1889 (明治22)年4月1日 「神戸市」(神戸区・荒田村・葺合村の合併)が誕生した。
神戸が日本の主要な国際貿易港として発展した直接のきっかけは、1868(慶応3)年の開港である。
長い間鎖国政策をとっていた日本もマシュー・ペリーやタウンゼント・ハリスの来航により開国することになるが、 神戸の場合、1858年7月29日(安政5年6月19日)アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・オランダの5カ国との不平等条約の一つである日米修好通商条約で開港することが決定された。
各国は開港場のひとつを畿内におくことを基本的要求のひとつとしていたが、幕府は、大坂開港を避けることを譲歩の限界として、当初堺の開港を考えていた。しかし、堺周辺に皇陵(天皇陵参照)が多いことから、最終的(1863 (文久3 )年)に兵庫に替えられた。
1867(慶応3)年4月13日、日本政府と諸外国の外交代表の間では「兵庫港並びに大坂に於て外国人居留地を定むる取極」十二条が締結され、それに基づいて、当初、1868年1月1日(慶応3年12月7日)完成を目途に幕府によって開始されるが、このとき、開港場は、兵庫ではなく事実上神戸に変更となった(「兵庫津」より東にある、「海軍操練所」があった辺りを「兵庫港」として開港)。その理由は、すでに市街地として発展していた兵庫で開港場に附属する諸施設の設置が不可能であることが挙げられたが、そこには、市街地を避け、外国人と日本人との接触をできるかぎり少なくしようとする幕府の意図があったようだ(兵庫港参照)。開港が決定すると居留地の造成が始った。居留地の範囲は、現在の地名で言うと、西国街道、東はフラワーロード(元生田川)、西は鯉川筋(もともとは川)と、三方を水で囲まれた海岸沿いの25町余りの土地でありここも、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢であった。全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限された事実上の租界である。
しかし、工事は幕末の混乱期であり予定期限内に完成できなかったため、その間の臨時措置として1868年3月26日(慶応4年3月3日)に「兵庫雑居地約定」が取り交わされることとなり、雑居地域は生田川以西、宇治川(神戸市中央区役所・宇治川参照)以東、海岸から山麓までと画定された。最終的に居留地造成工事は1868年8月4日(慶応4年6月16日)に完成したが、雑居地は居留地完成後も存続した。
この雑居地は横浜などの他の開港地にはない神戸特有のもので、居留地の造成が遅れ、イギリス・フランス・オランダの三国代表から苦情が出たため、政府が臨時の措置として設定したものだが、居留地完成後も外国側が既得権として存続を望んだために維持され続けたもの。この範囲には外国人が居住が認められ、日本人がこれら外国人に対して土地や家屋を貸与すること、また外国人が家屋を買って普請することも自由となった。山手の山麓は、恰好な住宅地として外国人に注目され、明治20年代には多くの異人館が建設された。北野町山本通周辺には1977年放送のNHK連続テレビ小説でなどで広く知られるようになった「風見鶏の館」や建物の外観がまるで魚のうろこのように見える模様で有名な国指定登録文化財「うろこの館」など、現在は神戸の観光名所となっている。又、居留地の北境界にそった雑居地には、清国人が集住するいわゆる南京町が形成された。これが現在観光客のみならず地元の人にも非常に人気のある「南京町」である。
外国人居留地は、イギリス人土木技師、J.W..W.ハートの設計によって、最初から整然と整備されたヨーロッパ風の街が計画的に造られた。中央に幅90フィート(約20m)の南北路(京町通)が通され、さらに居留地を一巡する道路と、東西に2本、南北に4本の道路が通され、居留地全体は23街区、126区に分割された。海岸通にはグリーンベルト(緑地帯)とプロムナード(遊歩道)が設けられ、各道路には歩車道区別が施され、下水道、ガス灯などの施設も整備された。
その結果、明治4年4月17日の英字新聞『The Far East』は「神戸バンド」と題して神戸居留地の様子を次のように描いているという。
”大阪の港は兵庫で、兵庫の外国人居留地は神戸である。まだ三年しか経っていないけれども、日本におけるすべての開港場のなかで、もっとも活気を呈している。すでに現在市民たちは激賞できるだけの事業や生活水準の向上を示している。それは、最初の段階において、横浜が持ち得なかった長所である。これは日本人たちによって気儘に計画されたものでなく、一人のヨーロッパ人の土木技師を測量の顧 問にしたからである。その結果ほどよい広さと規則的な町割りが計画された。(略)われわれの同業者である"ザ・ジャパン・メール"は、その最近号で次のように言っている。"神戸はたしかに美しく、東洋における居留地として、もっともよく設計されている。そこには、中国や日本に似ていないものがある。私は神戸を長崎の美しさや、上海の富と比較しようとしているのではなく、そこにある広々とした清潔な街路、十分な歩道、美しい背後の丘や、湾内の輝くさざなみ、そしてこぎれいで心地のよい建築は、すべて目新しく、魅力のあるものなのである”・・・と(神戸市文書館「神戸居留地の誕生」より)。
開港の式典のあった日、神戸の沖合いに停泊する黒い外国船団から21発の祝砲がとどろき、波止場を埋めた村人たちはの歓声と拍手の中で、港は開かれた。西国街道沿いのひなびた農・漁村に過ぎなかった神戸は、この開港とそれに伴なう外国人居留地の造成によって、文化への急速な足取りをたどっていった。それからざっと50年年後、1921(大正10)年3月に行われた神戸開港50年を祝う式典で、当時の桜井鉄太郎市長は「開港当時人口2万人、年間貿易額百余万円だった神戸は、地の利、人の和によって他に礼を見ないほど急激に興隆し、今や人口六十余万人、貿易額15億円に達し、我が国第3位の大都市としてますます発展しようとしている・・・・」と式辞を述べた(市民のグラフ神戸N0170 より)。翌1922(大正11)年5月には、1509万2千円の巨費と16年を費やした歴史的な神戸築港第1期工事が完成し、さらに1923(大正12)年9月1日、関東地方に突然起こった大地震(関東大震災)は、日本中を震撼させたが、鉄道の普通のため救援物資の輸送基地になった神戸には、皮肉にも港湾機能が壊滅した東京や横浜の業者がどっとやってきて、港は一層活況を呈するようになった。
現在の神戸の観光資源の多くは、近代の幕開けともいえる開港とそれにともなう居留地や雑居地・南京街の形成に、その淵源が見られ、又、産業や文化面ににおいてもこの時期に居留地に居住していた外国人の影響は大きい。しかし、1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災で壊滅状態に陥っていた神戸は、皮肉にも1923(大正12)年9月1日の関東大震災のときとは、逆の現象が起きてしまった。現在神戸の街や港、家並みなどはほぼ復興を遂げてはきたものの、残念ながら震災後にそれまで入港していた船や外国領事館が神戸から出て行ってしまったままとなっており、又、産業についても他都市へ移転したところが多く、神戸の経済が悪化して以来、神戸市株式会社と言われていた神戸市はそれなりの努力はしているもののなかなかその努力が実らないのが現実である。しかし、開港以来の、神戸の街並みの美しさだけは今でもどこの街にも負けないだろう。
神戸 泣いてどうなるのか
捨てられた我身が
みじめになるだけ
神戸 船の灯うつす
濁り水の中に
靴を投げ落とす
そしてひとつが 終わり
そしてひとつが 生まれ
夢の続き 見せてくれる
相手 捜すのよ
「そして神戸」(昭和47年)
千家和也 作詞 浜 圭介 作曲 歌・内山田洋とクール・ファイブ。以下で曲が聞けます。
http://www15.plala.or.jp/hiroiosa/index-ikinuki-mysong-sositekobe.htm
今はファッションと観光が売り物の神戸。お洒落な町神戸へ観光にこられた時には、一つ一つの建物だけでなく、街並みの美しさそのものを堪能してくださいね。特に夜の夜景は綺麗だよ。六甲山上からの夜景は昔から有名だが、ハーバーランドからのメリケンパーク、そして、ポートアイランドにかけての港から見る夜景も素敵だよ。
メリケンパークにあるメリケン波止場は、1868(慶応4年)年に明治政府が兵庫港第3波止場として開設。当時、波止場のすぐ近くに米国領事館があったことから、「アメリカン」が訛って「メリケン」波止場と呼ばれるようになった。
神戸のことは私のホームページ「よーさんの我楽多部屋」の「nostalgia神戸」もあるので、興味のある人は見てね。以下です。
「nostalgia神戸」→http://www.geocities.jp/yousan02/nostalgia-kobe.htm
(画像は、開港式典が行われた運上所〔後の神戸税関〕の建物を囲んで「エエジャナイカ、エエジャナイカ」と踊り歩く人々を描いた絵。市民にグラフ神戸No170より)
五大都市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E9%83%BD%E5%B8%82
神戸市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82
神戸市ホームページへようこそ
http://www.city.kobe.jp/
神戸市文書館
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/map/suma11_20.html
神戸の歴史探訪/神戸市の誕生
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/17/010/area/rekisi/top05.html
外国人居留地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B1%85%E7%95%99%E5%9C%B0
政令指定都市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E4%BB%A4%E6%8C%87%E5%AE%9A%E9%83%BD%E5%B8%82
中野文庫 - 六大都市行政監督特例 (五大都市行政監督特例)
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rt15-212.htm
鎖国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
日米修好通商条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
天皇陵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B5%E5%A2%93
※兵庫港
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kk/kk04/kk04003.htm
神戸旧居留地オフィシャルサイト
http://www.kobe-kyoryuchi.com/index.htm
異人館ネット・異人map
http://www.ijinkan.net/ijinkan/index.html
神戸家具の変遷と可能性
http://www.r-nagata.co.jp/kobekagu/index.html
神戸市観光名所壁紙写真集・神戸市観光情報
http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/index.htm
ええじゃないか - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B
神戸が日本の主要な国際貿易港として発展した直接のきっかけは、1868(慶応3)年の開港である。
長い間鎖国政策をとっていた日本もマシュー・ペリーやタウンゼント・ハリスの来航により開国することになるが、 神戸の場合、1858年7月29日(安政5年6月19日)アメリカ・イギリス・ロシア・フランス・オランダの5カ国との不平等条約の一つである日米修好通商条約で開港することが決定された。
各国は開港場のひとつを畿内におくことを基本的要求のひとつとしていたが、幕府は、大坂開港を避けることを譲歩の限界として、当初堺の開港を考えていた。しかし、堺周辺に皇陵(天皇陵参照)が多いことから、最終的(1863 (文久3 )年)に兵庫に替えられた。
1867(慶応3)年4月13日、日本政府と諸外国の外交代表の間では「兵庫港並びに大坂に於て外国人居留地を定むる取極」十二条が締結され、それに基づいて、当初、1868年1月1日(慶応3年12月7日)完成を目途に幕府によって開始されるが、このとき、開港場は、兵庫ではなく事実上神戸に変更となった(「兵庫津」より東にある、「海軍操練所」があった辺りを「兵庫港」として開港)。その理由は、すでに市街地として発展していた兵庫で開港場に附属する諸施設の設置が不可能であることが挙げられたが、そこには、市街地を避け、外国人と日本人との接触をできるかぎり少なくしようとする幕府の意図があったようだ(兵庫港参照)。開港が決定すると居留地の造成が始った。居留地の範囲は、現在の地名で言うと、西国街道、東はフラワーロード(元生田川)、西は鯉川筋(もともとは川)と、三方を水で囲まれた海岸沿いの25町余りの土地でありここも、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢であった。全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限された事実上の租界である。
しかし、工事は幕末の混乱期であり予定期限内に完成できなかったため、その間の臨時措置として1868年3月26日(慶応4年3月3日)に「兵庫雑居地約定」が取り交わされることとなり、雑居地域は生田川以西、宇治川(神戸市中央区役所・宇治川参照)以東、海岸から山麓までと画定された。最終的に居留地造成工事は1868年8月4日(慶応4年6月16日)に完成したが、雑居地は居留地完成後も存続した。
この雑居地は横浜などの他の開港地にはない神戸特有のもので、居留地の造成が遅れ、イギリス・フランス・オランダの三国代表から苦情が出たため、政府が臨時の措置として設定したものだが、居留地完成後も外国側が既得権として存続を望んだために維持され続けたもの。この範囲には外国人が居住が認められ、日本人がこれら外国人に対して土地や家屋を貸与すること、また外国人が家屋を買って普請することも自由となった。山手の山麓は、恰好な住宅地として外国人に注目され、明治20年代には多くの異人館が建設された。北野町山本通周辺には1977年放送のNHK連続テレビ小説でなどで広く知られるようになった「風見鶏の館」や建物の外観がまるで魚のうろこのように見える模様で有名な国指定登録文化財「うろこの館」など、現在は神戸の観光名所となっている。又、居留地の北境界にそった雑居地には、清国人が集住するいわゆる南京町が形成された。これが現在観光客のみならず地元の人にも非常に人気のある「南京町」である。
外国人居留地は、イギリス人土木技師、J.W..W.ハートの設計によって、最初から整然と整備されたヨーロッパ風の街が計画的に造られた。中央に幅90フィート(約20m)の南北路(京町通)が通され、さらに居留地を一巡する道路と、東西に2本、南北に4本の道路が通され、居留地全体は23街区、126区に分割された。海岸通にはグリーンベルト(緑地帯)とプロムナード(遊歩道)が設けられ、各道路には歩車道区別が施され、下水道、ガス灯などの施設も整備された。
その結果、明治4年4月17日の英字新聞『The Far East』は「神戸バンド」と題して神戸居留地の様子を次のように描いているという。
”大阪の港は兵庫で、兵庫の外国人居留地は神戸である。まだ三年しか経っていないけれども、日本におけるすべての開港場のなかで、もっとも活気を呈している。すでに現在市民たちは激賞できるだけの事業や生活水準の向上を示している。それは、最初の段階において、横浜が持ち得なかった長所である。これは日本人たちによって気儘に計画されたものでなく、一人のヨーロッパ人の土木技師を測量の顧 問にしたからである。その結果ほどよい広さと規則的な町割りが計画された。(略)われわれの同業者である"ザ・ジャパン・メール"は、その最近号で次のように言っている。"神戸はたしかに美しく、東洋における居留地として、もっともよく設計されている。そこには、中国や日本に似ていないものがある。私は神戸を長崎の美しさや、上海の富と比較しようとしているのではなく、そこにある広々とした清潔な街路、十分な歩道、美しい背後の丘や、湾内の輝くさざなみ、そしてこぎれいで心地のよい建築は、すべて目新しく、魅力のあるものなのである”・・・と(神戸市文書館「神戸居留地の誕生」より)。
開港の式典のあった日、神戸の沖合いに停泊する黒い外国船団から21発の祝砲がとどろき、波止場を埋めた村人たちはの歓声と拍手の中で、港は開かれた。西国街道沿いのひなびた農・漁村に過ぎなかった神戸は、この開港とそれに伴なう外国人居留地の造成によって、文化への急速な足取りをたどっていった。それからざっと50年年後、1921(大正10)年3月に行われた神戸開港50年を祝う式典で、当時の桜井鉄太郎市長は「開港当時人口2万人、年間貿易額百余万円だった神戸は、地の利、人の和によって他に礼を見ないほど急激に興隆し、今や人口六十余万人、貿易額15億円に達し、我が国第3位の大都市としてますます発展しようとしている・・・・」と式辞を述べた(市民のグラフ神戸N0170 より)。翌1922(大正11)年5月には、1509万2千円の巨費と16年を費やした歴史的な神戸築港第1期工事が完成し、さらに1923(大正12)年9月1日、関東地方に突然起こった大地震(関東大震災)は、日本中を震撼させたが、鉄道の普通のため救援物資の輸送基地になった神戸には、皮肉にも港湾機能が壊滅した東京や横浜の業者がどっとやってきて、港は一層活況を呈するようになった。
現在の神戸の観光資源の多くは、近代の幕開けともいえる開港とそれにともなう居留地や雑居地・南京街の形成に、その淵源が見られ、又、産業や文化面ににおいてもこの時期に居留地に居住していた外国人の影響は大きい。しかし、1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災で壊滅状態に陥っていた神戸は、皮肉にも1923(大正12)年9月1日の関東大震災のときとは、逆の現象が起きてしまった。現在神戸の街や港、家並みなどはほぼ復興を遂げてはきたものの、残念ながら震災後にそれまで入港していた船や外国領事館が神戸から出て行ってしまったままとなっており、又、産業についても他都市へ移転したところが多く、神戸の経済が悪化して以来、神戸市株式会社と言われていた神戸市はそれなりの努力はしているもののなかなかその努力が実らないのが現実である。しかし、開港以来の、神戸の街並みの美しさだけは今でもどこの街にも負けないだろう。
神戸 泣いてどうなるのか
捨てられた我身が
みじめになるだけ
神戸 船の灯うつす
濁り水の中に
靴を投げ落とす
そしてひとつが 終わり
そしてひとつが 生まれ
夢の続き 見せてくれる
相手 捜すのよ
「そして神戸」(昭和47年)
千家和也 作詞 浜 圭介 作曲 歌・内山田洋とクール・ファイブ。以下で曲が聞けます。
http://www15.plala.or.jp/hiroiosa/index-ikinuki-mysong-sositekobe.htm
今はファッションと観光が売り物の神戸。お洒落な町神戸へ観光にこられた時には、一つ一つの建物だけでなく、街並みの美しさそのものを堪能してくださいね。特に夜の夜景は綺麗だよ。六甲山上からの夜景は昔から有名だが、ハーバーランドからのメリケンパーク、そして、ポートアイランドにかけての港から見る夜景も素敵だよ。
メリケンパークにあるメリケン波止場は、1868(慶応4年)年に明治政府が兵庫港第3波止場として開設。当時、波止場のすぐ近くに米国領事館があったことから、「アメリカン」が訛って「メリケン」波止場と呼ばれるようになった。
神戸のことは私のホームページ「よーさんの我楽多部屋」の「nostalgia神戸」もあるので、興味のある人は見てね。以下です。
「nostalgia神戸」→http://www.geocities.jp/yousan02/nostalgia-kobe.htm
(画像は、開港式典が行われた運上所〔後の神戸税関〕の建物を囲んで「エエジャナイカ、エエジャナイカ」と踊り歩く人々を描いた絵。市民にグラフ神戸No170より)
五大都市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A4%A7%E9%83%BD%E5%B8%82
神戸市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82
神戸市ホームページへようこそ
http://www.city.kobe.jp/
神戸市文書館
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/map/suma11_20.html
神戸の歴史探訪/神戸市の誕生
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/17/010/area/rekisi/top05.html
外国人居留地 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%B1%85%E7%95%99%E5%9C%B0
政令指定都市 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E4%BB%A4%E6%8C%87%E5%AE%9A%E9%83%BD%E5%B8%82
中野文庫 - 六大都市行政監督特例 (五大都市行政監督特例)
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rt15-212.htm
鎖国 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%96%E5%9B%BD
日米修好通商条約 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E9%80%9A%E5%95%86%E6%9D%A1%E7%B4%84
天皇陵 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B5%E5%A2%93
※兵庫港
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kk/kk04/kk04003.htm
神戸旧居留地オフィシャルサイト
http://www.kobe-kyoryuchi.com/index.htm
異人館ネット・異人map
http://www.ijinkan.net/ijinkan/index.html
神戸家具の変遷と可能性
http://www.r-nagata.co.jp/kobekagu/index.html
神戸市観光名所壁紙写真集・神戸市観光情報
http://kobe-mari.maxs.jp/kobe/index.htm
ええじゃないか - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%88%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%8B
特に若い人達は、世の中が悪い、政治が悪いと批判ばかりするが、投票にも行かない。そんな人が文句を言う資格なんてありませんよ。昔から、世の中を変えてきたのは若者です。世の中が悪ければ、自分達が変えてゆけば良い。屁理屈はこねて行動しない無関心層が今の世の中を作って来たといえるでしょうね。
誰にも文句は言えない。今の世の中は、今の人達が作ってきたことになるのですからね。
神戸は震災でエライ目に遭いましたが大阪は、震災はたいしたことがなかったのにボロボロです。