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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「廉太郎忌」作曲家・滝廉太郎の忌日

2006-06-29 | 人物
1903(明治36)年の今日(6月29日)は「廉太郎忌」作曲家・滝廉太郎の忌日。
滝廉太郎の祖先は、代々豊後日出藩に仕えた名門。父吉弘は廃藩置県を機に上京。大蔵省、内務省に勤務。廉太郎は1879(明治12)年8月24日東京生まれ。父の転任により、神奈川、富山と転々とし、大分県竹田で尋常高等小学校高等科を終え、東京音楽学校専修部予科に入学したのは1894(明治27)年9月、15歳の時であった。数々の演奏会に出演、ピアニストとしての地位を確立していった。その彼が集中して代表的な作品を書いたのは、留学前の1900(明治33)年から1901(明治34)年にかけてである。1900(明治33)年10月に書かれた「メヌエット」は絶筆となった「憾み(うらみ)」(1903年2月14日作)とともに、日本人が始めて作ったピアノ曲である。11月1日には、合唱組曲<四季>(「花」「納涼」「月」「雪」)を発表する。芸術性の高い歌曲はみな西洋の曲に日本語の字句をあてはめていた時代に、彼は、日本語のオリジナルな詩に自分の曲をつけることに大きな抱負をもって取り組んだ。この作品は、今日の日本の合唱曲の道標となるものであり、中でも「花」は「春のうららの隅田川・・・」の歌詞で広く知られている。有名な「荒城の月」は『中学唱歌』の中にある。当時の文部省は、日本の学校で教えることのできる自前の唱歌を作ることを東京音楽学校に求めていた。これをうけて音楽学校では、当代の詩人たちに作詞を依頼し、作曲を公募した。廉太郎は、40編ほど集まっていた詩の中から3編を選び出して作曲し応募した。その3曲が、「箱根八里」「豊太閤」そして「荒城の月」であった。曲想はすべて異なる。わずかな期間で,異なる調べの名曲をいっぺんに3曲も生み出した廉太郎の才は高く評価された。そして、彼は、1901(明治34)年4月の渡欧直前に『幼稚園唱歌』の原稿を出版社に渡していた。この曲集は東基吉、東くめ、鈴木穀一、滝廉太郎の企画編集で、全20曲の殆どは、東くめ作詞、滝廉太郎作曲で、幼児にもわかりやすく口語体の歌詞を初めて採用し、簡単な伴奏も付けられている。幼児の唱歌集に伴奏が付いたのもこれが最初で、「鯉幟(こいのぼり)」「お正月」「桃太郎」など、現在もよく歌われている。
1901(明治34)年ドイツ留学を命じられ、10月にライプチヒ王立音楽院に入学するが、11月病気入院。診断は結核だった。療養ははかばかしくなく3年間の留学の予定を切り上げ、翌1902(明治35)年、8月、失意のうちに帰国した彼は、帰国後、故郷大分の父母の許で静養する事になるが、1903(明治36)年6月29日、大分で23歳10ヶ月の短い生涯を終えた。
静養中に「憾(うらみ)」他数曲の作品があったようだが、彼の死後母正子が病気の伝染を恐れて楽譜などを焼いてしまったり、生前、請われるままに彼が譜面を人々に分け与えたためどんなものがあったか詳しくわからないようだ。死亡する4ヶ月前に作曲された遺作の憾(うらみ)の字には“思い残す事がある”“心残り”等の意味がある。
「憾」は、不安と焦燥と怒りの感情がそのまま吐き出されたような激しい音楽である。大志を抱きながら不治の病に冒された瀧の心情を表現したものであろう。
こちらで一度聞いてみてください。 → 瀧廉太郎(滝廉太郎)名曲選「憾」
名曲「荒城の月」(土井晩翠作詞)で知られる作曲家・滝廉太郎は、日本における作曲家第1号とも言われている。明治以後の日本に西洋音楽を積極的に取り入れ、世界を目指した情熱の人は23歳10ヶ月という若さで世を去った。明治と言う時代に常にその志を高く、自らを、また日本全体を見つめ続けた彼はその肉体的限界に気付いたからこそ、生き急ぐ必要があった。様々な曲の背景に隠れる廉太郎のその姿はまさに、ドラマチックな生涯であった。彼の音楽活動に燃えた短い生涯を描くドラマは、廉太郎没後90年の1993年に「わが愛の譜 滝廉太郎物語」(監督 : 澤井信一郎 )として映画化された。
(画像は、コレクションの映画のチラシ「わが愛の譜 滝廉太郎物語」1993年製作。主演・滝廉太郎は風間トオル 、恋人のピアニスト中野ユキは鷲尾いさ子が演じている)
滝廉太郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%BB%89%E5%A4%AA%E9%83%8E
ホントはどんな人?―PICK UP第9回 滝廉太郎(たきれんたろう)
http://www.kirihara.co.jp/scope/pickup/200402/pickup.html
わが愛の譜 滝廉太郎物語(1993)-goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD27813/index.html?flash=1
d-score 滝廉太郎の楽譜
http://www.d-score.com/cgi/search?key=%C2%EC%CE%F7%C2%C0%CF%BA&SE=SCO
瀧廉太郎名曲選
http://www.niigata-u.com/files/oita/music.html

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5 コメント

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Unknown (Linda)
2006-06-30 10:16:51
よーさん、お早うさんです。

花はカラオケでワインちゃんとよく二部合唱をして、演歌ばかり歌っている人たちをしらけさせてしまいます。
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知りませんでした (きっちん)
2006-07-01 08:06:24
よーさん、おはよう!



滝廉太郎といえば日本を代表する作曲家。

「荒城の月」や「花」は、あまりにも有名です。

でも23歳の若さで亡くなったのは初めて知りました。

映画化されていたのも初耳です。

機会があったら、見てみたいです。
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豊後竹田 (ザ・ランス(石原))
2006-07-01 10:15:59
 よーさん、皆さん、こんにちわ。



 滝廉太郎の故郷、豊後竹田には20年ほど昔に行ったことがあります。岡城址で、昼だったか夕方だったかに流れる「荒城の月」には、じんとくるものがありましたね。



 そーですか、「花」のカラオケもあるんですか。私は高校時代、クラス対抗の合唱コンクールでやったので、アルトのパートなら自信あります。

 ソーソミ、ミファラソファミ、ミーミソ-ドードーシー・・
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 (よーさん)
2006-07-02 09:57:48
Lindaさん、花・・ワインちゃんとの二部合唱いいですね!演歌などより余程いいですよ。

きっちんさん、書き込みありがとう!

滝廉太郎本当に若くしてなくなりましたね!

映画また、ビデオでも見られるといいですよ。

ザ・ランス(石原)さん、コーラスやられていたのですか。私は、小学校時代高い声だったのに、中学生で、急に低い声に、声変わり。それで、歌が上手く歌えなくなっちゃいましたよ。・・言い訳?(^0^)
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滝廉太郎 (よーさん)
2006-07-03 06:48:03
ザ・ランス(石原)さん、私も仕事で九州に暫く住んでいましたので、大分の人に岡城址にも連れて行ってもらったことがあります。

それにしても、如何して、世の中こう優秀な人は若くして亡くなるのでしょうかね~。憎たれっこ世にはばかるといいますが、私なんか・・・そうなりたくないと思うのだが・・・。
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