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「藤村忌」詩人・小説家・島崎藤村の忌日

2006-08-22 | 人物
今日(8月22日)は「藤村忌」詩人・小説家・島崎藤村の1943(昭和18)年の忌日。
島崎 藤村(本名は春樹)、は、1872(明治5)年3月25日長野県木曽郡山口村神坂馬の生まれ。生家は代々、本陣や庄屋、問屋をつとめる旧家であった。
父の正樹はその17代当主だった。藤村の代表的な小説『夜明け前』の主人公青山半蔵のモデルとし、藤村に与えた文学的な影響は多大であったと言われている。
明治女学院や東北学院で教鞭を取る。文学活動は明治学院を卒業後から活発となり、詩や小説、評論などを『文学界』に発表。そして、1897(明治30)年、最初の詩集である『若菜集』を発表して文壇に華々しく登場、同じく1901(明治34)年の『落梅集』によってその名声は決定的なものとなり、明治浪漫主義の開花の先端となった。その後、島崎藤村はロマンティシズムを離れ散文の世界へ、つまり詩人から小説家へと転身をはかり、1906(明治39)年、被差別出身の主人公、瀬川丑松(うしまつ)の苦悩と告白をえがいた問題作『破戒』を発表し小説家としての地位をも確立し、1936(昭和11)年には大作『夜明け前』を生むこととなる。小説としては上記の2作のほか自伝的な小説、1908年(明治41)年の『春』、1910~11(明治43~44)『家』(上巻)(下巻)、1918~19(大正7~8)年『新生』などがある。
「名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子(ヤシ)の実ひとつ
  故郷(フルサト)の岸を離れて 汝(ナレ)はそも 波に幾月」
唱歌として有名な「椰子の実」は、『落梅集』に記載された詩に山田耕筰門下の大中寅二(作曲家、オルガニスト)がメロディをつけたもので、柳田國男の「海上の道」に、この詩ができた由来が書かれていることでも有名であるが、柳田が海岸で椰子の実を拾ったエピソードを聞き、自身が姪との不倫の末にフランスに渡った時の寂しい生活の思い出とを重ね合わせて書いたものだそうである。
この藤村の「椰子の実」の詩碑は、渥美半島の先端である伊良湖岬から少し離れた日出ノ石門近くにある。柳田が藤村の椰子の実とかかわるエピソードなどは以下参考の「島崎藤村詩碑(「椰子の実」)」を見られると良い。
椰子の実の歌詞と曲は以下で↓
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/yashino_mi.htm
又、藤村の歌となった作品としては、ほかに「千曲川旅情の歌」もよく知られている。「千曲川旅情の歌」は、『落梅集』集冒頭に収められた「小諸なる古城のほとり」、後半の『千曲川旅情の詩』を、後に藤村自身が自選藤村詩抄にて『千曲川旅情の歌 一、二』として合わせたものである。この詩は「秋風の歌」(若菜集)や「椰子の実」(落梅集)と並んで藤村の秀作とされ、詩に歌われた小諸城址に歌碑が建立されている。幾度と無く曲が付けられ、多くの歌い手に歌われてきた。特に、「小諸なる…」に作曲した弘田龍太郎の歌曲作品「千曲川旅情の歌」(「小諸なる古城のほとり」)は広く演奏され、NHKのTV番組名曲アルバムなどでも度々放送されている。
小諸なる古城のほとり (千曲川旅情のうた)の歌詞と曲は以下でどうぞ↓
http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/komoronaru_kojyouno_hotori.htm
藤村の詩は文語詩であり、現在の歌謡曲の歌詞や、前衛的な詩と並べてみれば、古い感じがするかもしれないが、この詩の浪漫は、朗読してこそ伝わってくる。五七調のリズム、文語の響きが、なんと日本語に調和しているかを実感できると思う。是非一度声に出して、詩を朗読してみてほしいものだ。
藤村の代表的な小説『夜明け前』は誰もが一度は呼んだことがあると思うが、結構、難しい小説である。かなりの長編で、第1部と第2部に分かれ、ひたすら木曽路の馬籠の周辺にひそむ人々の生きた場面だけを扱っているが、幕末維新の約30年の時代の流れとその問題点を細部に扱った長編歴史小説とでもいえるものである。
この物語の主人公は青山半蔵であり、父の吉左衛門が馬籠の本陣・問屋・庄屋を兼ねた人だったので、半蔵はこれを譲りうけた。この半蔵が藤村の実父をモデルにしていることは冒頭に述べた。主人公の半蔵も「世直し」の理想を持つが、そんな彼の改革の意識よりもはるかに早く、時代は江戸を震源地として激変していった。藤村は日本の夜明けを担おうとした人々を、半蔵に届いた動向の範囲で詳細に綴っていく・・・。この大作「夜明け前」を1929(昭和4)年~1935(昭和10)年にかけて完成させ、さらに1943(昭和18)年から中央公論に「東方の門」序の章から第二章までの連載をはじめるが、第三章執筆半ばの1943(昭和18)年8月21日、脳溢血のため倒れ「涼しい風だね」の言葉を最後に昏睡状態に陥り、翌22日71歳の生涯を閉じた。
木曾の旧家に生まれた藤村であったが、生家が衰えたため彼は早く親元を離れて苦労を重ね鬱屈した曖昧ともとれる慎重な青年に育った。父の正樹は国学に心酔して文明開化を批判し、過激な言動の末に座敷牢で狂死した。
藤村は『夜明け前』で、父の生涯を描きながらも、もっと深い日本の挫折の歴史を凝視していたという。そして父の挫折をフィルターにして、王政復古を夢みた群像の挫折を、さらには藤村自身の魂の挫折を塗りこめたのがこの小説だという。
一体幕末維新が目指していたものは何だったのだろうか?その方向は正しかったのか?、世の中に広まっていった「御一新」の現実は半蔵が考えていたようなものではなかった。それはたんなる西洋化にしかみえなかった。維新では王政復古を目指していたのではなかったのか?小説の主人公半蔵はふと古代への回帰を思い、王政の古(いにしえ)の再現を追慕するようになるが・・・・そういった半蔵の煩悶は、まさに藤村の疑問であった。
藤村はしばしば「親ゆづりの憂鬱」という言葉をつかっている。彼の家の血筋のことを言っている。父親と長姉が狂死した事。 すぐ上の友樹という兄が母親の過ちによって生を受けた不幸の人間であった事などが藤村の心をふさいだ。明治学院卒業後、終生慕った北村透谷と出会い「文学界」創刊に参加するが、自分にも不可解な恋の衝動が走った(姪とのあやまちについては『新生』に表されている。この姪との不倫事件を起こした時に、次兄の口から実は父にも同じ過ちが在った事を知る。 )ことから、かれは家族や恩人との絆をすてて漂白の旅に出た。最初は青春時代の関西放浪、そして、姪との不倫後のパリへの渡航。詩人としてそして、作家としての全ての名声を擲(なげう)っての日本脱出である。
そして、藤村は このような放浪の中から自分の生きざまを通して、「黒船」においつめられた父の生涯と、それを見つめなおす結果をもたらした。藤村は、しだいにこの父の姿の奥に自分が見るべき歴史を輸血する。それが藤村のいう「親ゆづりの憂鬱」をもって自己を「歴史の本質」に投入させるという作業になっていったというのである。私も学生時代にこの本は読んだが、今一度読み返してみたいと思う。
藤村の『夜明け前』はインターネット書籍の青空文庫でも読めるが、本を読む前に、以下参考の「松岡正剛の千夜千冊『夜明け前』島崎藤村」に目を通してから詠まれることをお勧めする。非常に判りやすく解説しているので、本を読む前の予備知識として最高だろう。
私の過去のブログに出てくる島崎藤村→今日は(10月30日)は「初恋の日」も時間があったら覗いてね。作詞:島崎藤村・作曲:若松甲唄:舟木一夫の「初恋 」も登場しているよ。
『夜明け前』他、島崎 藤村の作品は 以下参考の青空文庫で読める。
(画像は、島崎藤村。苦行僧のようなイメージの作家は、うちに激情の血筋を秘めていた。1934年8月。週刊20世紀・朝日クロニクル。より)
参考:
島崎藤村ーWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E5%B4%8E%E8%97%A4%E6%9D%91
青空文庫・作家別作品リスト:No.158・島崎 藤村
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person158.html#sakuhin_list_1
島崎藤村・角川文庫「島崎藤村詩集」より
http://www.nextftp.com/y_misa/touson/touson.html
島崎藤村詩碑(「椰子の実」)
http://www2u.biglobe.ne.jp/~nyori/yanagita/takaaki/yasi.html
松岡正剛の千夜千冊『夜明け前』島崎藤村
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0196.html
島崎藤村――近代の風
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/cozy-p/touson.html
藤村記念館
http://www.cnet-kiso.ne.jp/t/toson/