補)
http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-06/nishikawa1.pdf
永井荷風 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E8%8D%B7%E9%A2%A8
大日本帝国憲法発布式
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/teikokuhappusiki.htm

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