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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

文鳥の日

2015-10-24 | 記念日
日本記念日協会で今日10月24日の記念日を見ると、「文鳥の日」があった。
由緒を見ると、文鳥にくわしいライターの伊藤美代子氏が制定。日付は10と24で「手に(10=テンと2)幸せ(4)」と読む語呂合わせと、この時期に手乗り文鳥のヒナが出回ること。それに「1024」の数字で、文鳥の姿をあらわせることなどから。江戸時代から愛されてきた文鳥について考える日。・・とあった。
伊藤美代子と言うライターのことを私はよく知らないが、文鳥に特化した本を書いたり、文鳥グッズなどを販売しているらしい。プロフィールは参考の*1を参照されるとよい。由緒の「1024」の数字で、文鳥の姿をあらわせる・・・とあるが、よくわからないのでネットで調べてみると見つかったここ参照)を参照されるとよい。
私にはよくわからないが、今のペットブームの時代、だけでなくいろんな鳥獣がペットとして飼われており、そんな中の文鳥ファンが寄り集まっていろいろブログで交流しているようだ。
ペット(英語:Pet)とは、一般的には愛玩を目的として飼育される動物のことであるが、人間は、基本的に、人の心を和ませたり楽しませてくれるペットが好きであり、人間が太古からペットを飼っていた証拠は、いずれの大陸からも発見されているが、それらは、ペットして手当たり次第に飼い始めた野生動物の中から、家畜として有用なものが見いだされたと考えられているようだ。
家畜とペットの境界は曖昧であるが、オオカミ(イヌ)の家畜化が3万年 - 1万5千年前から行われ、狩猟の際の助けとして用いられた。以下、トナカイ、ヒツジ、イノシシ(ブタ)、ヤギ、ウシ、ニワトリ、ハト、ウマ、ラクダなどが、家畜として飼育されるようになった。また農耕のはじまりとともに、害獣となるネズミなどを駆除してくれるネコやイタチのような小型肉食獣が珍重されるようになったという。
上述の通りペットの歴史は家畜に先行していると考えられているようだが、明確に愛玩動物として飼育された最初の例として史料が残っているのは、5,000年前の古代エジプトピューマ(ネコ科)だそうである。南米のインディオではインコサルを飼っていたようだ。
奈良時代に成立(養老4年=720年)した『日本書紀安寧天皇11年(西暦不明)の条には「猪使連(イノツカイノムラジ)」という職が記述(*2の卷第四:安寧天皇参照)されており、古くは猪(イノシシ)が飼育されていた。イヌ、ウマ、ウシ、ネコなどの動物は、先史時代にユーラシア大陸で家畜化されたものが、列島に入ってきたと推定されている。
一般社団法人ペットフード協会調べによる2014(平成26)年の、「日本のペットの飼育率状況」を見ると、犬:14,4%(15,8%)、猫*9,8%(10,1%)、金魚:4,9%(5,2%)、熱帯魚*2,3%(2,5%)、小鳥*1,8%(1,2%)となっており〔()内は昨年〕、犬・猫の飼育率が圧倒的に飼育率は高いが、ただ、飼育率は前年より若干減ってはいるが、金魚と、小鳥の飼育率が高くなっている。
また、今後、ペットの飼育を希望する飼育意向率は、現在の飼育率の犬は1,92倍.猫は1,86倍、小鳥2,1倍に対して、金魚は0,91倍と減少、その中で、小鳥は、2,1倍と他のものより、増加率が高い。近年、小鳥の飼育希望者が増えてきているということか。いずれにしても、多くの人が今後何らかのペットを飼育したいと考えているようである*3;「ペットフード協会」の全国犬猫飼育実態調査参照)。
今日ペットは、家族として、パートナーとして、仲間として人の暮らしに密接に関わり、心を癒してくれたり、あるいは愛玩されたり、共生するなど、様々な面を持った存在である(「<ahref=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%9E%E3%83%AB>コンパニオンアニマル(人生の伴侶としての動物)」参照)。この中で、鳥類の飼育率が年々減少傾向にあり業者も今後を心配していたようだ(*4参照)がそれが昨年ごろから若干増加傾向になってきたのは朗報だろう。。
日常生活で飼育する鳥類のことを愛玩鳥というが、愛玩鳥は、主に姿形や鳴き声、さえずりを観賞する目的で飼われるもので、それ以外にでは猛々しさ(ワシタカのような猛禽)や、面白いしぐさ(ヤマガラインコオウムなど)を観賞するためにも飼われる。猛禽の場合は権威の象徴としてや、狩猟目的ではなくスポーツとしての鷹狩りのために飼われる場合もある。
食用や採卵用の家畜として飼われる鳥は家禽と呼ばれ、愛玩鳥とは区別されるが、これらの中にもチャボオナガドリのように、観賞用に品種改良された種がありこれらは愛玩鳥とされる。またかつて通信手段(伝書鳩用のカワラバト)や、狩猟用(鵜飼い鷹狩りに用いられる鷹やハヤブサなど)など、有用目的をもって飼養されたが、現在はその有用性を失い、現在はかつてあったその技術を継承するためだけに飼われている鳥も愛玩鳥とは呼ばれない。もっとも、こういった技術継承の目的とは関係なく、それらに用いられる種を飼う場合もあり、その場合は愛玩鳥とされている。
愛玩鳥として飼われる鳥類は小鳥が多い。もともと寿命(*5の種類別の小鳥寿命表参照)が人間よりはるかに短く、環境の変化に敏感でちょっとした管理の不手際で飼育途中に死なせてしまうことも多々あるので、例外的に長命で人懐こいインコ、オウムを除くと犬や猫のようなコンパニオンアニマル扱いされることは希である。
私の妻の義兄(姉の夫)は船乗りだったので留守が多く、若いころは妻の実家で一緒に住んでいた。そして、航海先でオウムを買って帰り家で飼っていた。オウムは50年も生きるそうだが私が妻と結婚して初めて妻の実家へ行った時には、何歳になっていたのか知らないが、非常に人になつき特に 妻にはよくなつき、妻の顔を見るとすぐに近づいてきて手の上に乗り顔を摺り寄せてくるほどであった。そして、生まれて間なしのころから飼っているからであろう物覚えがよくていろんなことを本当に多くよくしゃべり、家の前が丁度バス停でその前の軒先近辺にかごに入れて飼っていたので、妻がバスで帰ってくるとそれがわかるらしく、「お帰り、お帰り」としゃべりだすので、近所でも有名になっていた。
長い年月をかけて、人間に順応してきたペットであるが、時代時代により流行がある。
今やペットの代名詞的存在である犬は日本でも、旧石器時代から(縄文犬参照)から、また、猫も平安時代から飼われていたようであり、宇多天皇の日記『寛平御記』には自らが飼っていた黒い猫の記述がにみられ、これが「家猫」に関する、日本の史料における最古の記述とされている。
「朕閑時述猫消息曰。驪猫一隻。太宰少貳源精秩滿來朝所献於先帝(光孝天皇のこと)。
愛其毛色之不類。餘猫猫皆淺色也。此獨深如墨。」(*6参照)
訳すとこうなるのだろう。
「今日は暇だから、私の猫の消息について述べてみよう。この驪猫一隻は、大宰大弐を務めたた源 精(みなもと の くわし)が秩満ちて来朝し(任を終えて朝廷に戻ったとき)、先帝(光孝天皇)に献上したものだ」。
「その毛色 は類い希で、他の猫がみなどこかぼやけた淺色色なのに比べ、この猫だけは墨のように 真っ黒で、まことに愛おしい。」。
『寛平御記』は当時10巻が伝存していたようだが、現在は1巻も残存していないそうだが、『源氏物語』の注釈書である『河海抄』などで引用され残っているようだ。
ここでの引用文には、「猫」と書かれているが、平安時代、「猫」は「」と表記されていたので、『寛平御記』でも、実際には「狸」と書かれていたようである(*6のここ。*7参照)
また、ここで、黒猫のことを「驪猫」(りびょう)と書かれているが、「黒」には「汚れた」「腹黒い」といった意味もあることから、「」の字は本来は黒馬という意味の字で、猫に使われた前例は無いようだが、「」という字を含む好字であるので、自分の愛する黒い猫に『驪猫』という表現を使ったのではないかという(*8参照)。
そして、犬猫以外のペットでは、江戸時代に、金魚が大流行した。
金魚のことについては依然このブログ3月3日「金魚の日」(*9参照)でも書いたが、日本でも鎌倉時代にはその存在が知られていたようだが、金魚そのものは、約500年ぐらい前の室町時代末期に当時貿易港として栄えていた堺 (大阪府堺市)に持ち込まれたのが最初だとする説がもっとも有力とのこと。この当時持ち込まれたのは、今ワキン(和金)とよばれている種であるが、当時は高価なものであり、又、日本は戦乱の時代でもあったことから、金魚は普及しなかった。
江戸時代前期になると世の中も平穏になり、再び中国から金魚が持ち込まれたが、未だ養殖技術もなく池などで飼われていたが、それは、非常に高価で、本当に限られた上流階級だけに許される贅沢品であったが、寛延元年(1748年)に出版された安達喜之の金魚の飼育書「金魚養玩草」(*10参照)をきっかけに、金魚が大流行した。しかし、当時はまだ希少だったため、値段が高く、庶民にとっては高嶺の花だったが、江戸中期から後期にかけ、大量生産が可能になったため、庶民にも金魚を飼う風習が広がっていった。縁日でお馴染みの金魚すくいもこの時期に誕生したようだ。
そして、明治維新直後、日本には外国から多くのものが輸入されるようになったが、中でもウサギは簡単に飼育ができる上に食用にもなると大人気に。庶民間でウサギの売買が止まらず、一羽につき月一円のウサギ税が課せられ、無届で飼育したものには一羽につき二円の過怠税を申し付けられたほどであったという(*11参照)。
また、熱帯地域に生息している熱帯魚が日本に伝わったのは19世紀の後半のことで、一般に飼育されれるように広がったのは第二次大戦後の昭和30年代からで、当時は温度調整の設備もあまりなかったので大変苦労したようだが1960年~1970年代頃から熱帯魚ブーム(*12参照)があったのを覚えているが、今でも、根強い人気を誇っているようだ。そのころ私も、水槽で、グッピーを飼っていたが飼い方が悪かったからだろう、子を産んで増えたと思っていたらいつの間にか数が減っている。どうやら共食いしていたようだ。

さて、「文鳥の日」に他のペットのこと長々と書いてしまったが、文鳥のことを書こう。
ペットとして日本でもポピュラーな存在の文鳥は、英語名がJava Sparrow(ジャワ雀)というくらいで、もともとインドネシア(カンゲアン島、ジャワ島、バリ島)の固有種で.スズメ目カエデチョウ科,)の小鳥で、学名をPadda oryzivora、「パダ・オリジヴォラ」というが、この学名は米食い鳥(Rice bird)の意味で、実際にインドネシアの稲作地帯に大量に生息し日本のスズメと同じように人間の作るお米などを食していたようだ。
形態は、全長17cm。体重約24-25g。頭部の羽衣は黒く、頬は白い。体上面や胸部の羽衣は青灰色、腹部や体側面の羽衣は薄いピンク色。尾羽は黒い。冒頭の画像参照.。
熱帯の米食い鳥が、日本にやって来たのは何時の頃からだろうか?
その名からも、17世紀の初頭くらいに。おそらく、南蛮貿易などのために東南アジアに広く進出していた日本人たちが、現地で文鳥と接するようになり、日本にも持ち込んだのではないかと推測される。ただ、文献的には、江戸時代に著された本草書『本朝食鑑』(1697年刊)の中に外国から輸入され、姿かたちが美しいので文鳥と呼ばれるようになった(原文「・・・近時自外国来、以形麗号文鳥、・・・」)とあることから、元禄期にはすでに我が国で飼われ、「文鳥」と呼ばれていたのは確かなのだろう。
それでは、文鳥の名前の由来はどこから来たのだろう?
正確なことはわからないが、「」の字源は、「模様。古くは入れ墨(文身)も表した」ようであり、『漢和辞典』でも。「模様や彩り(いろどり)」とあるのことから、彩色の有る鳥なのでそれを文鳥と呼ぶようになったようである(文鳥については、以下参考の*14:「文鳥団地の生活」の文鳥の歴史が詳しい)。
しかし、中国で柄模様(文様【もんよう】)のある鳥すべてを指す言葉「文鳥」が、日本では原種のジャワ雀だけを指す言葉となったのは、それだけ、その飼育が他の小鳥よりも早く盛んになっていたことの証拠とも言えるようだ。
18世紀にはすでに文鳥の日本国内での繁殖が始まっており、次第に盛んになっていったようで、例えば、水戸藩の本草学者佐藤成裕(中陵)が、19世紀初期に著わした『飼篭鳥』(*14)には、「先年は長崎にて殖し諸方へ出し、近年ハ備前の児嶋郡の林村の佐藤九郎治なる者盡く巧者にて、数百羽を籠にして大坂及江戸に出す。」・・とあることから、庶民文化が花開く文化・文成年間(1804〜30)になって、ようやく文鳥の需要も拡大し、繁殖も所々で一般化し、大規模化されていったようである。
また、19世紀半ばの『百品考』(山本亡羊著。*16)という書物には、人々が好んで文鳥を飼育繁殖したため、逃げ出したのか、京都市中を普通に飛びまわっている文鳥の様子が、筆者の実体験として記されているほどだったという(*13参照)。
そして、初期の広重の花鳥画などの浮世絵にも文鳥が描かれる(など、異国風でありながら日本画にも自然に溶け合う姿が、画題としても好まれていたようであり、江戸時代を通じて日本人に最も親しまれてきた外来の小鳥であったようだ。
広重の花鳥画ここ参照→ 歌川広重《梅に文鳥》とハクバイ(白梅) - 海の見える杜美術館
こうした文鳥の普及化を背景として、文鳥には、白文鳥、桜文鳥、をはじめ、さまざまな品種が作り出されていく。
江戸時代の文鳥たちは、原種のジャワ雀と同じ姿をしていたが、明治時代の初め頃、現在の愛知県弥富市又八新田地帯の文鳥を繁殖する農家で、全身純白の文鳥が突然変異により誕生したそうだ。白文鳥の創出者について、愛知県弥富町の神社に建てられている「白文鳥発祥の地」の碑には、幕末当地に嫁いできた女性が持ってきたつがいの桜文鳥に起源する旨が記されているようだ。
ここ参照→ 文鳥・弥富市特産
その白い文鳥の系統は人気となって数を増やし、明治から大正時代にかけて夏目漱石の小説『文鳥』にも描かれるほど国内で一般化したようだ。
「十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼なさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。文鳥は三重吉の小説に出て来るくらいだから奇麗な鳥に違なかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ」

これは、夏目漱石『文鳥』(*17参照)の出だしの文を抜粋したものである。
三重吉とは、日本の児童文学を語る上で欠くことのできない、童話雑誌『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉のことである。三重吉は、1901(明治34)年、第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学。夏目漱石の講義を受ける。1905(明治38)年23歳の時、神経衰弱を煩い、静養のため大学を休学し、広島県佐伯郡能美島(現・広島県江田島市)で過ごす。この間に『千鳥』の題材を得る。1906年(明治39年)3月に『千鳥』(*18参照)を完成させ、夏目漱石に原稿を送ったところ、推薦を得高浜虚子に原稿が送られ、雑誌『ホトトギス』5月号に掲載された。以降、漱石門下の一員として中心的な活動をおこなうようになった。
1908(明治41)年の大阪朝日新聞に掲載された漱石の『文鳥』には、友人(三重吉)に薦められ文鳥を飼うこととなった主人公のささやかな生活が綴られており、作中、主人公が連想で語る『美しい女』と文鳥の姿とを重ねて語る場面があり、美しいものの死を描いた作品と評されている。ただ、文鳥を飼うこととなった主人公は最初は世話をし、文鳥の姿に様々な感慨を抱くが、小説を書くのに忙しくなって、世話を怠るようになると、「家人(うちのもの)」がかわりに世話をするようになった。主人公が気のすすまない用事で2日ほど文鳥をかまわなかった時、文鳥は死んでしまう。
この綺麗な文章の随筆は結末が悲惨なので、文鳥愛好者にはどうも不評らしい。
一方の鈴木三重吉が書いた『文鳥』 は1909(明治42)年11月3日の『国民新聞』 に掲載されたもので、三重吉(当時28歳)が成田中学校(現:成田高等学校)勤務時代、当時国民新聞社の社員となっていた高浜虚子の依頼で、俄拵へ(にわかごしらえ)に、短時日のうちに書き上げたものだそうだ(*19参照)。
内容は、少年時代に従姉の千代と隠れるようにして飼った文鳥を、千代が他へ嫁いでいった後に逃がしたという思い出と、その後も忘れられなかったその白い鳥を飼って、漱石先生にも薦めて飼わせたという随想的作品である。参考*9には、「文鳥」の掲載文がある、興味のある人は読まれるとよい。いずれにしても、この時期文鳥を飼うのが流行っていたことはよく理解できる。
このころ、白文鳥は日本生まれであることから、「Japanese rice bird」として海外にも輸出されるようになったようだ。
そして、この白文鳥が数を増し、江戸時代以来の原種色の文鳥(並文鳥)と交配することで、原種色の文鳥も所々に白い差し毛の斑(はん)が入る桜文鳥に変質していったと考えられているようだ。
近年、世の中は空前のペットブームであるが、何故かマイナーな存在に甘んじていた小鳥も、最近、また、東京や大阪などに鳥カフェが相次いでオープンしたり、鳥をモチーフにした文房具や小物を置いてある店が増えるなどしており、じわりじわりと鳥ブームが広がっていると聞く。
確かに、言葉を話すオウムやインコ、手乗り文鳥などは可愛いよね。私なんかもペットを飼いたいとは思うのだが、余り長生きしないものは死ぬとかわいそうだし、もう私たちも年を取っているので、逆に、長生きするものは、何時までも飼い続ける自信もないので結局何も飼うことはあきらめている。
幸い、私の家は山の登り口にあり、庭に少しばかり木を植えているので、シーズンになると毎朝同じ時間にウグイスメジロが番で来てくれる。ここを自分たちの縄張りにしているようだ。それをヒヨドリが近くの高い大きな木の上などで見ていて、小鳥を見つけるとそれを追っ払い、花の蜜や実を横取りしようとする。小鳥は、ヒヨドリが来るとさっと近くの木の中に逃げ込み、ヒヨドリがいなくなるとまた出てきて餌をつついている。家人がヒヨドリが来たのを見つけると必死に追っ払っているのが滑稽である。毎度おなじみの光景である。見ていて厭かない。だから、無理に小鳥をペットとして飼わなくても楽しめている。
かわいい子鳥と言えば、私がまだ子供のころなど、神社の縁日に行くとよく見かけた「小鳥の占い」を思い出す。もう見なくなって久しいな~。
お賽銭を渡すとおじさんがかごを開け、小鳥にお賽銭を渡す。すると小鳥が小さな参道をちょんちょんと進んでいき、賽銭箱に小銭を落としてから鈴をガラガラと鳴らす。さらに階段を上ってお宮の扉を開き、中からおみくじを取りだして持ち帰る。そしておみくじの封を開けておじさんに渡し、麻の実をもらってからかごに戻る……。
これがヤマガラ(山雀)を使った「小鳥の占い」である。
ヤマガラは、スズメ目シジュウカラ科シジュウカラ属に分類される小鳥で、ウグイスやメジロ同様、和鳥として古くから飼育されてきた歴史がある。飼育は、ウグイスやメジロ、オオルリヒバリといった、鳴き声を競わせて楽しむ和鳥とは違って、芸を仕込んで覚えさせることを楽しむもので、ヤマガラを飼育するための専用の「ヤマガラかご」なる鳥かごまで使い平安時代には飼育されていた文献が遺されているという(Wikipedia)。
学習能力が高いため芸を仕込む事もでき、覚えさせた芸は江戸時代に盛んに披露されたそうで、特におみくじを引かせる芸が多く、日本最古の遊園地とされる浅草「花やしき」でも、明治初年から「ヤマガラの芸」が評判を呼んだという。以下参照.。
二〇世紀ひみつ基地小鳥のおみくじ芸・伝統の見世物

このようなヤマガラ芸は1980(昭和55)年ごろまでは神社の境内などで日本各地に見られたことから、我々年輩の者には本種はおみくじを引く小鳥のイメージが強いが、おみくじ芸自体は戦後になってから流行し発展してきたもので、曲芸は時代の変化とともに変遷してきた事が記録から読み取れるという。
このような野鳥をペットとして飼うことは、戦前は広く行われていたが、戦後鳥獣保護法制定による捕獲の禁止、自然保護運動の高まり、別の愛玩鳥の流通などにより、これらの芸は次第に姿を消してゆき、1990年頃には完全に姿を消した。このような芸をさせるために種が特定され飼育されてきた歴史は日本のヤマガラ以外、世界に類例を見ないそうだ。
野鳥が手乗り文鳥のように飼い主の手に乗るくらいに親しくなれば、この上なくかわいいが、野鳥で、真っ先に、人間の手に乗るのは、このヤマガラだと考えられているそうだ。というのは、ヤマガラは子飼い( 子供の時から 引き取って養育すること)をしなくても人馴れしやすく、しかも好奇心旺盛だからだというが、いくら可愛くても日本の野鳥は飼えないので幼鳥のインコや手乗り文鳥が手頃ということだろう。
ストレスフルな現代社会において、「癒し」としてのペットの役割は今後もますます高まっていくことだろうが、ペットブームの影で、ペットを飼いきれなくなってペットを捨てる飼い主も非常に多くなってきているようだ。
犬や猫の殺処分数の増加が話題になっているが、それ以外にも問題はある。鳥や亀などペット由来の外来種が、捨てられたり、逃げ出したりして、日本の生態系等に悪影響を及ぼすこともあるからである。生き物を飼う以上は最後まで責任をもって飼ってほしいものですね。
動物の愛護及び管理に関する法律のあらまし - 環境省
捨てず 増やさず 飼うなら一生 - 環境省

参考:
*1:伊藤 美代子のプロフィール
http://profile.ameba.jp/mou2006/
*2:古代史獺祭・列島編/メニュー/日本書紀
http://www004.upp.so-net.ne.jp/dassai1/shoki/frame/m00.htm
*3:一般社団法人ペットフード協会
http://www.petfood.or.jp/
*4:小鳥たちが消えていく国、日本:日経ビジネスオンライン
http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20070724/130533/
*5:日本ペットフード
http://www.npf.co.jp/index.html
*6:猫の日本史:日本最古の飼い猫記録、宇多天皇の「うちの御ねこ」
http://www.huffingtonpost.jp/nekojournal/cats-history_b_5904530.html
*7:『猫の古典文学誌 鈴の音が聞こえる』(田中貴子)
http://babahide.blog.so-net.ne.jp/2015-06-16
*8:『ねこ』の語源を考える15
http://tatage21.hatenadiary.jp/entry/2015/02/28/124840
*9:金魚の日 - 今日のことあれこれと・・・
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/3713241f8bdb539308bf033ab73375ab
*10:国立国会図書館デジタルコレクション - 金魚養玩草
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2540518
*11:明治初期の兎投機―「開化物」とメディアから見えてくるもの(Adobe PDF)
http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/bitstream/2261/51353/1/edu_51_30.pdf#search='%E6%98%8E%E6%B2%BB+%E3%82%A6%E3%82%B5%E3%82%AE%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%A0'
*12:熱帯魚の歴史 | 熱帯魚の森
http://aquamori.jp/knowledge/history.html
*13:文鳥団地の生活
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/bun2/
*14:国立国会図書館デジタルコレクション - 飼籠鳥 20巻. [1]
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2554941
*15:『飼籠鳥』における「文鳥」:
http://rara-avis.sblo.jp/article/52826680.html
*16:百品考―国文学研究資料館
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-019906
*17:夏目漱石『文鳥』-青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/753_42587.html
*18:鈴木 三重吉:作家別作品リスト - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person107.html
*19:鈴木珊吉氏寄贈の鈴木三重吉資料 7|成田市立図書館
http://www.library.city.narita.lg.jp/digitalcontents/yukari/miekichi/sankichi007.html
ペットとの共生推進協議会
http://www.pet-kyousei.jp/
ペットブームの影に... - BOWEYES
http://www.boweyes.com/magaginetantei.html
日本野鳥の会
http://www.wbsj.org/鳴き声
日本の鳥百科 サントリーの愛鳥活動 サントリー
http://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/nakigoe.html
ブンチョウ - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A7%E3%82%A6




コンビニATMの日(新)

2015-10-08 | 記念日
日本記念日協会の今日・10月8日の記念日に「コンビニATMの日」がある。
由緒を見ると、コンビニATMのパイオニアである株式会社イーネット(同社HP*1参照)が制定。日付は1999年10月8日コンビニエンスストアに銀行で初めて銀行の共同ATMが設置されたことから。身近で便利な銀行窓口のコンビニATMのさらなるPRが目的。・・・とあった。
はじめに、
長いことブログを書いていると、ネタ切れになり、良くあるチョンボだがこのブログも書きあげてから1999(平成11)年の今日、同じタイトルで書いていたのに気が付いた。取り消そうと思ったが、前には、主として、コンビニエンスそのものに焦点を合わせて書いていたが、今回は、ATMに焦点を合わせて書いたので、重複は多いが、そのままコンビニATMの日(新)としてアップしたものであることを お断り申しあげておきます。そのつもりで読んでください。
以前のものは以下を参照してください。
コンビニATMの日(旧)→ ここ参照。

コンビニATMとは、コンビニエンスストアなどに設置されている現金自動預け払い機(ATM=automatic teller machine「オートマチック・テラー・マシン」の略)のことである。“テラー”という単語は(銀行の)金銭出納係,窓口(係).のことをいい、つまり、その窓口業務の代わりをする機械がATMというわけである。
日本のATMでは、ATMの機器利用者の本人認証のために、磁気情報が記録された専用のキャッシュカード(Cash card)または通帳と、通常4桁の暗証番号を用いる。
ATMでは利用者が自分自身で、専用のカードを差し込んだ後、暗証番号を入力し、設置されている専用端末(パネル)を操作して各種サービスを受けるという仕組みになっている。その形態や機能は、提供する金融機関の種類によって異なるが、一般に銀行・信用金庫・信用組合・労働金庫・農協などの場合、端末に紙幣(及び硬貨)、通帳、カードなどの受入口や支払口を備えており、簡単な操作で現金の入出金や残高照会、振り替えや振り込み、通帳記帳、ローンの返済、暗証番号の変更などができるようになっているが、その前身は、現金の払い出しの機能しかなかったCD(「Cash Dispenser。キャッシュ・ディスペンサーの略)で、「現金自動支払い機」と訳されるものであった。

銀行のオンラインシステムとは、銀行に構築されているネットワークオンラインシステムのことであるが、預金や貸出など、銀行の勘定系の事務は、かつて人手で労働集約的に行われていた。預金の口座元帳への記帳などこれら大量の事務作業を、情報処理技術・コンピュータシステムによって自動化・機械化していったのが始まりである。
一般に企業の情報システムは、本来の業務を支援するものと言える。一方銀行のシステムは、システムの機能自体が銀行の商品やサービスを具現化している。また、銀行のシステムが扱うデータは顧客の金融資産のデータであり、そのデータにCDやATMで顧客が直接アクセスする点が特徴である。従って、一般の企業の情報システムに比較して、信頼性や可用性、操作性などの面で一段上のレベルが求められてきた。
日本の銀行システムは、アメリカと比較して、リアルタイム指向のシステムとしての発展が早かったが、それには、以下のような理由があるようだ。
1、かって、アメリカでは小切手が主流であり、リアルタイム性はあまり求められなかった。一方、日本では現金が主流であり、リアルタイム性が必須であった。
2、.アメリカの銀行は州境(と州の境)を越えた営業が禁止されていて、市場によって銀行が分かれていたため、銀行の規模があまり大きくなかった。
3、日本の銀行は競争が制限された規制下でのビジネス展開であったため、金利などで差別化が図れないことから、効率性や信頼性が重要視された。
高度経済成長下において、ピープルズバンク(大衆の銀行。〔リテールバンキング〕を基本理念とした経営基本戦略を積極的に推進していた三和銀行(現:三菱東京UFJ銀行)が、1959(昭和34)年、真空管を使用したIBM 650を導入したのが、日本初の銀行へのコンピュータ導入である。
そして、コンビニエンスストア内のATMは、1998(平成10)年11月に、三和銀行がローソン内に設置されていたダイエーOMC(現:セディナ)が運営するクレジットカードのCDにおいて、三和銀行のキャッシュカード( Cash card)で残高照会や現金引出しが可能なサービスを開始したことから始まった。
翌1999(平成11)年3月にはさくら銀行(現:三井住友銀行)が単独でam/pmにさくら銀行の「コンビニブランチ」(無人出張所)として初めてアットバンクATM(@BΛNK)を設置したが、同年10月8日には,複数の金融機関が提携して全国初の共同のコンビニATM・イーネットを東京・神奈川・静岡の各都県に設置した。これを根拠に日本記念日協会認定の「コンビニATMの日」は制定されている。

ATMの設置主体は基本的には各金融機関により、営業店に併設される。現在では相互接続により、提携金融機関の取引もできるようになっている。一つの管理行のもと、数個の金融機関が共同で運営し、各預金者が無料で利用できる共同出張所の形態もある。なお、提携金融機関の取引には原則、手数料が徴収される。
過去には、銀行界が運営会社(日本キャッシュサービス/NCS)を作り、共同ATMを駅などに設置していたが、金融機関の業態間におけるオンラインの相互接続が進んだことにより、事業を終了し解散(1996年)した経緯がある。
コンビニATMの個々のATMの管理は、コンビニATM運営会社と提携する都市銀行や地方銀行が地域ごとに行っている。
イーネットは、コンビニエンスストアにおけるATMの保守管理、ATMに関する事務受託業務等を主たる業務として設立された会社であり、コンビニだけでなく、従来の店舗外共同ATMについてもアウトソースを請け負っており、全国の都市銀行信託銀行地方銀行第二地方銀行やコンビニエンスストア、リース会社などの共同出資により設立されている。
銀行をはじめとするATM管理を主たる業務とするが、あくまでも金融機関のアウトソースを請け負うのみであり、セブン銀行イオン銀行のようにイーネット自身が預金や融資などの金融業務を行うわけではないため、業種としては金融業ではなくサービス業に位置づけられる。これは、同業他社のローソン・エイティエム・ネットワークスゼロネットワークスと同様である。
コンビニATMを利用するメリットとして、コンビニATMは24時間稼働しているためいつでも利用できることや、コンビニに併設しているため買い物したついでに利用できることなどがあげられる。現在では、コンビニだけではなく、スーパーマーケットや鉄道の駅、空港、それにパチンコ屋などにも設置されている。

一般に、金融機関の店舗にあるATMの営業時間と比べて、コンビニATMは24時間稼働など大幅に営業時間が長く、取引金融機関の定める時間帯で利用することができる。時間外や提携金融機関の取引においては有料となる場合があるが、金融機関によっては無料で利用できる設定をしているほか、手数料無料の特典がついた普通預金も発売されている(「みずほマイレージクラブ」など)。
時間の利便性と場所の利便性に、銀行店舗の統廃合が進んだ影響に加えて無料入出金提携先が増加したことなどにより、金融機関の新しい拠点として利用は増加している。利用者の傾向としては、若い世代や単身者世帯の利用率が高い(*2参照)。
社団法人日本フランチャイズチェーン協会(*3)の、2015(平成27)年7月度の統計調査月報によると、全国のコンビニエンスストアの店舗総数は、52,872店(昨年同月50,863店)で昨年より、2009店(3.9%)増えている。その利用者数つまり、来店客数は、2015年7月1,534,572千人(昨年同月1,473,099千人)で、昨年より61473千人(4.2%)増となっている。
参考*2は日本郵政公社郵政総合研究所が行った「金融機関利用に関する意識調査」であるが、その中で、「インターネットバンキングの利用率」も調査をしている。
今はインターネットの時代であるが、同調査によると、インターネットの利用率は、全体で35%、2人以上世帯では36.4%、単身世帯では29.7%となっている。
それでは、インターネットは利用するがインターネットバンキングの利用はどんなものだろう。
調査によると、「インターネット利用世帯におけるインターネットバンキングの利用率」は、全体で17.0%、2人以上世帯では15.7%、単身世帯では23.0%とまだまだ低いが、世帯主の年齢別にみると、2人以上/単身に関わらず、30代の利用率が突出して高い結果となっている(2人以上20.7%、単身32.1%)。
「インターネットは利用するがインターネットバンキングを利用したことがない」世帯では、「セキュリティ(防犯対策)上不安がある」(40.5%)、「ネット上のやりとりだけで決済されるのは不安である」(43.9%)等マイナスの評価の割合が高かったから とするものが多かったようである。
インターネットバンキングで今後利用したいサービスについては、利用経験による差が大きいようだ。
「インターネットバンキングを利用したことがある」世帯では、「振込・振替・送金」(69.0%)が7割近くを占め、「残高・明細等の照会」(66.3%)が続いており、「利用したいサービスはない」(7.5%)は少ない。「インターネットは利用するがインターネットバンキングを利用したことがない」世帯では、「残高・明細等の照会」(37.3%)が最も多く、一方、「利用したいサービスはない」(49.0%)も約半数を占めているという。
しかし、これからは、セキュリティーの面も強化されるだろうし、インターネットに慣れた若い世代が成長してくると次第にネットバンキング利用者も増えてゆくだろう。
今では、多くのコンビニで、公共料金・税金の払込、郵便関連(ポスト・切手・葉書・収入印紙)、宅配便・ゆうパック受付、チケット予約・販売、プリペイドサービス、写真プリント、コピー・FAX・データ出力、銀行ATM、通販商品受取、ギフト、•おせち料理の注文、年賀状印刷•市区町村の証明書などの発行など多くのサービスを行っている。これらは、だいたいどこのコンビニでも持っている機能のようだが、このほかにも個々のコンビニでは独特の機能を持っているところもあるようだ(*4参照)。

それに、最近のコンビニは今の少子高齢化社会に対応して、都市部に高齢者が増えていることから、それら高齢者向け惣菜等食品の販売に力を入れており、それまでの若者だけでなく高齢者の購買客も増加してきている。そのようなコンビニが普及し、生活は非常に便利になったが、そんなコンビニやスーパーの多くにATMが設置されているのが普通になってきた現在、わざわざ銀行に出向かなくても、ネット銀行口座を設けて、コンビニやスーパーのATMで現金の引き出し・預け入れだけではなく「振込・振替・送金」などもできると非常に便利である。
主なコンビニATMとしては以下のように分類される。
○「金融機関の免許を持たない、コンビニATM運営専業会社のATM」としては、イーネット(ファミリーマート、一部のサークルKサンクス、一部のデイリーヤマザキポプラスリーエフココストアグループセーブオン、一部のドン・キホーテなど。)や、ローソンATM(ローソン・エイティエム・ネットワークス-日本国内のローソン店舗〔一部の店舗を除く〕)、BankTimeゼロネットワークス-サークルKサンクス。32都道府県で展開)、ゼロバンク(ゼロネットワークス。岐阜県・愛知県内のサークルKサンクス、ピアゴで展開。)など。
○商業施設との連携を主体にする銀行(新たな形態の銀行)が展開するコンビニATMには、セブン銀行セブン&アイ・ホールディングスグループ内〔セブン-イレブンイトーヨーカドーなど〕、野村證券、大和証券、新生銀行、新銀行東京などと連携)と、イオン銀行 -(イオングループ内〔ミニストップイオンマックスバリュザ・ビッグ、イオンのないイオンモールなど)がある。
○その他既存金融機関の展開するコンビニATMには、アットバンク(三井住友銀行・西日本シティ銀行 - 旧am/pmから転換されたファミリーマート、SMBC日興証券など)や、タウンネットワークサービススルガ銀行と提携 - ヤオコークリエイトSDなど。)がある。
「どのコンビニATMが最も普及しているか?」についてまとめものがあった(*5参照)。どのようなところが、何時、どのような調べ方をしたものか明示されていないので、どこまで信用できるかわからないが、設置台数は以下のように書かれている。
1位:セブン銀行ATM - 21,433台
おもにコンビニの「セブンイレブン」に設置されているセブン銀行ATMは、イオン銀行を除くすべてのネット銀行が利用できる特徴がある。
セブンATMの最新情報はこちら
2位:E-net(イーネット) - 13,275台
セブン銀行ATMがセブン銀行単体で運営されているのに対し、E-net(イーネット)は、さまざまな会社からの支援を受けているので、コンビニだけでなく、スーパーマーケットやホームセンターにも多く設置されているのが特徴。E-net(イーネット)は、「セブン銀行」を除くすべてのネット銀行のキャッシュカードが使える。
E-net ATMの最新情報はこちら
3位:ローソンATM - 10,916台
ローソンATMは、「イオン銀行」、「セブン銀行」を除くすべてのネット銀行のキャッシュカードに対応している。
ローソンATM の最新情報はこちら
4位:イオン銀行ATM - 5,594台
イオングループには昨2014年に、連結子会社のダイエーを完全子会社化したので、これも含まれる。そのほか、イオングループにはイオンと名のつかない会社が多くあるので、外部では、その実態はよくつかめないのではないか?表面上から見ているより相当に規模は大きいはず。イオンのショッピングセンターは地域一番店を目指した大規模店が多い。イオン銀行には、「利用できるATMが少ない」というデメリットがあると書かれているが、イオン銀行加入者数はすごく多いだろう。「利用できるATMが少ない」ことについても、最近ではみずほ銀行ATMやE-netと提携したり、ATM設置数の拡大を図っているようなので、今後急速に設置台数は拡大していくだろう。
イオン銀行の最新情報は こちら

5位:ゼロバンク・バンクタイム - 設置数不明とのこと。

上掲はイオン銀行のATM
商業施設との連携を主体にするセブン銀行やイオン銀行はグループ企業での買い物割引やクレジット利用についてポイント還元などの利点もあり人気である。イオンなど株主優待制度(*6)が優れており、消費者にとってメリットは大きい。またこれらの銀行への預金の利率も都市銀行などより高いので、これらの銀行へ預金をして、買い物代金などはクレジットで支払うなどして、ポイントを貯めてゆくと良いのじゃないかな~。

(b能等の画像はイーネットのATM)
参考:
*1:株式会社イーネット
http://www.enetcom.co.jp/
*2:「第8回 金融機関利用に関する意識調査(平成15年度)」 結果概要(日本郵政公社)
http://www.yu-cho-f.jp/research/old/research/kinyu/kikan-press/houdousiryou.pdf
*3:社団法人日本フランチャイズチェーン協会
http://www.jfa-fc.or.jp/
*4:コンビニ(CVS)徹底比較
http://convini.xyz/
*5:最新版!コンビニATMの設置台数ランキング | ネット銀行100の活用術
http://ginkou.jp/katsuyou/convenience-atm-ranking.html
*6:野村證券 | 株主優待
https://www.nomura.co.jp/retail/stock/yutai/
【コンビニ利用法】もっと便利に! サービス比較 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2133004271189865501
銀行ATMの歴史 - マイナビニュース
http://news.mynavi.jp/articles/2012/09/26/bankatm/
コンビニATM - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%8BATM







デザインの日

2015-10-01 | 記念日
今日10月1日は「デザインの日」である。
1959(昭和34)年のこの日、通商産業省(現在の経済産業省)に、デザイン奨励審議会(※1参照)が設置され、デザイン振興政策が行われるようになったことを記念して、同省等により1990(平成2)年に制定されたもの。
つまり、今日は「デザインに対する理解を深める日」と云うことになるのだろう。
最近、デザイナー(英:designer)の佐野研二郎氏が制作した2020年東京五輪パラリンピックエンブレム(英::emblem)について、ベルギーのリエージュ劇場ロゴ(ロゴタイプ。英; logotype)が酷似していると指摘され、デザイン(英:design)を手がけた佐野氏の盗作疑惑が問題となった。当の佐野氏は盗作について事実無根としているが、別の案件でも次々と疑惑が発覚。ついに、大会組織委員会は、使用を中止することを決めた(2015年9月1日。※2参照)。

デザインの盗作問題以前に、先ず、「デザインとは何か」、「デザインの創造性とは何か?」といったことがこのようなことの専門ではない私にはよくわからないのだが、これを機に、少し、デザインのことについて調べ。勉強して、そのことを書いてみる気になった。
「デザインは、ある対象について、良い構成を工夫すること。」(wikipedia)とあるように、デザインは日本語ではある特定のものに対する「設計」にもあたり、「形態」や「意匠」(※3の制度 > 知的財産権制度の概要>意匠とは参照)と訳されてきたが、それだけに限らず、人間の行為(その多くは目的を持つ)をより良いかたちで適えるための「計画」も意味していて、その多くは目的を果たすために使われている。
「意匠(英語:デザイン[design])」の語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであることから、デザインとは、ある問題を解決するために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解さている。つまり、創意工夫という意味合いが強いようだ。
従って、デザインは芸術の分野だけにとどまらず、建築や服飾、あらゆる製品など多岐にわたって使われていることから普段の生活にとても身近な存在であり、また、それらを取り扱う産業界にとっても非常に重要なものである。
特にマスメディアの発達した現代において、デザインの重要性は年々大きくなり、そのデザインの良否があらゆる産業の営業活動に大きな影響を及ぼすようになった。
オリンピックのエンブレムに使われたロゴもオリンピック協賛企業にとっては、多額の協賛金の見返りとして、自社製品販売等の営業面に大きな影響を与えるものであろう。言い換えれば、そのロゴを利用したいがために協賛しているといえる企業も多いことだろうから、今回のような問題は本当に困った問題であろう(※4、※5参照)。

かって工芸と呼ばれたものは、実用品に芸術的な意匠を施し、機能性と美術的な美しさを融合させた工作物のこと。多くは、緻密な手作業によって製作される手工業品である。あくまでも実用性を重視しており、鑑賞目的の芸術作品とは異なる。ただし両者の境界は曖昧であり、人によっても解釈は異なる。
そのような、工芸と呼ばれた職人の技術をデザインという新しい基準に応用し、産業の発展へ、さらには世界レベルの水準向上へと推し進めてきたのは、先人のたゆまない努力があってのことだろう。
現在では、「工芸」は美術工芸を指す用語となっているが、これはごく近年になってからのこと。現在の国立研究開発法人産業技術総合研究所(略称:産総研)の前身となった機関のひとつでもある「工芸指導所」の名称からも、当時の認識が読み取れるという(※1のデザイン振興活動のあゆみ参照)。

嘉永6 年(1853年)、ペリー浦賀に来航し,日本の長い鎖国時代は幕をとじた。この時,欧米先進国ではすでに産業革命が終了し,工場制工業も軌道にのり,資本主義社会の基盤となる諸法制もほぼ整備された段階であった。反面,我が国では,家内工業を中心とした封建的産業経済様式をとっており,商業制度を支えるべき商工業者の特権的集団である株仲間も,江戸時代末期からの商品流通構造の変化,多様化により経済発展の阻害要因となるなど商業ルールまでもが混乱状況を呈しつつあった。
このような状況において,我が国が欧米先進国に伍してゆくためには,欧米諸国のように一定の発展過程を経て近代化を成しとげてゆくのを待つ訳にはゆかず、短期間に欧米の諸法制及び技術の移植を行うことによって近代化を図らなくてはならなかった。
西欧諸国からの技術・機械の導入にあたって、その資金を得るため外貨を獲得すること、すなわち輸出品の増大は明治政府にとって最重要課題のひとつであった。当時の我が国の輸出品は,産業の発達段階からみても、生糸、茶、銅等の原材料が主要品であったが、加工品として陶磁器などの工芸品が挙げられる。
輸出品としての工芸品は我が国政府として1873(明治6)年初めて出品したオーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会での,日本独特の風趣を備えた美術工芸品について大好評を得て、東洋の小島にすぎなかった我が国の名を、欧米に知らしめる効果があった(6年前のパリ博覧会には,徳川幕府をはじめ2,3 の藩が出品したが,国を代表していた訳ではなかった)。
この後、海外博覧会への出品は、ウィーンを皮切りに明治26 年まで20 数回にわたっておこなったが、逆に、ウイーンの機械館を見て、産業の近代化を一足早く成し逐げていた欧米の優秀な技術を見るに及んで、日本の拙劣さが目立ち、多くの課題を抱え込むこととなったのである。
このように、日本の近代化の中で150年ほど前から始まったザイン振興活動は、当時の主な輸出商品である工芸品の形状や色彩を改良する活動からスタートしていった。

日本では、1888(明治21)年の意匠条例が意匠の登録制度の始まりであり、その後、約10 年毎に3 回の法改正がなされ,大正10 年法へと引継がれているが、その後同法の時代が第二次世界大戦をはさんで約39 年間続き、その後昭和34 年法が29 年間施行されてきた。
最初の意匠法は「工業上ノ物品ニ應用スヘキ考案即チ各種ノ形狀模様等ニシテ工業ト相須テ離ルヘカラサルモノ」(農商務省案に付された理由書)であると認識され、その内容について意匠とは「専ラ工業上ノ物品ニ應用スヘキ風韻上ノ考案」(農商務省案に付された逐条説明)と説明されていた(※3の制度>知的財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み参照) 
このようにこれらは外観デザインの改良にすぎないが、大正10 年法施行後約10 年を経た、意匠制度史上の中間地点にあたる1928(昭和3)年に法改正作業が行われており、法改正は未完に終ったが、そこでは、デザイン活動の革命的変化、つまり、当時の情報化社会が生み出したソフト産業、サービス産業の発展とそれに伴い、そこに生じる知的資産・独創性についての保護を求めて、「知的所有権」の新たな位置づけと役割を要請されていた。
そして、1928(昭和3)年には、小規模ながらも商工省(1949年通商産業省に改組後、現:経済産業省に改組)が国策事業として仙台市にある仙台陸軍幼年学校の跡地に国井喜太郎(*4の国井喜太郎産業工芸賞参照)を所長とする「工芸指導所」(後に工業技術院産業工芸試験所→統合再編により現:産総研)を設立したのが、日本の産業工芸とデザインの研究・振興施策の歴史の始まりといえる(※6参照)。
これは当時の世界的な不況(世界恐慌)の中、各国の、輸入制限や保護関税政策を引き起こさせ、我が国の輸出にも大きな影響を与えたことから、この難局に直面した日本政府は国産品愛用と海外販路開拓の政策を執るがその効果は思わしくなく、昭和2年、産業合理化運動を展開している中、帝国工芸会会長で男爵でもある阪谷芳郎が各国の輸入抑制の中輸出を活発化する為に、商工大臣中橋徳五郎にあて、「工芸振興ニ関スル建議」を行い、この後、工芸的手工業に最新の科学技術の応用を図り、内外デザイン思想の紹介普及と人材育成の中心機関として、設置されたものであった。(※3:「経済産業省 “特許庁」の”意匠制度120年の歩み“参照)。
当時、工芸指導所では、世界の最新動向を把握しながら実験的な試作を行い、勃興しつつあったモダンデザインを取り入れて改良を図ろうとしていた。そのために、世界的なブルーノ・タウトシャルロット・ペリアンなどの著名なデザイナーが招聘された(※7参照)。
1940(昭和15)年12月、工芸指導所は東京に移転したが、この頃から戦火が激しくなり、本来の目的は、十分に遂行はできなかったようだが、終戦をむかえると、経済復興を支える重要な政策として、再びデザイン振興がスポットを浴びるようになった。
第二次世界大戦の敗戦によって産業・経済に大きな打撃を受けた我が国は、早急に経済を回復することによって国民生活を安定させ、産業の基礎を固める必要があった。そのためには国内の資源を開発して各種の産業を活発化するとともに貿易の振興によって海外市場を獲得するなど、民間資本の蓄積,増大を図らなければならなかった。
戦後、我が国の生産技術及び産業意匠への啓発の契機となったのは、欧米文化の直接的な流入であった。1946(昭和 21) 年には進駐軍から住宅及び家具什器類など大量発注が行われ、設計と試作には工芸指導所が当たり、その生産には全国の有力工場が加わるという、我が国工業界にとって画期的な事業となり、量産方式の各種技術が修得された。
一方、1950 年代は「I.D栄光の時代」といわれ,戦後のデザインを代表する作品が欧米に次々に登場し、我が国にも紹介された。戦後の我が国の産業界はこのような国際的なデザインをかつてないほど急激に吸収しながら進行した(※3の財産権制度の概要>意匠制度120年の歩み>第8章 昭和34年意匠法の改正参照)。
だが、戦後の産業復興とともにデザイン活動が活発に展開するなかで、欧米デザインの模倣・盗用問題が発生した。1950年代まで、ほとんどの日本企業(とくに製造業)には、専門のデザイン部門はなく、当時、産業工芸試験所は、東芝やソニーからもデザインの委託を受けていたという。
日本経済にとって貿易輸出の伸長は極めて重要な課題であり、戦後の通商政策は貿易の障害となるこの種の問題に早急に対処する必要があった。
このような反省に基づき、1946(昭和 21 )年に早くも産業意匠権の確立運動がみられた。
この年、政府は、生活必需品の優良化と適正商品の量産化を図るため、当時の商工省の外局であった特許標準局(現:特許庁)内に商品標準化委員会を設け、商品の標準化による原料資材の有効利用及び生活能率の向上を期すると同時に,国民生活の文化的合理的再建を目指し、工芸学会もまたこの問題に関し世論の喚起に努め、図案家及び図案の保護を提唱した。そして1947(昭和 22) 年 4 月には,勅令第 5 号発明奨励委員会官制に基づいて設置された発明奨励委員会第 6 部会に対して,商工大臣から「輸出貿易の促進を図るための優秀意匠の奨励及活用方策如何」という諮問がなされ、その答申において意匠の創作権保護に関し、現行意匠法の改正及び民間団体による意匠権保護に関する運動と実践を提案。この提案における意匠法改正には意匠法の保護対象につき,その内容を「近代的産業意匠」とすることを要望しているが、急には実効を上げるに至らなかったようだ。
1952(昭和27)年4 月に、工芸指導所は産業工芸試験所(英:Industrial Art Institute。略称:IAI)と改称し、インダストリアル・デザイン(英:industrial design)の指導・研究が主要な業務となった。
産業工芸試験所では、G. ネルソンE. ソットサスといった著名なデザイナーを海外より招聘し、企業のデザイン部門をはじめとするデザイン関係者を実地に指導する場を積極的に設けた。
昭和30 年代に入ると高度経済成長が始まり,産業が発展し、その構造も変わり、製品デザインの対象産業領域も広がったが、日本では、1955(昭和30 )年頃、まだまだ国内メーカーが欧米のプロダクトデザイン(英: product design。製品のデザインのこと)を模倣し、海外から非難されていた。
デザイン制作の主たる目的は輸出政策としてデザインの盗用及び模倣を防止することにあったことから、1957(昭和32)年には、優れたプロダクトデザインを選定するGマーク選定制度を開始(Gマークの「G」はgood designの略。公益財団法人日本デザイン振興会〔※1〕が主催するグッドデザイン賞を受賞した商品・サービス・活動などに表示されるマーク)。また、「輸出検査法」(昭和 32年法律 97号. ※8参照)を制定し、輸出検査制度の強化をした。これは、輸出品の声価の維持および向上をはかり,輸出貿易の健全な発達に寄与することを目的としている(第1条)
 
上掲の画像はGマーク


経済産業省(当時、通商産業省)は1958(昭和33))年にデザイン課を設置して以来、時代の変遷に沿って組織や業務を変革しながらデザイン政策を続けてきた。
1959(昭和34)年には、「輸出品デザイン法」(昭和34年法律第129号。※9参照)を制定して、盗用模倣防止の法的体制の整備をし、デザイン奨励審議会 を設置し、本格的なデザイン政策を開始している。
さらにJETRO(ジェトロ。日本貿易振興機構の略)等と共同して国際見本市等での対外宣伝に努め、世界市場に向けて個性が発揮できるよう指導するとともに、製品管理や包装の合理化、色彩研究などといった関連分野まで、その業務範囲を広げて指導に努めた。
ここから、秋岡芳夫剣持勇豊口克平ら日本を代表するデザイナーが輩出していった(※7参照)。
またこの時期に、日本インダストリアルデザイン協会(※10)や日本デザインコミッティーなどのデザイナー団体も設立され、デザイナーの活動も活発化していった。
1960年代に入ると、デザイン活動の中心は企業へと移っていった。大きな役割を終えた産業工芸試験所は、1969(昭和44)年に製品科学研究所(産総研の前身である工業技術院に属した研究所のひとつ)として組織再編を受け新たな役割を果たしていった。

デザインと言う、このような専門分野のことを、私のような専門知識を持たないものが書くことは難しい。ネットで調べたことなどを基に書いたが、色々と謝ったことを書いているかもさ入れない。デザイン制度のその後の歩みなど、その概略は、参考※3:「経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠」のところで、詳しく書かれているが、その概略なら、同HPの“第3部 意匠制度120 年史年表”を見られるとよい。

今問題となっていることは、特に「デザイン」創造性についてだろう。
日本語の「学(まな)ぶ」は「学(まね)ぶ」に同義で、「真似(まね)る」に同義だとも言われている(ここ参照)。
人は、それぞれ特技や長所を持っており、自分にはない他人のそんな良い点、スキルを手本として、先ずはその人に劣らないように学(まね)ぶことから始めるのが、学びの基本・・・とされている。
最近はよく個性の時代と言われる。テレビなど、吉本のタレントや女性の恰好?をしただけの人などが多く出ている。以前。朝日新聞の「天声人語」にこんなことが書いてあったのを覚えている。
「芸能人能がついて芸がなし」
昔は芸を磨き優れた芸を売るのが芸能人だった。しかし、何時のころか余り芸のない人たちが芸能人と呼ばれだした。今のテレビはコマーシャルの合間に、あまり売れていない金のかからないタレントと呼ばれる人、私流の定義でいえば、タレントとは「芸のない芸人、昔はスポーツ選手や歌手その他の職業で少しは名の売れてはいたが、今はそれでは食えなくなった人達のこと」と解釈している。
たとえ芸にしても、先ず基本をしっかり身に着けてそれから自分の特色を芸に生かすべきだろうが、それでは年数がかかりすぎ、今はJ時間をかけてそのような基本を身につけていない若い未熟な人や昔売った名前や顔を利用しているだけの人ばかりがテレビには出演している。まず、今の、テレビそのものが、芸を見せる場所ではなくなってしまったからそれでよいのかもしれないが・・・。、
しかし、まともなビジネスの世界ではそのようなものは通用しない。
私なども職業柄、商社、メーカー、チェーンストアーなどのサービス業などいろいろな流通業界の仕事を経験し、そして、非常に多くの会社を見てきたが、例えば、日本では後発のスーパー業界などでも、その先進国であるアメリカなど本場のスーパーの多様な業態を視察し、それをまずは徹底的に学(まね)び、それをやってみて、その中から、アメリカではなく、日本の風土に合う独自の業態開発に力を入れてきたところだけが今生き残っている。ただ、単に、真似ごとをしているだけのところは、倒産あるいは吸収されている。
日本は日本の独特の風土がある、それをわからないままに攻めてきた、アメリカやフランスなど流通業の先進国もほとんどが失敗をしている。それに引き換え、スーパーではないが、コンビニエンスストアーセブンイレブンなど、本家アメリカのセブン-イレブンを飲み込んでいる。また、日本でチェーンストアーが始まった時には、四日市の片田舎の呉服屋上がりのスーパーであった岡田屋は、新業態を開発し、今では当時日本一であったダイエーをも飲み込み、イオンとして世界市場を制覇しようとしている。
これら成功している企業は単に、真似事をしただけではなく、徹底的に学(まね)び、それを消化したうえで、じっくりと時間をかけて独自のノウハウを付加して完全に自分のものとしたからこそ強いのである。私達消費者などが、店舗など表面的なものを見ても、わからない、管理・運営上のノウハウ創造しているのである。
さて、デザインの世界はどうなのだろう。
デザインを勉強している人も最初から思いついたデザインを次々と書ける人はいないだろう。多くの人は、優秀な先人デザイナーの書いたものを見て、学んできたことだろう。
どんな分野であれ、それまでに先人が残してきたものを学び、知識なり秘術を習得せずして一流の専門家になるのは不可能だろう。数字や英字などを使ったロゴに関しても、今までどんなものが創られきているか。そして、それが何を表現しようとして、そのような、「形態」「意匠」ができあがったのか等々。
デザインの語源がデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareであるとすれば、言い換えれば、「デザインは、思考というプロセスを経た結果としての表現」であると言えるのだろう。
新しいデザインを想像するには、いろいろ過去にあるものを見た上で、それらで使われていたロゴとよく似たものを一部使ったとしても、全体としてそこにその人の思考や計画を表すための明確な根拠があれば良いのではないかと考えられる。ただし、意匠登録されているものは使えないが・・・。
しかし、佐野市氏は、盗作とされているもののデザインを「見たこともない」し、「私はアートディレクター・デザイナーとして、ものをパクるということをしたことは一切ありません」と、盗作疑惑を記者会見で一蹴していた。
私はこの時の会見を不思議に思った。私は、若い時、東京で5年間ほど住んでいた(昭和30年代末〜昭和40年代初め)。、当時、東京タワーへは、東京テレビ(1960年に東京放送[TBS)に改称)で 『アイデア買います』 という番組の公開放送を見るために何度も行った事がある。素人発明家のアイデアを審査して、良いものがあれば、業者がそのアイデアを買うといった番組で、当時人気番組であった。それに刺戟されて、新宿近辺にあった発明協会へ加入し、会社の私と同じ面白い事大好き人間同士で、つまらぬものをいろいろ考え出し、それでも、3つぐらい実用新案の申請をしたが、中途半端で特許もとれなかった。それでも、そのお遊びのお蔭で、特許の仕方や、当時品川にあった特許庁へ提出済みの特許などを調べに行って、特許に係るいろいろな知識を身につけたのは、無駄にはならなかった.。しかし、その時、まだ製品化はされていないが今後使用するかもわからない製品の名称やデザインなどすごい数の意匠登録数がされているのに驚かされた。
それなのに、佐野氏のようなプロが似ているとされているものについて見たこともない。パクリはしていない・・などの発言を聞いて、実際にどうだったのかは知らないが、この男は信用できないな・・・と思った。
其の後、佐野氏のエンブレムの原案については、組織委員会が国際商標登録(※12)を行うためにIOC(国際オリンピック委員会)と共同で行った国内外の商標調査の中で、複数の似たデザインが見つかったことなどから、2回にわたって佐野氏自身によって修正が加えられて、最終的なデザインが決まったという(※13参照)。つまり、2度も修正したものがまた問題となっていたのである。
アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの以下の名言があるという(※14参照)。
「全体は部分の為にあり、部分は全体の為にある。そしてそれら全てが全体に奉仕する。」
では、佐野氏の原案は、2度修正されているが、その部分も全体も一体どのような理由づけで何を表現するために修正されたのかか。「パクリ」ではないというなら、デザイナーとして、きっちりとその理由づけを説明すべきではないのだろうか。その真実は知らないが、それをしない限り、不信感はぬぐえないだろう。しかも、修正が2回もあったことやどのようなデザインになったのかなど完成まで、組織委員会が、審査委員に伝えていなかった…などと聞くと、組織委員会と佐野氏間に何があったのか・・そんなことまで疑問が感じられる。
このデザイン疑惑だけでなく、2020年東京オリンピックのメイン会場となる新国立競技場(東京都新宿区)建設問題(※15参照)や、東芝の不正会計処理(粉飾決算)問題(※16参照)等、外国から見れば、日本の国はちょっと何かがおかしいと思い始めているのではないだろうか。国にしても大企業にしても内部統制が全く機能していないな~。

参考:
※1:日本デザイン振興会
http://www.jidp.or.jp/
※2:東京五輪のエンブレムを組織委員会が使用中止とする方針 - GIGAZINE
http://gigazine.net/news/20150901-tokyo-2020-emblem/
※3:経済産業省 特許庁>制度・手続 > 意匠
https://www.jpo.go.jp/seido/isho/index.html
※4:[6]2020年大会のスポンサーが決定! : TVステーション
http://tvstation.jp/sport/olympic-verification/6758/2/
※5:東京五輪スポンサー一覧 佐野研二郎エンブレムを使っている企業への不買運動も・・・
http://mera.red/%E4%BA%94%E8%BC%AA%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E4%B8%80%E8%A6%A7
※6:財団法人 工芸財団
http://www.k5.dion.ne.jp/~kougei/index.htm
※7:「工芸」から 「デザイン」へ - AIST: 産業技術総合研究所(Adobe PDF)
http://www.aist.go.jp/Portals/0/resource_images/aist_j/aistinfo/aist_today/vol05_06/vol05_06_p40_41.pdf#search='%E7%94%A3%E6%A5%AD%E5%B7%A5%E8%8A%B8%E8%A9%A6%E9%A8%93%E6%89%80++G.+%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%BD%E3%83%B3'
※8:輸出検査法(廃)
http://www.houko.com/00/01/S32/097.HTM
※9:輸出品デザイン法 新旧対照表 1
<ahref= http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm > http://nomenclator.la.coocan.jp/ip/suprev/rev/exportd/r001.htm
※10:日本インダストリアルデザイン協会
http://www.jida.or.jp/
※11:日本デザインコミッティー
http://designcommittee.jp/
※12:国際商標登録とは - 商標権取得応援サイト
http://www.trademark-jp.net/intlreg.html
※13:エンブレム問題 修正内容を完成まで伝えず NHKニュース - NHKオンライン
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150903/k10010215341000.html
※14:デザイン 名言集・ 格言 ~最大級~ - 心に残る名言集・格言
https://mobile.twitter.com/design_bot
※15:総工費は1550億円…新国立・新計画決まる :-まとめ
http://www.yomiuri.co.jp/matome/20150605-OYT8T50063.html
※16 :東芝の粉飾決算は何故刑事事件にしないのか 東芝に限らず粉飾決算は上場企業で...
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14149768779
デザイン ー Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3

お墓参りの日

2015-09-23 | 記念日
日本記念日協会に登録されている今日・9月23日の記念日に「お墓参りの日」があった。
由緒を見ると、全国の石材店石材関連業者で組織される一般社団法人日本石材産業協会(*1)が制定したもので、お盆(おぼん)や春と秋の彼岸などにお参りをすることで、先祖代々に手を合わせる日本らしい文化を絶やすことなく未来へとつなげていきたいとの思いが込められているそうだ。日付は「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」ことが趣旨とされ、国民の祝日に定められている「秋分の日」としたようだ。

一般に「盆」、また、「お盆」と呼ばれているのは、仏教用語の「盂蘭盆」の省略形で、太陰太陽暦である和暦天保暦など旧暦という)の7月15日を中心に日本で行なわれる、祖先の霊を祀る一連の行事であり、 日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。
盂蘭盆はサンスクリット”avalambana”の転訛した”ullambana”の音写(ウランバナ)とされ、倒懸(とうけん)とも言われ、それは、頭を下にして足を吊られた、「逆さ吊りの苦しみ」を意味していて、『盂蘭盆経』によると、釈迦十大弟子で神通力第一といわれる目連(摩訶目犍連)が餓鬼道に落ちた母の倒懸の苦しみを救おうとして、釈迦の教えに従って祭儀を設けて三宝に供養したことが起源であると説かれてきた。
しかし、最近ではこれを否定して,盂蘭盆の原語はイラン語系の死者の霊魂を意味する“urvan”であり,霊魂の祭祀(さいし。神々や祖先などをまつること。祭典。祭儀。まつり。)と同時に収穫祭でもあったウルバンという祭祀が,イラン系ソグド人の中国進出とともに中国に伝えられ,畑作農業地帯の収穫祭として中元と結合したもので、仏教徒が自恣(じし)の日を中元に結びつけたことによって、今日に伝わる盂蘭盆会の原型が成立したとする説が出ているようだ(ここ参照)。
中元(ちゅうげん)は、道教に由来する年中行事で、三元の1つで、もともと旧暦の7月15日に行われていたが、現代の日本では新暦の7月15日または8月15日に行われている。
日本では、盂蘭盆会は神道と習合し、お盆の行事となった(日本の仏教参照)。江戸時代には、盆供(先祖への供物)と共に、商い先や世話になった人に贈り物をするようになり、この習慣を特に中元と呼ぶようになった。
お盆は、伝統的には旧暦7月15日にあたる中元節の日に祝われたが、日本では明治6年(1873年)1月1日のグレゴリオ暦(新暦)採用以降、以下のいずれかにお盆を行うことが多いようだ。
1.旧暦7月15日(旧盆) - 沖縄・奄美地方など
2.新暦7月15日(もしくは前後の土日) - 東京・横浜・静岡旧市街地、函館、金沢旧市街地など。
3.新暦8月15日(月遅れの盆。2.の地方では旧盆とも) - ほぼ全国的.
現在では1 や2 など一部の地域を除いて、3.の月遅れ開催が殆どのようである。私が住んでいる神戸(関西)も「月遅れ」の盆で、盆期間は8月13~16日である。
現代では、一般的に「お盆とは、年に一度祖先の霊が私たちのもとに帰ってくる期間」とされ、13日には、<ahref=https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%8E%E3%81%88%E7%81%AB<b>迎え火を焚いて祖先が迷わず家に来られるようにしてお迎えし、戻ってきた祖先の霊の供養をする。やがてお盆の期間が過ぎると16日には送り火を焚いてお送りをする。この風習がお盆の風習として定着している。私たちの宗派では、盆期間中、お寺(菩提寺)で作ってもらった先祖供養のため卒塔婆を盆期間は家の仏壇に祀り、15日にはお寺へ持って行き、追善供養をしてもらったのち、お寺の玄関先で燃やしている。地域、宗派によっていろいろあるだろうがこのような盆期間の一般的な行事は全国的な風習を参照されるとよい。
日本の文化や歴史に残るお盆・先祖の供養や神事は、イギリス海兵隊の艦隊に随行して来日したJ.M.W. Silverが、1867年イギリスで発行した、『Sketches of Japanese manners and customs』(『日本の礼儀と習慣のスケッチ』)という本に幕末期のお盆として掲載されている。冒頭の画像がそれである。この画の拡大図は同志社大学 貴重書デジタルアーカイブで見れる。以下で45番目のページを見られるとよい。

同志社大学 貴重書デジタルアーカイブ Sketches of Japanese manners and customs

暑さ寒さも彼岸まで」とは良く聞く慣用句であるが、彼岸は昼と夜の長さが同じになる季節の区切りであり、平均気温に例えると、3月の春の彼岸は概ね11月下旬から12月初めの気温、9月の秋の彼岸は概ね5月末から6月上旬の気温とほぼ同じであり、それぞれ秋から冬への過渡期の晩秋、春から夏への過渡期の初夏の平均気温と等しくなる。つまり、厳しい冬の寒さも、厳しい夏の残暑も、春分の日や秋分の日を境に目処がついてくるということからこう呼ばれるようになったようだ。
お彼岸は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)であり、この期間に行う仏事を彼岸会と呼んでいる。最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶらしい。なぜ走りというのかは以下参考の*3の「秋の彼岸について」を参照)。
こちらの岸「此岸(しがん)」は、「煩悩(迷い)」の世界であり、かなたの岸の「彼岸(ひがん)」は「悟りの境地」、「お彼岸」の行事の本来の意味は、「悟りの境地」=「極楽浄土」へ到達することを願って行われるものである。
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟り,の境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
この彼岸という行事も、元々浄土思想に由来し、西方浄土を希求する中国の念仏行事であったものが、日本仏教において、先祖崇拝の行事になった。
彼岸会の「彼岸」は、「日願(ひがん)」から来ているとも言える。日本に限らず古来から、太陽や祖霊信仰は原始宗教,の頃からつきもののようである。
農耕民族の日本人は、この春分一週間を古来よりとても大切な日とし、春は豊穣を祈り、秋は収穫を感謝。作物を育てる太陽に、自分たちを守る先祖に、自然界すべてに感謝してお供え物をお供えしていた。このような経緯からこの彼岸会もお盆同様に日本における祖霊信仰という土壌を考えることができる。
日本ではこの彼岸会について、『日本後記』の中に次の如くのべている。
「大同元年(八〇六)三月辛巳に、崇道天皇光仁天皇の子早良(さわら)親王のために諸国国分寺の僧をして春秋二仲月別七日、金剛般若経を読ましむ」・・・と。
大同元年は五月十八日改元しているから延暦二十五年(八〇六年)となる。早良親王光仁天皇桓武天皇の弟である。七八五年崇道天皇と追号されている。お彼岸の行事はこれより前から行われたと思われるが、文献上ではこの日本後記の説を始めとしているようだ。、この時の彼岸会の目的は、無実の罪によって亡くなった崇道天皇を供養するというものであった。つまり、この当時からお彼岸には死者を供養する習慣があったといえる。崇道天皇のこの辺の事情は、以下参考*3:「彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために」を見られるとよい。
俳句の 季語などでは、単に彼岸といえば「春の彼岸」を指し、「秋の彼岸」は特に「秋彼岸」とか、「後(のち)の彼岸」といっている。これは農作業の始まる季節の「春の彼岸」の方が、特に重要だったからだったからだろう。「秋の彼岸」を過ぎると、季節は「短夜」(みじかよ。4のここ参照)から「夜長」(* ここ参照)へと移っていく。

どんな人間にも必ず先祖はいる。しかもさかのぼれば無数の先祖がいて、その血がどんなに薄くなっても子孫の一人である自分に流れていることは否定できまないだろう。
お墓は、大切だった亡き人やご先祖さまを供養するところである。祈りの象徴であると同時に、お参りする人にとっては精神的な拠りどころであり、連綿と受け継がれてきた命のつながりを身近に感じさせてくれるところでもある。つまり、お墓参りをして先祖供養をすることは、自分をこの世にあらしめてくれた(生かさせて頂いた)全ての人に感謝するということにもなるのであるが・・・。
かつてお墓は、集落の近くの山あいや、一族の屋敷のすぐ隣などにあったことから、人々にとってお墓参りは日常の生活の一部であった。それが時代とともに生活から切り離され、仕事が忙しいとか、お墓が遠いのでそうそう行けないとか、年に数回行くお墓参りに変わってきた。現在、お墓参りの時期として一般に行われるのは、お盆や春秋のお彼岸、故人の命日、正月、年忌法要などくらいであろう。

ところで、人が亡くなった時の葬儀あり方が最近はずいぶんと変わってきたようだ。ここ数年、参列者が少ない規模の小さなお葬式が増えていると聞く。
第一生命経済研究所が2012年に実施した調査では、「身内と親しい友人だけでお葬式をしてほしい」と回答した人が30.3%、「家族だけでお葬式をしてほしい」と考える人が33.1%おり、合わせて6割以上が、家族を中心としたお葬式を希望していた。一方で、「従来通りのお葬式をしてほしい」と考える人はわずか9.0%にとどまったとう。以下の第一生命経済研究所のデーター参照。

「葬儀の参列者を日本とアジア諸国で比較する」 - 第一生命保険

バブル景気の時代には一般的な葬儀でも参列者は優に100人を超えたといわれる。しかし、そのほとんどは遺族の仕事関係の人たちで個人とは直接面識もない人たちであった。そのため、そのころの葬式は、慣習やしきたりに従った社会的な儀式にならざるを得なかった。遺族は仕事関係など義理で参列する人たちの世話に忙しく、個人とゆっくりお別れするゆとりがなかったとといった経験を持つ人は少なくないだろう。
調査の結果は、そんな従来の葬式のあり方へのアンチテーゼでもあるのだろう。
しかし、費用面では、決して、身内だけでの少人数の家族葬の方が費用負担が少ないとは限らないようだ。香典が入らないので、葬儀費用のほぼ全額が遺族の自己負担となるからだ。
それでも、義理や世間体を重視するのではなく、故人と親しい人だけで送りたいと、家族葬を選ぶ人がふえているようだ。私なども同様の考え方であり、自分の葬儀は、身内だけのこじんまりとした家族葬をしてもらおうと思っているが、家人も同意見であり、これはすでに子供たちにも話してある。

また、お墓の事情も多様化しているようだ。
土。日の新聞チラシなど見ていると、その中に霊園の案内チラシも必ずと言うほど見受けられる。特にお彼岸近くの日には数枚折り込まれているこの頃である。
これは霊園に関する需要があるのか、需要を創造しているのか不明であるが、都市を中心として霊園開発が相次いでいるようである。
霊園産業、墓石産業界の売り込みの激しい売り込み競争が見られる。
前にこのブログ9月9日の記念日「知恵の輪」の日でも書いたところだが、日本では少子化・高齢化の中、総人口が減少するなかで、高齢化率は上昇し、いわゆる「団塊の世代」(昭和22(1947)~24(1949)年に生まれた人)が65歳以上となる2015(平成27)年、つまり、今年には国民の4人に1人が65歳以上という高齢化社会に突入した。その中で65歳から74歳までの前期高齢者の比率と、75歳以上の後期高齢者(後期高齢者医療制度対象者)の絶対数がまもなく(2020年頃)入れ替わる更なる「超高齢社会」に入るが、一方、日本の総人口は、2050(平成62)年には1億人を、2060(平成72)年には9,000万人を割り込むことが予想されている。そして、このとき(2060年)には、高齢化率は39.9%に達し、2.5人に1 人が65歳以上。内、75歳以上人口が総人口の26.9%となり、4 人に1 人が75歳以上の社会となるのである(以下参照)。

第1章 高齢化の状況(PDF形式:501KB) - 内閣府

このことは、団塊の世代がこの世を去るまでの今後30 年間ほどまでは死亡数は増加の一図をたどるということになるのである。言い換えれば、お墓の需要が増えるということが予測され、今の霊園・墓石産業界等の競争激化を生んでいるのだろう。
同時に、全体的には人口の減少傾向の中、都市への人口集中度は増加している。これは過疎地域等での無縁仏の増加、寺院の檀信徒の減少による墓苑・寺院の衰退にもつながっている。一方都会では墓苑土地の確保が困難になる。そのことは墓地への認識の変化と経済のグローバル化による自由市場経済の拡大と共に新しい墓地・墓石の形態が出てくる一因ともなっているようだ。
○寺院の地下や、屋上を利用する墓地○納骨堂(ロッカー式)形式墓地○壁墓地・プレート型墓地○両家、夫婦墓○永代供養墓、有期限の墓、それに○散骨など・・・。
人は生まれたからには必ず死を迎える。死んだ後「自分がどのように処置されるか」、墓地墓苑を訪れたときなど「自分の死後の空間は・・・拠り所は・・?」と考えるのであろうか。
お墓を持たない世帯は生前に自分のお墓を建てたいという気運が最近高まっているようだ。生前のお墓の建立は寿陵といって縁起がいいと旧来よりいわれていた。最近では単に縁起がよいということだけでなく「子供に負担をかけたくない」「子供はあてにならない」「終の安住地は自分らしく」等の理由でお墓を購入している人が増えているという。そして、今年から相続税の節税対策にもなると、墓石業者などが触れ込んだことが背景の1つとしてあるのかもしれない。

第一生命保険が家庭内祭祀の実態を2012年に 20歳以上84歳以下の全国男女765人を調査調査対象調査した結果、「戦後、核家族化や少子化で死者祭祀の担い手である「家」が変容したことに加え、生まれた土地で一生を終えるライフスタイルが主流でなくなったこと、地域共同体が変質したことから、葬送儀礼や祭祀財産としての墓のかたちが多様化している。
しかし一方で、「年に1,2回墓参りをしている」「先祖や亡くなった肉親の霊を祭る」惑い霊的行動の実施率は高く、遺された人が大切な死者を追慕する行為は衰退していないといえる。また、初詣やお札・お守りを持つなど、多くの日本人は、特定の宗派の信仰とは別の次元で宗教的な行動を行っている。」・・・という。以下参照。

NOTES 「宗教的心情としきたりの関連」 - 第一生命保険

このような結果を見ても、これまでのやり方のお葬式では、義理で参列する弔問客の応対に追われ、故人とゆっくりお別れできないという不満や、お仕着せのお葬式のあり方に疑問を抱く遺族も増え、こうした不満が「家族だけで葬儀をしたい」という意識にもつながっているようだ。
しかし、日本のお墓は、子々孫々での継承を前提としているところに特徴があるが、昨今の、少子化、非婚化、核家族化が進み家制度も崩壊したなか、継承者のいない家庭が増えている。たとえ、子孫がいても遠く離れて暮らしていれば、頻繁にお墓参りするのは不可能であり、実際に、墓や祭祀 の継承が困難になった無縁墓の増加が全国各地で問題となりつつある。
事実、私の住んでいる神戸市の市営の鵯越墓園(同市北区。*5また、ここ参照)は、東洋一の規模を誇るといわれているが、私の墓の横に並んである墓も長らく墓参者がなく荒れ放題となっており、今年の盆には市の連絡先を求める札が置かれていた。また、同墓園でも少子高齢化による後継者の不在などで、墓を撤去し、寺などに遺骨の管理を任せる永代供養に切り替える動きが広がっているという(*6参照)。
このような状況の中で、将来的には人口が確実に減少していくことによる無縁仏の増加が一番に気にかかることではある。

死の迎え方や葬送の選択肢が増えた背景には「終活という言葉が流行し、人生の締めくくり方を元気なうちに考え、準備しておこうという気運が中高年の間で高まっている。しかし死は当人だけの問題ではなく、死者を取り巻く家族や友人、ひいては誰もが死にゆくという意味では、社会全体の問題なのである。ところが終活は、「私の死」という視点が大きくクローズアップされ、「大切な人の死」を体験する遺族への配慮が二の次になっている。
地域の人たちが総出で葬儀を手伝い、亡くなった順番に集落の墓地に土葬されるのが当たり前だった時代には、家族の有無にかかわらず、自分の死後に不安を持つ人は少なかったはず。しかし、今では、死の迎え方や葬送の選択肢が増え、さまざまな情報が飛び交う反面、「どんな葬送がいいのか」「誰がやってくれるのか」という不安が増大してきたのは、持ちつ持たれつの互助関係が消滅し、社会の無縁化が進んできたからに他ならないだろう
歳を取り体が弱り、介護が必要になったり、死を迎えたりすれば、どんなに事前準備をしていても、自分で実行することができない以上、自分の思いを理解してくれる人に代行してもらうしかない。人生の終焉(しゅうえん)を考えることは、家族やまわりの人との関係を見直すきっかけにもなるという意味で、終活は、自分が自立できなくなったときに誰かに任せられる関係を築く「結縁」活動だともいえるようだ。私も後期高齢者となり、今は、そのようなことに考えを巡らせながら、その準備をしているところである。少なくとも、死ぬ間際になって、あれをしていなかった・・などといった悔いは残らないようにだけはしておきたい。

私のお墓の前で 泣かないでください
そこには私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

NHK2006 年紅白歌合戦で秋川雅史が歌った「千の風になって」。
この詩は「私は死んだのだけれど、いまは風になって元気に大空を吹きわたっている。だから安心してほしい、そんなに嘆かないでほしい、といった詩なのだが、私もそのようにありたい。

千の風になって 秋川雅史 - YouTube

参考
*1:日本石材産業協会
http://www.japan-stone.org/
*2:石屋さんの豆知識 目次 - 原産業
http://www.harasangyo.co.jp/reader/reader.html
*3:彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために・・・: 今日は何の日
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/09/post_7bf3.html
*4:「きごさい」歳時記
http://kigosai.sub.jp/
*5:神戸市:神戸市墓園管理センター
http://www.city.kobe.lg.jp/life/ceremony/memorial/cemetery/
*6:「墓じまい」自分の代で 少子高齢で維持困難、無縁墓も増加 - 神戸新聞
http://www.kobe-np.co.jp/news/kurashi/201505/0007984859.shtml


お彼岸について教えてください。 - 法華宗(陣門流)
http://www.hokkeshu.com/event/dic_o_higan2.html
墓参りの仕方とマナー - 冠婚葬祭マナー
http://www.jp-guide.net/manner/ha/hakamairi.html
お墓の辞典
http://5go.biz/ohaka/
お盆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86


知恵の輪」の日

2015-09-09 | 記念日
日本記念日協会に登録の今日・9月9日の記念日に「知恵の輪」の日があった。
由緒を見ると、知恵の輪を知らない人が知恵の輪と出会い、知恵の輪を楽しんだことのある人が知恵の輪の思い出を蘇らせるなど、知恵の輪の魅力を知るきっかけの日にと、岐阜県在住でオリジナルな知恵の輪を手作り販売する愛好家が制定(*1)。日付は最も易しい知恵の輪のひとつに9の形の二つを組み合わせた知恵の輪があることと、難しいことで知られている知恵の輪に「九連環」というのがあることから。・・・とあった。
知恵の輪は、英語では、 puzzle ringと言われるそうだが、パズルの一種で、基本的には、簡単に外すことができない一組(2つ以上)の部品を、繋げたり外したりする遊びである。私などが子供のころに流行っていたものは、このタイプで、部品には金属が使用され、大抵のものは、特定の外し方によって簡単に外すことができるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。
私も子供頃ずいぶんやったものだが以来長い間したことがないが、最近また流行っているのだろうか?
日本で「九連環」と呼ばれているものは、その名が表す通り中国で生まれた知恵の輪で、「チャイニーズリング」(Chinese ring)と言われるもので、一つながりになった輪から別の一本の輪を外すのが目的。解答の動きは規則的だ。
「九連環」という名前が通用していることから、輪が9個のものが最も多いが、5個のものや、11個や13個のもの、さらにもっと多いものも存在するそうだ。
チャイニーズリングは、もっとも古い種類の知恵の輪と考えられており、前漢の時代に編纂された『戦国策』には、以下のように、「昭王斉国に玉連環を贈った」という記述が出てくる(*2、また、*3:「斉の歴史」の“王建、秦に降伏す”を参照)。
『戦国策』
秦始皇嘗使使者遺君王后玉連環,曰:「齊多知,而解此環不?」
君王后以示群臣,群臣不知解。
君王后引椎椎破之,謝秦使,曰:「謹以解矣。」

確証はないがここに出てくる「玉連環」が、「九連環」と同種のものであるといわれているよ.うだ。一方では九連環は、「諸葛亮(字:孔明)が、妻の無聊を慰めるために考案した」という伝説もある(Wikipedia)・・・そうだが、どうもこちらの方のは、文献にはなく単なる民間伝承のような気がする。また、昭王が斉国に送った玉連環は字のごとく、玉製の知恵の輪で、斉国には誰も解くことのできる者がおらず、斉王建の母である君王后はこれを打ち砕いたという。 このときの玉連環はこんなものではないか・・と思われるものが故宮博物院に保管されているようだ(*2で写真参照)。
また、文学的には、中国の清朝中期乾隆帝の時代(18世紀中頃)に書かれた長篇白話小説の『紅楼夢』(中国四大名著の一つ)に、ヒ、ロインの林黛玉が九連環を解く記述があるらしい(*2、*4参照)が、中国の連続テレビ劇には、林黛玉が「九連環」をしている場面が登場している。
以下その動画を参照。
紅楼夢03刘姥姥一进荣国府- YouTube
西洋では、イタリアの数学者カルダーノ( Gerolamo Cardano)が1550年に書いた本の中でチャイニーズリングを論じているというから、相当古くからあったことは確かだろう。なお、イタリアではチャイニーズリングを「カルダノの輪」と呼んでいるそうだが、「カルダノの輪」と中国のものとの関係性はよくわからない。
チャイニーズリングは、錠前の一種として、財布の留め金に用いられたという。
杉田玄白が、文化12年(1815年)に著した『蘭学事始』(上下2編)の一文に、平賀源内らがカピタン(オランダ商館長)に会ったとき、知恵の輪付の金袋を出され、他の者らは皆てこずるが、源内は解いてみせたという話が載っている(*5:「蘭学事始」の上の巻参照)。

*5:『蘭学事始』上の巻(原文)より
何れの年なりしか、右にいふカランスといへるカピタン≪商館長≫参向の時なりしが、ある日、かの客屋に人集まり酒宴ありし時、源内もその座に列なりありしに、カランス戯れに一つの金袋を出し、この口試みに明け給ふべし。あけたる人に参らすべしといへり。その口は知恵の輪にしたるものなり。座客次第に伝へさまざま工夫すれども、誰も開き兼ねたり。遂に末座の源内に至れり。源内これを手に取り暫く考へ居しが、たちまち口を開き出せり。座客はいふに及ばず、カランスもその才の敏捷なるに感じ、ただちにその袋を源内に与へたり。

知恵の輪には、この他、アメリカのパズル作家サム・ロイド(Sam Loyd)の作品で、「ボタンホール」というものがあり、これは、先端に輪になった紐がついた棒で、この紐の部分を相手の衣服のボタンの穴につけて外させるものらしい。英語の“buttonhole”という単語に「他人の興味を引く」という意味があるのは、このパズルが由来とされているそうだ。
また、「キャストパズル」といわれるものは、鋳造によって作られた金属製の知恵の輪で、元々は19世紀にイギリスで作られた物だだそうだが、現在、多くの復刻版や新作が日本のパズル作家芦ヶ原伸之監修の元ハナヤマ(*6参照)より発売されている。従来の知恵の輪がおもちゃ屋でしか販売されなかったのに対し、書店やコンビニエンスストアなどでも販売された。
知恵の輪が今、若い人の間でどれほど流行っているのかは知らないが、ネットで見ると老人ホームグループホームなどでも利用され人気らしい。
知恵の輪には種類も多く、外すのではなく、部品同士を特定の形にもってゆくことを目的とするもの、また、大抵のものは、特定の外し方によって簡単に外すことができるが、手順が複雑なために外し方を知っていても、外すまでに時間が掛かるものも存在する。
外す方法を探すために試行錯誤する過程を楽しむ。また、外した後には元の形に戻すことも楽しみの一つとなるなど、楽しみ方はいろいろあるようだ。長いことしていないが、高いものでもないので、また、簡単なセット物でも買ってボケ防止の一環として楽しもうかな~。
大人気知恵の輪 | toys-games.mechakaitai.com

日本では少子高齢化の中、総人口が減少するなかで、高齢化率は上昇し、いわゆる「団塊の世代」(昭和22(1947)~24(1949)年に生まれた人)が65歳以上となる2015(平成27)年、つまり、今年には国民の4人に1人が65歳以上という高齢化社会に突入した。その中で65歳から74歳までの前期高齢者の比率と、75歳以上の後期高齢者(後期高齢者医療制度対象者)の絶対数がまもなく(2020年頃)入れ替わる更なる「超高齢社会」に入るが、一方、日本の総人口は、2050(平成62)年には1億人を、2060(平成72)年には9,000万人を割り込むことが予想されている。そして、このとき(2060年)には、、高齢化率は39.9%に達し、2.5人に1 人が65歳以上。内、75歳以上人口が総人口の26.9%となり、4 人に1 人が75歳以上の社会となる(以下参照)。
第1節 高齢化の状況(PDF形式:367KB)
このような高齢化率の増加に伴い、介護を必要とする「要介護高齢者」の数も増加し、国としては、そういった人たちのケアを今後いかに担っていくかが社会問題になっている。。
また、そのような中、高齢者当人にとっては、これからの余生を如何に健康で送れるかその生活のあり方が課題であり、中でも多くの老人にとっては、何時ボケる(痴呆。認知症)かも知れない・・・のが、一番の心配ごととなっているのではないだろうか。
は常に衰えていく器官なのだそうだが、その速度はストレスや生活習慣(生活習慣病.参照)などで大きく変化するのだとか・・・。
高齢になるとボケが起こりやすくなるのもこのためだと考えられ、そのため、脳を鍛え活性化させ、衰えを予防することが大切だという。参考✻7には、その予防法がいろいろと書かれている。
後期高齢者の仲間入りをした私の場合、健康管理については、特別にたいそうなことはしていないが、食生活面では、一応かかりつけの医師より注意されていることには注意しているが、余り、栄養的なことより、おいしく食べることを優先しているので、あとは家人任せで、食べ過ぎ、飲みすぎだけは注意をしている。
身体的な面では早朝のウオーキング(約一時間)やラジオ体操(また、テレビ体操)、それに血圧の管理くらいしかしていないが、ボケ防止に、旧式のテレビゲームで、パズルゲーム(簡単なアクションパズル含む)をよくしている。
これらゲーム機やソフトの購入は、現役の最後に5年間ほど九州の関係会社へ出向したが、その際家人が同伴したので、知らない土地で出張の多い私がいないときなどさみしかろうと、簡単なパソコンのゲームソフトを買ってやったのが始まりである。そのうち 骨とう品などに興味のある私は神社などの市へ出かけると任天堂のファミコンやゲームボーイ、セガのゲーム機や使用して厭いたゲーム機やソフトをまるでただのような安い値段で子供たちが親の横で処分していた。まだ、中古ソフトの専門店などがやっとでき始めた時だったので、これらの専門店もまだ少なかったことから、このような市で処分していたのだ。
ソフトなど100円や200円といったただみたいな値段で処分していたので、これでいいのと聞くと親ももう必要ないからいくらでもいいのですというのでそれらを買い漁っておいた。だから、初期の、任天堂や、セガ、プレステなどの各種ソフト、それもパズル系のものは息子があきれ返るほどの数を持っている。
孫が小さいときなどは孫が家に来ると一緒にしていたが、今では、家人と対戦をしたりして楽しんでいる。しかし、買った当初は若かったのだとつくづく感じさせられる。当時はクリアーできたものも、今では、クリアーできないものが多くなった。目に見えての衰えは感じなくても、いつの間にか判断力も反射神経も知らないうちにすごく衰えていることを痛感させられる。
それと、現役を退いたときから始めたホームページの作成、それに続いて始めたこのブログの更新。もう長い年数が経つので、このブログも何をテーマーに書くか。テーマー探しに苦労している。私が、なんでも知っているわけではないので、家にある蔵書や図書館の本、また、ネットのWikipedia他を参考にしながら書いているのだだが・・・。老化した脳で書くには結構大変だ。今は、少々負担になりかけているので、そろそろ止めようかと思ったりもするのだが、息子からはボケ防止で続けるように言われているので、今しばらくはそういった意味でやってみようと続けているが・・・。それと、最近はわずかばかりのお金で、株価の安い株式への少額投資をしている。昨年のまだ株式が比較的安いころに勝っているのでその後の値上がりで結構儲かっている。今中国経済の不透明さが影響し、株価は急落しているが、昨年大きく設けているのでそんな依存をすることはないだろう。しかし、わずかな金額の投資でも、経済の動向や毎日の株価の変動は気になるもので、これも結構脳を刺激してくれている。
ネット検索していると以下のようなサイトがあった。
ボケ防止 記憶力の低下にはこれが効く! - NAVER まとめ
とにかく、なんでもよいから、いろいろと脳を刺激しておかないと・・・。

ところで、知恵の輪の「知恵」だが・・・?
今のような高学歴化した時代、昔に比べれは知識をもった人は多い。
「知識」とは簡単に言えば、ある事柄について知っていること。また、その内容をいうが、「知恵」があるかどうかは別の問題だろう。
「知恵(慧)」は、物事をありのままに把握し、真理を見極める認識力。言い換えれば、ものごとの理を悟り、適切に処理する能力をいう。
孟子は書物としての『孟子』公孫丑上6(*8:黙 斎を語るー朱子学の基本となる書の孟子公孫丑章上―6参照)に、「性善説」の根本思想を含めた四っの心(四端の心)についての記述がある。
「惻隱の心は、仁の端なり。羞惡の心は、義の端なり。辭讓の心は、禮の端なり。是非の心は、智の端なり。」
ちなみに「端」とは、兆し、はしり、あるいは萌芽を意味する。心の作用には「四端」といって、以下の4つの要因があるとしている。
1,惻隠…他者の苦境を見過ごせない「忍びざる心」(憐れみの心)
2.羞悪…不正を羞恥する心
3.辞譲…謙譲の心
4.是非…善悪を分別する心
修養することによってこれらを拡充し、1、が、「」の「仁」につながり、2が「義」に、3が「礼」に、4が、「智」につながるとしている。つまり、このように自然の心の延長線上にのすべてがあり、決して無理に押しつけられたり、後から教育されたものではないと主張している。
ここで、他のことは別として、知は上記に記した通り、「是非の心」 としており、この「是非の心」というのは、よい悪いを正しく見分けることのできる心、のことを言っている。
知恵と知識の関係については、様々な考え方があるが、知識を沢山持っていても、知恵を著しく欠いている人もいる、また、知識はさほど多くなくても、立派に知恵を持っている人もいる、などとも言われる。
ビジネスにおいて、専門知識は不可欠である。その「知識」は、書物やテキストから、また、企業のマニュアルなどからも得られる。またいろいろな講座を受けたり、他の人との情報交換、あるいはネットで検索して、そこから取得できる情報も「知識」と言えるだろう。このような知識を蓄えることも大切だが、それはあくまでデータベースでしかありえない。知識を売り物にしているクイズ芸人などはいざ知らず、普通では、「知識」をいくら豊富に持っていても、それだけで役に立つとは言い切れず、大事なのはそれをいかに生かすかということになる。
「知識」を生かすにはどうすれば良いか? 「百聞は一見に如かず」(*9)のことわざもあるように、それは、あくまで「知識」に過ぎず、一度でも実際に自分の目で見て体験することには及ばない。知っていることと、実際に経験したこととでは大きな違いがある。つまり、「知識」はその人の経験を通して初めて「知恵」に変わり、自分の能力として身に付けることができるのである。
「知恵」とは、経験を通し「知識」を応用して自分自身で考え、新たなアイデアや価値を付け加えて実践に役立てる能力だともいえる。最近はいろいろとノウハウものが増えている。
安易にノウハウものに頼っていては、「知恵」はつかないだろう。
『知恵の輪』の解き方などのノウハウものもYouTubeその多いろいろと出てはいるが、できれば、そのようなものに頼らず、自分で解くことを楽しみ、どうしてもできないときに、そのようなノウハウものを参考にするとよいだろう。
先に紹介したキャストパズルのホームページを見ると、販売した商品パッケージの中に解答図を入れてないそうだ。パズルを解く"楽しみ"と"苦しみ"を充分に味わってもらうため。ぜひ、自力で解答を見つけていただき、本当の"感動"を味わってください。。。。とある。
もし、それでも「どうしても解き方がわからない」という方のために解答図を用意しているので申し込めば解答図を送ってもらえるそうっだ。これはいいやり方だと思う。(ここ参照)
偉そうに、こんなことを書いている私なども、YouTubeなどでその解き方などをもう見てしまった。でも、年だな~。見ているだけではよくわからない。早速買って、やってみよう。

【知恵の輪】解き方≪動画) - YouTube

参考:
*1:知恵の輪の日
http://www.geocities.jp/kumikugi/
*2:九連環| 中國古代益智遊戲 - Classical Chinese Puzzles
http://chinesepuzzles.org/hk/nine-linked-rings/
*3:斉の歴史
http://www.sun-inet.or.jp/~satoshin/chunqiu/sei/seilist.htm
*4:紅楼夢に九連環 - Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kumikugi/34813765.html
*5:蘭学事始現代語訳+原文
http://book.geocities.jp/kunio_suwa/rangaku.pdf#search='%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9+%E6%BA%90%E5%86%85+%E8%98%AD%E5%AD%A6%E4%BA%8B%E5%A7%8B'
*6:キャストパズル | 株式会社ハナヤマ
http://www.hanayamatoys.co.jp/product/category/puzzle/cast.html
*7:認知症予防・ボケ防止サイト 老年若脳
http://magald.com/
*8:黙 斎を語るー朱子学の基本となる書
http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/shushigakukihonsho.html
*9:百聞は一見にしかず - 故事ことわざ辞典
http://kotowaza-allguide.com/hi/hyakubunwaikken.html
古今名言集~座右の銘にすべき言葉~
http://www.kokin.rr-livelife.net/
故事百選
http://www.iec.co.jp/kojijyukugo/index.php