1616年の今日(5月9日)は「アイスクリームの日」
日本アイスクリーム協会が1965(昭和40)年に制定。
1869(明治2)年、町田房蔵が横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で、日本初のアイスクリーム「あいすくりん」を製造・販売した。1人前の値段は2分、現在のお金で約8000円と大変高価な物だったそうだ。
古代のアイスクリームは、今のシャーベットのようなもので、当初は兵の士気を鼓舞し、肉体を元気付ける健康食品として利用されていたのだとか。この氷や雪を健康食品としてではなく、純粋に嗜好品として求めたのがローマの英雄ジュリアス・シーザー(BC100~44)で、彼は若者をアペニン山脈に走らせ氷や雪を運ばせて、乳や蜜、ワインなどを混ぜ、冷やして飲んでいたと伝えられているそうだ。
日本人で最初にアイスクリームを食べたのは、横浜開港の翌年、万延元年に咸臨丸で渡米した徳川幕府の一行で、一行は船中でアイスクリームを饗応され、その模様が使節団の一人、柳川当清の『柳川日記』に「珍しきものあり。氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。味は至って甘く、口中に入るるに忽ち溶けて、誠に美味なり。之をアイスクリンといふ」と記されているという。咸臨丸で渡米した勝海舟に私淑して、赤坂氷川町に住居を構えたと伝えられる町田房蔵は、明治2年、横浜馬車道通りで氷と塩とを用いて、日本で最初のアイスクリーム「あいすくりん」の製造販売を始めた。一説には、出島松造という人が、この房蔵にアイスクリームの製法を伝えたとも言われている。・・・と、アイスクリーム協会 のHPには記されている。どうも、こちらの方が、本当のようであり、「風月堂社史」には、密航して酪農を学び帰国した出島松造が、明治元年(1868)頃、町田房造にその作り方を教えたらしいとあり、以下のように記している。
明治25年7月13日発行の『横浜沿革誌』(太田久好著者兼発行者)には、次のようにある。
「六月馬車道通常磐町五丁目に於いて、町田房造なるもの、氷水店を開業す。当時は、外国人稀に立寄氷又はアイスクリームを飲用す。本邦人は之を縦覧するのみ。店主為に当初の目的を失し大に損耗す。尚翌三年四月、伊勢山皇太神宮大祭に際し、再び開業せしに頗る繁昌を極め、因て前年の失敗を恢復せりと。爾来陸続来客ありて恰も専売権を得たる如く繁栄を極めたり。之を氷水店の嚆矢とす」。しかし、これはほとんどが外国人相手のものであって、日本人にはまだまだ高嶺の花であり、アイスクリームの名前さえ知らない者が圧倒的に多かったという。この町田房造によってはじめられたアイスクリームが米津風月堂によって引き継がれ、明治9年(1876)にアイスクリーム製造の機械を購入し販売を計画する。・・・と。
当時の「あいすくりん」の値段金2分(50銭)は、女工の月給の半分ほどにもなり、大変に高価なものであったというから、庶民が食べれるはずはないよね~。
その後、明治28年の日清戦争当時、東京市内にもぼつぼつと氷菓子店が現れたが、明治33年銀座に資生堂が開業、アメリカのドラッグストアをまね、明治35年、資生堂薬局内にソーダー水とアイスクリームの製造と販売を行う『ソーダ・ファウンテン』(現在の資生堂パーラー)をオープン。資生堂パーラーのアイスクリームは、卵の黄身とレモンの香りのおいしいフランス風アイスクリームでたちまち銀座名物になり、ちょうど、日本に魔法瓶が普及し始めたころ、魔法瓶を持って銀座までアイスクリームを買いに、という女性の姿も見られたそうだ。資生堂のソーダ水やアイスクリームは、森鴎外が小説『流行』に書き、永井荷風が賞賛を惜しまなかったという。
それでも、そのころの値段が1個15銭だったそうであるから、かなり高い値段である。
当時、日本も欧米並みにすすんだ国です”とデモンストレーションするために建てられた官設社交場である鹿鳴館では、外国人の賓客の接待を目的とした欧米風の園遊会や舞踏会、バザーが開かれ、外国人たちが招待され、欧米人を接待する時の不可欠なデザートとしてアイスクリームが珍重されていたそうだ。
しかし、高額なアイスクリームを、大量生産でコストダウンを図り、大衆化への第1歩となったのは、協同乳業が、昭和31年に10円の『アイスクリームバー』を発売したときからではないかとされている。
そうだよな~、思い起こせば、メーカーの名前など覚えていないけれど、確かに、我々が、アイスクリームと名のつくものを口にしたのはその頃だと思うよ・・・。
今では、いろんな種類のものが安く手に入るようになり、冷蔵庫、冷凍庫も普及したので、最近暑くなってきたので、もう、我が家でも、冷凍庫には、アイスバーや、シャーベット状の物を保存している。
日本で始めて販売された「あいすくりん」は、シャーベット状のものだったというが、私達のような年配者には、今でも、牛乳の多い甘ったるいアイスクリームよりは、あっさりとしたシャーベット状の物の方が口に合う。
これからの暑い日、どうしても食べたくなる一品だよね~。
(画像は、馬車道十番館 の自家製アイスクリーム )
参考:
アイスクリームの歴史と背景(アイスクリーム協会 )
http://www.icecream.or.jp/data/history07.html
アイスクリームの歴史
http://www.ishiharacompany.com/ishi/kiso/ice/history/index2.html
風月堂社史本文-明治前2
http://www.tokyo-fugetsudo.co.jp/meijizen2.html
Shiseido Parlour Ginza Tokyo
http://www.shiseido.co.jp/parlour/html/index.htm
日本アイスクリーム協会が1965(昭和40)年に制定。
1869(明治2)年、町田房蔵が横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で、日本初のアイスクリーム「あいすくりん」を製造・販売した。1人前の値段は2分、現在のお金で約8000円と大変高価な物だったそうだ。
古代のアイスクリームは、今のシャーベットのようなもので、当初は兵の士気を鼓舞し、肉体を元気付ける健康食品として利用されていたのだとか。この氷や雪を健康食品としてではなく、純粋に嗜好品として求めたのがローマの英雄ジュリアス・シーザー(BC100~44)で、彼は若者をアペニン山脈に走らせ氷や雪を運ばせて、乳や蜜、ワインなどを混ぜ、冷やして飲んでいたと伝えられているそうだ。
日本人で最初にアイスクリームを食べたのは、横浜開港の翌年、万延元年に咸臨丸で渡米した徳川幕府の一行で、一行は船中でアイスクリームを饗応され、その模様が使節団の一人、柳川当清の『柳川日記』に「珍しきものあり。氷を色々に染め、物の形を作り、是を出す。味は至って甘く、口中に入るるに忽ち溶けて、誠に美味なり。之をアイスクリンといふ」と記されているという。咸臨丸で渡米した勝海舟に私淑して、赤坂氷川町に住居を構えたと伝えられる町田房蔵は、明治2年、横浜馬車道通りで氷と塩とを用いて、日本で最初のアイスクリーム「あいすくりん」の製造販売を始めた。一説には、出島松造という人が、この房蔵にアイスクリームの製法を伝えたとも言われている。・・・と、アイスクリーム協会 のHPには記されている。どうも、こちらの方が、本当のようであり、「風月堂社史」には、密航して酪農を学び帰国した出島松造が、明治元年(1868)頃、町田房造にその作り方を教えたらしいとあり、以下のように記している。
明治25年7月13日発行の『横浜沿革誌』(太田久好著者兼発行者)には、次のようにある。
「六月馬車道通常磐町五丁目に於いて、町田房造なるもの、氷水店を開業す。当時は、外国人稀に立寄氷又はアイスクリームを飲用す。本邦人は之を縦覧するのみ。店主為に当初の目的を失し大に損耗す。尚翌三年四月、伊勢山皇太神宮大祭に際し、再び開業せしに頗る繁昌を極め、因て前年の失敗を恢復せりと。爾来陸続来客ありて恰も専売権を得たる如く繁栄を極めたり。之を氷水店の嚆矢とす」。しかし、これはほとんどが外国人相手のものであって、日本人にはまだまだ高嶺の花であり、アイスクリームの名前さえ知らない者が圧倒的に多かったという。この町田房造によってはじめられたアイスクリームが米津風月堂によって引き継がれ、明治9年(1876)にアイスクリーム製造の機械を購入し販売を計画する。・・・と。
当時の「あいすくりん」の値段金2分(50銭)は、女工の月給の半分ほどにもなり、大変に高価なものであったというから、庶民が食べれるはずはないよね~。
その後、明治28年の日清戦争当時、東京市内にもぼつぼつと氷菓子店が現れたが、明治33年銀座に資生堂が開業、アメリカのドラッグストアをまね、明治35年、資生堂薬局内にソーダー水とアイスクリームの製造と販売を行う『ソーダ・ファウンテン』(現在の資生堂パーラー)をオープン。資生堂パーラーのアイスクリームは、卵の黄身とレモンの香りのおいしいフランス風アイスクリームでたちまち銀座名物になり、ちょうど、日本に魔法瓶が普及し始めたころ、魔法瓶を持って銀座までアイスクリームを買いに、という女性の姿も見られたそうだ。資生堂のソーダ水やアイスクリームは、森鴎外が小説『流行』に書き、永井荷風が賞賛を惜しまなかったという。
それでも、そのころの値段が1個15銭だったそうであるから、かなり高い値段である。
当時、日本も欧米並みにすすんだ国です”とデモンストレーションするために建てられた官設社交場である鹿鳴館では、外国人の賓客の接待を目的とした欧米風の園遊会や舞踏会、バザーが開かれ、外国人たちが招待され、欧米人を接待する時の不可欠なデザートとしてアイスクリームが珍重されていたそうだ。
しかし、高額なアイスクリームを、大量生産でコストダウンを図り、大衆化への第1歩となったのは、協同乳業が、昭和31年に10円の『アイスクリームバー』を発売したときからではないかとされている。
そうだよな~、思い起こせば、メーカーの名前など覚えていないけれど、確かに、我々が、アイスクリームと名のつくものを口にしたのはその頃だと思うよ・・・。
今では、いろんな種類のものが安く手に入るようになり、冷蔵庫、冷凍庫も普及したので、最近暑くなってきたので、もう、我が家でも、冷凍庫には、アイスバーや、シャーベット状の物を保存している。
日本で始めて販売された「あいすくりん」は、シャーベット状のものだったというが、私達のような年配者には、今でも、牛乳の多い甘ったるいアイスクリームよりは、あっさりとしたシャーベット状の物の方が口に合う。
これからの暑い日、どうしても食べたくなる一品だよね~。
(画像は、馬車道十番館 の自家製アイスクリーム )
参考:
アイスクリームの歴史と背景(アイスクリーム協会 )
http://www.icecream.or.jp/data/history07.html
アイスクリームの歴史
http://www.ishiharacompany.com/ishi/kiso/ice/history/index2.html
風月堂社史本文-明治前2
http://www.tokyo-fugetsudo.co.jp/meijizen2.html
Shiseido Parlour Ginza Tokyo
http://www.shiseido.co.jp/parlour/html/index.htm
初めてアイスクリームを食べたのが何時頃であったか全く記憶がありません。多分、喫茶店で食べたのが最初ではなかったかと・・。
夏の大掃除の後だけカキ氷をボウルを持って買いに行き家で食べた時のことが忘れられません。普段は赤痢になる、チフスになると言って食べさせてもらえなかったのが、この日だけはOKでした。最近一斉に大掃除をすることがなくなりましたね。
夏の甲子園のカチワリも懐かしいです。浪商と法政二高がSFで当たった時、地震がありました。その時僕は甲子園でカチワリを食べていました。
アイスクリームにウェハースがついていましたが今でもついているのでしょうかね。
色々まとまりのないことを書いてご免なさい。