
くりっとした大きな目の裸んぼの人形「キューピー」の生みの親は、ローズ・オニールという名の女性でである。1874(明治 7)年の今日・6月25日に、アメリカのペンシルバニア州で誕生し、幼い頃から芸術の才能を発揮し、社会に出てからはイラストレーターとして活躍していたという。
キューピー(Kewpie)は、1909(明治42)年、彼女がローマ神話の愛の神キューピッドをモチーフとしてアメリカの女性誌「レディース・ホーム・ジャーナル」(Ladies' Home Journal)の絵物語に描いたイラストキューピーとして登場した。「KEWPIE」という名称が公に記載されたのはこれが最初だといわれている。この女性誌に描いた絵物語の題名は「The KEWPIES' Christmas Frolic」(「キューピーのクリスマス大はしゃぎ」)で、貧しい家の女の子にキューピーがプレゼントをする話だったそうだ。愛らしさで人気を呼び、1912(大正元~2)年にドイツでビスク人形(ビスクとは、2度焼きした陶器。詳しくは以下参考の※1:「BisqueDoll」参照)が出来、その後、アメリカでは、カードのほか、せっけん、アイスクリームの宣伝に利用され、「女性に参政権を」と旗を掲げて歩くキューピーを描き政治ポスターに使われたこともあったという(2010年3月31日朝日新聞)。
しかし、Wikipediaによれば、このキューピーは、1903(明治36)年の暮れ、オニールは、キューピッドをモチーフとしたイラストキューピーをアメリカの雑誌「COSMOPOLITAN」に発表。その後、1904年・1905年・1908年に、同様のイラストを雑誌に発表しており、1909年までに作者自身が非公式に編集者などの打ち合わせの際などにキューピーと呼んでいたキャラクターやイラストのあることがわかっているそうだ。このキューピーの起源について、大阪高裁(H16(ネ)1797)において、「1903年のCOSMOPOLITANに掲載されたキューピーのイラストには、すでに現在のキューピーの特徴が現れている」旨の記載があり、「1909年のレディース・ホーム・ジャーナルに掲載されたキューピーのイラストは1903年のイラストの2次的著作物(ある作品をもとにして、その作品の著作者でない人が)である」と認定されているようだ。この件は、最後に、又簡単に書くことにする。
当初のキューピーは、ほっそりしたものであったが、2~3年経つとコロコロと丸味のある現代のイメージのキャラクターが出来上がり、1913(大正2)年3月4日に、登録第43680号意匠登録としてアメリカ合衆国連邦特許商標庁に登録され、今日親しまれているキューピー人形が誕生した。作者の誕生日に因んで、6月25日は「キューピーデイ」とされている。昨・2009年にはキューピー誕生100周年を迎えており、(株)ローズオニールキューピー・インターナショナル並びに日本キューピークラブの呼びかけによって100周年を祝うイベントが行なわれていたようだ(以下参考の※2日本キューピークラブ公式HP参照。ローズオニールのこと、キューピー人形のことなどここ詳しく紹介されている)。
ドイツの複数の工場で量産されたビスク・ドール製のキューピー人形はアメリカで人気を博し、オニール自身の要請によりキューピー(QP)の意匠登録のされた1913(大正2)年には、日本でも作られることになったことが「20世紀の天使たち キューピーのデザイン」20ページに書かれているという(Wikipedia)。
大正時代を指して大正デモクラシーとか大正ロマンチシズムとか呼ぶが、これらは社会の政治的風俗的な動きに比重を置いた表現だが社会に何となくゆとりがあり、人々が生活を謳歌していたことを感じさせるが、工業化の進展と社会のゆとりを背景に、子供たちの世界にも新しく豊かな文化が広がった時代である。
実際、この時代は第一次世界大戦(1914年~1918年)、米騒動(1918年)、スペインかぜ(1918年~19年)の流行など社会を震撼させる事件が相次ぎながらも、これまでと比べて余裕を感じさせる時代でもあった。そして、そのゆとりは子供の世界にも及び、1918(大正18)年から翌年にかけて、ひとつの時代的特徴をなすものとして、鈴木三重吉や北原白秋を中心に、童話と童謡の児童雑誌『赤い鳥』(1918年)が、翌年には『金の船』などが相次いで創刊され、官製ではない全く新しい童謡という子供向けの歌が作られるようになり、「童話・童謡ブーム」が巻き起こった。それまでの子供向けの歌は「唱歌」と呼ばれる文部省の指導で作られていたものであった。これらの中には「蝶々」や「鳩(ハトポッポ)」のような子供がうたいやすい歌もあったが、『紀元節』や「二宮金次郎」のような「官製」むき出しの歌も少なくなかった(唱歌や童謡は以下参考の※3又※4参照)。
男子のチャンバラ、女の子のキューピー人形と子供心を揺さぶるものが流行したのもこの頃である。
チャンバラは、尾上松之助(通称目玉の松っちゃん)の忍者ものの活動写真が人気を集めて以来、男子の遊びとして定着したものらしいが、一方キューピー人形は大正初めにアメリカで考案されたものが大正7年頃には、日本でセルロイドを材料に大量生産され、爆発的な人気を呼んだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」)もので、以来女の子の遊びの定番として現在でも残っている。
「青い眼をした お人形は アメリカ生まれの セルロイド (以下略)」・・・。
野口雨情が「青い眼の人形」の詩を発表したのは、1921(大正10)年の『金の船』(12月号)であった。これに本居長世が作曲したのが童謡『青い眼の人形』で、1923(大正12)年にはアメリカでも演奏され、好評を博していたという。以下参考の※5:「かつしか発信:セルロイド浪漫」を見ると、“セルロイドが日本にはじめて輸入されたのは、1877(明治10)年。そして、日本で国産セルロイドの生地が出来たのは、1905(明治38)年であるが、1913(大正2)年には永峰清次郎と言う人物が空気の吹き込みによるセルロイド人形をつくり特許を取得、三越で販売し人気を得た。”・・・とある。又、“その翌年には千種稔が東京葛飾区の四木に大規模な工場設立。1915(大正4)年には国産セルロイドを輸出。1928(昭和3)年にはセルロイドが輸出玩具の首位に。翌年にはセルロイド玩具の生産額が5~600万円、世界第一位となる”ともあり、これを見ていても1913(大正2)年にアメリカで大人気となったキューピー人形が、先にも書いた、“オニール自身の要請によりキューピー(QP)の意匠登録のされた1913(大正2)年には、日本でも作られることになった”ということを明らかにしているのではないか。最初にアメリカから入ってきたキューピー人形は、野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがビスクドール(素焼き)であったろうが、この詩が書かれた頃には既にセルロイド製のキューピーが広まっていたであろうことも推測できるのだが・・・。
よく、「青い眼をした お人形」と言えば、日露戦争後に日本が満州権益を得ると、中国進出をうかがっていた米国とその権益を巡り、両国間の政治的緊張が高まっていた(このことは前にこのブログ神戸大空襲の日でも書いた)昭和初期から第二次世界大戦前にかけて、文化的にその緊張を和らげようと日米の人形交換を進めた渋沢栄一と「青い目の人形」、つまり、米国から日本の子供たちに贈られた「友情の人形」をテーマーにしたものと解するする人もいるようだが、それは、この童謡が作られた5年も後の1928(昭和2)年以降のことであり、両者に何のつながりもないことは明らかであり、野口雨情が、当時、セルロイドで出来たキューピーが広く子供達に人気があるのを見て、この歌の歌詞を書いたのは間違いないだろう。むしろ、後に使われる「青い目の人形」の呼称は、雨情の詩に因んで付けられたものと思われる。この「青い目の人形」のことは、以下参考の※6:「青い目の人形資料館」が詳しく書かれてある。
キューピーの日(Ⅱ)と参考のページ へ
キューピー(Kewpie)は、1909(明治42)年、彼女がローマ神話の愛の神キューピッドをモチーフとしてアメリカの女性誌「レディース・ホーム・ジャーナル」(Ladies' Home Journal)の絵物語に描いたイラストキューピーとして登場した。「KEWPIE」という名称が公に記載されたのはこれが最初だといわれている。この女性誌に描いた絵物語の題名は「The KEWPIES' Christmas Frolic」(「キューピーのクリスマス大はしゃぎ」)で、貧しい家の女の子にキューピーがプレゼントをする話だったそうだ。愛らしさで人気を呼び、1912(大正元~2)年にドイツでビスク人形(ビスクとは、2度焼きした陶器。詳しくは以下参考の※1:「BisqueDoll」参照)が出来、その後、アメリカでは、カードのほか、せっけん、アイスクリームの宣伝に利用され、「女性に参政権を」と旗を掲げて歩くキューピーを描き政治ポスターに使われたこともあったという(2010年3月31日朝日新聞)。
しかし、Wikipediaによれば、このキューピーは、1903(明治36)年の暮れ、オニールは、キューピッドをモチーフとしたイラストキューピーをアメリカの雑誌「COSMOPOLITAN」に発表。その後、1904年・1905年・1908年に、同様のイラストを雑誌に発表しており、1909年までに作者自身が非公式に編集者などの打ち合わせの際などにキューピーと呼んでいたキャラクターやイラストのあることがわかっているそうだ。このキューピーの起源について、大阪高裁(H16(ネ)1797)において、「1903年のCOSMOPOLITANに掲載されたキューピーのイラストには、すでに現在のキューピーの特徴が現れている」旨の記載があり、「1909年のレディース・ホーム・ジャーナルに掲載されたキューピーのイラストは1903年のイラストの2次的著作物(ある作品をもとにして、その作品の著作者でない人が)である」と認定されているようだ。この件は、最後に、又簡単に書くことにする。
当初のキューピーは、ほっそりしたものであったが、2~3年経つとコロコロと丸味のある現代のイメージのキャラクターが出来上がり、1913(大正2)年3月4日に、登録第43680号意匠登録としてアメリカ合衆国連邦特許商標庁に登録され、今日親しまれているキューピー人形が誕生した。作者の誕生日に因んで、6月25日は「キューピーデイ」とされている。昨・2009年にはキューピー誕生100周年を迎えており、(株)ローズオニールキューピー・インターナショナル並びに日本キューピークラブの呼びかけによって100周年を祝うイベントが行なわれていたようだ(以下参考の※2日本キューピークラブ公式HP参照。ローズオニールのこと、キューピー人形のことなどここ詳しく紹介されている)。
ドイツの複数の工場で量産されたビスク・ドール製のキューピー人形はアメリカで人気を博し、オニール自身の要請によりキューピー(QP)の意匠登録のされた1913(大正2)年には、日本でも作られることになったことが「20世紀の天使たち キューピーのデザイン」20ページに書かれているという(Wikipedia)。
大正時代を指して大正デモクラシーとか大正ロマンチシズムとか呼ぶが、これらは社会の政治的風俗的な動きに比重を置いた表現だが社会に何となくゆとりがあり、人々が生活を謳歌していたことを感じさせるが、工業化の進展と社会のゆとりを背景に、子供たちの世界にも新しく豊かな文化が広がった時代である。
実際、この時代は第一次世界大戦(1914年~1918年)、米騒動(1918年)、スペインかぜ(1918年~19年)の流行など社会を震撼させる事件が相次ぎながらも、これまでと比べて余裕を感じさせる時代でもあった。そして、そのゆとりは子供の世界にも及び、1918(大正18)年から翌年にかけて、ひとつの時代的特徴をなすものとして、鈴木三重吉や北原白秋を中心に、童話と童謡の児童雑誌『赤い鳥』(1918年)が、翌年には『金の船』などが相次いで創刊され、官製ではない全く新しい童謡という子供向けの歌が作られるようになり、「童話・童謡ブーム」が巻き起こった。それまでの子供向けの歌は「唱歌」と呼ばれる文部省の指導で作られていたものであった。これらの中には「蝶々」や「鳩(ハトポッポ)」のような子供がうたいやすい歌もあったが、『紀元節』や「二宮金次郎」のような「官製」むき出しの歌も少なくなかった(唱歌や童謡は以下参考の※3又※4参照)。
男子のチャンバラ、女の子のキューピー人形と子供心を揺さぶるものが流行したのもこの頃である。
チャンバラは、尾上松之助(通称目玉の松っちゃん)の忍者ものの活動写真が人気を集めて以来、男子の遊びとして定着したものらしいが、一方キューピー人形は大正初めにアメリカで考案されたものが大正7年頃には、日本でセルロイドを材料に大量生産され、爆発的な人気を呼んだ(アサヒクロニクル「週間20世紀」)もので、以来女の子の遊びの定番として現在でも残っている。
「青い眼をした お人形は アメリカ生まれの セルロイド (以下略)」・・・。
野口雨情が「青い眼の人形」の詩を発表したのは、1921(大正10)年の『金の船』(12月号)であった。これに本居長世が作曲したのが童謡『青い眼の人形』で、1923(大正12)年にはアメリカでも演奏され、好評を博していたという。以下参考の※5:「かつしか発信:セルロイド浪漫」を見ると、“セルロイドが日本にはじめて輸入されたのは、1877(明治10)年。そして、日本で国産セルロイドの生地が出来たのは、1905(明治38)年であるが、1913(大正2)年には永峰清次郎と言う人物が空気の吹き込みによるセルロイド人形をつくり特許を取得、三越で販売し人気を得た。”・・・とある。又、“その翌年には千種稔が東京葛飾区の四木に大規模な工場設立。1915(大正4)年には国産セルロイドを輸出。1928(昭和3)年にはセルロイドが輸出玩具の首位に。翌年にはセルロイド玩具の生産額が5~600万円、世界第一位となる”ともあり、これを見ていても1913(大正2)年にアメリカで大人気となったキューピー人形が、先にも書いた、“オニール自身の要請によりキューピー(QP)の意匠登録のされた1913(大正2)年には、日本でも作られることになった”ということを明らかにしているのではないか。最初にアメリカから入ってきたキューピー人形は、野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがビスクドール(素焼き)であったろうが、この詩が書かれた頃には既にセルロイド製のキューピーが広まっていたであろうことも推測できるのだが・・・。
よく、「青い眼をした お人形」と言えば、日露戦争後に日本が満州権益を得ると、中国進出をうかがっていた米国とその権益を巡り、両国間の政治的緊張が高まっていた(このことは前にこのブログ神戸大空襲の日でも書いた)昭和初期から第二次世界大戦前にかけて、文化的にその緊張を和らげようと日米の人形交換を進めた渋沢栄一と「青い目の人形」、つまり、米国から日本の子供たちに贈られた「友情の人形」をテーマーにしたものと解するする人もいるようだが、それは、この童謡が作られた5年も後の1928(昭和2)年以降のことであり、両者に何のつながりもないことは明らかであり、野口雨情が、当時、セルロイドで出来たキューピーが広く子供達に人気があるのを見て、この歌の歌詞を書いたのは間違いないだろう。むしろ、後に使われる「青い目の人形」の呼称は、雨情の詩に因んで付けられたものと思われる。この「青い目の人形」のことは、以下参考の※6:「青い目の人形資料館」が詳しく書かれてある。
キューピーの日(Ⅱ)と参考のページ へ