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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

三姉妹の日

2016-03-04 | 記念日
日本記念日協会(*1)に登録の記念日に「三姉妹の日」があった。
制定したのは、女性ばかりの姉妹の中でもひときわ華やかで絆が強いとされる長女、次女、三女の三姉妹。その調査・研究を行っている三姉妹総合研究所(*2)だそうだ。記念日の日付は、「ひなまつり」「国際女性デー」など、女性の月ともいえる3月で、3と4で「三姉妹」と読む語呂合わせからだとか・・・。

三姉妹といえば、時代劇ファンの私などが、すぐに思い出すのは、永禄10年(1567年)頃、織田信長の命により近江(現在の滋賀県)の戦国大名・浅井長政と政略結婚させられた信長の妹お市(信長の姪との説もあるようだが・・)と長政との間に出来た「浅井三姉妹、茶々である。
それぞれ豊臣秀吉京極高次徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。天下統一を進めた織田信長の妹(姪?)という血筋に生まれ、2度の戦国大名家の没落・落城や両親の死を経験し、その後天下をめぐる豊臣家(羽柴家)徳川家の天下の覇権争いに深く関わったことから、母・市と並んで戦国の女性の代名詞として語られることが多い。浅井三姉妹それぞれの数奇な運命については、ここで述べなくても、だれもが知っていることだろう(詳しく知りたければ「浅井三姉妹」や、参考*3参照)

上掲の画像は、左:茶々『伝 淀殿像』(奈良県立美術館所蔵)、中:初『常高院像』(常高寺蔵)、右:江『崇源院像』(養源院蔵)
また時代劇でなければ、近代日本文学を代表する文豪の一人谷崎潤一郎が昭和の初期、大阪・船場、そして、わが地元芦屋を舞台に描く長編小説の傑作『細雪』の姉妹を思い出す。いや、これは三人ではなく四人姉妹だったな~。大阪船場で古い暖簾を誇る蒔岡家の「鶴子」「幸子」「雪子」「妙子」の四人姉妹を主人公に、それぞれの生活と運命とを絵巻物風に描いたもの。次女幸子を中心に三女雪子の見合いが軸となり物語が展開する。

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上掲は、マイコレクションより、東京宝塚劇場公演の『細雪』(1987 (昭和63)年1月公演のものと思われる。
今は没落して商売を畳んでしまっている船場で指折りの旧家、蒔岡家。生家の没落にもめげず、移りゆく古都の四季の中、その美しさを競う四人の姉妹。長女の鶴子と次女の幸子は、それぞれ養子を迎えて一家を構え、夫と仲良く幸せに暮らしているが、三女の雪子はどこへ出しても恥ずかしくない深窓の令嬢であるにも関わらず、何故か縁談がまとまらない。母を早くに失い、家運が傾きかけた中で育った近代娘四女・妙子の方は、駆け落ち騒ぎを起こしたり、自立を志向するなど、万事に旧弊な本家との間の摩擦が絶えない。
映画に、舞台にと数多く公演されている『細雪』だが、この舞台では、銀行員の辰夫を婿養子に迎えて本家を継ぐ長女・鶴子を淡島千景が、次女・幸子を八千草薫が、三女・由紀子を多岐川裕美が、四女・妙子を熊谷直美が演じている。船場言葉(大阪弁。今吉元の芸人たちがしゃべっている品のない汚い言葉は河内弁である)を奏でる四人姉妹たち・・・。喜び、哀しみ、支え合うそれぞれの愛・・・人生の詩・・・。時を超えて日本人の心に生き続ける永遠の名作である。
この姉妹は、若々しく、よく似ているところもあるが、それぞれの立場のせいか性格個性豊か。特にこの二人、「時代おくれ、因循姑息」とみえるが「女らしさ、奥ゆかしさ(慎み深く上品であるさま)」という天然の美質をもつ雪子と、その妹で、独立心が強く性的にも奔放な末娘の妙子、性格も価値観も全く異なるこの二人の生き方を対比させて当時の女性像(*4参照)をうまく 表現している(参考*5など読めば4人の性格や気質がわかってくるかも・・・)。

また、洋物の三姉妹といえば、思い出すのは、ロシアの作家アントン・チェーホフの『三人姉妹』だろう。
この戯曲は、田舎町に赴任した軍人一家・プローゾロフ家の三姉妹を主人公に、ロシア革命を目前とした帝政ロシア末期の知識階級の閉塞感を描いた物語である。

上掲の画像は、『三人姉妹』初版時の表紙。三姉妹の顔と、白樺に囲まれた自邸の庭で子守りをするアンドレイ(三姉妹の兄弟)が描かれている。
独身で教師の長女オルガ(独身。教育熱心な父親の方針で、他の兄弟姉妹同様、仏・独・英語ができる。)、中学校教師の夫(クルイギン)に幻滅を感じ結婚生活に不満を抱える次女マーシャ(妻)、人生を歩み始めたばかりの三女イリーナ(独身。モスクワに帰ることと真に愛する人と巡り合い結ばれることを夢見ている)も現実の厳しさを知り、行く末を決めかねている。
高級軍人の一家として過ごした華やかな生活も、父親を亡くしてからはすっかり寂れてしまった。厳格な父親のもと身につけた教養も低俗な田舎町では無用の長物と化し、一家の期待の星であった長男アンドレイ(オリガの弟)も未来の大学教授という一家の期待にもかかわらず、姉妹が軽蔑する土地の娘ナターリヤ(夫の上司と不倫している)と結婚して尻に敷かれている。
姉妹の唯一の希望は、昔暮らしたモスクワへ帰ること。一家が最も輝いていたモスクワ時代を理想化し、夢想することだけが現実の不安を吹き払ってくれる支えになっていた。その町で姉妹が楽しく交流できるのは、父親と同じ軍人たちだけ。この町に駐屯する連隊の将校たちが毎日のように一家を訪れる。ここが、まるでサロン(社交場)のようになっている。
マーシャは夫ある身だが、モスクワから赴任してきた妻子ある身のベルシーニンと恋に落ちるが、この恋は実らず、ヴェルシーニンは軍隊と共に旅立っていった。真実の愛を夢見ていた末娘イリーナは、二人から求愛されていたが、モスクワへ行きたい一心から、現状打破の手段として愛のないトゥーゼンバッハ男爵との結婚を選択(婚約)するが、軍の移動が決まり、一家との別れの時を迎えたその日、彼はイリーナをひそかに愛する恋仇ソリョーヌイと決闘し、殺されてしまう。やがて連隊が町を去って行き、3人姉妹は愛も夢もすべて失うことになる。
この戯曲では、プローゾロフ家の三姉妹と、長男アンドレイの嫁のナターシャとの対比が鮮やか描かれている。子どものためにと、家庭内を仕切り夫を尻に敷くナターシャは卑俗に見えるが、これが現実世界だとしたら「賢母」と評されるタイプの人なのかもしれない。ただ不倫はいけないが・・。
世の中の人はほとんどがナターシャに近くて、何かしらの理想を持っていても、どこかで理想に見切りをつけて、社会に迎合しながら生きていくのだろうが、プローゾロフ家の姉妹たちは、たとえ夢も希望も平穏な生活すら失っても、いつまでも誇り高くしかいられない。ラスト、三人の姉妹は、希望をことごとく打ち砕かれながらも「生きていきましょう。働かなくては」とこれらかも生きていかなくてはならない覚悟を確認し合う。
オリガの言うとおり、今が苦しくても、苦しむ意味がわからなくても、そして自分が苦しんでいた事実さえ、時代の流れとともに忘れ去られていくとしても、やっぱり人は生きていくしかないのであるが、この三姉妹は裕福な生活を送っており、しっかりとした仕事も持っており、悩みを共有できる姉妹もいる。「モスクワに戻る」という夢も、たとえ、仮にモスクワに戻れたとしても、子供時代に戻れるわけもなく、あの時と同じ幸福感はそこにはないはず。彼女たちの願いはそもそもが「ないものねだり」でもあったのだ。
チェーホフは、三人の姉妹達の性格を巧みに描き分け、また、彼女たちが置かれた状況も会話の中で説得力を持って浮かび上がらせている。第三幕、長女のオリガは「結婚は愛でするものではなく、義務でするものだ」とイリーナを諭して男爵との結婚を勧めるが、これは、既に結婚しているマーシャに向けての言葉でもあった。オリガには一家の統治者との自覚が強く、保守的な面が見られる。

日本記念日協会に「姉の日」(12月6日)というのが登録されていたので前にこのブログで書いたことがある(ここ参照)。
漫画家の故畑田国男が提唱した日であり、女性や子供、旅人などを守る聖人、聖ニコラウスにまつわる三姉妹伝説がその日付の由来となっているそうだ(サンタクロースはこの伝承から発展したとする説がある)。
畑田は、「兄弟姉妹型」の研究についての書籍を多く発行し、かって「姉妹型の会」世話人も務めてたことがあるというが、その会がどのような活動をしていたのかは私は良く知らない。
畑田は「兄」(6月6日)「弟」(3月6日)「姉」(12月6日)「妹」(9月6日)にそれぞれ記念日を制定していた。
私は、出生の面で、一子、二子、三子と生まれると、先に生まれてきた子の方が、後から生まれてきた子よりも、DNA的には、頭の良い確立は高いとかいった話を聞いた気がする。本当かどうかは知らないが、遺伝というより、持って生まれた器のようなものはあると思う。ただ、先に生まれてきた子に比べ、後から生まれてきた子は、先に生まれてきた子のモデルがあるため、それをじっと見ていて、先に生まれた子には出来なかったことを学習することが出来るので、その分、上の子よりも、色々学ぶチャンスがあり、確りと育つのだろうと思っているのだが・・・。
私の場合、私は長男であるため、家の跡取り息子として、しつけは厳しかったがそれでも、総領の甚六というのか、要領が悪く、ホヤ!と育ち、親からは怒られてばかり。例えば、子供のころ食事をする時には、厳格な父が上座に一人座り、その前、2列に片側は父親に近い順に長男の私次に、次男、もう一列には母親そして、妹が順に並ぶなど席順も決まっていた(幼少時は畳の上で箱膳を使っていた)。そして、箸の握り方から、食事中のおしゃべりや汁物を吸うのにちょっと音を立てても、食べ方やマナーが悪いといっては、手をパシっとたたかれていたが、弟や妹はそんな私を観察しているので怒られことも少なかったし、また、同じ過ちをしていても私ほどには怒られることもなかった。
ただ、私は初めてできた男の子であるため、親、親戚だけでなく、父が商売をしていたので、多くの人が家に出入りしていたが、そのだれからも大事にし、かわいがられ、必ず私の好きそうなおやつを手土産にもって家へ来ていた(商売上子供の機嫌を取って父に気に入られようとするところもあったようだ)が、弟は私ほど相手にもされていなかった。こんなことも性格に影響してくるか・・・。
三人きょうだいになると、とかく弟のような第二子は浮き易く、独特の人生を歩むことが多いともいう。一方、第一子は子ども達のリーダーとして、良くも悪くも注目を浴びるし、末っ子になると“孫”的要素が入り、ちやほや甘やかされて育つことも多いのだろう(私の家のように、妹は男子2人に次いで三番目にやっと出来た女の子であるため余計だ)。
また、4人(以上)のきょうだいになると、年代差が開くので、第一子は親代わりとなり、3番目以下の存在感が薄くなるかもしれない。家人は、12人兄弟の一番年下のため、学校の父兄会なども母親じゃなく一番上の姉さんが母親代わりに出席していたという。

その人の性質を表す性格(コトバンクも参照)は、人間の特徴的な行動の仕方や考え方を生み出す元になるもので、行動にみられる多様な個体差を説明するために設定された概念であり、他人と違った自分だけの行動の仕方(行動パターン)をもっているという生まれつきの質(たち),品性,人柄のことであるが,現在では通常英語の“character”の訳語として用いられている。この言葉はギリシア語の“kharakter”、「刻み込まれたもの」「彫りつけられたもの」という意味をもっていて、内面的な特性を示すが、一般にキャラクター”とは言わず、パーソナリティー“personality”の訳として人格とともにほぼ同義に用いられているようだ。
言い換えれば、行動の個人差には単に環境的条件(家庭や子育て、親子関係など)の差だけでなく、その人がだれであるかという主体的条件によって決まってくる面がある(*8のパーソナリティ心理学Q&A第3回 育った環境で性格が変わるのか?参照)。
人の性格は十人十色といわれるように多様である。それを一定の理論に基づいた典型的なものによるタイプ(類型)に分類し、その構造を理解しようとする考え方がある。

三姉妹が含まれる女性の分類体系「姉妹型」というものを発案した漫画家の故・畑田国男は、都市と女性のフィールドワークを調査し続けて、数多くのルポルタージュを発表したが、そこから兄弟姉妹の立場が性格を決めるという新しい人間学を発見。
あらゆるジャンル職業と年代の兄弟、姉妹を調べ、その性格差や活躍度には明確な因果関係(*相関関係と因果関係参照)が見られることを膨大なデーターから導き出したという。
それは、どんなきょうだい(兄弟姉妹)構成で、何番目に生まれて育ってきたかを知ることで、その人の基本的な性格がわかるというもの。つまり、きょうだい関係という後天的な生育環境の要素に着目して、性格や行動原理を決めるのは幼児期の家庭環境にあるという理論の新しい人間学であり、きょうだい学であったそうだ(*2 :「三姉妹総合研究所」の姉妹型とは参照)。
そして、三姉妹総合研究所で実施した「三姉妹アンケート調査」では、姉妹自身による姉妹の性格差を客観的に評価する調査を行った結果、長女、次女、三女それぞれの性格は次のような項目が上位を占めたという。
◆長女 <厳しくしつけられた>・しっかり者、生真面目、穏やか、保守的、社交的
◆次女 <自由気ままに育てられた>・マイペース、気まぐれ、自由奔放、大らか、根気強い
◆三女 <誰からも甘やかされた>・甘えん坊、要領が良い、明朗、人付き合いが良い、のんき
これは、先に述べた私の家の関係にも似ている。ただ、私・長男(ここでは長女)がしっかり者とは言えぬかもしれないが。同じ三人のきょうだいでもそのきょうだい構成(男女の違いや組み合わせの違い、順序の違い)で違ってくるのだろう。

以下参考の*9:「スチュワーデス塾」の”はじめに”のところに書いているところによると、
1960年代以降、アメリカでは、離婚件数が急激に増え(*10参照)社会問題化していた。そこで、心理学教授のヴァルター・トーマンは、2万組以上の離婚カップルを調査し、離婚原因をあらゆる角度から分析。
その結果、同じ性格や気質のカップル同士で、離婚率が高いことが分かった。さらに、分析を進めていくと、末っ子同士のカップルに離婚率が非常に高く、長男と長女同士の結婚も、それに続いて離婚件数が多いとの結果がでた。これはどちらが悪いというのではなく、相性に問題があるとトーマン博士は言っているそうだ。
このスチュワーデス塾の≪相性心理学講座≫には以下のようなものがある。興味のある人は覗かれるとよい。
よい組み合わせ、悪い組み合わせ 
きょうだい関係と男女の関係
きょうだい関係と仕事 
9つの性格パターン
また以下も参照されるとよい。
生まれ順でわかる9つの性格 - NAVER まとめ

*10:「図録 主要国の離婚率推移」を見ると、日本の離婚率も、1990年代後半から上昇しており、国内的には問題視する場合が多いが、上昇程度、変化のスピードなどで、世界の動きの中では、まだ、マイルドな動きとなっているという。
世界では日本のような皆婚慣習を維持している国は珍しくなっており、男女のカップルの解消は必ずしも離婚率でたどれない状況になっている婚外子(婚姻届を出していない男女間に生まれた子。非嫡出子)割合が半数を超える国も増えている(図録1520参照)。欧米の離婚率の低下傾向(1980年代以降)はそもそも婚姻関係自体が少なくなってきているからという要因も無視できないというが・・・。
日本でも、普通離婚率は1883年(明治16年)には「3.38」であったが、大正・昭和期にかけて低下し、1935年には「0.70」となった。その後1950年前後(「約1」)および1984年(「1.51」)に二度の山を形成したが、1990年代から再び上昇し、2002年(平成14)には「2.30」を記録していたが、その後、少しづつ低下し2014年(平成24年)「1.77」(*11のここ参照)となっている。この数字は、人口1,000人当たりの離婚件数を表している。
しかし、一方で、人口1,000人当たりの婚姻件数を表した婚姻率も「5,1」と減少しており、5,1組が結婚し、そのうち1,77組が離婚している。つまり、離婚する夫婦が34,7%と、3組に1組もいる時代になっているのである。
我が国では、出生する子どもの約98%が婚姻関係にある男女の嫡出子であることから、結婚年齢や生涯未婚率の上昇が、出生数に一定の影響を与えていると考えられるが、厚生労働省が発表した『平成25年版 厚生労働白書』(*12)の「第2章第2節結婚に関する意識」に、見られるように、かつては皆婚規範が強く、特別な理由がない限り人生の中で結婚することが当たり前とする意識が一般的だったが、近年では高い年齢に至るまで未婚に留まる人々が増え、結婚を選択的行為として捉える見方が広まっている。
これは、内閣府の「男女共同参画に関する世論調査」(平成21年10月調査)を見ても、結婚について「どちらかといえば賛成」を含めると70.0%が「結婚は個人の自由である」と考えており、1992(平成4)年時点(62.7%)と比較すると、約7ポイント増加しているという(*13参照)。

また、内閣府の『国民生活白書』(平成13年版)の第1章 家族を巡る潮流変化の結婚することに対する意識の変化を見ると、以下のようにある。
近年の未婚化、晩婚化の第一の原因としては、相手が見つかるまでは結婚しなくてもいいという人が多いことがあげられる。なお、結婚相手の条件としてもっとも重視するものについて、当府「国民生活選好度調査」(97年。)では、性格が合うことをあげる人の割合(64.3%)が高くなっており、精神的なつながりが重視されているようである・・・と(第1-16図)。
このように「性格が合う」ことを結婚相手の条件としてあげる人が多いのであれば、今日のテーマ―である、前述したような「きょうだいの性格パターン」等を参考にして、自分に合いそうな相手を見つけ、もっと子供も産んでもらわないと日本は大変なことになる。
我が国では、年々出生数は減少し、2014年(平成24年)の合計(特殊)出生率(出産が可能な年齢の女性が生涯に産む子ども数)は1.42人となっており微増傾向ではあるものの、欧米諸国と比較するとなお低い水準にとどまっており、合計特殊出生率は、2023年には1.08人台まで低下し、その後わずかに上昇を示して2060年には1.12人へと推移するも、総人口は、2044年に1億人を割り、2060年には7,997万人になるものと推計されているそうだから・・・(*14:『少子化社会対策白書』(*14)平成25年版の第1節 近年の出生率の推移も参照)。


*1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
*2 :三姉妹総合研究所
http://www.sanshimai.jp/
*3:浅井3姉妹(茶々、初、江)はどのような性格だったのでしょう-Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1170968251
*4:男の本音…男性が望む理想の女性像10選 | 女性の美学
http://josei-bigaku.jp/love/risounojosei44405/
*5 :『細雪』の四姉妹 ( 小説 ) - Shadowlands
http://blogs.yahoo.co.jp/farida_firdaus07/19928848.html
*6:チェーホフ作「三人姉妹」について。その1 |
http://yuzo-goroku.jugem.jp/?eid=3363
*7:木村敦夫 チェーホフ劇におけるコミュニケーションの問題
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/01dep_slav/thesis/kimura.html
*8:日本パーソナリティ心理学会
http://jspp.gr.jp/
*9:スチュワーデス塾
http://www.stwds.com/index.html
*10:図録 主要国の離婚率推移(1947年~)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9120.html
*11:人口動態調査 結果の概要|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1a.html
*12:白書、年次報告書|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/
*13:内閣府:世論調査:男女共同参画社会に関する世論調査
http://survey.gov-online.go.jp/h21/h21-danjo/index.html
*14:内閣府HP
http://www.cao.go.jp/
国立社会保障・人口問題研究所
http://www.ipss.go.jp/index.asp









レトルトカレーの日

2016-02-12 | 記念日
今日2月12日は、「レトルトカレーの日」
袋をあけて取り出した乾燥麺をどんぶりなどの食器に入れ、熱湯をかけて蓋をする。「お湯をかけて2分間」待てば食べられる・・・の謳い文句で、日清食品が袋入りのインスタントラーメンを「チキンラーメン」の名で売り出したのが、1958(昭和33)年8月25日のこと。この商品は当時「魔法のラーメン」と言われ、人気を博した。価格は35円。当時、中華そばやうどんを店で食べるのと変わらない値段であり、うどんなら1玉6円の時代であった(*1参照)。
今度は3分間待てば“国民食カレーが食べられるようになった。
1968(昭和33)年のこの日(2月12日)、大塚食品工業(現:大塚食品)が、袋ごと3分間熱湯に温めるだけで食べられる日本初のレトルト食品「ボンカレー」を発売した。今日の記念日はその大塚食品が制定したもの。今も多くのカレーファンに愛され続けている。

レトルト(英語:Retort)の原語はオランダ語で、をかけて短時間で滅菌処理する釜(加圧加熱殺菌釜)をいう(ここ、参照)が広義では缶詰も含まれようだが、レトルト食品,という場合、一般には「レトルトパウチ(Retort pouch)食品」の略称として広く定着している。
パウチはポーチ、小袋のことである。日本では「レトルトパウチ食品品質表示基準」(平成12年12月19日農林水産省告示第1680号)によって以下のように、定義されている。
「レトルトパウチ食品」について
「プラスチックフィルム若しくは金属箔又はこれらを多層に合わせたものを袋状その他の形に成形した容器(気密性及び遮光性を有するものに限る。)に調製した食品を詰め、熱溶融により密封し、加圧加熱殺菌したもの」・・・と。

保存食の歴史は戦争の歴史でもある。外国遠征で東奔西走し戦闘に明け暮れたナポレオンは、軍用食保存技術の公募をし、これに応じたニコラ・アペールによって発明された瓶詰を採用、またこの原理を応用して1810年には、イギリスのピーター・デュラントにより金属缶に詰めて密封した缶詰が作られた。
しかし、この缶詰はハンマーと(のみ)、戦場では銃剣によって開封されていた不便なものであった(缶切りによって開けられるようになるのは、1858年、アメリカのエズラ・J・ワーナーの缶切り開発まで待たねばならなかった。*2も参照)。
その後、1950年代に、アメリカ陸軍補給部隊研究開発局が缶詰にかわる軍用携帯食として開発したのがレトルト食品である。缶詰の重さや、空缶処理の問題を改善するのが狙いであった。その後、アポロ計画宇宙食に採用されたことで多くの食品メーカーに注目されるようになった。
しかし、アメリカでは、当時既に一般家庭に冷凍冷蔵庫が普及しており、各種の冷凍食品が発売されていたことからまったく普及しなかった(パッケージの貼り合わせに接着剤を用いているため、アメリカ食品医薬品局より認可が下りなかったのも原因の一つである)ようである。
逆に日本では、当時は冷凍冷蔵庫の普及が遅れていたため、常温で流通、保存できる缶詰にかわる新しい加工食品として期待がかけられていた。

大塚食品(工業)は1964(昭和39)年、関西でカレー粉や即席固形カレーを製造販売していた会社を、大塚グループが引き継いでスタートしたが、当時はすでにカレー粉や缶詰での販売で、メーカー間の競争が激しく、大塚食品は「他社と同じものを作っても勝ち目はない、何か違ったものを作りたい」と考えていた。
そんなときに、米国のパッケージ専門誌『モダン・パッケージ』に掲載された「US Army Natick Lab」の記事に缶詰に代わる軍用の携帯食としてソーセージ真空パックにしたものが紹介されているのを目にし、「この技術をカレーと組み合わせたら、お湯で温めるだけで食べられるカレーが出来るかもしれない」と考え、この新しい技術との出会いをきっかけに、「一人前入りで、お湯で温めるだけで食べられるカレー、誰でも失敗しないカレー」のコンセプトで開発をスタートしたという。

レトルト食品には、高温処理しても食品そのものの品質を落とさない独自の調理技術と、長期保存を可能にする殺菌技術、そして高温殺菌に耐えられる包装技術の3つが必要である。
しかし、大塚食品には当時はパウチ(レトルト食品を封入している袋)にする包材もなければ、レトルト釜もなかったが、幸い大塚グループで持っていた点滴液の殺菌技術を応用して、レトルト釜を自分たちで作ったという(*3参照)。
そして試行錯誤の末、世界初の市販用レトルトカレーとして発売された最初の「ボンカレー」は、透明な合成樹脂(ポリエチレンとポリエステル)のみによる2層の積層加工で光、酸素を透過する透明フイルム制の袋に入っていたことから、密封が完全ではなく、レトルト最大の特徴である保存性が低く(賞味期限も冬場:3ヶ月、夏場:2ヶ月)、また、輸送中に穴が空くなど強度の問題もあり、常温流通に耐えられず、阪神地区限定品どまりであった。
ただ、当時は牛肉がまだ高価であったが「ボンカレー」は牛肉100%にこだわり、とっておきのごちそうメニューとして食卓に提供された。「ボンカレー」のネーミングはフランス語BON(良い、おいしい)と英語のCURRY(カレー)を組み合わせ、まさにおいしいカレーという意味が込められている。
このレトルトパウチ問題の解決をするため、内側のポリプロピレンと外側のポリエステル間に東洋製罐が開発したアルミ箔を挟んだ3層遮光性パウチ(袋)を使って強度を増した改良版パウチで化粧直しをし、翌1969(昭和34)年4月再デビューした。
賞味期限は一気に2年に延び、これが、大評判をとった。また、流通過程での破損も解決でき、大量陳列により消費者にアピールすることもできるようになって、同年5月に「ボンカレー」はついに全国発売に至った。それは、松山容子パッケージのもので味は野菜ベースであった。
テレビCMにはパッケージのモデルである女優の松山容子と俳優の品川隆二が夫婦役でやっていた記憶がある。
しかし、今は一般的となったレトルトカレーではあるが、レトルトの特徴などがはじめはなかなか消費者に受け入れられず、ボンカレー発売当時の宣伝は「3分温めるだけですぐ食べられる」という内容のもので、その宣伝からも分かるように、保存性よりも簡便性を前面に打ち出した、いわば、インスタント食品の一種として普及していった。
しかし、この当時、外食の素うどん50~60円の時代(うどん・そばの価格推移は*4参照)に、ボンカレーは1個80円。「高すぎる」というのが当時の反応であったため、当時、営業マンが全国各地に、ホーロー看板を自ら貼りにまわって普及に努めた。


上掲の画像は、当時駅や街角で見かけたホーロー看板。
ホーロー看板は、全国で9万5千枚も取り付けられたという。そうした営業マンの努力の甲斐もあり、ボンカレーはしだいに浸透し、売上を伸ばし、1973(昭和53)年には年間販売数量1億食を達成したという。そして、この年に放送されたテレビコマーシャルの「3分間待つのだぞ」という落語家笑福亭仁鶴によるセリフは流行語にもなった。



上掲は、1972年CM大塚のボンカレー・子連れ狼編- YouTube

日本の高度経済成長は1962(昭和37)年1月から1965(昭和40)年10月まで、高度成長第二期(輸出・財政主導型)が1965(昭和40)年11月から1973(昭和48)年11月までとされるが、1970年代以降も、経済成長は続き(*5参照)、都市を中心とした核家族化が進んだことによって、食事の個食化も進み、一人でおいしく手軽に食べられる一食完結型の食品の需要が高まった(ここでいう個食は、食育に関する言葉6つ「こ食」(*6、*7参照)の中の「孤食」に当たる。)。
そんな中、1971(昭和46)年にはハウス食品が『ククレカレー』を大ヒットさせるなど、他の大手食品メーカーもつぎつぎにレトルトカレー市場に参入。
市場に競合商品も増えたため、1978(昭和53)年には、大塚食品は日本人の嗜好の変化に合わせて香辛料やフルーツを贅沢に使った新商品『ボンカレーゴールド』(ここ参照)を発売。
ボンカレーと食材の構成を替えたこの商品は、以後、ボンカレーに取って代わり主力製品とななっている。テレビCMには巨人軍の王選手(後に郷ひろみ田村正和所ジョージ松坂慶子池谷幸雄ともさかりえ)を起用した。
レトルト食品は、カレーのほか、ハヤシ、パスタソース、どんぶり物や、麻婆料理の素、シチュー、スープ、ハンバーグ類、ぜんざいと、現在では多くのレトルト食品が出回っている。
1972(昭和47)年に、冷凍米飯(調理加工した米飯をマイナス40度以下で急冷凍したもの)、1973(昭和48)年のレトルト赤飯、に続いて、1975(昭和50) 年にやっとレトルト白飯が開発され、その他にも昔からの缶詰米飯やチルド米飯など、主食である「ごはん」も簡便保存食としてのマーケットが出来はじめていた。
給食のカレーなど鍋で煮込むと一人ひとりに肉と野菜の量が均一にならないうらみがあるが、レトルトのカレーは、ソースと具を別々に調理した後に両者を分量通り、パウチに充填し、加熱殺菌するので均一の商品ができる。
そんなレトルトのカレーにレトルトの米飯なども出来て、これにて、レトルトのカレーライスも完結というところだ。
初期のボンカレーのポスターでは、女優の松山容子が、にっこり微笑み、「独身の味 ボンカレー」とうたう。その後、新婚の味というコピーもあった。
ブームに火をつけたのは単身者だが、女性の職場進出、核家族の進行、高齢化に伴う独居老人の増加がその後の“個食“の時代と相まって、カレーを中心にレトルト食品が食卓での足場を固めていく。
カレーに不可欠な「ご飯」だが、米飯を気密な容器にパックし、保存が効くようにした「包装米飯」(通称パックごはん)には、「レトルト米飯」のほかに、「無菌化包装米飯がある。
「レトルト米飯」はその製造工程により、赤飯(もち米を含む)や粥(水分を多く含む)には適しているが、白飯には適していない面かったが、レトルト米飯より少し遅れて、1988(昭和63)年になって、「サトウの切り餅」で知られる佐藤食品工業(略称サトウ食品)が、レンジアップタイプ(電子レンジによる加熱)の無菌包装米飯「白飯:サトウのごはん」の販売を開始した。
それまでのレトルト米飯は炊飯後に真空パックし、高圧を掛けて加熱殺菌するタイプの物がほとんどで、製造後1年間程度まで長期保存できる利点があったものの、水分が多くてまとわり付きやすく、米飯本来の食感を維持できないという品質上の難点があり、専ら携帯食としての需要がメインであった。
マーケット的には1985(昭和60)年頃より電子レンジ食品ブームが起き、この年、エスビー食品から電子レンジカレーライス(レンジブランチ:ご飯生産は“樋口敬治商店〔現たいまつ食品〕”)、“越後製菓”からは農協ブランドで白飯(越後のごはん)などが相次いで発売され、この年以後、無菌包装米飯の白飯の発売が相次ぐようになり、無菌化包装米飯は登場して以来、徐々にレトルト米飯に取って変わりつつあるようだ(*8)。
ボンカレー発売35年目の2003(平成15)年には、ボンカレーがリニューアルされた。従来の調理法では沸騰したお湯に袋ごといれ煮立つのを待つもので、電子レンジを使う場合は袋から容器に移し替えて温めなければならなかったが、レトルトパウチの改良により袋のまま電子レンジにいれて調理できるようになり、さらに、2009(平成21)年2月12日に、「フタをあけ、箱ごとレンジで1分40秒」のカンタン調理で食べられる『ボンカレーネオ』が発売された。
今では、ボンカレーはすべてレンジ調理が可能になっており、また、次々と素材や、味の改良もされており、利用者にとっては、一層簡単・便利に美味しいものが食べられる様になっている。
私も現役時代、5年ほど単身赴任していたので、レトルトカレーはよく利用させてもらったが、近年、カレーの本場であるインドでもレトルトカレーが普及しており、夫婦共稼ぎの家庭などで人気を博しているという。
このようなレトルト食品は、長持ちするので、東日本大震災以降、非常食としても見直されている。
2014(平成26 )年、大塚食品とバイオテックジャパン(*9)が共同開発した緊急備蓄用カレーライス『ライス72H+ボンカレー72Hセット』が発売されている(*10参照)。
これは、水も加熱も一切不要で、一袋に開けてそのまま食べられるというレトルト食品で、中には、ライス、カレールウ、お手拭き、スプーン、ゴミ捨て用シールと必要なものがすべて入っている。ただ、気になるライスは、1パックにおよそコップ1杯分(160ml)の水が含まれているとのことで少し柔らかめだが、常温保存で3年間と賞味期限も長いので、非常食として常備しておいてもいいかもね。

ところでボンカレーのパッケージを飾った松山容子。1960(昭和35)年に、テレビドラマ『天馬天平』(日本電波映画 / フジテレビ。*11参照)で演じた、男装で新撰組と闘う勤皇の姫君・千也姫役が評判となった。ちょうど『崑ちゃんのとんま天狗』(東宝 / 讀賣テレビ放送)の後番組の企画を練っていたスポンサーの大塚製薬がこの人気に着目、この千也姫をモチーフとして、松山を主演に「男を凌ぐ剣の腕をもつ若武者姿の姫君」を主役にしたドラマ企画を打診し、『琴姫七変化』(日本電波映画 / 讀賣テレビ)が製作された。
毎回若武者姿だけでなく、芸者、くノ一、鳥追い・・と、文字通り次々替わる「七変化ぶり」も相まって、番組は2年間にわたり継続され、その容姿と華麗な立ち回りから「アクション女優の先駆け」として人気を博した。
松山は『琴姫』への起用とその人気が契機となり、大塚食品が製造販売する「ボンカレー」の初代パッケージに起用されるなど、大村崑と並び、「大塚グループの顔」として長く起用されることとなったのだが、今一度、当時の姿をみてみたいものだね~。




(冒頭の画像は、発売当時のボンカレー。甘口は赤箱だった。)
参考:
*1:インスタントラーメンの誕生|インスタントラーメン ナビ_一般社団法人 日本即席食品工業協会
http://www.instantramen.or.jp/history/origin.html
*2:製缶技術の変遷・金属缶の歴史|日本製缶協会
http://www.seikan-kyoukai.jp/history/
*3:大塚食品:ボンカレー公式サイト
http://boncurry.jp/
*4:戦後昭和史 - うどん・そばの価格推移
http://shouwashi.com/transition-noodles.html
*5:図録 経済成長率の推移(日本)
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4400.html
*6:6つの“こ”食
http://www.kobe-kikai-kenpo.org/6_ko.html
*7:「「孤食」という問題?」相模女子大学名誉教授・河上 睦子
*8:無菌包装米飯 - 日本包装学会(Adobe PDF)
, http://www.spstj.jp/publication/archive/vol20/Vol20_No5_1.pdf#search='%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E6%B0%B4%E7%94%A3+%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%88%E7%B1%B3%E9%A3%AF++%E7%84%A1%E8%8F%8C%E5%8C%96%E5%8C%85%E8%A3%85%E7%B1%B3%E9%A3%AF'
*9:JAPANESE - 植物乳酸菌のパイオニア-バイオテックジャパン
http://www.biotechjapan.co.jp/top.php
*10:調理は一切不要! 開けてそのまま食べられる『ライス72H+ボンカレー72Hセット』を実食レビュー(ガジェット通信)
http://getnews.jp/archives/544570
*11:天馬天平 - テレビドラマデータベース
http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-3580
レトルト食品Q&A|日本調味食品株式会社
http://www.jsf-nicho.co.jp/qanda/index.html
非常食にまつわる雑学 - NAVER まとめ
http://matome.naver.jp/odai/2139522256519298201
日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
ボンカレー – Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC





六次産業の日

2016-01-23 | 記念日
日本記念日協会(*1)の今日・1月23日の記念日に、「六次産業の日」があった。
由緒書には以下のようにある。
酒屋「芋んちゅ」などの飲食店経営、食を通じた郷土活性化事業、フランチャイズのコンサルタント業務などを行う、愛知県名古屋市に本社を置く株式会社グロース・フード(*2)が制定したもので、日本の六次産業を盛り上げるのが目的。
六次産業とは農業や水産業などの一次産業、それらを加工する二次産業、そして販売、流通を手掛ける三次産業を統括して実施する産業のこと。日付は1と2と3で、一次産業×二次産業×三次産業で六次産業を意味している。・・・とあった。

人々が生活するうえで必要とされるものを生み出したり、提供したりする経済活動産業と呼ぶが、現代の日本で、経済の中核をなしているのは、古典的産業分類でいうところの第三次産業と呼ばれるものであろうが、この「第三次産業」という用語は、イギリスの経済学者コーリン・クラークがその著『経済的進歩の諸条件』(1941年)において使い始めたといわれている。
これより先、英国の経済学者ウィリアム・ペティは,17世紀に一国の産業が農業(英:agriculture)から製造業(英:manufacturing industry),商業(英: commerce)へと発展するにつれて富裕になることを『政治算術』(1690年.)で指摘(ここ参照)。
コーリン・クラークは、これにヒントを得て一国の産業構造を、農業などの第一次産業、製造業などの第二次産業,商業・運輸などの第三次産業の三分類に大別し、経済(英: economy)の発展に伴い、国民経済に占める第一次産業の比重は次第に低下し、第二次産業、次いで第三次産業の比重が高まるということを示した。これは、両者にちなんで「ペティ=クラークの法則」と呼ばれている(ペティの法則)。
産業を第一次、第二次、第三次産業の三つに大別したコーリン・クラークの分類では、
第一次産業は、自然に直接、働きかける産業を指し、農業・林業・漁業(水産業の一種)、狩猟鉱業などを言い、水産業の一種である水産加工のように天然資源(自然資源)を元に加工して食品を製造する業種は製造業に分類され、第一次産業には含まれない。
第二次産業は、第一次産業が採取・生産した原材料を加工して富を作り出す産業が分類され、製造業、建設業、電気、ガス業がこれに該当。
第三次産業は、第一次産業にも第二次産業にも分類されない産業が分類され、小売業やサービス業などの無形財がこれに該当。これらの産業は商品やサービスを分配することで富を創造することに特色がある。
ただ、クラークの産業分類に関しては、第三次産業に単純労働が含まれ、後進的な産業が先進的な産業と同じ扱いになっているという批判があるようだ。さらに、“マネジメントの父”と称されるピーター・ドラッカーもその著『イノベーションと企業家精神』の中で 構造変化がイノベーションの機会だと言っている(*3参照)が、経済発展につれて産業内部で生じている構造変化をとらえきれないという弱点がある。
ちなみに、産業構造に変化を及ぼす要因としては、次のことが挙げられている(*4:「経済指標のかんどころ」の第3章産業構造参照)。
(1)産業間の所得格差 … 技術革新によって生産性が高まると産業間に所得格差が生まれ、より高い所得を求めて産業間の労働力移動が起きる。第1次産業は第2次産業と比べて、技術革新によって生産が飛躍的に拡大する要素が少ない。
(2)需要構造の変化 … 所得水準が上昇すると消費構造が変化し、モノよりもサービスへの需要が増大する(*5の厚生労働省の『労働経済白書』の平成22年版 労働経済の分析-産業社会の変化と雇用・賃金の動向-の第2章 産業社会の変化と勤労者生活他それ以降の白書参照。)。
(3)国際関係 … 自国で生産するよりも外国で生産するものが安い商品は、輸入品が選択されることになり、その産業の国内でのウエイトは低下する。
(4)国の政策:日本の農業政策のように、政府による特定産業の保護育成政策が行われる場合がある。

また、第三次産業は、公益事業のような資本集約的な産業も、飲食業のような労働集約的な産業も、教育のような知識集約的な産業も含むという雑多な産業の集合体であり、中でも最近のサービス化はIT分野(*6参照)の比重が増しており、それが産業全体の生産性を高めるもの、と期待されているが、このような雑多な産業を単一のくくりで単純化することについても批判があるようだ。なお、近年この点に関しては、情報通信業などの情報や知識を取り扱う産業を第四次産業あるいは第五次産業として捉えなおす考え方も提唱されている。
逆に言えば、過去の古い「産業」や「分業」のイメージでは適用領域が狭い範囲に限られていたことを意味し、あるいはさらなる作業(特に知識や情報の生産流通のあり方)の細分化を知らずして社会学や経済学などが進められていたこと意味していたともいえるのかもしれない。
現在、日本で、産業を分類する基準として代表的なものに、「日本標準産業分類」(*7)がある。
日本標準産業分類は、統計調査の結果を産業別に表示する場合の統計基準として、事業所において社会的な分業として行われる財貨及びサービスの生産又は提供に係るすべての経済活動を分類するものである。つまり、日本標準産業分類の目的は、統計調査の結果を産業別に表示する際の基準を設定することにある。
この日本標準産業分類における産業の定義は、事業所において社会的な分業として行われる財貨及びサービスの生産又は提供に係るすべての経済活動をいう(総務省)。これには,営利的・非営利的活動を問わず,農業,建設業,製造業,卸売業,小売業,金融業,医療,福祉,教育,宗教,公務などが含まれる。なお,家庭内においてその構成員が家族を対象として行う生産・サービス活動は,ここでいう産業には含めない。
この分類の基準は、第一に、 生産される財貨又は提供されるサービスの種類(用途,機能など)。第二に、財貨生産又はサービス提供の方法(設備,技術など)。第三に、原材料の種類及び性質,サービスの対象及び取り扱われるもの(商品など)の種類である。
日本標準産業分類では、大分類、中分類、小分類、細分類の四段階構成となっている。直近では、平成25年(2013年)10月に改定(昭和24年=1949年10月の設定以後13回)がなされ平成26年4月1日より施行されている。その中で情報通信業は大分類Gに属している(その分類等は*7のここ参照)。
日本における分類では、慣例として、クラークが一次産業に分類している鉱業を二次産業に分類しており、第二次産業に分類している電気・ガス業が第三次産業に分類される点で異なっている。
第三次産業は現代の日本では経済の中核をなしているが、その複雑さ多様さゆえに経済統計の整備が最も遅れている産業である。工業統計調査(*8)のような全事業所を対象とするような調査は行われておらず、業界団体が出す資料しかない産業もある。そのため、複数の統計を加工して推測するしかないようだ。
第三次産業の活動を把握できる統計としては
国民経済計算(内閣府、*9参照)
第3次産業活動指数(経済産業省。*10参照)- なお、上記のような国際的な定義との違いに配慮し、電気・ガス・熱供給・水道業を除く指数を参考系列として公表している。
特定サービス産業実態調査(経済産業省。*11参照)
法人企業統計調査(財務省。*12参照) - ただし、金融を除く ・・・などがある。

さて、今日の記念日に登録されている六次産業のことであるが、六次産業とは、農業や水産業などの第一次産業が食品加工・流通販売にも業務展開している経営形態を表す、農業経済学者の今村奈良臣が提唱した造語である。
流通とは商品やサービスが生産者からそれを使用する消費者へ流れていく過程であり、流通の役割には以下の3点がある。
1) 生産者と消費者を結び付ける(商取引)
2) 生産地と消費地の場所の違いを補う(輸送)
3)生産時と消費時の時間の違いを補う(保管)
流通部門は,消費者が生産者からを直接購入しない限り,必ずそのサービスが必要な部門であり,その対価は流通マージンとして生産者価格とともに消費者によって支払われる。これは,消費者が消費財を購入する場合に限らず,産業が中間投入財や資本財を購入する場合も同様であり,流通部門は国内のあらゆる取引に介在する。
農業、水産業は、産業分類では第一次産業に分類され、農畜産物、水産物の生産を行うものとされている。だが、六次産業は、農畜産物、水産物の生産だけでなく、食品加工(第二次産業)、流通、販売(第三次産業)にも農業者が主体的かつ総合的に関わることによって、加工賃や流通マージンなどの今まで第二次・第三次産業の事業者が得ていた付加価値を、農業者自身が得ることによって農業を活性化させようというものである。また、このような経営の多角化を六次産業化と呼んでいる。
六次産業という名称は、もともとは、農業本来の第一次産業だけでなく、他の第二次・第三次産業を取り込むことから、第一次産業の1と第二次産業の2、第三次産業の3を足し算すると「6」になることをもじった造語であったらしいが、現在は、第一次産業である農業が衰退しては成り立たないこと、各産業の単なる寄せ集め(足し算)ではなく、有機的・総合的結合を図るとして掛け算であると今村氏が再提唱しているようだ(Wikipedia)。

農山漁村には、有形無形の豊富な様々な資源地域資源」(農林水産物、バイオマス、自然エネルギー、風景・伝統文化など)が溢れている。
近年、ご当地ブーム、町おこし地域ブランドに代表される地域活性化の試みにおいて特徴・素材となるものを地域資源として定義し、活用する考え方が広まっており、安倍内閣の新成長戦略(*14参照)に伴う経済成長戦略大綱関連3法案(ここ参照)のひとつ「地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律」(略称:中小企業地域資源活用促進法、 *15参照)が2007(平成19)年6月施行され、地域資源を活用した中小企業の事業計画を認定し、支援によって地域ブランド等の育成を計っている。
そのような中、農林水産業の六次産業化の推進が叫ばれた背景には、加工食品(*13)や外食の浸透に伴って消費者が食料品に支払う金額は増えてきたものの、それは原材料の加工や調理などによって原料価格に上乗せされた付加価値分が増えただけで、農林水産物の市場規模はほとんど変わらなかったことがあるようだ。付加価値を生み出す食品製造業や流通業外食産業の多くが都市に立地し農山漁村が衰退していく中、農家などが加工や販売・サービスまで行って農林水産物の付加価値を高めることで、所得向上や雇用創出につなげることが目指された。
このような考えは、各地で実践を伴いながら広まりつつあり、農業経営などが多角化するだけでなく、商工業の事業者と連携する動きもある。こうした「農商工連携」に取り組もうとする動きを後押ししようと、2008(平成20)年に「中小企業者と農林漁業者との連携による事業活動の促進に関する法律(農商工等連携促進法)」(*16。*17参照)が制定されたのに加え、日本再生戦略の一環として六次産業化を推進するため2010(平成22 )年には六次産業化・地産地消法 (正式名称:「地域資源を活用した農林漁業者等による新事業の創出等及び地域の農林水産物の利用促進に関する法律」(*18のここ参照)を成立させ、農林水産省が六次産業化する事業を認定し、補助金や情報提供などで支援ている。
なお、先に紹介の農商工等連携促進法と六次産業化法の主な相違点としては、
◎支援要件として、前者が中小企業者(*17のここ参照)と農林漁業者等が共同して事業計画を作成することを要する一方、後者は農林漁業者等だけで作成することが可能な点。
◎その他、支援措置について、前者の支援が主に金融支援であるのに対し、後者は、金融支援とともに、農地法、野菜生産出荷安定法(*18参照)や種苗法の特例等、幅広い支援を規定しているようだ。
そして、2012(平成24)年8月には、加工分野や販売分野への進出を金融面で支援する六次化ファンド法(株式会社農林漁業成長産業化支援機構法。平成24年法律第83号)が成立(*19の農林漁業成長産業化ファンド参照)。国と民間企業が共同出資でファンドをつくり、農林漁業者と食品会社などが共同でつくる企業に出融資する制度も創設された。
そのような努力もあって、六次産業化では、「自家生産米からどぶろく製造・販売」(北海道)「農産物の生産・加工と観光農園等による地域活性化と豊かな郷土づくり」(東北)「牧場でのジェラート製造・販売(関東)など、今年・2016(平成28)年1月14日現在での総合化事業計画の認定件数合計(累計)は、2,130件に上っている。内訳は、うち農畜産物関係が1,871件、林産物関係96件、水産物関係163件である。なお、総合化事業計画の認定件数の多い都道府県の上位5県は、1位は北海道120件、兵庫県100件、長野県91、件宮崎県82件、熊本県76件となっており、わが地元兵庫県が2位と健闘していた。以下参照。
農林水産省/フォトレポート:6次産業化取組事例100選

六次産業化の形態別の現状を見ると、農産物の輸出といったものもあるが、農産物の加工、農産物直売所、観光農園、農家民宿、農家レストラン、・・といったものがほとんどの様だ。
一次産業に携わる農業者が、二次産業の加工や三次産業の流通にも関わる「六次産業」化が今大きな流れになっている。目的は、農家の経営を多角化し収益率を高めることにある。
昨・2015(平成27)年に農林水産省や経済産業省などがTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の大筋合意内容結果の概要を公開してる(*20、*21参照)。
六次産業化は、TPPに屈しない日本の強い農業をつくるためにも必須だと言われている。
日本政策金融公庫が公表した「平成23年度 農業の6次産業化に関する調査」によると、六次産業化を行ったことで農業経営の7割強が所得向上を実感しているという。そのため、今後の経営展開についても、回答者の76.2%が規模を「拡大」すると回答しており、六次産業化への取り組みが定着したことを伺わせる。・・・という。以下参照。
6次産業化で農業経営の7割強が所得向上を実感 ... - 日本政策金融公庫
これを見ると良いことずくめのように見える六次産業化のようだが、六次産業化への課題はないのか。また、成功させる秘訣とは何か・・・等々は以下を参照。
平成24年度6次産業化等に関する調査 (詳細版) - 日本政策金融公庫
6次産業化の展開方向と課題 - 農林水産省

都会に住み、六次産業化の現実とはあまり接することのない私であるが、全国の主要な市場から新鮮な水産物を調達し、その調達力を活かした鮮魚専門店経営、寿司・魚惣菜の販売や、回転ずし・レストランの経営をしている会社の株を昨年買い最低単位で持っている。同社からは年に一度、株主優待として同社扱いの数の子が年末に貰えるが今年の正月食べたら質の良い美味しい品だったので満足いる。同社からは歳暮用の良品を株主割引価格で販売してもらえるのもメリットである。今年、新年早々より世界同時株安となっているが、幸いここの株は安い時に買ったし、業績も良いのだろう株価も結構高くなっており儲けさせてもらっている。今このような上場会社が多くみられるが、中には、経営が上手くいっていないのか、今までの株主優待を廃止してい閉まっているところがある。そんなところは去年売却しているので助かった。
世界同時株安に関するニュース-Yahoo!ニュース
地方色豊かな日本。その地方資源を活用して、良いものを安く(是非このことを忘れないように)私たち消費者に届けて欲しいものですね。

冒頭の画像は、農林水産省の「六次産業化支援策活用ガイド」平成27年9月版(PDF:7,586KB)です。
*1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
*2:Growth Food co,ltd
http://growthfood.c-saiyo.com/
*3: [ドラッカー]イノベーションのための7つの機会 | 石山経営戦略室
http://ishiyama-room.com/theory/druckers_7chances_for_innovation/
*4:経済指標のかんどころ
http://www.cap.or.jp/~toukei/kandokoro/top/top1.html
*5:統計情報・白書―厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/index.html
*6:IT業界がわかる、仕事入門 - 立命館大学
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ise/jobplayer/it/
*7:総務省|統計基準・統計分類|日本標準産業分類
http://www.soumu.go.jp/toukei_toukatsu/index/seido/sangyo/
*8:工業統計調査|経済産業省
http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/kougyo/
*9:国民経済計算(GDP統計) - 内閣府
http://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/menu.html
*10:第3次産業活動指数(経済産業省)
http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/sanzi/index.html
*11:特定サービス産業実態調査|経済産業省
http://www.meti.go.jp/statistics/tyo/tokusabizi/
*12:法人企業統計 : 財務省
https://www.mof.go.jp/pri/reference/ssc/
*13:加工食品 | e-ヘルスネット〔情報提供〕
http://www.e-healthnet.mhlw.go.jp/information/food/e-03-017.html
*14:政府 新成長戦略の要旨 :日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXDZO09482380Y0A610C1M10400/
*15 :中小企業による地域産業資源を活用した事業活動の促進に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H19/H19HO039.html
*16 :中小企業者と農林漁業者との連携による事業活動の促進に関する法律
http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H20/H20HO038.html
*17:J-Net21農商工連携パーク
http://j-net21.smrj.go.jp/expand/noshoko/
*18:農林水産省/野菜生産出荷安定法
http://www.maff.go.jp/j/seisan/ryutu/yasai/y_law/
*19:第6チャネル(6次産業化ポータルサイト)
http://6-ch.jp/index.html
*20:TPP大筋合意について-農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/kokusai/tpp/
*21:TPP(環太平洋パートナーシップ)(METI/経済産業省)
http://www.meti.go.jp/policy/external_economy/trade/tpp.html
第六次産業 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E6%AC%A1%E7%94%A3%E6%A5%AD

フードドライブの日

2016-01-15 | 記念日
新しい年に変わっての初めてのブログとなります。
みなさん良いお正月過ごされましたでしょうか。
昨年12月中旬以降暫くこのブログ休止していましたが、今日からまた始めます。昨年同様よろしくお願いします。
今年・2016年の干支(かんし、えと)は十二支の9番目の「申(さる)」。
干支で年を表すのは日本独特の風習ではなく、もともとは古代中国(起源は商=代と言われる)で作られたものが伝わっったもの。ちなみに正確にいえば、十干十二支(じっかんじゅうにし)とも言われ、全部で組み合わせが60種類あるので、60年で一周。今年はその60年に一度の丙申(ひのえさる)という年となる。
12年前「赤い下着ブーム」があった。年配の人はよくご存知だろうが、俗説に申年の「サル」にかけて「病が去る(サル)」など語呂が良いことや、また還暦祝いに赤を使ったりするように「赤」(風水では火)は病気を防ぐ厄除けの言い伝えがあるので、赤い肌着が良いとされているからである。「丙申」の「申」が赤を意味し、「」が火を意味するのだとしたら、「丙申」は60年のうちでも「一番燃える赤」の年とも言えるだろう。
しかし、「申」は猿と同義ではない。「申」は「呻」(しん:「うめく」の意味)で、もともとは、稲妻を表す象形文字であり、の初形ともされているようだ。そして、光が斜めに走る事から申は伸に通じ、まっすぐに伸びきる意を含み、果実が成熟して固まって行く状態を表してもいるようだ。後に、覚え易くするために動物のが割り当てられた。
その中でも60年に一度の「丙申」は、易などでは、一般に「物事が大きく進歩発展し、成熟する年」・・・と言われているのだが・・・。今年は一体どんな年になるのだろうか?
前回の丙申は1956(昭和31)年。同年7月に発表された経済白書(副題日本経済の成長と近代化)の結語には、太平洋戦争後の日本の復興が終了したことを指して『もはや「戦後」ではない』と記述され流行語にもなった(参考の*1参照)。
ここで比較されている「戦前」とは、1934年~36年平均を言っており、故に、日本経済は、戦争のために20年間も足踏みしていたが、焼跡の廃墟に住み飢餓に苦しんだ人々が、敗戦後10年で立ち直ったのは早かったが、この時の「もはや」という言葉は「物事の形がやっと明らかになり、固まっていく」……、そんな年だったのかもしれない・・・。
それでは、2016年の今年はいったい何が起こるのか、「未年」に完結できなかった何かがかたまっていくのだろうか・・・。

今年、新年早々の株式市場は、「世界同時株安」で始まった。以下参照。
株式 :マーケット :日本経済新聞
中国の人民元安が止まらず、上海株式相場が急落したことや、中東での地政学リスク(*2、*3参照)の高まり、北朝鮮水爆実験などに敏感に反応したものなのだが・・・。安倍政権の舵取りはどうなることやら・・(*4など参照)

新年早々、グダグダと書いてしまったが、こんな経済の見通しの話など専門家でもない私が書くことでもないので本題に移ろう。
ところで、「フードドライブ」って、知っていますか?
日本記念日協会(*5)の今日・1月15日の記念日に 「フードドライブの日 」があった。
由緒書を見ると、“缶詰や調味料、レトルト食品など、消費期限までの日数があり保存可能で未開封の食品を、経済的理由などで食べ物に困っている家庭などに届ける奉仕活動の「フードドライブ」。この活動を広めようと女性だけの30分フィットネスを全国展開する株式会社カーブスジャパン(*2)が制定。当初は自社が初めて日本縦断でフードドライブを開始した日にちなみ11月1日だったが、より多くの個人、企業に参加して欲しいとの願いから1と15で「いいごはん」の語呂合わせとなるこの日を記念日とした。”…とあった。
「フードドライブ」…、最近何かの番組(テレビ)でこのような話を聞いたことがあるのだが、私は余りよく知らないのでネットで調べてみると、これは、アメリカ生まれのボランティアのひとつらしい。
フードドライブは、企業・教会・学校などが主催、地域社会に缶詰やレトルト食品などの保存食品の寄付を募るシステムで、集められた食料は、地元のNPO食料援助団体・フードバンク(*7も参照)の配送センターに運ばれ、そこから低所得家庭に配られるようだ
日本ではまだ余り知られていないようだが、その活動の輪は少しずつ広がっているようで、女性だけの30分フィットネスチェーン「カーブス」を展開する株式会社カーブスジャパンでは、2007(平成19)年から全国でフードドライブを実施し、年に一度、全国に約800店舗(2009年12月現在)あるカーブス店舗にて会員および一般の人たちから食品を募り、児童養護施設や女性シェルター介護施設等の施設・団体に寄付しているようだ(*8 )..。
フードバンク発祥の地米国では1960年代、アリゾナ州フェニックスのスープキッチン(soup kitchen。炊き出し参照)でボランティア活動をしていたジョン・ヴァンヘンゲル ( John van Hengel ) は、ボランティア先のシングルマザーから、まだ食べられる食品がスーパーで大量に廃棄されていることを聞いた。
ヴァンヘンゲルはスーパーにこうした食品を寄附してもらうよう交渉するとともに、地元の教会に食品を備蓄する倉庫を貸してくれるよう頼んだ。こうして1967年、倉庫を提供した教会の名を採り、「セントメアリーズフードバンク」が誕生した。その後、農家から収穫し残した農作物の寄附を受け、1976年に「セカンドハーベスト」を設立。セカンドハーベストは後にフィーディングアメリカ ( Feeding America ) に名を変え、全米の約200のフードバンク団体を統轄する組織となっているそうだ。

●上掲の画像は、アル・カポネが行った失業者向けのスープキッチンに列をなす人々。1931年、アメリカシカゴ市内。店頭の看板には「失業者のための、無料のスープ、コーヒー、および、ドーナツ」と書いてある(画像.Wikipediaより)
このように米国では、1960年代から盛んに行われており、すでに55年もの歴史があるそうだが、日本では、2000(平成12)年1月に炊き出しのために食材を集める連帯活動から始まり、以降フードバンクが設立されはじめたところであり,まだ歴史は浅い。
元アメリカ海軍の軍人で、上智大学の留学生のチャールズ・E・マクジルトンが2002(平成14)年3月に日本初のフードバンク団体を設立、同年7月に東京都から特定非営利活動法人(NPO法人)の認証を受けた。そして2004(平成16)年からは、団体名をセカンドハーベスト・ジャパン(2HJ.。同HPは*9参照)と改めた。
これとは別に、2003(平成15 )年4月にはアメリカ人のブライアン・ローレンスにより関西地方を地盤とするフードバンク関西(*10参照)が発足。翌年1月には兵庫県より特定非営利活動法人の認証を、2007(平成19)年には国税庁より認定NPO法人の認証を受けているそうだ。
いずれも当初はハインツ日本コストコなど外資系企業からの寄附が中心だったが、ニチレイなど日本の企業からの寄附も始まり、「もったいない」の観点からも注目されつつあるようだ。2007年以降は沖縄県や広島県、愛知県、北海道でも動きが始まっている。という(法人格を持つフードバンク活動実施団体参照)。
日本は食料自給率が低く、カロリーベースで39%(*11参照)と言われている(2014年度)。その多くを輸入に頼る一方、1788万トンの食料を廃棄している。うち可食部分と考えられる量(いわゆる「食品ロス」)500~800万トン(うち、家庭から出る食品ロスが200〜400万トン、事業者=企業などから出る食品ロスが300〜400万トン)もあるという(*12参照)。
日本はかって1億総中流社会と言われていたが 、それはひと昔もふた昔も前に終わっていたようだ。
統計上、貧困層の割合を把握するために使用される指標に貧困線(ひんこんせん、英: poverty line、poverty threshold)というものがある(ここも参照)。それ以下の収入では、一家の生活が支えられないことを意味している。
この貧困線(ライン)には必要最低限の生活水準を維持するために必要な収入を示す絶対的貧困ライン、所得または消費の分布で下位一定割合の水準を示す相対的貧困ライン、世界銀行が設定する国際貧困ラインなどがある。
絶対的貧困率の基準は国や機関、時代によって異なるが、2008(平成20)年、世界銀行は、貧困線を「2005年の購買力平価(PPP)が1.25$以下の層」と設定しているようだ。
また、相対的貧困率は、OECD(経済協力開発機構)では、等価可処分所得(世帯の可処分所得を世帯人数の平方根で割って算出)が全人口の中央値の半分未満の世帯員を相対的貧困者としている。相対的貧困率は、単純な購買力よりも国内の所得格差に注目する指標であるため、日本など比較的豊かな先進国でも高い割合が示される(国の所得格差順リストも参照)。
日本が他国より率が高いのは相対的な貧困率の方であり、「平成25年国民生活基礎調査結果」(*13)による平成24(2012)年の日本の貧困線は122万円、相対的貧困率は16.1%にもなっている。1985(昭和60)年の相対的貧困率は12.0%であったので、この間に34,2%も貧困率が悪化しているのである。

また、今、いじめ児童虐待不登校、中途退学非行学級崩壊など、教育が困難な問題に直面しているようだが、特に最近は、子どもの貧困問題が深刻であり。同統計による子どもの貧困率」(17 歳以下)は1985(昭和60)年が10.9%であったものが、49,5%増の16.3%と過去最悪となっている。
そして、「子どもがいる現役世帯」(世帯主が18 歳以上65 歳未満で子どもがいる世帯)の世帯員についてみると、1985(昭和60)年が10.3であったものが46,6%増の 15.1%となっており、中でも深刻なのはそのうちの母子家庭や父子家庭などの「ひとり親世帯」の貧困率は、1985(昭和60)年(54.5%)より、若干の増のとはいえ、今でも貧困率は54.6%にも達しており、2人に1人を超えているのである。
「大人が二人以上」の世帯員も9.6%から12.4%へと29,2%増となっているが、これに対してひとり親世帯の貧困率は、4,4倍の子が相対的貧困状態にあるのである。(*13の「平成25年国民生活基礎調査」のⅡ 各種世帯の所得等の状況7 貧困率の状況参照)。
このように、ひとり親家庭等大人1人で子どもを養育している家庭において、特に、経済的に困窮しているという実態がうかがえることから、ひとり親家庭の経済的な自立を可能とする就業支援策などの充実・強化や、経済的支援の拡充が課題となっているようだ。(*14:「平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える」の第5章 国際比較からみた日本社会の特徴を参照)。
また、男女別・年齢別の相対的貧困率をみると、男女とも高齢期に上昇する傾向があるが、総じて男性よりも女性の貧困率は高く、その差は高齢期になるとさらに拡大している(*15:「平成24年版 高齢社会白書」の(8)相対的貧困率は高齢期に上昇する傾向参照)。
このような所得再分配前の相対的貧困率について、1990年代中頃以降の大まかな推移を見ると、2000年代中頃まではアメリカが最も高く、それ以降はイタリアが最も高い。
日本は、一貫して上昇傾向を示し、2000年代中頃からOECD平均を大きく上回っている。一方、社会保障による所得再分配後の相対的貧困率について、1990年代中頃以降の大まかな推移を見ると、一貫してアメリカが最も高く、デンマークが最も低く、日本は、継続的にアメリカに次いで高い値を示しているという。
OECD では、2000 年代半ばまでのOECD 加盟国の相対的貧困率を公表しており、これによると、相対的貧困率の小さい順に並べた場合、日本は、OECD加盟国30か国中27位となっているという。
先進国にも関わらず日本では、約2000万人の人が、貧困線)以下で暮らしているといわれ、これは、日本全体でみると、6人に1人の割合にもなるのだが、どうしてこう高くなっているのか、この事実をどう受け止めていけば良いのかはよく考えないといけないだろう。
いま、先進国で所得格差が広がっていることが、大きな話題になっている。
一国の所得分配の行方に係る最大の関心事は、分配の公平性に対する評価とともに、その結果が経済成長にもたらす影響である。わが国を含む多くの先進諸国では、累進的な所得税や社会保障による所得の再分配(富の再分配)政策がとられており、その結果、市場を通じた所得分配の格差が是正されてきた。
近年は、所得格差の大きさと経済成長率との関係が取りざたされ、分配の公平性と効率性が、一方を重視すればもう一方が犠牲になるといういわゆるトレードオフの関係にある。これをどのようにしてゆくかについて活発に議論されているようであるが、どうも表面上にみられる所得格差についても、いろいろ、みかけ上の格差拡大や減少をもたらしているところも多いようである。その為に真実の所得格差の拡大要因が何かを正しく把握した上で、日本も、どのような政策目標を国民との合意形成の上で実施してゆく必要があるようだ(*16、*17参照)。
所得格差・貧困・再分配政策 について政府は以下のような見解を示している。
所得格差・貧困・再分配政策 (PDF形式:1026KB) - 内閣府
このような難しい問題は横においておいて、貧富の格差問題同様、食べ物の世界でも、様々な理由によって、膨大な食べ物が捨てられる一方で、食べるものに困っている人が大勢いる。まだ食べられる物であっても、多くの食べ物が捨てられてしまう理由は多くある(*9のここ参照。)
冒頭で述べたフードバンクでは、一方に余っている食べ物があり、他方で食べ物に困っている人がいて、それをつなぐ活動(食べ物の仲人役)を果たしている。できるだけ協力をしてあげたいものですね~。
米国では、フードバンクに対する寄付のみならず、公益非営利法人への寄付を助長するため、寄付金の損金算入(寄附金控除)を行うことができる税制優遇制度があり、また、予算・行政機関等による支援策として、米国では・年間5,100 万ドル(フードバンク予算、2014 年度)・助成金制度・農務省が生産者より買い上げた余剰農産物の提供等もあるようだ(*18参照)が日本にはない。日本でもこれらの支援が必要ではないだろうか。
ただ、フードバンク先駆者米国でも、近年では、以前まで寄附の対象となっていた食品が「わけあり商品」として寄附にまわらずに通販などで流通したり、食料価格の変動で政府からの寄附が減るなどの問題に直面しているという。
日本では、大幅な財政赤字(ここ参照)が続いており、政府債務残高のGDP(国内総生産)比は財政破綻に追い込まれたギリシャをも上回る水準にある(*19参照)。財政赤字削減のため、福祉関連の助成も制約を受けて、これら福祉団体の経営においても苦しい状況となっているようであるともきくが、これからどうなることやら心配だ・・・。


参考:
*1:1956年 「もはや戦後ではない」/「国連加盟」 - 法学館憲法研究所
http://www.jicl.jp/now/jiji/backnumber/1956.html
*2:地政学リスクとは|金融経済用語集 – iFinance
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/investment/inv016.html
*3:サウジとイランの対立激化がシリア紛争に与える影響
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takaokayutaka/20160107-00053182/
*4:年明け早々株価急落。やっぱり「申(さる)年騒ぐ」の格言は本当だった!(現代ビジネス)
http://www.asyura2.com/15/hasan104/msg/230.html
*5:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
*6:株式会社カーブスジャパンHP
http://www.curves.co.jp/
*7:農林水産省/フードバンク
http://www.maff.go.jp/j/shokusan/recycle/syoku_loss/foodbank/
*8 気軽なボランティア、「フードドライブ」とは? - Excite Bit コネタ(1/2)
http://www.excite.co.jp/News/bit/E1260452948260.html?_p=2
*9:セカンドハーベスト・ジャパンHP
https://2hj.org/about/history.html
*10:フードバンク関西
http://foodbankkansai.org/
*11:農林水産省/日本の食料自給率
http://www.maff.go.jp/j/zyukyu/zikyu_ritu/012.html
*12:食品ロス削減の取組(農林水産省)
http://www.jora.jp/news_release/pdf/1003siryo_003.pdf#search="1788%E4%B8%87%E3%83%88%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%A3%9F%E6%96%99%E3%82%92%E5%BB%83%E6%A3%84"
*13:国民生活基礎調査|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/20-21.html
*14:平成24年版厚生労働白書 -社会保障を考える- (本文)|厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/12/
*15:平成24年版 高齢社会白書(全体版) - 内閣府
http://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2012/zenbun/
*16:所得格差が先進国で拡大している理由(東洋経済)
http://toyokeizai.net/articles/-/39531
*17:日本の所得格差をどうみるか - 労働政策研究・研修機構
http://www.jil.go.jp/institute/rodo/documents/report3.pdf#search='%E6%89%80%E5%BE%97%E6%A0%BC%E5%B7%AE'
*18: 213 1.8 諸外国のフードバンク活動の推進のための施策 ... - 農林水産省
http://www.maff.go.jp/j/budget/yosan_kansi/sikkou/tokutei_keihi/seika_h25/shokusan_ippan/pdf/h25_ippan_213_03.pdf#search='%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF+%E7%8F%BE%E7%89%A9%E5%AF%84%E9%99%84+%E7%A8%8E%E5%88%B6'
世界の財政収支(対GDP比)ランキング - 世界経済のネタ帳
http://ecodb.net/ranking/imf_ggxcnl_ngdp.html
*19:日本の財政、残された時間的余裕は少ない | 読んでナットク経済学
http://toyokeizai.net/articles/-/24043
視点・論点 「財政赤字はなぜ膨らんだのか」 | NHK 解説委員
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/183891.html
3 税・社会保障による所得再分配 - 内閣府
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je09/pdf/09p03023.pdf#search='%E6%89%80%E5%BE%97%E5%86%8D%E5%88%86%E9%85%8D%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E7%9A%84%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E7%8E%87'
所得格差・貧困・再分配政策 (PDF形式:1026KB) - 内閣府
http://www.cao.go.jp/zei-cho/gijiroku/zeicho/2015/__icsFiles/afieldfile/2015/07/16/27zen14kai5.pdf#search='%E6%89%80%E5%BE%97%E5%86%8D%E5%88%86%E9%85%8D%E5%89%8D%E3%81%AE%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E7%9A%84%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E7%8E%87'
NPO法人セカンドハーベスト ジャパン様|インタビュー|RibbonMagnet ...
http://www.ribbonmagnet.jp/interview/file015/
フードバンク - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF

出雲ぜんざいの日

2015-10-31 | 記念日
日本記念日協会で10月31日の記念日を見ると、「出雲ぜんざいの日」があった。
由緒を見ると、「出雲地方では旧暦の10月を神在月と呼び、その神在祭に振る舞われたのが「神在もち(じんざいもち)」。これが「ぜんざい」の語源となったと言われていることから、島根県出雲市の出雲観光協会が制定した日。日付は神在月(出雲以外の地では神無月)の10月のなかでも、10と31で「せんざい」語呂合わせで読める10月31日を選んだもの。」・・・とあった(*1参照)。
日本記念日協会に登録されたのは2007年だそうだ。いわゆる最近多くなった、観光客誘致のための市の特産品PRのためのもののようである。同市では、記念日の申請にあたって、同年に「日本ぜんざい学会」を立ち上げ、「日本ぜんざい学会新聞」(2007.7.1創刊号発行。*2参照)まで発行してPRに努めている。各自治体が町おこし(地域おこしまちづくりを参照)は、それなりに意義のあることではあるだろう。
例年猛暑の夏が終わると、食欲の秋が来る。その秋も深まり、気温がぐっと冷え込んでくると、温かい食べ物が恋しくなるが、甘党の人にとっては「ぜんざい(善哉)」もその一つであろう。
「ぜんざい」は、小豆を砂糖で甘く煮てや白玉団子(白玉粉と呼ばれる米の粉で作った団子)、などを入れた汁物である。これに対して、関東ではこれを「おしるこ(お汁粉」と呼び、汁気のない餡を用いたものを「ぜんざい」と呼ぶようだ。つまり、漉(こ)し餅を用いたものも粒餅を用いたものも汁のあるものは汁粉と呼ばれ、汁のないものが「ぜんざい」となるようだ。
関西地方では、粒餡を用いたものが「ぜんざい」で、漉(こ)し餡を用いたものは「しるこ」と呼んで区別しており、汁気のない餡を用いたものは、「亀山」や「小倉(小倉餡)」と呼んでいる。
「亀山」は、かつて岐阜県武儀郡にあった小金田村の旧村名・小屋名村のトップ級の大地主であっ亀山善兵衛かまた、その娘婿かは定かでないようだが、明治時代に大阪の天満に出てきて「亀山屋」という屋号で餅屋を開店し、目玉商品に亀山屋のぜんざいを「かめやま」という名で売っていたという。食道楽の大阪のド真申で、大阪の善哉とは違う田舎丸出しの小屋名風のぜんざい(田舎善哉)を大阪では「亀山」と呼ぶようになったようだ。(*3:「武儀郡小金田村」HPのいなかぜんざいの話(亀山異聞)を参照)。なお、これがそうかどうかはよくわからないが、ネットで検索すると、亀山氏の系譜について書かれているものがあった。この中に善兵衛の名も出てくる(*4を参照)。
また、京都市右京区の嵯峨二尊院門前長神町の二尊院内に「小倉餡発祥の地」と刻まれた石碑が建っている(建立者は、井筒八ツ橋本舗の六代津田佐兵衛)。
日本で初めて小豆と砂糖で餡が炊かれたのは平安京が出来て間のない820年頃の ことで、京のこのあたり 小倉の里(京都・嵯峨野-小倉山麓。小倉百人一首が撰ばれた地と伝わる)に亀の甲せんべいを作っていた和三郎という菓子職人がいて 809年に空海が中国から持ち帰った小豆の種子を栽培しそれに御所から下賜された砂糖を加え煮つめて餡を作り これを毎年御所に献上した。 その後、この和三郎の努力で洛西を中心に小豆が広く栽培され、江戸時代には茶道の 菓子にも用いられ、ハレの料理にも加えられるようになったといわれている(*5参照 )。
ただ、日本の製縄文時代から始まり、調味、防腐、保存に使用していたが、砂糖は日本には奈良時代鑑真によって伝えられたとされており、当時は、糖蜜の形で使用され、医薬品として扱われていたが、ある程度製糖の知識も普及し菓子や贈答品の一種として扱われるようになったのは平安時代後期のことと言われているが、ここで毎年御所に献上されたとされる餡も、当初のものは薬として献上されていたものだろうが、京都では平安時代の早い時期から薬じゃなく砂糖で小豆の餡が嗜好品として作られていたということだろう。
関西人の私など、「善哉」というと、まず第一に頭に浮かぶのは、豊田四郎監督の映画、『夫婦善哉』である。

この映画のことはこのブログ、「11月13日豊田四郎の忌日」でも簡単に触れた(ここ参照)が、同映画は、大阪を代表する作家織田作之助小説『夫婦善哉』(*6の『夫婦善哉』参照)を原作に、大正から昭和にかけての大阪を舞台に、大店のドラ息子(主演:森繁久彌)としっかり者の芸者(淡島千景)の愛情をなにわ情緒豊かにユーモラスに描かれたものである。
作品のタイトルとなっている「夫婦善哉」という言葉は、法善寺横丁にあるぜんざいの店「夫婦善哉(めをとぜんざい)」の名前から採られたたものである。
法善寺を「大阪の顔」だと言い、大阪を知らない人から、最も大阪的なところを案内してくれといわれたら、法善寺へ連れて行くと言う織田は、「めをとぜんざい」について次のように語っている。
「俗に法善寺横丁とよばれる路地は、まさに食道である。三人も並んで歩けないほどの細い路地の両側は、殆んど軒並みに飲食店だ。
「めをとぜんざい」はそれらの飲食店のなかで、最も有名である。道頓堀からの路地と、千日前――難波新地(補足:ここも参照)の路地の角に当る角店である。店の入口にガラス張りの陳列窓があり、そこに古びた阿多福人形が坐っている。恐らく徳川時代からそこに座っているのであろう。不気味に燻んでちょこんと窮屈そうに坐っている。そして、休む暇もなく愛嬌を振りまいている。その横に「めをとぜんざい」と書いた大きな提灯がぶら下っている。
はいって、ぜんざいを注文すると、薄っぺらな茶碗に盛って、二杯ずつ運んで来る。二杯で一組になっている。それを夫婦(めおと)と名づけたところに、大阪の下町的な味がある。そしてまた、入口に大きな阿多福人形を据えたところに、大阪のユーモアがある。ややこしい顔をした阿多福人形は単に「めをとぜんざい」の看板であるばかりでなく、法善寺のぬしであり、そしてまた大阪のユーモアの象徴でもあろう。」・・・と(*6の『大阪発見』の第二段 のところ参照)。
そして、また、豊田監督の映画「夫婦善哉」の中でも柳吉と蝶子が、夫婦善哉のいわれを語るシーンがある。
柳吉「こ、こ、ここの善哉(ぜんざい)はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか大夫(だゆう)ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山(ぎょうさん)はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」、
蝶子「一人より女夫(めおと)の方がええいうことでっしゃろ」
放蕩で甲斐性のない柳吉が知ったかぶりで話し、喧嘩は絶えないが惚れた弱みで別れられないが、しっかりものの蝶子がすぐさま切り返す。
この店の、店名と同じ看板メニューは1人前のぜんざいを2つの器に分けたもので、いかにも得をした感じにさせるところが大阪らしい発想である.。因みに、柳吉の話に「昔何とか大夫ちう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな・・・」とあるが、これは、明治16年頃、文楽浄瑠璃語りの竹本琴太夫(5代目竹本政太夫の門弟。 7代竹本咲太夫)が「お福」というお店を開業したのが始まりという(*7参照)。
ただ面白いことに、*7には、「杯のぜんざいを2杯に分けて出すことにします。少しでも多く見えるように、分厚いがお皿のように浅い容器二つに分け、備前焼の湯呑、赤塗りの箸、これを朱塗りの盆にのせて出す。片方はあんをこした汁粉、もうひとつは小豆粒のぜんざいと決め、これを熱くしてふうふう吹きかけながら食べる趣向です。」・・・と、書かれている。
え・・・?夫婦善哉って、明治の開業当初は、あんをこした汁粉と小豆粒のぜんざいの2種類を出していたの・・?今はどうなのだろう?
私は神戸っ子だが、若いころから大阪で勤務していたし、飲兵衛だったので、法善寺横丁にはしょっちゅう行き、あちこちの店で飲んでいたし、最後には、夜食にお結び屋などへも行ったのは覚えているが、残念ながら、善哉を食べるために「夫婦善哉」の店などには行ったことがない。私は酒飲みだが甘いものも大好きの甘辛党で、家では善哉もよく食べるのだが、その時は、関西人らしく粒あんのものと決まっており、「夫婦善哉」では、粒あんのぜんざいが二杯出てくるものと思っていたのだが・・・。実際はどうなのだろう?

大阪には、もともと潰し餡の善哉しかなかったのだが、明治後半、三越呉服店(現:三越百貨店)内に食堂が開店、そこで漉し餡の東京風汁粉が売り出された。これが汁粉の本格的な大阪デビューだという説がある。前後して大阪には、或る食の遊びがあり、浪速橋筋の瓦町辺りの或る汁粉屋さんの店では「汁粉十二月」と言い、一月=若菜 二月=むめ 三月=さくら 四月=卯の花 五月=皐月 六月=水無月 七月=天の川 八月=名月 九月=翁草 十月=小春 十一月=神参 十二月=飛雲の12種類の汁粉があったという。これらの汁粉は一月の若菜から次第に甘みが加えられ十二月の飛雲に至っては極めて甘いものであったそうで、これらを一月から十二月まで無事に食べれば代金は無料。しかし、客は概ね五~六月で降参。大阪らしい酒落のキツイ遊びであったようだ(*8:「御座候HP」の“Azukiこぼればなし” ●寒露No.133を参照)。
いずれにしても、大阪でも、明治後半には小豆の粒あん以外のものも食べられてはいたようだ。
開店当初、また現在の夫婦善哉の「ぜんざい」が実際にはどのようなものかは別として、「ぜんざい」について、一般に言われている関西と関東での認識の違いはなぜおきているのだろうか?
それは、どうも、うどんの“きつね・たぬき論争”(*9参照)でみられるように、すでに、江戸時代からその認識の違いはあったようだ。

江戸時代後期の三都(江戸・京都・大阪)の風俗、事物を説明した一種の類書(百科事典のようなもの)である『守貞謾稿』(1853年)の巻六 生業には、「善哉」が登場し、また、「汁粉」についても言及している。そこには以下のように書かれている。(*10:『古事類苑>』飲食部/餅<団子・餡・併入>の善哉。の『守貞漫稿』 六生業巻についての記載部分559 頁560 頁〔ここ〕を参照。)。

守貞漫稿  六 生業
善哉賣
京坂ニテハ、專ラ赤小豆ノ皮ヲ去ズ、糖ヲ加ヘ、丸餅ヲ煮ル、號テ善哉ト云、
汁粉賣
江戸ハ赤小豆ノ皮ヲ去リ、白糖ノ下品或ハ糖ヲ加ヘ、切餅ヲ煮ル、號テ汁粉ト云、京坂ニテモ皮ヲ去リタルハ汁粉、又ハ漉饀ノ善哉ト云、又江戸ニテ善哉ニ似タルヲツブシアント云、又マシ粉アンノ別ニ全體ノ赤小豆ヲ交ヘタルヲ鄙(イナカ)汁粉ト云、或ハ八重成アリ、八重成ハ小豆ニ似テ碧色也、・・・・」

つまり、意訳すれば、京坂では専ら赤小豆(=小豆.アズキのこと)の皮を取らないで黒砂糖で煮、これに丸餅を入れたものを善哉と云い、これに対して、江戸では赤小豆の皮を取って、白砂糖の上等でないものか黒砂糖を入れて煮、切り餅をいれたものを汁粉と云っている。ただ、京坂にも、皮を取った汁粉はあり、漉し餡の善哉という言い方をしたと『守貞謾稿』には書かれており、また、江戸では、善哉に似たものをつぶし餡と云い、又、こしあんの別に「つぶあん」を使った汁粉は、「鄙(田舎)しるこ」といわれたようだ。また、八重成(やえなり)という小豆に似た碧色(青緑色)した豆を使った汁粉も商っていたようだ。そして、掲載文では省略したが、これら善哉や汁粉、雑煮などを夜商いする人のことを、三都ともに「正月屋」と呼んでいたようだ。その理由はよくわからないが、雑煮は正月を祝うもの、鏡餅を割って雑煮や汁粉・ぜんざいにして食べる鏡開きも正月の行事だったことなどが理由にあるのかもしれない。
そもそも、「ぜんざい」と「おしるこ」の語源は何なのだろう。「おしるこ」は「お汁粉」と表記することから、見た感じをそのままネーミングにしたのであろうことはすぐに察せられるが、関西では「ぜんざい」を「善哉」と表記するが、この善哉は元々仏教語であり、「よきかな」」を意味するサンスクリット語「sadhu」の漢訳である。
仏典では、仏が弟子の言葉に賛成・賞賛の意を表すときに、「それはすばらしい」「実に良い」といった意味で用いられている。
江戸期関西の文化が多く江戸に伝わっているのでぜんざいも関西から江戸に広がった食べ物であるとも考えられるが、江戸でいつ「おしるこ」と呼ばれるようになったかなどその経緯はよくわからないようで、関西のぜんざい・おしるこの違いが正しく伝わらなかったとの説もあるようだ。
江戸時代後期の全国的規模の方言辞書『物類稱呼』(越谷吾山 著)には以下のように出ている(*10:の汁粉>『物類稱呼』  四 衣食 558P参照)
〔物類稱呼  四 衣食 558P 〕
ぜんざいもち、京江戸共に云、上總にてじざいもち、出雲にてじんざいもちと云、〈在餅と書よし也〉土佐にてじんざい煮といふ、土州(土佐国の別称)にては小豆に餅を入て醬油にて煮、砂糖をかけて喰ふ、在煮又善在煮などゝ稱すとなり、(以下略)

このように、地域で呼び方が違うのは、現代よりも地域色(方言)が豊かであった江戸時代なら当然のことであろうが、京大阪で云う「ぜんざいもち」(善哉餅)を上總や土佐など出雲地方に古くから伝わる「じんざいもち」〈在餅〉と同じような表現をしているところがある。
出雲地方では、旧暦の10月に八百万の神が全国から出雲の国に集まり、この時、出雲では「神在祭(かみありさい)」と呼ばれる神事が執り行わ、そのお祭りの時に振る舞われた「神在(じんざい)餅」の「じんざい」が、出雲弁(ずーずー弁)で訛って、「ずんざい」、さらに「ぜんざい」となって、京都に伝わったと言うのだが・・・(*1)。
この「じんざいもち」(在餅)に触れた文献としては、江戸時代後期の喜多村信節 の随筆『嬉遊笑覧』(天保1 念=1830年 刊)には,
「【祇園物語】又云、出雲國に在もちひと申事あり、京にてぜんざいもちひと申は、是申あやまるにや、十月には日本國の、みな出雲に集り給ふ故に、在と申なり、その祭に赤小 豆を煮て、汁をおほくしすこし餅を入て、節々まつり候を、在もちひと申よし云々いへり、此事【懷橘談大社のことをかける條にも云ず、されど、【犬筑波集】に、出雲への留主もれ宿のふくのとあれば、古きいひ習はしと見ゆ、また在餅は善哉餅の訛りにて、やがて無月の説に附會したるにや、【尺素往來】に、新年の善哉は、是修正之祝著也とあり、年の初めに餅を祝ふことゝ聞ゆ、善哉は佛語にてよろこぶ意あるより取たるべし、」(*10:古事類縁の汁粉>〔嬉遊笑覽〕〈十上飮食〉また、詳しくは『嬉遊笑覽』下 巻十 上 飲食 四三六〔神在餅〕の コマ番号239を参照)・・・とあり、「ぜんざい」の出雲起源説はこれによっているようである(✳11参照。ここに、意訳分あり)。
ただ、この文には、ここへの引用文には書かれていないが、仏教語の「善哉」がお汁粉を意味するようになった由来は、これを食べたとんちで有名な室町時代の禅僧(一休禅師)が餅入りの小豆汁を食べ、おいしさに感動してあまりのおいしさに「善哉々々」と賞賛したのが、始まりとするとの説もあるとも書かれており、また、「今は赤小豆(あずき)の粉をゆるく汁にしたるを汁粉といえども昔はさにあらず。すべてこといふは汁の実なり、・・・とある。
そのことから、私はよく知らない本だが、『和菓子の系譜』には、「本来は餡の汁の中に子(実)として餅を入れるので餡汁子餅であり、略して汁子、転じて汁粉になった」としているよう(✳12参照)で、どうやら汁粉は、江戸で発祥したもののようだ(餅などを入れだしたのは、特に江戸時代末の模様)。
そして、善哉餅から神在餅が始まったという説もあるが、善哉の語源は汎語の善哉で、仏様が弟子たちの意見に賛成する時に「sadhu sadhu(善哉、善哉)」と言ったという。やがて大乗仏教の教典にこの「善哉」という言葉がしばしば現われるので庶民に親しまれるようになり、善哉は喜びを表す言葉になった。そして美味しい餅入り小豆汁を上方(関西)で善哉と呼ぶようになった。出雲地方ではこの「ぜんざい」が訛って「じんざい」になり、神在餅の名が生まれたというのだが・・・。
江戸中期の百科事典山岡浚明の著『類聚名物考』(成立年未詳。明治36~38年(1903~05)7冊の活版本として刊行.)の飲食の中に、ぜんざい(善哉)のことについて書かれているところがあり、ようやくすると、以下のようになる。
比叡山から京都へ出る道に長谷越(な がたにごえ)というのがあり、俗にシルタニゴエと言う。渓谷の間なので道が悪く、水が流れているのでこの名がある。この善哉餅も、赤小豆の粉が煮られて粘るのが谷道のぬかっているようなので、そこから転じたもので、長谷餅とも言う。もともとは渋谷(しぶたに)越だったが、江戸時代にはシルタニゴエと訛って「滑谷越」などと書くようになっていた。それでシルタニゴエからシルコになったというのだが、こじつけもいいことだろう(原文は*10の汁粉〔類聚名物考〕〈飮食〉参照)。
結局何が真実か・・?はわからないままである。


参考:
*1:毎月19日は「食育の日」~「出雲ぜんざいの日」ご存知ですか?~ | 出雲市
http://www.city.izumo.shimane.jp/www/contents/1318842254728/
*2:ぜんざいの日ー出雲ぜんざい学会
http://www.1031-zenzai.com/
*3 :武儀郡小金田村HP
http://www.sudadenki.com/koganedamura/
*4:亀山氏の系譜の研究 その⑤
http://ameblo.jp/tengetu-akindo/entry-11391692395.html
*5:発祥の地コレクション/小倉餡発祥の地
http://hamadayori.com/hass-col/food/OguraAn.htm
*6:作家別作品リスト:織田 作之助
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person40.html
*7:みなとQ人気連載>わが町人物史:木文字 かめ 
http://minato-q.jp/blog/?cat=16
*8:御座候HP
http://www.gozasoro.co.jp/index.html
*9:『きつねうどん』と『たぬきそば』の謎
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/9450/kitsune.html
*10:古事類縁 飲食部/餅<団子・餡・併入>
http://ys.nichibun.ac.jp/kojiruien/index.php?%E9%A3%AE%E9%A3%9F%E9%83%A8%2F%E9%A4%85%E3%80%88%E5%9C%98%E5%AD%90%E3%80%80%E9%A4%A1%E3%80%80%E4%BD%B5%E5%85%A5%E3%80%89
✳11:神在餅についての記述【嬉遊笑覧】 佐太神社公式ホームページ
http://sadajinjya.jp/?m=wp&WID=5613
ぜんざい - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%96%E3%81%84