10月27日(陰暦:9月15日)の今日は平安時代後期の天台僧・覚猷(かくゆう)・俗称鳥羽僧正(とばそうじょう)の1140年(保延6年)の忌日である。覚猷の亡くなった日(陰暦の9月15日=西暦10月27日)である「覚猷忌」「鳥羽僧正忌」は俳句などでは、晩秋の季語ともなっている。
覚猷は、醍醐源氏(源氏参照)、つまり、平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件・安和の変で失脚させられた源高明の曾孫にあたり、祖父は一条朝の四納言と呼ばれた高明の三男源俊賢である。
そして、父は、1053年(天喜元年)に宇治大納言と呼ばれた源隆国で、その第9子として出生した。本名は顕智。若年時に園城寺(おんじょうじ)の円覚(京都・壬生寺再興者であり、同寺ほかに融通念仏の中興者でもある円覚の大念仏狂言が伝えられている)に師事し出家。天台仏教・密教を修めながら、画技にも長じるようになった。
四天王寺別当、法成寺別当、園城寺など大寺社の要職を歴任する間、1132年(天承2年、長承元年)には僧正へ、1134年(長承3年)には大僧正へ任じられた。1138年(保延4年)、47世天台座主となったが3日で退任し、厚い帰依を寄せていた鳥羽上皇が住む鳥羽離宮内の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となった。以後、ここに常住したために鳥羽僧正と俗称されるようになった。
天台宗の円珍が唐より請来した密教図像は天台別院として中興された園城寺内の唐院に安置されたが、後年ここに覚猷が入ったためその住房の法輪院をとって法輪院本と呼ばれるようになった。覚猷はこの法輪院に長らく住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めたが、鳥羽の証金剛院をはじめとする書院の宝蔵にも、多くの図像が集められていたと思われ、覚猷を取り巻く環境には、良質の図像が豊富に存在していただろうからさらに多くの、密教図像について学んだことだろう。覚猷が画技に秀でていたことは文献より知られ、また鳥羽僧正筆と伝承される図像も存するが、確実な遺品は残されていない。
1140年10月27日(保延6年9月15日)、覚猷は90歳近い高齢で死去した。
国宝にも指定されている絵巻『鳥獣人物戯画』の作者は不明であるが、その解説には必ず鳥羽僧正覚猷の名前が登場する。
『鳥獣人物戯画』(以下略して『鳥獣戯画』とよぶ)は、甲・乙・丙・丁の4巻。縦31cm前後の長大な絵巻物であり、京都・高山寺に伝えられている。解説的な文章はなく、すべて墨の描線だけを使った「白描画」である。
甲巻は兎、蛙、猿などの動物を擬人化したもので、これら動物の人間さならの水遊び・賭弓・相撲といった遊戯をや法会(法要)・喧嘩などをしている場面が描かれており、4巻の中でもっともよく知られる。乙巻は写生風の動物絵、丙巻は前半が各種の競技やゲームに興じる人物の戯画で、後半は動物戯画、丁巻は荒々しいタッチの人物戯画だそうである。制作年代は甲・乙巻が平安末期、丙・丁巻は鎌倉時代と推定されているようだ。
鳥羽僧正覚猷は、天台座主の座を3日で辞めてしまうなど自由な行動をしていたことで知られているが、鳥獣戯画の法会(法要)の場面(冒頭1枚目の画)には安置されたカエルの仏像に読経をしている導師(僧形の猿)が経を唱えているようであり、この絵は一見、動物たちの無邪気な法会ごっこに見えるが、畜生道という苦界にいる動物たちであることを思えば、動物たちの往生祈願という、非常に重い意味を持つのではないか。気焔をあげて(口から出る息、ないし声の線が描かれている)経を唱えている僧は鳥羽僧正自身ではないかと言われている。院や関白といった尊貴者ならぬ動物を対象として往生を願う絵を覚猷が描いたとするなら、それは、仏教の権力者に委ねられ自分がそれに奉仕していることを本当は肯定していないことを意味し、仏教の偏在的救済を動物にまで及ばせることであったことにもなる。
また、法会を終えた後の布施をもらう場面(上図)、猿の導師の前には料理が運ばれ、かずけもの(録)が贈られる。地面に置かれた包みがそうだろうか。これらの布施を前にする横柄そうな猿の僧正と果物を捧げる兎の雑仕。僧をめぐる贈与互収の一局面がまさに戯画仕立てに描かれている。「かずけもの」は儀式に明け暮れる宮廷生活において、饗宴の後、参会者に配られる臨時の録であり、贈り物の衣服や衣料の絹、綿を形に「かつぐ」作法から派生した言葉。これは上から下への特異な贈与慣行であり、いわば当時の贈与互収関係であった。このような衣類の「かずけもの」には貴族社会にとって特殊な意味があるがそのことについてはここでは省略する、知りたい人は『週間朝日百貨日本の歴史63」の3-233Pを観られると良い。この絵はそのような「かずけもの」慣行が貴族世界の外縁に位置した僧侶や武士社会にも浸透していたことをあらわしている。『鳥獣戯画』は全体に戯画であるが動物が可愛く描かれており、諷刺画でないと見るべきである・・との意見もあるようだが、この場面についてはそのような当時の社会慣行に対する諷刺を見ることができる。僧である覚猷がこの作品の作者であるとしたならばこうした法会のありようを、僧である自らを含めて批判的に考えていたのではないだろうか。
以下参考に記載の※1:「CiNii - 東京工芸大学芸術学部紀要 13 - 目次」(の中にある鳥羽僧正覚猷と『鳥獣戯画』の『鳥獣戯画』覚猷説の背景には、“鳥羽僧正覚猷の名前に因んだ名がつけられた戯画「鳥羽絵」が登場するのは18世紀頃である。1710年(豊栄7年)の『寛闊平家物語』には「近き頃鳥羽絵というもの、扇、袱紗にはやり出したるを見れば、形、手足、人間にあらず、化け物づくしなり」とあり、京都を中心に扇や袱紗などに描かれた「鳥羽絵」と呼ばれる一種の漫画が人気を博していた。
絵巻『鳥獣戯画』の作者を鳥羽僧正覚猷とする説が何時頃から登場したのかは不明だが、1792年(寛政4年)、儒学者の柴野栗山らが山城(現在の京都府南部)・大和(現在の奈良県)を廻って調査した『寺社宝物閲目録』(以下参考に記載の※2参照)の高山寺の条には「鳥羽僧正筆絵巻四軸」と記されており、鳥羽絵が盛んに描かれた同時期に、覚猷を『鳥獣戯画』の作者とする説があったと知られている。こうした説が浮上する背景には鳥羽僧正が画僧で、それも面白い絵・戯画を描いたという認識があるからであり、それは恐らく『尊卑分脈』や『古今著聞集』あたりの情報によるものであろう。『尊卑分脈』の覚猷の注釈には「画図長」とあり、また、『古今著聞集』「画図」395「鳥羽僧正絵をもって供米の不法を諷刺する事」には、「さまざまおもしろう筆をふるひてかかれたりける」とあるなど、単に絵が上手いというのみならず、面白い絵、諷刺画、戯画を描いたことが知られている。こうした史料が元となって、後世、戯画が鳥羽絵と称され、又、鳥羽僧正覚猷を『鳥獣戯画』の作者とする説が登場したものと推察することが可能である。”・・・としている。
高山寺に残る{『鳥獣戯画』が彼の作であるという確証はないものの、その場面によってはいかにも覚猷の人となりを伝えるかのような筆致のものがあり、覚猷と絵巻の作者がきわめて近い人物像を結ぶということは言えるのであり、それは摂関政治が終りを告げ、12世紀院政期という時代を背景にした特徴的人間像であるのかもしれない。覚猷が密教図像の集成と絵師の育成、研究をし、自らも絵を学んでいたことは先に書いたが、以下参考に記載の※3:「密教図像と鳥獣戯画」や※4:「古筆と写経」には、『鳥獣戯画』に描かれている動物が「密教図像」の影響を大きく受けているとして、その比較画像も掲載されている。興味のある人は観られるとよい。
鳥羽僧正覚猷は、鳥羽院の尊崇も篤かった僧であるが、臨終にあたって弟子等に遺言をと再三にわたり勧められ、次のように書いたという。
「処分は腕力によるべし」(『古事談』)
これを伝え聞いた院は遺産を腕力で没収し、改めて弟子等に配分したという。
院政時代は天皇家をはじめとする「家」の成立時代であった。院政下天皇家の財産や摂関家の財産は形を整え、膨れ上がった。それらは「渡領(わたりりょう)」(家領参照) と言われて家長(天皇家では治天の君、摂関家では殿下・氏長者)に継承されていった。貴族の家・武士の家でもそれににた動きはあって家長の地位をめぐる争いは熾烈をきわめ、その結果起きたのが「保元の乱」であった。「鳥羽院失セサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云事ハ起リテ後、武者ノ世ニナリニケルナリ」。慈円が『愚管抄』にこう記した如く、保元の乱は鳥羽院の死後天皇家以下の家争いとして起った。
このような院政期に各地の兵たちの私闘に介在しては彼らを主従制的関係に取り込み組織したのが源氏・平氏の武士の長者の姿だった。こうした諸国での私闘の世界は次第に京をも覆い始め「往々所々殺害の事敢えて絶える事なし」といわれ、「今日重犯多し、然れども御沙汰なく候」(『長秋記』)といわれた如く、殺害事件が頻発しそれに院も有力尊崇も巻き込まれていった時代であった。まさに腕力がものをいった時代のことである。『源氏・平氏の習』が広く諸階層をとらえて広まっていったことがよくわかる。(朝日百貨「日本の歴史」)。
覚猷は鳥羽上皇の信任が厚く、仏教界の重職を務めた高僧であるが、絵画にも精通し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残した。冒頭でも書いたように醍醐源氏の流れを汲む武人の出であり、彼は僧侶と言うより画技に秀でた豪放磊落な骨太の芸術家であったようだ。
(画像は、鳥獣戯画 京都・高山寺蔵。1枚目は、独経につとめる僧形の猿。画像は、2009年3月13日朝日新聞掲載記事より。2枚目は、法要の終わった場面。僧への饗応の図。週間朝日百科「日本の歴史」63より)
参考:
※1:CiNii - 東京工芸大学芸術学部紀要 13 - 目次(この中に鳥羽僧正覚猷と『鳥獣戯画』 あり)
http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN10507753/ISS0000413013_ja.html
※2:古典籍総合データベース:[寺社宝物展閲目録]
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8E%9B%8E%D0%95%F3%95%A8%93W%89{%96%DA%98^
※3:密教図像と鳥獣戯画/中野玄三(PDF)
http://www.kyohaku.go.jp/jp/kankou/gaku/pdf_data/2/002_ronbun_a.pdf
※4:古筆と写経(PDF)
http://books.google.co.jp/books?id=vslzVF-jDMgC&pg=PA205&lpg=PA205&dq=%E8%A6%9A%E7%8C%B7+%E5%AF%86%E6%95%99%E5%9B%B3%E5%83%8F&source=bl&ots=5i0ZPLVfHc&sig=hM11Gl52msS1wEmqBxVLwqRbCW4&hl=ja&ei=Xwm4TI-UAc7Qce2h1bYM&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CBkQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E8%A6%9A%E7%8C%B7%20%E5%AF%86%E6%95%99%E5%9B%B3%E5%83%8F&f=false
俳句季語一覧/50音別
http://cgi.geocities.jp/saijiki_09/aiu.html#top
覚猷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E7%8C%B7
三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)
http://www.shiga-miidera.or.jp/
密教図像とは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E5%AF%86%E6%95%99%E5%9B%B3%E5%83%8F
南殿・秋の山(鳥羽離宮公園)・証金剛院
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike42.html
長秋記 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%95%B7%E7%A7%8B%E8%A8%98/
覚猷は、醍醐源氏(源氏参照)、つまり、平安時代の969年(安和2年)に起きた藤原氏による他氏排斥事件・安和の変で失脚させられた源高明の曾孫にあたり、祖父は一条朝の四納言と呼ばれた高明の三男源俊賢である。
そして、父は、1053年(天喜元年)に宇治大納言と呼ばれた源隆国で、その第9子として出生した。本名は顕智。若年時に園城寺(おんじょうじ)の円覚(京都・壬生寺再興者であり、同寺ほかに融通念仏の中興者でもある円覚の大念仏狂言が伝えられている)に師事し出家。天台仏教・密教を修めながら、画技にも長じるようになった。
四天王寺別当、法成寺別当、園城寺など大寺社の要職を歴任する間、1132年(天承2年、長承元年)には僧正へ、1134年(長承3年)には大僧正へ任じられた。1138年(保延4年)、47世天台座主となったが3日で退任し、厚い帰依を寄せていた鳥羽上皇が住む鳥羽離宮内の証金剛院へ移り、同離宮の護持僧となった。以後、ここに常住したために鳥羽僧正と俗称されるようになった。
天台宗の円珍が唐より請来した密教図像は天台別院として中興された園城寺内の唐院に安置されたが、後年ここに覚猷が入ったためその住房の法輪院をとって法輪院本と呼ばれるようになった。覚猷はこの法輪院に長らく住し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残したほか、自らの画術研鑽にも努めたが、鳥羽の証金剛院をはじめとする書院の宝蔵にも、多くの図像が集められていたと思われ、覚猷を取り巻く環境には、良質の図像が豊富に存在していただろうからさらに多くの、密教図像について学んだことだろう。覚猷が画技に秀でていたことは文献より知られ、また鳥羽僧正筆と伝承される図像も存するが、確実な遺品は残されていない。
1140年10月27日(保延6年9月15日)、覚猷は90歳近い高齢で死去した。
国宝にも指定されている絵巻『鳥獣人物戯画』の作者は不明であるが、その解説には必ず鳥羽僧正覚猷の名前が登場する。
『鳥獣人物戯画』(以下略して『鳥獣戯画』とよぶ)は、甲・乙・丙・丁の4巻。縦31cm前後の長大な絵巻物であり、京都・高山寺に伝えられている。解説的な文章はなく、すべて墨の描線だけを使った「白描画」である。
甲巻は兎、蛙、猿などの動物を擬人化したもので、これら動物の人間さならの水遊び・賭弓・相撲といった遊戯をや法会(法要)・喧嘩などをしている場面が描かれており、4巻の中でもっともよく知られる。乙巻は写生風の動物絵、丙巻は前半が各種の競技やゲームに興じる人物の戯画で、後半は動物戯画、丁巻は荒々しいタッチの人物戯画だそうである。制作年代は甲・乙巻が平安末期、丙・丁巻は鎌倉時代と推定されているようだ。
鳥羽僧正覚猷は、天台座主の座を3日で辞めてしまうなど自由な行動をしていたことで知られているが、鳥獣戯画の法会(法要)の場面(冒頭1枚目の画)には安置されたカエルの仏像に読経をしている導師(僧形の猿)が経を唱えているようであり、この絵は一見、動物たちの無邪気な法会ごっこに見えるが、畜生道という苦界にいる動物たちであることを思えば、動物たちの往生祈願という、非常に重い意味を持つのではないか。気焔をあげて(口から出る息、ないし声の線が描かれている)経を唱えている僧は鳥羽僧正自身ではないかと言われている。院や関白といった尊貴者ならぬ動物を対象として往生を願う絵を覚猷が描いたとするなら、それは、仏教の権力者に委ねられ自分がそれに奉仕していることを本当は肯定していないことを意味し、仏教の偏在的救済を動物にまで及ばせることであったことにもなる。
また、法会を終えた後の布施をもらう場面(上図)、猿の導師の前には料理が運ばれ、かずけもの(録)が贈られる。地面に置かれた包みがそうだろうか。これらの布施を前にする横柄そうな猿の僧正と果物を捧げる兎の雑仕。僧をめぐる贈与互収の一局面がまさに戯画仕立てに描かれている。「かずけもの」は儀式に明け暮れる宮廷生活において、饗宴の後、参会者に配られる臨時の録であり、贈り物の衣服や衣料の絹、綿を形に「かつぐ」作法から派生した言葉。これは上から下への特異な贈与慣行であり、いわば当時の贈与互収関係であった。このような衣類の「かずけもの」には貴族社会にとって特殊な意味があるがそのことについてはここでは省略する、知りたい人は『週間朝日百貨日本の歴史63」の3-233Pを観られると良い。この絵はそのような「かずけもの」慣行が貴族世界の外縁に位置した僧侶や武士社会にも浸透していたことをあらわしている。『鳥獣戯画』は全体に戯画であるが動物が可愛く描かれており、諷刺画でないと見るべきである・・との意見もあるようだが、この場面についてはそのような当時の社会慣行に対する諷刺を見ることができる。僧である覚猷がこの作品の作者であるとしたならばこうした法会のありようを、僧である自らを含めて批判的に考えていたのではないだろうか。
以下参考に記載の※1:「CiNii - 東京工芸大学芸術学部紀要 13 - 目次」(の中にある鳥羽僧正覚猷と『鳥獣戯画』の『鳥獣戯画』覚猷説の背景には、“鳥羽僧正覚猷の名前に因んだ名がつけられた戯画「鳥羽絵」が登場するのは18世紀頃である。1710年(豊栄7年)の『寛闊平家物語』には「近き頃鳥羽絵というもの、扇、袱紗にはやり出したるを見れば、形、手足、人間にあらず、化け物づくしなり」とあり、京都を中心に扇や袱紗などに描かれた「鳥羽絵」と呼ばれる一種の漫画が人気を博していた。
絵巻『鳥獣戯画』の作者を鳥羽僧正覚猷とする説が何時頃から登場したのかは不明だが、1792年(寛政4年)、儒学者の柴野栗山らが山城(現在の京都府南部)・大和(現在の奈良県)を廻って調査した『寺社宝物閲目録』(以下参考に記載の※2参照)の高山寺の条には「鳥羽僧正筆絵巻四軸」と記されており、鳥羽絵が盛んに描かれた同時期に、覚猷を『鳥獣戯画』の作者とする説があったと知られている。こうした説が浮上する背景には鳥羽僧正が画僧で、それも面白い絵・戯画を描いたという認識があるからであり、それは恐らく『尊卑分脈』や『古今著聞集』あたりの情報によるものであろう。『尊卑分脈』の覚猷の注釈には「画図長」とあり、また、『古今著聞集』「画図」395「鳥羽僧正絵をもって供米の不法を諷刺する事」には、「さまざまおもしろう筆をふるひてかかれたりける」とあるなど、単に絵が上手いというのみならず、面白い絵、諷刺画、戯画を描いたことが知られている。こうした史料が元となって、後世、戯画が鳥羽絵と称され、又、鳥羽僧正覚猷を『鳥獣戯画』の作者とする説が登場したものと推察することが可能である。”・・・としている。
高山寺に残る{『鳥獣戯画』が彼の作であるという確証はないものの、その場面によってはいかにも覚猷の人となりを伝えるかのような筆致のものがあり、覚猷と絵巻の作者がきわめて近い人物像を結ぶということは言えるのであり、それは摂関政治が終りを告げ、12世紀院政期という時代を背景にした特徴的人間像であるのかもしれない。覚猷が密教図像の集成と絵師の育成、研究をし、自らも絵を学んでいたことは先に書いたが、以下参考に記載の※3:「密教図像と鳥獣戯画」や※4:「古筆と写経」には、『鳥獣戯画』に描かれている動物が「密教図像」の影響を大きく受けているとして、その比較画像も掲載されている。興味のある人は観られるとよい。
鳥羽僧正覚猷は、鳥羽院の尊崇も篤かった僧であるが、臨終にあたって弟子等に遺言をと再三にわたり勧められ、次のように書いたという。
「処分は腕力によるべし」(『古事談』)
これを伝え聞いた院は遺産を腕力で没収し、改めて弟子等に配分したという。
院政時代は天皇家をはじめとする「家」の成立時代であった。院政下天皇家の財産や摂関家の財産は形を整え、膨れ上がった。それらは「渡領(わたりりょう)」(家領参照) と言われて家長(天皇家では治天の君、摂関家では殿下・氏長者)に継承されていった。貴族の家・武士の家でもそれににた動きはあって家長の地位をめぐる争いは熾烈をきわめ、その結果起きたのが「保元の乱」であった。「鳥羽院失セサセ給テ後、日本国ノ乱逆ト云事ハ起リテ後、武者ノ世ニナリニケルナリ」。慈円が『愚管抄』にこう記した如く、保元の乱は鳥羽院の死後天皇家以下の家争いとして起った。
このような院政期に各地の兵たちの私闘に介在しては彼らを主従制的関係に取り込み組織したのが源氏・平氏の武士の長者の姿だった。こうした諸国での私闘の世界は次第に京をも覆い始め「往々所々殺害の事敢えて絶える事なし」といわれ、「今日重犯多し、然れども御沙汰なく候」(『長秋記』)といわれた如く、殺害事件が頻発しそれに院も有力尊崇も巻き込まれていった時代であった。まさに腕力がものをいった時代のことである。『源氏・平氏の習』が広く諸階層をとらえて広まっていったことがよくわかる。(朝日百貨「日本の歴史」)。
覚猷は鳥羽上皇の信任が厚く、仏教界の重職を務めた高僧であるが、絵画にも精通し、密教図像の集成と絵師の育成に大きな功績を残した。冒頭でも書いたように醍醐源氏の流れを汲む武人の出であり、彼は僧侶と言うより画技に秀でた豪放磊落な骨太の芸術家であったようだ。
(画像は、鳥獣戯画 京都・高山寺蔵。1枚目は、独経につとめる僧形の猿。画像は、2009年3月13日朝日新聞掲載記事より。2枚目は、法要の終わった場面。僧への饗応の図。週間朝日百科「日本の歴史」63より)
参考:
※1:CiNii - 東京工芸大学芸術学部紀要 13 - 目次(この中に鳥羽僧正覚猷と『鳥獣戯画』 あり)
http://ci.nii.ac.jp/vol_issue/nels/AN10507753/ISS0000413013_ja.html
※2:古典籍総合データベース:[寺社宝物展閲目録]
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8E%9B%8E%D0%95%F3%95%A8%93W%89{%96%DA%98^
※3:密教図像と鳥獣戯画/中野玄三(PDF)
http://www.kyohaku.go.jp/jp/kankou/gaku/pdf_data/2/002_ronbun_a.pdf
※4:古筆と写経(PDF)
http://books.google.co.jp/books?id=vslzVF-jDMgC&pg=PA205&lpg=PA205&dq=%E8%A6%9A%E7%8C%B7+%E5%AF%86%E6%95%99%E5%9B%B3%E5%83%8F&source=bl&ots=5i0ZPLVfHc&sig=hM11Gl52msS1wEmqBxVLwqRbCW4&hl=ja&ei=Xwm4TI-UAc7Qce2h1bYM&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=2&ved=0CBkQ6AEwAQ#v=onepage&q=%E8%A6%9A%E7%8C%B7%20%E5%AF%86%E6%95%99%E5%9B%B3%E5%83%8F&f=false
俳句季語一覧/50音別
http://cgi.geocities.jp/saijiki_09/aiu.html#top
覚猷 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E7%8C%B7
三井寺(天台寺門宗総本山園城寺)
http://www.shiga-miidera.or.jp/
密教図像とは - 国指定文化財等データベース Weblio辞書
http://www.weblio.jp/content/%E5%AF%86%E6%95%99%E5%9B%B3%E5%83%8F
南殿・秋の山(鳥羽離宮公園)・証金剛院
http://homepage1.nifty.com/heiankyo/heike/heike42.html
長秋記 - Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E9%95%B7%E7%A7%8B%E8%A8%98/