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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

カシスの日

2015-07-23 | 記念日
「念力のゆるめば死ぬる大暑かな」 (村上鬼城)
出典は、大正6年版鬼城句集(※1)より。  
句意は「言語道断の今年の暑さである。常人といえども、もし肝心の念力のゆるむ者がいたら、その者は直ちに病んで死んでしまうに創意ない。」(中村草田男)となるそうだ(.※2参照) 
「肝心」は最も大事なことで、「きもごころ」とも読み、兼好法師の『徒然草』八九段(※3)に「肝心(きもごころ)も失(う)せて、防がんとするに力もなく」と出てくるが、この「肝心も失せて」は「びっくり仰天して」と訳されている。暑さに耐える気力のないものなら死んでしまうほどのびっくり仰天するほどのむちゃくちゃ暑い夏の日であることが伝わってくる。
村上鬼城(本名:村上荘太郎)の句は、人生の悲惨事をなめつくして初めて得られるところに特徴があり、これを「境涯の句」と呼んで評価したのは、大須賀乙字という俳句評論家であり、『鬼城句集』の序文で、「明治大正の御代に出でて、能く芭蕉に追随し一茶よりも句品の優った作者がある。実にわが村上鬼城である」と述べている。実際、鬼城の俳句には人生について深く考えさせられる作品が多くある。参考※1で読めるので読まれるとよい。
夏の季語の「大暑(たいしょ)」。この文字、見ているだけで汗が噴出してきそうな名前であり、1年のうちで、最も暑い頃という意味があるのだが、実際の暑さのピークはもう少し後になる。
元来、太陰太陽暦の6月中 (6月後半) のことで,太陽の黄経(黄道座標における経度)が 120°に達した日 (太陽暦の7月 23日か 24日) に始り,立秋 (8月7日か8日) の前日までの約 15日間であるが,現行暦ではこの期間の第1日目をさす。
今年・2015年7月23日はまさにこの日に当たる。神戸など例年このころに梅雨も明け、暑さもいよいよこれからが本番・・・・となるのだが、今年は台風9・10・11号の影響で中旬から連日猛暑が続き、蝉もにぎやかに鳴いていた。そして、台風(11号)一過梅雨も明けた。今年もこれから蒸し暑さで悩まされることになりそうだが、またまた、台風12号接近中とかで連日雨が降り続いている。まるで梅雨のように・・・。可笑しな天候だ。
世間一般で言われる夏の『土用丑の日』も今年は、明日の24日と8月5日と2回ある。今まで夏バテ防止で食べていたウナギも、最近は高くなって、今までの様には食べれない。他の方法で夏バテ対策しなくてはしようがないな~。

ところで、日本記念日協会(※4)に登録されている今日・7月23日の記念日に「カシスの日」がった。
由緒を見ると、「人々の健康に寄与するカシスへの関心を高めてもらおうと、日本カシス協会(※5)が制定。大暑の頃に収穫される果実のカシスは、その成分であるカシスポリフェノールに末梢血流の改善作用がある。日付は大暑となることが多い7月23日に」…とあった。
カシス?・・・・。私は、よく知らない名前なので,女房殿に聞くと名前だけは知っているが、どんなものかはよく知らないというので、Wikipediaや日本カシス協会(※5)その他にアクセスして、調べてみた。
まず、カシスって何か?
「カシス」(Cassis)、はフランス語であり、日本では、クロスグリ(黒酸塊、別名:クロフサスグ学名 Ribes nigrum)と呼ばれているもののことでスグリ科フサスグリに属するするものであり、英語ではフサスグリ全般を「カラント(currant)」と呼ぶが、カシスは果実の色が濃い紫色でほとんど黒に見えることからブラックカラント (Blackcurrant)と呼ばれている(冒頭の画像がクロスグリ)。果実の色が赤色の系統をアカスグリ(赤すぐり、レッドカーラント)、白色の系統をシロスグリ(白すぐり)と呼ぶが、黒色のクロスグリ(カシス)とは別種だそうである。
カシスは古代からヨーロッパの山奥などに生育していたそうだが、食用に利用されたという古い記録はなく、カシスが食用できることを初めて紹介したのは、ルネッサンス時代の植物学者ガスパール・ポアンといわれているそうだ。さらに1712年にはフランスのバーイ・ド・モンタラン神父がカシスに関する本「'Les Proprietes Admirables du Cassis' (カシスの驚異)」を出版し、"カシスの絞り汁は万病に効く秘薬であり、若返り(不老不死)にも効果がある"と紹介しているという。
このような時期を経て少しずつカシスは一般的になり、18世紀半ば、フランス・ブルゴーニュ地方のワイン畑の一画などで、主に薬用として栽培されるようになり、フランスでは葉を乾燥させたものがリウマチによいとされ、今でも生薬を販売する店で売られているという。
カシスは、ヨーロッパやアジアが原産とされているが、現在カシスの世界最大の産地はポーランドで、毎年10万トンから14万5千トンの収穫高があり、これは世界全体の収穫高の約半分を占めるそうだ(Wikipedia)。また、日本国内では青森県が主な産地で、国産カシスの約90%、年間5.9トンのカシスが生産されているようだ。青森では「クロスグリ」ではなく「黒房スグリ」と呼ぶようだ。以下参照。
青森=りんごじゃない!?実はカシスの生産も盛んな青森県 | 青森でくらす
クロスグリの実はかすかな苦味をもち、ゼリー、ジャム、アイスクリーム、コーディアルリキュールなどに利用される。また、イギリス、ヨーロッパ、イギリス連邦諸国では、クロスグリの風味を加えたり、干した果実を加えたクッキーなどの菓子が多数存在するそうだが、青森では、「カシスのちらしずし」や「カシスジャムとリンゴの春巻きパイ」などといった、ちょっとおもしろいカシス料理もあるようだ。上掲のページで、レシピを動画で見られるので、興味のある人は覗かれるとよい。
青森市ではカシスの特産品化が進められており、カシス協会主催の「カシスサミット」なるものも開催されているようだ。カシス協会は、カシスの生産者、カシスの研究を進める研究者を中心に構成され、カシスを積極的に食すことによる眼病予防の啓発、また、カシスの香りや美しい色で生活を豊かに彩ることの提案で、健康とキレイの両方を手に入れられるように、カシス産業、カシス文化の確立を目指してるそうで、「カシスの日」を7月23日(大暑)として設けたのは、2006年2月14日に青森で開催された「第一回カシスサミット」だったようだ(※5の活動報告参照)。

カシスはビタミンC、ビタミンEだけでなく、マグネシウム、鉄分などのミネラル類も豊富に含んでおり(栄養成分の説明については※6参照)、 さらにカシスが注目されているのは、これらに加えて抗酸化成分として知られる「ポリフェノール」を多く含み、なかでも、ポリフェノールの1種である、「アントシアニン」の含有量が多いことだという。
「ポリフェノール」の中でも有色野菜や果物の赤紫色を構成する色素成分で、カシスに含まれるアントシアニンは、抗酸化に優れている4種類(※7のアントシアニンって?参照)を含み、特に「D3R」と「C3R」はカシス特有の成分で、ブルーベリービルベリーなどには含まれていないものだという。そのため、同業界では、「カシスアントシアニン」と呼んで区別しているようだ。
カシスには目の疾患をはじめに筋肉疲労や動脈硬化など多くの症状に効果が期待できるが、それらの効果の根本を成すのが次の4つの効能だそうだ。
1.活性酸素を除去する効能
2.末梢血管(毛細血管)の血流を改善する効能
3.毛様体筋を弛緩する効能
4.ロドプシンの再合成促進作用
カシスには上記の4つの効能を軸に、視力回復効果や目の疲れ(眼精疲労、※8参照)の緩和効果など他にも目に対する効果を中心に14の効果が期待できるという(※7のカシスが持つ18の効能と効果を参照)。
近年、パソコンやゲーム機、携帯電話やスマホなどの普及に伴い、視力の低下した小中学生が増加しているが、小中学生のような子供だけでなく、若者でも、携帯電話やスマホを片時も.手放せずに使用している者が多い。
あのような小さな画面を長時間、高頻度で「近くを見る作業」を続けていると眼軸長(下図参照)が延長し(眼球がラグビーボールのような形になる)、それが慢性化することで軸性近視(近視は焦点が網膜の手前にある状態.。※8参照)となるが、ヒヨコをモデルに用いた実験でカシスアントシアニンの近視化抑制効果があると発表されているようだ(※5のここ参照)。
カシスは世界中に広く分布しているが特にニュージーランド産のカシスが有名だそうだ。カシスは紫外線量に比例してアントシアニンが増えるので、日本の約7倍も紫外線量があるというニュージーランドはカシス栽培に非常に適した場所であり、アントシアニンをたっぷりと含んだ良質のカシスが育つのだそうだ(※9参照)。
歳ののせいもあるが、私もこのブログを書いたりするのに、結構長い時間パソコンの前にいることが多いせいで、ここのところものが少し見にくくなってきている。カシスには目に良いポリフェノール以外にもビタミンC他豊富な栄養素が多く含まれているようなので、適当なものが安く買えれば良いな~と思うのだが、参考※9の商品紹介のページなど見ていると、「本品は特定保健食品と異なり、消費者庁長官による個別審査を受けたものではありません。」…とあった。ここのところはちょっと気になるところだな~。

参考:
※1:近代デジタルライブラリー - 鬼城句集
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/905666
※2:村上鬼城の俳句 | 季語と俳句鑑賞ノート
http://anketopia.com/haiku_kigo/node/638
※3:徒然草(吉田兼好著・吾妻利秋訳)
http://www.tsurezuregusa.com/index.php?title=Category:%E5%BE%92%E7%84%B6%E8%8D%89
※4:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※5:日本カシス協会
http://j-cassis.jp/index.html
※6:栄養成分百科 |江崎グリコ
http://www.glico.co.jp/navi/dic/index.html
※7:カシスの効果・効能まとめ
http://cassis.wgjp.net/
※8:目と健康シリーズ-三和化学研究所
http://www.skk-health.net/
※9:カシスの秘密―明治
http://www.meiji.co.jp/health/cassis-i/secret/knowledge.html
クロスグリー.Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%B0%E3%83%AA

世界ありがとうの日

2015-07-15 | 記念日


日本記念日協会(※1)に登録されている今日・7月15 日の記念日に「世界ありがとうの日」があった。
制定したのは、Q&Aサイト「OKWave」をはじめとして、FAQソリューションや各種のQ&Aサービスで知られる株式会社オウケイウェイヴ(※2)。同社の企業理念である「世界中の人と人を信頼と満足でつないで、ありがとうを生み出していく」を実践し、世界中を感謝の気持ちでつないでいくのが目的・・・だとか。日付は同社の創業日である1999年(平成11年)7月15日からだそうだ。

「ありがとう」は、日本語で感謝を表す時に用いられる挨拶語である。
今時の日本の人は、素直に「ありがとう」という感謝の言葉を口に出して云えない人が多く、「ありがとう」のかわりに、「どうも」とか、「サンキュウ」「すみ(済み)ません」とか言ったりする人が多いように思う。
この「すみません」の「済む」は、仕事が済む、終了などとともに、「気持ちがおさまる」「気持ちがはれる」といった意味もあり、感謝の意を表すときにも使われる言葉だが、心からの感謝の気持ちは伝わってこない。
英語の「Thank you」 の「Thank」も「感謝する 」の意だが、「Thank you for that ball! =すいませーん!ボールを拾ってください」といった使い方がされるが同じ様な使い方だろう。同じ「感謝」を表す言葉でも、「サンキュウ」や「すみません」よりは、「ありがとう」の方が、感謝の気持ちがこもっている。照れがあるのかもしれないが、誰もが、素直に「ありがとう」という言葉を、日常の挨拶言葉として使えるようになれたら、本当によい人間関係が出来るだろうと思うのだが・・・。
偉そうなことを書いている私だって、あまり自信はないのだが、我が女房殿は、何かあると必ず「ありがとう」と言う。もう習慣的になっているが、そういわれて悪い気はしない。産めよ増やせよと云われていた戦前に、12人もの兄弟の末っ子として生まれ、一番上の姉とは20歳位い歳が違うと云い、甘やかされて育っているかと思うのだが、さすが明治人の子供、。こういった面のだけはきっちりとされている・・・といつも感心させられている。

日本記念日協会には、3月9日の記念日にNPO法人のHAPPY&THANKSが設けた「3.9デイ(ありがとうを届ける日)」 があったので、以前このブログで「ありがとう」について書いた(ここ参照)が、それ以前にも、同じ日に「ありがとうの日」のことを書いていた(ここ参照)。3度も同じことをテーマーに書くのをやめようかと思ったのだが、最近のように、都市部など特にそうなのだが、お隣さんの事情も知らないという状況が急速に増えていて、人間関係が冷め切っている。私の家の隣の娘なども朝、顔を合わせても軽く会釈をする程度で「お早う」の挨拶すらできない・・・。そういう若者が非常に多くなった。
そんな人と人の繋がりが薄いと言うより、無くなってしまったとも云える現代の日本。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災以来、特に、2011(平成23)年3月11日の東日本大震災以来、人と人の「」が云われだし、2011年の世相を表す漢字(今年の漢字)にも選ばれたものだが、なにか「絆」「絆」と言っているのは、このような震災や、台風、洪水などの被害に直接遭遇した人達の「傷のなめ合い」や「合言葉」のようにさえ聞こえて仕方がない。
最近は、年老いた老人の一人暮らしも多くなり、そんな老人の孤独死や、認知症を患った老人たちの徘徊、核家族化の進行による老老介護問題などの増加も社会問題となっており、また、乳幼児など小さな子供への親の児童虐待、あるいは、小さな子供や女性の誘拐やストーカー被害などが起きる度に、地域社会のコミュニティーの重要性や、人と人の「絆」が云われているが、普段は「隣の人への関心」も薄く、「挨拶」ひとつ交わせない者が、どうして、友好的な地域のコミュニティーを築くことができるのだろうか・・。町内会にしろ会社にしろ、又、友達関係にしろ、お付き合いには、良いことばかりではなく、結構、煩わしいことも付きものだ。
良い関係だけを望んでも、その煩わしさには関わりたくない・・・。そんな身勝手な自我中心的な人間が戦後は非常に多くなっっている。
例えば、介護をしなければならない親(義理も含めて)がいる。又、手の焼ける小さな子供がいる。しかし、介護の必要な人の入れる老人ホームは足りないし、小さな子を預ってくれる保育園も足りない。
そういう要介護者や子供をもった女性は、戦前なら、好むと好まざるとにかかわらず家の嫁として、親や子供の面倒を見ていた(男は仕事、女は家庭の考えから。家制度の中で)。
今の時代、家制度は崩壊し、女性も男女同権のもと、男性同様社会へ進出するようになった。核家族化した中、子供や親の世話などしていると、自分のしたい仕事が出来ないから、介護を必要とする老人を見てくれる老人ホームや子供の面倒を見てくれる保育園などの施設がいると言う。しかし、そのような施設は足りない。もしハード面だけの施設を増やしても、そのような世話の焼ける仕事を喜んでしてくれる人はどれだけいるのだろうか。不足しているハード面の施設や仕事をしてくれる人に対する金銭や処遇面の改善をすれば解決する問題なのか・・・。難しい問題である。
正直言って、誰もが、「3K」(きつい、危険、きたない)職場を忌避するのは、貴族化・清潔化という消費文化と無関係ではないという。3K以外の、例えばウエートレス不足も、身体・人格による他者へのサービスが嫌われるから。他者のサービスはいくらでも受け入れるが、自分からのサービスはいやというのは貴族固有の発想であり、3Kはさらに「給料が安い、休暇が少ない、カッコ悪い」が加わって「6K」。がはびこっているのが今の世の中、ではないか・・・・。それで悩んでいる人が多いのではないか・・・。
誰でも自分のしたい仕事をしたい。出来れば、快適な環境で、綺麗な服を着て、人に気を使わず、楽して、報酬の期待できる仕事をしたい。誰もがそのような思い(自我・我欲=自己中心的な欲望)をもっていることだろう。しかし、世の中、誰もがそんな結構な仕事に就けているわけではない。そして、そのような職場ほど、どこも人手不足で困っているのである。債務不履行問題を起こしているギリシャの国の人などはそんな人達ばかりのようだ。

少し、余談になるが、現代の民主主義・民主制・民主政は、古代ギリシアにその起源を見ることができ、都市国家(ポリス)では民会による民主政が行われた。特にアテナイ直接民主制が確立したと言われている。
ただし、古代アテネ(Athēnai)などの民主政は、各ポリスに限定された「自由市民」にのみ参政権を認め、ポリスのため戦う従軍の義務と表裏一体のものであった。女性や奴隷は自由市民とは認められず、ギリシア人の男性でも他のポリスからの移住者やその子孫には市民権が与えられることはほとんど無かった。
後に扇動的な政治家の議論に大衆が流され、政治が混乱し、ギリシャの哲学者プラトンの師・ソクラテスが国家の名において処刑されてしまった。
それを契機としてプラトンは、師が説きつづけた正義の徳(『ヒッピアス (小)』参照)の実現には人間の魂の在り方だけではなく国家そのものを原理的に問わねばならぬと考えるに至った。そして、この課題の追求の末に提示されたのが、中期対話篇『国家、』である。
民主制を古代ギリシャでは「デモクラテイア(democracy)」と言う。デモス(demos=古代ギリシアのポリスを構成する組織・人民)がクラティア(kratia、権力・支配).を持つ体制=「民権」ないし「民衆支配」の体制を指すが、プラトンは対話篇『国家』の中で、民主制は自分勝手で個性のないバカな人間を生み出す「衆愚政治」だと批判している。衆愚政治は、有権者が各々の自我(エゴ)の中から生まれたエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。エゴイズムは自己の積極的利益の追及とは限らず、恐怖からの逃避、困難や不快さの回避や意図的な無視、他人まかせの機会主義、課題の先延ばしなどをも含む(※3.※4参照)。
「衆愚政治」は民主主義の最大の欠点を表しているといえるが、世界で最初に民主主義をなした国家ギリシャが皮肉にも衆愚政治に堕し、その後衰えてゆくのは如何にも皮肉であるが、今のギリシャ問題を見ていると、ギリシャ人にはいまだに古代ギリシャ時代の悪しき思想が抜け切れていないように思われる。しかし、今の日本も何か少しづつそのような状況に近づいているような気がしてならないのだが・・・。
世の中には、好むと好まざるにかかわらず、「6K」と云われる職場で一生懸命頑張っている人も大勢いるからこそ、この世の中なんとか回っている。恵まれぬ環境の中で努力している多くの人たちに、私たちは、どれほど感謝の気持ちを持っているのだろうか。せめて、誰にでも「ありがとう」と言う感謝の言葉を素直に口に出して云えるようになれば、少しは良い関係(絆)も出来てゆくのではないか。言葉ぐらいで・・と思う人がいるかもしれないが、以前このブログ、「ことばの日」(5月18日)でも書いたのだが、イスラム教の教の中に、以下のような言葉があると聞いている。

「自分が変れば 相手が変る。心が変れば 態度が変る。態度が変れば 行動が変る。 行動が変れば 習慣が変る。習慣が変れば 人格が変る。人格が変れば 運命が変る。運命が変れば 人生が変る。」

その根拠はよく判らないが、人生訓などとしても、よく語られるものであるが、そんなこと・・・と言われるかもしれないが、人間、常日頃から、「いい言葉」を聞き自らも使っていると、やがてその人の、行動や人格までも変化し、ひいては、家庭や、社会の安定にも通じるものと信じている。
アメリカの心理学者マズローの名言「自分自身に対する認識を変えれば、人間は変わる。」(自己実現理論)も、同様の考え方のものだろう。
言葉・・・されど言葉である。日ごろから「いい言葉」に接したいものである・・・・、そう思って、また同じテーマーで書いてしまった。

この日本語の「ありがとう」と言う言葉の語源は、形容詞「有り難い」の連用形「有り難く」のウ音便化し、感謝の気持ちを表す言葉「ありがとう」となったもの。
「有り難い」は、文字通り、「有る(ある)こと」が「難い(かたい)」つまり、「有ることがむつかしい」と云う意味で、ここから、本来は、ありそうにない。ほとんど例がない。めったにない。珍しい。・・・と言う意味を表していた。
清少納言の『枕草子』"ありがたきもの"の段には以下のように書かれている(現代語訳。原文、解説等は※5を参照。ただし、『枕草子』には、多くの異本があり、伝本によってかなり内容に違いがあるようで段数も異なる。※6又ここなど参照)。

(枕草子 「ありがたきもの」)
めったにないもの。舅にほめられる婿。また、姑に大切にされるお嫁さん。毛がよく抜ける銀の毛抜き。主人をけなさない従者。ほんの少しも癖のないこと。容姿、情、様子が秀でていて、世を渡る中で、ほんの少しの欠点もない人。
同じところに奉公して住んでいる人で、お互いに気がねして、少しのすきもなく、心遣いしていると思われる人が、最後まで欠点を見せないというのはめったにない。物語や歌集などを書き写すときに、(その物語や歌集)原本に墨をつけないこともめったにない。価値のある本(草子)などの場合は、非常に注意を払って書くが、必ず汚してしまうようだ。
男と女(の仲について)は言うまい、女どうしも、深い約束ごとがあって交際している人で、最後までずっと仲が良い人はめったにいない。
(男女についてはいうまでもなく将来まで仲が良いことは難しい)・・・・と。

「めったにないもの」・・・・、いつの時代になっても変わらないものだね~。その中にある、「毛抜き」は、当時の女性は眉を抜く習慣があったので、必需品で、抜いたあとは眉墨で描いた。今でも女性にとって、めったに手に入らない化粧品など女性にとっては”有難い”ものだろう。「めったにない」が現代語の「感謝をする」の意味で用いられるようになったのは、近世になってからの様だ。

「有難い」は、中世になり、仏の慈悲など“貴重で得難いものを自分は得ている”・・・と言うところから、宗教的な感謝の気持ちで云うようになり、近世以降、感謝の意味として一般にも広がったとも言われている。
「有難い」は仏教語で、『法句経』にある生命(生まれてから死ぬまでの時間=命)の驚きと感動を伝える言葉が、時代と共に感謝を表す言葉となったとも言われている。
この『法句経』は パーリ語の経典『ダンマパダ( Dhammapada)』:の漢訳で、原始仏典ブッダの仏教)の一つで、語義は「法(真理)についての句(言葉)」といった意味であり、原始仏典の中では最もポピュラーな経典の一つである。
スッタニパータ』と共に原始仏典の、最古層の部類とされるが、『スッタニパータ』はかなり高度な内容を含んでいるため、必ずしも一般向けではないが、『ダンマパダ』は、たくさんある経典の中でも、一番釈迦の説法の原形が残っているとも言われており、初学者が学ぶ入門用テキスト向きだと言われている。
内容は、仏教の立脚地より日常道徳の規準を教へたものであり、形式は、全部頌文(ジュモン)より成り、古代仏教の聖典たるの中に散在する金玉の名句(四百二十三の名句)からなる教訓句集のようなものである。
その中の第十四章 “佛陀の部”の、百八十二番の句に、いわゆる「ありがたい」に関することが四つ出てくる。
以下の文は、浄土宗の僧侶、仏教学者・サンスクリット学者でもある荻原雲来(明治2年~ 昭和12年)の訳註『法句經』(※5青空文庫)より引用したもの。

(佛陀の部、百八十二番の句) 
 
人身を得ること難し、
生れて壽あること難し、
妙法を聞くこと難し、
諸佛世に出ること難し。

ここでの「難し」は、当然「有り」「難し」のこと。「」とは、「寿命」(生命=命。生きていること)のこと、また、「妙法」とは、「正法」つまり、ブッダ(悟りを開いた釈迦)の説いた正しい法(教え)のことを言っているのだろう。3段目と4段目は入れ替えた方が分かりやすいだろうから入れ替えて、もう少し判り易くすれば以下のようになるのだろう。

人がこの世に人身を得る(生まれてくる)ことは難しい(「有り」「難い」ありがたい)ことで、
今こうしてこの世に生命(命=生きていること)のあることもありがたいことだ。
この世に諸々の仏が現れることはありがたいことであり、
その仏から正しい法(教え)を聞くことはなお、ありがいことだ。・・・といったことになるのではないか。

日本の諺には、「袖振り合うも多生の縁」がある。
見知らぬ人とたまたま道で袖をすり合わせるというのも、前世からの深い因縁によるものであるということ。人と人との関係は単なる偶然によって生ずるわけではないので、大切にしなくてはならないという仏教的な考え方からきている。「多生」は何度も生まれ変わる意味。
他生」と書く場合は、この世以外の意味で、「前世」と「来世」のこと。そのものの力ではなく、他の原因によってあるものを生じること。・・・を言う。
「多生の縁」を「他生の縁」とも書く(成語林=故事ことわざ慣用句の大辞典)ようで、こう書いても間違いではないようだ。
「多生」は現世の前に積み重ねた数多くの前世。その数多くの前世の因縁が積み重なった結果が現世で袖を振り合うという出会いになっている。さらに、そうした現世の因縁も来世の縁(縁起参照)に繋がってゆく・・・と考えられている。
このような輪廻転生の思想は、仏教(釈迦の仏教)以前からインドにおいて存在していた(★「輪廻転生」の考えは、ヒンドゥー教や仏教などインド哲学東洋思想において顕著だが、古代のエジプトやギリシャ[オルペウス教ピタゴラス教団プラトンイデア)]など世界の各地に見られるという。輪廻転生のところ参照)。

仏教の世界観は、人の一生はであり永遠に続く輪廻の中で終わりなく苦しむことになる。その苦しみから抜け出すことが解脱であり、修行により解脱を目指すことが初期仏教の目的であった。初期仏教は、釈迦入滅から約100年くらいまでの、部派に分裂する前の仏教をいう。
仏教においては、私たち人間を含めたすべての生きもの(衆生は迷いの世界から解脱しない限り、無限に存在する前世と、生前の業、および臨終の心の状態などによって次の転生先、(部派では「畜生餓鬼地獄」の五道、大乗仏教ではこれに修羅を加えた六道の転生)先に生まれ変わるとされている。
では六道のどの世界に生まれ変わるかは、何によってきまるのか?
仏教では、生前での生き方、為してきたことの結果によって生まれ変わる世界が決まると説いている。それは「自分の為したことが返る」というカルマ(karman.。業)の法則に基づいている。日本においては 「因縁因果」という言葉で知られている。
そして、六道を輪廻する衆生の中で、人間として生まれるのは誠に得難い(有難い)ことであると考えられている。
それが、先に挙げた『法句經』の「人身を得ること難し」である。しかも、人間が住む世界(人間界)は、四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界である。だが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもある。また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱しになりうるという救いもある世界でもある。
折角、そんな、有難い人間世界に生まれてきたのだから、それを有難いことと感謝をし、私たちは色々なことに惑わされずに、釈迦の説いた正しい教えを素直に聞き,善導を歩み功徳を重ねることが善き境遇(善趣)に生まれ変わり、逆に、悪業を積めば苦しい境遇(悪趣)に生まれ変わるということになるのだろう。
ところで、釈迦の仏教では輪廻において主体となるべき、永遠不変のは想定しておらず、無我を知ることが悟りの道に含まれるようだ(以下参考の※8参照)。この点で、輪廻における主体として、永遠不滅の我(アートマン)を想定する他のインドの宗教と異なっているようだ。
無我でなければそもそも輪廻転生は成り立たないというのが、仏教の立場であり、仏教における輪廻とは、「心がどのように機能するか」を説明する概念であり、単なる死後を説く教えの一つではない。しかし、後代になり大乗仏教が成立すると、輪廻思想はより一層発展し、自らの意のままにならない六道輪廻の衆生と違い、自らの意思で転生先を支配できる縁覚声聞菩薩如来としての境遇を想定し、六道と併せて十界を立てるようになった。

3段目、と4段目についてであるが、「諸佛世に出ること難し」の諸仏とは、釈迦を含む7人の仏(過去七仏)のことであり、仏教で釈迦以前に存在したとされる6人の仏と、釈迦を含む7人の仏が共通して説いた教えを一つにまとめたとされている偈「七仏通誡偈」が『発句教』182番に続く183番だという。
(『発句教』183番)

諸の惡を作さず、善を奉行し、自心を淨む、是れ諸佛の教なり。

判り易く書くと、「すべて悪しきことをなさず、善きことを行い、自己の心を浄めること、これが諸の仏の教えである。」となるのだろう。
これに似たが「感興のことば」第28章「悪」にある。
それは「みずから悪をなすならば、つねに自分が汚れる。みずから悪をなさないならば自分が浄まる。」という言葉である。
これを参考にすると七仏通誡偈の意味は「すべて悪いことをしてはいけない。諸の善いことを行うことによって自己の心を浄めなさい。」
これが諸の仏の教え( 正しい教え)である、ということになるのだろう。
この「感興のことば」とは、サンスクリット経典として継承されている『ウダーナヴァルガ』(Udānavarga)のことで、ブッダが感興をおぼえた時,ふと口にした言葉集の意味で、『法句経』(ダンマパダ)と『自説経』(Ud?na)を足したもの。日本では、中村元訳(『ブッダの真理のことば・感興のことば』)がある(「ブッダの真理のことばがダンマパダ。「感興のことば」がウダーナヴァルガの翻訳である)。
この「感興のことば」は以下で聞ける。以下で、第28章 悪を聞いてみてください。

ブッダの感興の言葉 – YouTube

この七仏通誡偈の精神は善いことを行うことは自己の心(自我)を浄めるためである。 自己心浄化に重点が置かれている。
ブッダの説く教えは単に苦しみの消滅だけではなく清らかさと聖なるものを追求していることが分かる。
これは八正(聖)道のめざすものである(※7の第十四章 “佛陀の部”の一九〇、一九一参照)。
七仏通誡偈の言っていることは実行は難しいかも知れないが単純で分かりやすい。
このような単純明解さがブッダの原始仏教の特徴と言える。
『発句教』(ダンマパダ)第十一章老耄(ろうもう=おいぼれること。また、その人。老い)の部の一五三、一五四(※7参照)は、釈迦が悟りブッダとなった時の歓喜(よろこび)の偈だと伝えられているものである。
そこでは、「私は、苦しみの基盤である家(自分の肉体)の作り手を探し求めて、幾度も。生死を繰り返す輪廻の中を得るものもないままさまよい続けた。 何度も何度も繰り返される生は苦しみである。
だが家(自分の肉体)の作り手よ、お前は見たのだ。 もう二度と家を作るな。桷(すみき。ここでは煩悩を言っているようだ)は折れ、棟梁(ここでは無明を言っているようだ)は毀れてしまった。心(ここでは人間が持つ根本的な欲望「渇愛」をいっているようだ)を形成するはたらきは心から離れ、渇愛を滅ぼし尽した(解釈等は、※9のダンマパダ153、154 「家」を作る大工さん|釈尊(後編)参照)
釈迦は輪廻転生が生きているときの行いによって決まるのであり、死後は何をしようがもはや手遅れと考えていたようだ。釈迦の考えた仏教はあくまでも生きている人間のためのものであり、今仏事で行われているような葬式や法事も釈迦の考えた仏教とは無関係なもので 後に考えられたものである。
仏教(特に原始仏典)の云っていることは全ての現象無常、変化性のものである(諸行無常)という客観的真理を述べているだけで悲哀などの感情的情緒的なものは入っていないようだ。
人は有難いこの世に生を得た。「二度とない人生」・・・だからこそ、「ブッダが究明・実践した清浄(自我のまじらぬこと、執着のないこと)の行を体現して生活する必要」があるのだろう。つまり、「有意義な人生」を送る必要がある、ことに気づく。これは現代の科学的真理と一致する不変の真理であると、云えるかもしれない。ブッダは、「死後の生」を全否定し、そこから、ギリシャの哲学者・ソクラテスの提起した『人間いかに生きるべきか?!』(※10、※11参照)の回答を導き出したともいえる。

何か私の説明ではわかりにくかったかもしれない。『法句経』については、以下参考に記載の※12:「こころの時代」の以下のページで分かりやすく解説しているのでそこを見られるとよい。

101 聖典を読む 法句経
『法句経』に学ぶ②生命あるはありがたし

「こころの時代」?・・、何か聞いたことのある名前だと思ったら、最後のところに、「これはNHK教育テレビの「こころの時代」で 放映されたものである」…とあった。
こころの時代」は、NHK教育テレビ、並びにラジオ第1放送FM放送で同時間に同一内容を放送するサイマル放送による放送番組である。
NHK教育テレビでは1982(昭和57)年4月11日より、NHKラジオ第1放送では1990(平成2)年4月28日未明よりそれぞれ放送開始されている。ほぼ毎日放送されるようになるとテレビ版の再放送だけでは間に合わず、ラジオ版も製作されるようになり、1993年から現在の番組名に改題したもの。
この番組の原点は、1962(昭和37)年から1982(昭和57)年にかけて放送された『宗教の時間』という教育テレビの番組で、宗教の話題を中心に、人生の苦境を克服した人物、あるいは人生経験や各種研究の第一人者に対し、番組ディレクターや番組アンカーのアナウンサーがインタビュアーとなり番組が進行する。現在は「こころの時代」と改題し、宗教にとどまらない内容で放送中の長寿番組である(※13参照)。
同局HPに「どうにもならない壁にぶつかったとき、絶望の淵に立たされたとき… どう生きる道を見いだすのか。先人たちの知恵や体験に、じっくりと耳を傾ける番組です。』・・・とあるように、さすがNHKならではの、なかなかいい番組である。
参考※12の 「こころの時代」は、そのNHKの「こころの時代」で 放映されたバックナンバー的なもののようだ。
このNHKの「こころの時代」の放映で、使われていたテーマー音楽がまた良い。我が神戸市出身のピアノ奏者、作曲家。ウォン・ウィンツァン(※14参照)作のテーマ曲だが、特に題名はなく、「こころの時代」テーマ曲とされているようだ。冒頭の動画で聞けるので聞いてみるとよい。

参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:OKWave HP
http://www.okwave.co.jp/
※3:プラトン『国家』岩波文庫(下巻):第七巻~第九巻[B.C.375?]
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/Resume%20On%20Plato%20Politeia.htm
※4:民主主義国家の末路 | 実存の部屋
http://blog.philosophia-style.com/65284191.html
※5:楽古文:枕草子
http://www.raku-kobun.com/makuranosoushi.html
※6:原文『枕草子』全巻
http://www.geocities.jp/rikwhi/nyumon/az/makuranosousi_zen.html
※7:荻原雲來訳註 法句經 - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/001529/files/45958_30545.html
※8:マニカナ・ホームページ:エッセー
http://homepage1.nifty.com/manikana/essay/essay.idx.html
※9:瞑想してみる:説法めも【目次】
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2014/11/09/200000
※10:ソクラテスの生涯 - ギリシア哲学への招待状
http://philos.fc2web.com/socrates/soccar.html
※11:人はいかに生きるべきか
http://t3ikio.exblog.jp/13530704
※12:こころの時代
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm
※13:こころの時代~宗教・人生~/宗教の時間 - NHK
http://www4.nhk.or.jp/kokoro/
※14:ウォン ウィンツァン Wong Wing Tsan ブログ
http://www.satowa-music.com/
禅と悟り
http://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/index.html
語源由来辞典:ありがとう
http://gogen-allguide.com/a/arigatou.html

夢の日

2015-06-10 | 記念日
日本記念日協会(※1)には、今日・6月10日の記念日として「夢の日 」が登録されている。
由緒書きを見ると、夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)に感謝し、自分の夢について考え、語り合う日をと,香川県直島の女性が制定したものだそうだ。日付は6と10で「夢中」(むちゅう=むじゅう)と読む語呂合わせと、「夢は叶う」(む=6+10の字の形)などに由来する。・・・・からだそうである。
この記念日を設定したという香川県直島の女性がどんなを持っていて、その夢の実現に力を貸してくれた人が誰のことかは、何も書かれていないのでよく判らないのだが、私には、少し思い当るところがある。まずは香川県の直島という島のことから紹介していくと、皆さんも私と同じようなことを考えるようになるのではないだろうか。
香川県は、瀬戸内海に面し、四国の北東に位置する県であり、令制国讃岐国に当たる。
県庁所在地は高松市。県名は、讃岐のほぼ中央に存在し、かつて高松が属していた古代以来の郡「香川郡」から取られた。全国一小さい県(※2参照)だが、北部に広がる瀬戸内海には、小豆島など多くの島々が点在している。
本州の岡山県とは島々を伝う形で架けられた瀬戸大橋により、道路・鉄路で結ばれている。瀬戸内海を越えた岡山県や、鳴門海峡を越えた近畿地方との繋がりが深い。
直島町(なおしまちょう)は、そんな香川県香川郡に属する町であり、高松市の北に約13km、岡山県玉野市の南に約3kmの瀬戸内海上に浮かぶ直島本島を中心とした直島諸島の大小27の島々で構成されている。
余段だが、そのような地理的な位置の関係から、1988(昭和63)年10月1日に国土地理院が全47都道府県の面積算定法を見直し、岡山県玉野市との間に境界未定部分がある香川郡直島町の面積(14.2km²)を県全体の面積に算入しないことになったため、面積が減少し、それまで全国一小さい大阪府と逆転し香川県の面積が最下位となった経緯がある。
湖のように静かな海面、点在する多くの島々、白砂青松の浜、段々畑などの親しみ深い景観と豊かな自然が息づいている瀬戸内海。この『瀬戸内海』という言葉や観念は、明治初頭に至るまでは日本人が持っていなかったもののようであり、現代のような『瀬戸内海』(The Seto Inland Sea)の美しい風景を感動的に描写し始めたのは、ドイツ人医師シーボルトら、幕末から明治にかけて来日した欧米人であったようだ(※3:「ART SETOUCHI」のコラム世界第一ノ景 瀬戸内海の再発見また※4参照)。
日本では、1934(昭和9)年には、雲仙国立公園(現・雲仙天草国立公園)、霧島国立公園(現・霧島錦江湾国立公園)とともに、『瀬戸内海国立公園』として、日本初の国立公園に指定された。
その当時の指定区域は東から小豆島の寒霞渓、香川県の屋島、岡山県の鷲羽山広島県鞆の浦沼隈町周辺の備讃瀬戸を中心とした一帯のみであった。その後、過去数回にわたり、区域の拡張がなされ,、現在は、西は北九州市、東は和歌山市にまで及ぶ広大な公園となっている。
また、瀬戸内海は、海上交通路としても重要な役割を果たしてきた。古代から大陸文化が伝わるルートとして、近世には北前船が往来する航路として、人や物資が行き交う大動脈であった。島々や沿岸では、人・もの・情報を柔軟に受け入れながら、それぞれの文化や伝統を形成してきた。瀬戸内海の魅力は、こうした自然と人々の営みとの両方により形作られている。
一方、1960年代以降、この美しい風景地の一部では、高度経済成長とともに、大規模な工業開発が進められ、経済発展と引き換えに深刻な環境汚染を引き起こす・・・と、いった負の側面もあった。
例えば、香川県の直島町の直島本島の面積は7.81平方km、人口が約3,400人。島内にはフェリーの発着港を擁する宮ノ浦(※5参照)、日本戦国時代の海城村を原型とした本村(ほんむら・高原家の城下町。※5 のここ参照)、古くからの漁港である積浦(※5のここ参照)という3つの集落がある。
本島北部では、大正時代から三菱マテリアル直島製錬所(※6)が操業。銅の製錬が行われており、周辺の関連企業と合わせて大規模な工業地帯となっている。その為、直島町のいくつかの島は煙害で禿山となっていたが、戦後まもなくから植林の努力が続いている。特に荒神島の緑は近年見事なまでに復活しており、北側一帯の木が枯れたように見えるのは2004(平成16)年1月の山林火災のためであり、現在は、煙害は無いに等しいようだ。(※7参照)。
中部は直島小学校、直島中学校のある文京地域。南部は、緑豊かな海岸となっており、同島南部は、隣の同じ直島諸島の豊島( 1990年代に産業廃棄物の不法投棄問題があった[豊島問題参照])と、男木島女木島などと共に瀬戸内海国立公園に指定されている景観の地となっている。

失われた20年と云われる長い経済の沈滞の中で、地方自治体が苦労を重ねるなか、地方改革に取り組んでいる自治体があった。
直島町は、島の南端の風光明媚な地区を秩序だった文化的な観光地にしようと藤田観光を誘致し、キャンプ場を1960年代後半の観光ブームの時期にオープンさせたが、瀬戸内海国立公園内のため大規模レジャー施設にするには制約があり、石油ショック後は業績が低迷し撤退した。
その後に島を文化的な場所にしたいという意向で当時の町長・三宅親連(ここ参照)と福武書店(現:ベネッセコーポレーション)創業者の福武哲彦との間で意見が一致。急逝した福武哲彦の跡を継いだ息子で、2代目社長の福武總一郎が1987(昭和62)年に一帯の土地を購入し、1989(昭和64)年に研修所・キャンプ場を安藤忠雄のマスタープランでオープンした。
福武總一郎は「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」を発表し、1992(平成4)年に安藤忠雄が全体設計した直島文化村プロジェクト「ベネッセアートサイト直島」の中核施設となるホテル・美術館の「ベネッセハウス」(英名:Benesse House)建設などへと拡大した。尚、直島南部、通称・琴弾地と呼ばれる地区の丘の上の本館・ミュージアム棟(旧称直島コンテンポラリーアートミュージアム)は1992(平成4)年、宿泊専用棟「オーバル」は1995(平成7)年、海辺の宿泊専用棟「パーク」「ビーチ」は2006(平成18)年に開館した。
●(冒頭の画像は、ベネッセハウス・ミュージアム棟屋上庭園から瀬戸内海を望む光景)。
当初美術館は浮き気味で町民の関心も薄かったが、島全体を使った現代美術展(スタンダード展)、本村の無人の古民家を買い上げて保存・再生し現代美術のインスタレーションの恒久展示場とする家プロジェクトなどを重ねることで、徐々に活動が町内の理解を得られるようになったという。
現在は、ベネッセハウスは町民の宴会や結婚式場の二次会場ともなっている(家プロジェクト第1弾の本村で一番大きい家屋「角屋(かどや)」)を創る時、アーティストの宮島達男は町民125人を公募して、作品を構成する125個のデジタルカウンターの点滅速度を一人一人にセッティングしてもらい、地域住民参加という手法を取ることで現代アートという異質なものが保守的な土地に入って来ることに対する町民の反感、抵抗を払拭したという。
その後、2004(平成16)年にはクロード・モネウォルター・デ・マリアジェームズ・タレルの3名の作品を収めた地中美術館が建設されるにいたっている。

●上掲の画像は、角屋(山本忠司&宮島達男)1998年。
このプロジェクトを通して日本の多様な建物・生活・伝統・美意識を再現。つまり、自然と建築と芸術を共生させた文化産業が直島を観光の名所として発展させ、今やいくつもの雑誌で特集が組まれるアートの聖地となった「直島」は、アメリカの旅行雑誌『コンデ・ナスト・トラベルラー』で「生きているうちに行ってみたい世界7大旅行地の一つ」として紹介されるなど、海外からの注目も集まるようになった。
1969(昭和44)年には直島製錬所が近代化することに決まりに同新製錬所が稼動。この頃を境に金属製錬事業の高度化と平行して合理化が進み、以来従業員数や島の人口は減少し続けていた。そんなかつての過疎化と産業廃棄物(豊島からの受け入れ)に悩まされていた直島(※8参照)が、アートの聖地としての今の姿になるまでには、元町長・三宅親連、福武書店(現 ベネッセ・コーポレーション)、そして地域住民によって築き上げられた20年の歳月があった(※9:「朝日新聞社 :AJWフォーラム :アジア人記者の目」の地域社会の生存戦略(3)参照)という。
恐らく、今日の記念日を制定した直島の女性の「夢をかなえてくれた人(夢の実現に力を貸してくれた人)」というのは、今の直島を築くのに努力した先に挙げた人たちのことを言っているのではないだろうか。

古来より人々が行き交い、文化交流の舞台となった瀬戸内海で、アートの島として、多くの人々が訪れるようになった「直島」。
この「直島」という名は昔、崇徳上皇がこの島を訪れた際、島民の素直さ・素朴さを賞賛されたことに由来しているのだとか。
小倉百人一首の中でも、もっとも有名な恋の歌「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末にあはむとぞ思ふ」。
これを詠んだのが崇徳上皇である。

●上掲が小倉百人一首77番「崇徳院」
【歌意】滝の水は岩にぶつかると二つに割れるが、すぐにまた一つになるので、現世では障害があって結ばれなかった恋人たちも、来世では結ばれましょう。・・といったところ。ロマンチックなこの歌とは裏腹に崇徳上皇は悲運な運命を辿る。
崇徳天皇は、歴史の教科書では保元の乱を扱う際に登場するため、崇徳上皇と記載されることが多く、退位後は崇徳院・讃岐院などとも呼ばれる。
<ahref=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%BE%BD%E5%A4%A9%E7%9A%87>鳥羽天皇中宮藤原璋子(待賢門院)の第一皇子として生まれるが、『古事談』には、白河法皇と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽は崇徳を「叔父子」と呼んで忌み嫌っていたという逸話が記されている。
崇徳上皇は鳥羽天皇の譲位を受けて5歳にして即位し第75代天皇となる。幼少で曾祖父の白河法皇が実権を握っていたが、大治4年(1129年)白河法皇が崩じ鳥羽上皇が実権を握ると情勢は一変し、鳥羽上皇が院政を開始した。
院政開始後の鳥羽上皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し、保延5年(1139年)得子が体仁親王(後の近衛天皇皇)を出産すると、即、崇徳天皇の皇太子とし、2年後の永治元年(1141年)には鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、わずか2歳の体仁親王を即位させた(近衛天皇)。これなど、鳥羽上皇が崇徳天皇を実子ではなく、白河法皇のご落胤だと信じていたためだろうが、崇徳院にとって、この譲位は大きな遺恨となった。この時から崇徳天皇は鳥羽上皇(本院)に対し新院と呼ばれたりした。
久寿2年(1155年)近衛天皇が17歳で崩じると、崇徳上皇は皇子重仁親王を即位させようと画策したが、鳥羽上皇によって、美福門院のもう一人の養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王(崇徳の同母弟)が、立太子しないまま29歳で後白河天皇として即位した。
鳥羽法皇や美福門院は、崇徳院に近い藤原頼長の呪詛により近衛天皇が死んだと信じていたといい(『台記』)、背景には崇徳院政によって自身が掣肘されることを危惧する美福門院、父・藤原忠実と弟・頼長との対立で苦境に陥り、崇徳院の寵愛が聖子から兵衛佐局に移ったことを恨む藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で権力の掌握を目指す信西らの策謀があったと推測されている。
夢破れた崇徳は、保元元年(1156年)に鳥羽法皇が崩御すると摂関家の藤原頼長、源為義平忠正(平忠盛の弟、平清盛の叔父)らと語らい後白河天皇から皇位を取り返すべく蜂起した。しかし、備えをしていた後白河天皇側に源義朝や平清盛らが参集し、源義朝の献策により素早く夜襲をかけた(これが「保元の乱」である)。
崇徳上皇は、平清盛と同じ乳母に息子を預けたほど縁が深かっただけに、清盛の支援を待ち望んでいたが、清盛は後白河天皇に味方してしまった.。これが最大の誤算であった。
敗れた崇徳上皇は捕らえられ、武士数十人が囲んだ網代車(牛舎の一。車の屋形に竹または檜の網代を張ったもの。)に乗せられ、讃岐国に配流された。
天皇もしくは上皇の配流は、藤原仲麻呂の乱における淳仁天皇淡路国配流以来、およそ400年ぶりの出来事だった。同行したのは寵妃の兵衛佐局と僅かな女房だけだったという。崇徳上皇は都に帰りたいと切望しながらもその後、二度と京の地を踏むことはなく、8年後の長寛2年(1164年)8月26日、46歳で崩御した。
遺体は白峯御陵(坂出市。.白峯寺白峰宮、参照)に葬られた。帰京を許されなかった崇徳上皇への後ろめたい思いが、のちに「怨霊」という形で、後白河天皇と清盛を悩ませることになったと言われている。
怨霊として定着した崇徳院のイメージは、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにおいても怨霊として描かれ、現代においても様々な作品において怨霊のモチーフとして使われることも多い。

●上掲は、讃岐に流された崇徳上皇.歌川国芳画。
その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱土佐国に流された土御門上皇(後白河院の曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束した。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領であった細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている(ともに『金毘羅参詣名所図会』・『白峰寺縁起』、※10、※11又金毘羅権現参照)。
保元の乱は、兄・崇徳と弟・後白河との権力の座を賭けた争いに、貴族の藤原一門と、源氏・平家の武士たちが参戦したいわば、政治的パワーゲームだった。この後、勝った後白河天皇は清盛とともに力を伸ばしてゆくが崇徳上皇は讃岐に廃瑠され当時は、配流先の地名をとり「讃岐院」と称されていたのであり、崇徳院とは、崩御後、怨霊鎮魂のために与えられた諡号である。
漢風の諡号(帝号)は平安期の光孝天皇まで続いたが、その後、律令政治の崩壊と共に途絶えていた。これ以降の天皇では、平安末期から鎌倉初期における75代崇徳院(讃岐院から改める)、81代安徳天皇、82代顕徳院(隠岐院から改め、後に後鳥羽院に改める)、84代順徳院(佐渡院から改める)の4例を見るのみである。
崇徳天皇は応仁の乱で敗れ、讃岐の地で悲惨な死に方をしたが、安徳天皇は平清盛の外孫で、8歳にして壇の浦に沈んだ。順徳天皇は承久の乱に敗れ、北条義時によって佐渡に流されたまま亡くなった。この3人は平安後期から江戸中期までの諡号が絶えた時代にあって、わざわざ例外的に諡号を贈られた天皇である。彼らに贈られた「徳」諡号は、霊を慰め、怨霊化を防ぐために贈られた諡号であり、「徳」をもってを張るな、民を安んじてくれ、という願いが込められていたのではないだろうか。
明治天皇は慶応4年(1868年)8月18日に自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮(京都市上京区)を創建した。
後白河法皇は、朝廷の威信保持のために政治的計略を巡らし、源頼朝からは「日本一の大天狗」と評される一方で、仏教を深く信仰し、熊野詣は34度にわたったという。また今様を熱愛し、『梁塵秘抄』(※12参照)を編纂するとともに、その解説書ともいうべき『梁塵秘抄口伝集』を著しているが、その歌詞集である『梁塵秘抄』の中には以下の歌が掲載されている。
(406)侍藤五君、召(め)しし弓矯はなど問(と)はぬ、
弓矯(ゆだめ)も箆矯(のだめ)も待ちながら、
讃岐の松山へ入りにしは。
(431:)讃岐の松山に、松の一本歪みたる、
捩(もじ)りさの捩(よじ)りさに、嫉(そね)うたるかとや、
直島の、さばかんの松をだにも直さざるらん。
侍五藤君とは、従者(おもに武士系)の藤原氏の五男坊。弓矯とは、弓の調整具。曲がりを直す。箆矯(のだめ)とは矢の調整具。同じく、曲がりを直す。・・・ことで、歌意は、以下のようになるようだ(以下現代役等は※13:「今様ラプソディ」梁塵秘抄ものづくし篇(その五)参照)。

(406)従者藤原の五郎君 お持ちの弓矯をどうして確かめないの
    弓を直す弓矯も 矢を直す矢矯も持ってたのに
    あんな戦にあっさり負けて 讃岐の松山へ行っちゃったの
(431:)讃岐の松山に 性根の歪んだ松が一本
    ねじまがって身もだえして 妬んでるんだってさ
    直しま(直島)しょうとか 天の裁きを待つ(松)とかいうのに
    歪んだ生え方は何で直さないんだろう

406番の讃岐(現・香川県)の松山は、崇徳院の流刑地のことであり、保元の乱で負けて流され、生き残りの重臣たちもそれぞれ土佐などに配流された。この歌は崇徳院方についた摂関家の一系統をはじめとする藤原氏を揶揄したものだろう。なお、実際の戦闘はわずか数時間で決している。
431番も、同じく、崇徳院にまつわる諷刺歌。「性根の曲がった松」は、都に向けて恨みをつのらせると讃岐配流中の崇徳院を皮肉ったもの。
直島は、松山に近い瀬戸内の小島で、崇徳院が立ち寄った際、出迎えた島民の素直さ素朴さに感動して「直島」と命名した。しかし、ひそかに「世直し」の意味を込めたのではないかと言われていた。これに対してこの歌は、「直したいのなら、まずはアンタの性根から」と、痛烈なツッコミを入れている。もし後白河の作詞だったらけっこう恐い。・・というが、そうかもしれない。
そう考えると、以下の歌も意味深であろう。

(405 )鷲(わし)の本白(もとじろ)を、
    くわうたいくわうの箆(の)に矧(は)ぎて
    宮の御前を押し開き、
    ふとう射させんとぞ思ふ。

「箆」は「矢の竹で出来た枝の部分」。「矧ぐ」は「竹と羽根を合わせて弓矢を作る」の意味で、「くわうたいくわう」はよく判らない(※14参照)そうだが、これは、「皇太后」と読めて、それなら崇徳天皇が父の鳥羽天皇に嫌われ、ひいては保元の乱の遠因ともなった、崇徳・後白河両天皇の生母の待賢門院璋子ではないかという推測も成り立つ。そうすると、この歌(405)の歌意は以下のようになる。

鷲の羽根の元白の矢羽根を
皇大神宮の竹でもって
箆(の)に矧いで
宮のとびらを押し開いて
道理をわきまえない無道者を
射させようとこそ思う

崇徳院は、後白河院と母を同じくする実の兄であるが、この兄を、弟は保元の乱で打ち敗かして、断乎島流しにして生涯都へ帰さなかった。また、崇徳天皇は、鳥羽院の祖父白河法皇が、養女であり自身で鳥羽天皇の中宮にした待賢門院璋子その人 に産ませた「子」であったらしいという噂もあった。それで鳥羽院は息子である崇徳天皇を「叔父御」「祖父子」とかげで言っていたという。嫌われる道理であるが、そうすると、「宮のとびらを押し開いて道理をわきまえない無道者を射させようとこそ思う」・・とは、如何にも意味深な歌ではある。

なにか回りくどい話になってしまったが、最後は、「夢」の話で締めくくろう。
保元の乱その後の平治の乱勝利後の平家の栄華と没落を描いた『平家物語』は、巻第一冒頭の「祇園精舎の鐘の声……」の超有名な文で始まるが、それに続く最初の物語(6祇王)には、以下のような言葉が出てくる。
「つくづく物を案ずるに、娑婆(しゃば)の栄華は夢の夢、楽しみ栄えて何かせん。」
妓王とは、平清盛に寵愛されていた白拍子であるが、ある日、名を仏と名乗る年16の舞の上手な遊女が飛び込みで清盛の前に現れ、芸を売り込もうとしたが清盛の逆鱗に触れ門前払いをくらうところを祇王に取りなしてもらったのだが、それが裏目となり、以降、清盛の寵愛は仏御前に移り、妓王を寄せ付けづ、ついには追い出してしまった。そんな祇王は、清盛からの経済的援助も打ち切られ困窮の果て自殺を図ろうとしていたが母に説得され母と妹とともに出家し嵯峨往生院(現・祇王寺)へ仏門に入った。当時21歳だったとされている。
そんな哀れな祇王の前に現れた仏御前の言葉である。『平家物語』に出てくる文としては長めなのでここでは詳しく書けないので以下参考の※15:「祇園精舎」の妓王9のところを参照するとよい。
上記の訳文は、「つくづく物思いにふけってみると、俗世の栄華は夢の夢で(人間世界の栄華はきわめてはかないもので)、裕福になり栄えても何になろう、いや、何もなりはしない。」・・・といったところで、『平家物語』の祇園精舎と同じく仏教(『仁王経』)にある人生観で、この世の無常を表している言葉「盛者必衰の理(ことわり)」を表しているのだろう。
古来、日本では、数え切れぬ人々が、幸福を求め、悩み、苦闘し、生きてきた。 しかし、生涯を振り返り、夢や幻のごとし、と述懐する人が、あまりにも多い。それは、家康と同様、「生きがい」を「人生の目的」と誤認した悲哀にほかならない(家康公遺訓)。
貧しい農民のせがれから、一躍、天下人に上りつめた男、豊臣秀吉。世界史をひもといても、彼ほどの成功者は少ない。
 しかし、秀吉は、最期に意外な言葉を残している。
「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」(秀吉辞世句)
「露」とは、早朝、葉の上につく水滴である。太陽が昇ると、瞬く間に蒸発し、どこに露があったのか、跡形も残らない。 「難波」とは、自分が威勢を張った大坂のことである。天下を統一し、関白になった、大坂城を造り、聚楽第を築いた。そして、金と女にたわむれて遊んだ……。
それは、夢の中で夢を見ているような、はかない一生だった、とのこの告白。彼の辞世は、一体何を意味しているのだろうか。武士を目指し、家出した貧農の子が、一国一城の主となり、時流に乗って天下の主へと上りつめた。それでも満足せず、次には、唐、天竺へと、野望は尽きず、事実、2度も朝鮮半島へ大軍を送り、非道な殺戮を繰り返している。彼は求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。人は、を得たら、いつまでも離したくない、と願う。しかし、現実には長続きしない。いや、頂上まで上れば、あとは落ちるしか道のないことを、知っているがゆえに、不安、苦悩(苦しみ悩むこと)はつのるのである。
秀吉は、人間の本性を赤裸々に見せている。五欲も参照)に追い回され、あくせくしている我々の姿と、重なるところがないだろうか。求めても、求めても満足しない心、一時の満足は、さらに大きな欲望を生む。秀吉の辞世は、「人生の目的」は、これら「生きがい」のほかにあることの明証であるのだが・・・・。あなたはどこにその生きがいを求めますか・・・。

今NHKの朝の連続テレビ小説「まれ」が始まっている。東京で生まれ育った10歳の津村希は夢を追う父・徹に振り回される苦労のため、子供ながらすっかり「夢」を持つことが大嫌いになり、幼児期に抱いていたケーキ職人への夢を封印。そして津村一家は父の事業失敗に伴い、夜逃げ同然で能登半島の外浦村(架空の漁村)にやってくる。地名は能登半島の日本海に面した海岸を指す「外浦」に由来しており、外部から来た人々を「まれびと」として歓迎し優しく接する文化のある土地柄であるとして設定されている。
稀に来る人と言ふ意義から、珍客をまれびと、マレビト(稀人・その転化からまらうど=客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する折口学の用語。民俗学者折口信夫の思想体系を考える上でもっとも重要な概念の一つであり、日本人の信仰他界観念を探るための手がかりとして民俗学上重視されている。
陸の交通網は発達しており、幹線道路から外れた「半島や島」というと、行き止まりという感覚が強いが、だからこそ昔ながらのものがたくさん残っているとも言える。それは目に見えるものばかりでなく、むしろ目には見えない精神的な土壌が人々の身ぶりや遠い記憶の中に残されているともいえる。秋田の男鹿半島や日本海側の村々や、九州や沖縄の島、そして、瀬戸内の香川県直島他の島々もそうである。陸地から見ると辺境であるが、海から見るとそこは入り口としてネットワークの基点になっている。日本列島に暮らす人たちは、海の彼方からやってくる見知らぬ他者を拒絶したり排除したりするのではなく、恐れながらも言葉を交わし、時に受け入れてきた。そうした身ぶりが、日本列島に伝わる、数多の来訪神を迎える儀礼に表れている。香川県地方に守護神として崇敬された崇徳院信仰もその一つであろう(※15、※16参照)。

朝ドラの津村希は外浦村へきて夢に向かっている若い人たち人たちと接しているうちに、また封印してきたケーキ職人への夢を求めて苦労して横浜のケーキ店に務めることができた。しかも稀のアイデアが採用されて何とかクリスマスケーキを作ることができたのだが、稀は自分は作ってはいけないといわれていたので友人のアイデアとしてケーキを作った。それを聞いた大悟社長からは不合格を宣告された。日本一のケーキ屋を目指している稀にたいして「何かを得るためには、何かを捨てろ」と言われたのだ。家族や友だちを大事にしてきた希にとって、「何かを捨てろ」というのは理解できなかった。そして、店を首になり意気消沈してまた輪島の親の家に帰ってくる。稀の母親藍子は、家族生活のために、自分の夢も捨てだらしなく不本意な仕事をしている、夫徹に離婚を要求する。家族から離れて思う存分自分の求める夢に向かって仕事をして欲しいとの愛情からであった。そんな姿や高校生の弟が高校を出たら大学にはゆかず結婚して自分のしたい仕事をやろうとする姿など見て、ケーキ屋の大悟社長が言いたかったのは、「今やらなければいけないことに覚悟をもって集中しろ」ということではないかと気づいてまた、横浜のケーキ屋へとでいったのだが・・・・。
さて、どういう展開になってゆくのか・・・。

もし、人生に夢や目的がなかったら、どうなるか。 生きる意味も、頑張る力も消滅してしまうだろう。1度きりしかない人生、後悔しないためにも、まず、どう生きるかを考えることは大切だ。
」とは、睡眠中にみる一連の観念や心像、幻覚などは別として、人の将来実現させたいと思っていることや願望。願いをいうが、夢には、はかないこと、たよりないこと、という意味もある。そして、その内容があまりに現実から遠く、はかないことを形容するためにしばしば用いられている。
稀の父親・徹も駄目人間の代表で、実体のない大きな夢ばかり見ては失敗を繰り返し、ちっとも地道にコツコツできない性分であった。女房から離縁され、東京へ出て本当に「夢」を実現できるだろうか。このドラマ、私にはあまり面白くないドラマだが、これからの展開は気になるところである。

「為せば成る為さねばならぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」。
どんなことでも強い意志を持ってやれば必ず成就するというこの言葉、米沢藩主の上杉鷹山が言った言葉である(※17参照)。幕末の長州藩士、思想家、教育者、明治維新の精神的指導者でもある、吉田松陰
「夢なき者に理想なし、理想なき者に計画なし、計画なき者に実行なし、実行なき者に成功なし。故に、夢なき者に成功なし。」・・と言っている。
他にも世界の有名人の名言格言がある(※18参照)が、その中で、一番わかりやすく好きなのが米国のエンターテイナー、実業家ウオルト・ディズニーの以下の言葉である。

・夢見ることができれば、それは実現できる。
・夢をかなえる秘訣は、4つの「C」に集約される。それは、「Curiosity ? 好奇心」「Confidence ? 自信」「Courage ? 勇気」そして「Constancy ? 継続」である。
・成功する秘訣を教えてほしい、どうすれば夢を実現することができますかとよく人から尋ねられる。自分でやってみることだと私は答えている。
・若者の多くは、自分たちに未来はない、やることなど残っていないと思っている。しかし、探検すべき道はまだたくさん残っている。

どうか良い「夢」を見つけて行動してください。

夢の日(参考)


夢の日(参考)

2015-06-10 | 記念日
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参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:東京書籍
http://kids.tokyo-shoseki.co.jp/kidsap/downloadfr1/htm/jsd38797.htm
※3:ART SETOUCHI
http://setouchi-artfest.jp/about
※4:伊予歴史文化探訪 よもだ堂日記 シーボルト、瀬戸内海の美を嘆賞する
http://yomodado.blog46.fc2.com/blog-entry-844.html
※5:アートの島 - 宮浦/直島
http://wasatyu.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/--001d.html
※6:三菱マテリアル直島製錬所
http://www.mmc.co.jp/naoshima/
※7:鉄塔巡視路を行く(荒神島 前編): シーカヤック・メモランダム
http://tukara.way-nifty.com/blog/2012/04/post-7971.html
※8:新瀬戸内海論:島びと20世紀:第3部豊島と直島3
http://www.shikoku-np.co.jp/feature/shimabito/3/3/
※9:朝日新聞社 :AJWフォーラム :アジア人記者の目
http://www.asahi.com/shimbun/aan/kisha/
※10:金刀比羅宮 - 本地垂迹資料便覧
http://www.lares.dti.ne.jp/hisadome/honji/files/KOMPIRA.html
※11: 白峰寺縁起
http://www.shiromineji.com/engi/
※12:『梁塵秘抄』 後白河法皇撰
http://homepage2.nifty.com/zaco/text/ko/ryojin.txt
※13:今様ラプソディ
http://homepage3.nifty.com/false/garden/kuden/index.html
※14:梁塵秘抄、今様の朗読と朗詠
http://reservata.s123.coreserver.jp/poem-ryouzin.htm
※15:祇園精舎
http://greenleaflat.web.fc2.com/mailmagazine.html
※15:視点・論点 「日本列島で"まれびと"と出会う」
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/174782.html
※16:折口信夫 「とこよ」と「まれびと」と - 青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47176_37072.html
※17:為せば成る、為さねば成らぬ何事も - 故事ことわざ辞典
http://kotowaza-allguide.com/na/nasebanaru.html
※18:夢・志の名言・格言集。夢を追うとき支えとなる言葉
http://iyashitour.com/meigen/theme/dream
詞華集鑑賞『梁塵秘抄 愛欲と信仰の歌謡』 - 作家 秦 恒平の文学と生活
http://umi-no-hon.officeblue.jp/emag/data/koten12.html
朝ドラ まれ ネタバレ,あらすじ,感想 最終回まで掲載続行中 | 朝ドラPLUS
http://hublog.net/11872.html
金毘羅参詣名所図会 - 古典籍総合データベース - 早稲田大学
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%8B%E0%94%F9%97%85%8EQ%8Cw%96%BC%8F%8A%90%7D%89%EF
: 夢 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2

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おむつの日

2015-06-02 | 記念日
日本記念日協会(※1)に登録されている今日・6月2日の記念日に、「おむつの日」がある。
あむつを通じてすべての赤ちゃんの幸せで健やかな成長について考えてもらおうと、赤ちゃん用の紙おむつ「GOO.N(グ~ン)」を製造するエリエール大王製紙株式会社(HP)が制定したもの。日付は6月2日で「062」を「おむつ」と読む語呂合わせから.
冒頭の画像は、エリエール大王製紙のベビー用紙おむつテープタイプ「グーン はじめての肌着 BIGサイズ 52枚」である(ここ参照)。

大王製紙 は、Wikipediaでは、紙・板紙の生産量は約245万トン(2009年[平成21年])であり、生産量基準で日本国内では日本製紙王子製紙王子板紙に次ぐ国内第4位の規模を持つ(※2ここ参照)。紙パルプ関連の連結売上高(その企業グループの売上高)を基準とすると世界で第20位、国内では王子製紙・日本製紙グループ本社丸紅レンゴーに次ぐ第5位(※3のここ参照)。洋紙では新聞用紙・印刷情報用紙・包装用紙・衛生用紙(※4も参照)、板紙では段ボール原紙などと、製品は多岐にわたる。このうち衛生用紙は生産量基準の国内市場占有率(シェア)が約15%で首位(『日経市場占有率』2011年版、日本経済新聞社、2010年)となる。・・・そうだ。
ティッシュペーパーやトイレットペーパーのほか、ベビー用紙おむつ、大人用紙おむつ、生理用品、ペット用品など幅広い家庭用生活用品(衛生用紙)のブランドとしての「エリエール」のことは、スーパーの店頭などでも良く商品を見かけるので知っていたが、それが大王製紙という会社の製品であることは知らなかった。
大王製紙は、「製紙工業企業整備要綱」(1942年9月4日付商工省通牒)に基づき、四国紙業など14の企業が合同して1943(昭和18)年に和紙の製造販売を目的として設立された。当初は和紙の製造・販売に従事していたが、戦後の1947(昭和22)年から洋紙の製造も開始したという。
残念ながら紙の業界のことなどについてはあまり良く知らない私が同社の名前を知ったのは、2011(平成23)年の大王製紙事件が、マスコミで大々的に報道されてからである。当時色々と企業のコーポレート・ガバナンスが問題にされたが、この企業の場合それ以前に上場企業には珍しい複雑な連結会社の状況、(グループの資本構造)にあったようだ(※5参照)。いずれにしても、同社にとっては、大きなマイナスイメージが広がってしまったよね~。ただ、そんなことは今回のテーマではないので本題に戻ることにしよう。

「あんたは若い人にしちゃ世話のかからない人だね。いつも家の中はきちんとしているし、よごれ物一つ溜ためてないね」
「そりゃそうさ。母親が早く亡くなっちゃったから、あかんぼのうちから襁褓(おむつ)を自分で洗濯して、自分で当てがった」

岡本かの子の 『老妓抄』(※6青空文庫参照)より柚木(ゆき)という青年と老妓の会話を引用したものである。
現在使われている「おむつ」は、「おしめ」とも呼ばれるが、排泄物(尿や便)を捕捉するため下腹部に着用する布や紙のことであり、特殊な使用例は別として、通常は、主として、赤ちゃん(乳幼児)や一部の高齢者障害者・入院患者など、排尿排便を自己の意思で制御できない者や、体の自由が利かないためにトイレに行くことが困難な者が使用する。また、普段はトイレで用を足せるが、失禁過敏性腸症候群夜尿症などを患っている人の対策としても使われる。
この「おむつ」の漢字は「襁褓」と難しい字を書くのだが、これは古来よりの言葉「むつき(襁褓)」の語頭に「お」を附けて、語尾を省略して作られた女房言葉だという説がある。
「襁褓」の漢字「襁」は「衣+強」で「丈夫な」「強く締める」の意味があり、音読みはキョウ(漢音)、訓読みは、おびひも(帯紐)、おう。意味は、おくるみ、子を背負うときの帯紐、子を背負う、という意味がある。〔説文解字・巻八〕には「兒を負ふ衣なり」とあり、子を背負うための帯紐のことをいうそうだ。
また、「褓」は、「衣+保」で、「包む衣」「くるむ衣」の意味があり、〔説文解字〕の本字は緥(糸+保)で、説文解字・巻十三に「小兒の衣なり」とあるから、赤子をくるむ衣、おむつ、かいまき、という意味があるようだ(※6参照)。

源氏物語』の作者とされる紫式部が書いた『紫式部日記』は、彼女が仕える藤原道長の娘で一条天皇の中宮彰子の出産が迫った寛弘5年(1008年)秋から始まるが、この『紫式部日記』を元に制作された絵巻物『紫式部日記絵巻』というものがある。
その中の、現在残っている旧森川家本第三段(現在:東京国立博物館蔵。重要文化財)に、敦成親王(後の後一条天皇)の五十日の祝儀(誕生50日の祝)の場面が絵詞(えことば)と共に描かれている。

上掲の画像がそれであり、寛弘5年11月1日(1008年12月1日)夜、親王の外祖父道長が五十日の餅を差し上げる場面であり、若宮(敦成親王)を抱くのは道長の北の方(鷹司殿 倫子)、手前は道長、後向きの女性が中宮(彰子)である。e国宝に画像と解説があり絵も拡大画像で見れる。ここクリック。
この絵の北の方が抱く若宮(敦成親王)が着ているものを見てどう思われますか。現在でいうおむつなどではなく細長い着物(産着)を来ていますね~。それにしてもずいぶんと丈が長い。平安時代の貴族の間で使われていた「産着細長(うぶぎのほそなが)」という装束だそうで、細長いので「細長の袍(ほう)」と呼ばれる長い衣の下に、白い単衣を重ねたものだそうだ。世の中には、色々と調べている人がいて、当時の産着を調べている人もいる。以下参考※8:「やえむぐら草子」のホームページを見るとよい。そこでは実際にその衣類を作って実験している写真も掲載されている。
このように「むつき(襁褓)」は、当時の貴族社会などでは乳幼児の産着を指していたようであるが、「むつき」は、「大」「小」の2つの部分に分かれており、「大きいむつき」で赤子の体全体をくるみ、「小さいむつき」を股間にあてて利用していたようだが、やがて赤子の身体全をむつきで覆う習慣がなくなり、股間を覆う布だけが排泄を処理する目的で残り、その股間にあてる布のことを、「お湿し」とも呼ぶようになった。そして、この「お湿し」の女房言葉が、「お湿(おしめ)」であり、その後「おしめ」と混同されて使われるようになったようだ。現在でも「襁褓」と書いて、「むつき」「おむつ」「おしめ」などと読んでいる。「むつき」の語源は他にも、「身(む)」助詞「つ」「着(き)」とする説や、1(段とも書く)の晒(さらし)から6枚分のおしめが取れることから「お六(おむつ)」と呼ぶようになったとする説などもあるが確かなことは不詳なようである。
貴族などとは違って、一般の平民にとっては大人になっても衣服すら足りていない状態で、乳幼児の排泄物処理に布きれをつかうようになったのは、江戸時代からだといわれるが、それまではなにも着用はしていなかったのだろう。洩らせば、汚れたところをふくぐらいのことであったろうと推察する。
江戸時代になって、赤ちゃんには小便布団という一尺(約303.030 mm)四方の布団を敷いてもちいたようだという話を聞いたことがある。布団と言っても布きれであったかもしれない。 この時に排泄物を受けるための布から、現在の布おむつに発展したとすれば、私など庶民の間では、このような排泄物で濡れ、湿った布を「おしめ」と呼ぶようになったという方が本当かもしれないという気がする。
ただこれも、豊かになった江戸時代も末期ぐらいから、それも、経済的に恵まれた階層で使われ始めたのではないだろうか。なんといっても、江戸時代は、まだまだ「布」はとても貴重な品であった。おむつには、使い古された衣類や浴衣などをほどいて作っていたようだ。特に浴衣は吸汗性に優れた素材でできているため、使い古された浴衣の生地は赤ちゃんのおむつとして最適だっただろう。
そして、一般的な家庭でも布おむつが使われるようになってきたのは明治末から大正時代になってからだと聞いている。当時は使い捨ての紙をおむつとして利用するより、洗って何度でも使える布おむつの方がずっと経済的であった。実際、昭和になっても戦後しばらくまでは、各家庭で綿の古着やさらし綿で作られた輪形・長方形の布おむつが主に利用され、小さな子供多くがいる家庭の庭では沢山の布おむつが干されている・・・、というのが定番の光景だった。1958(昭和33)年〜1959(昭和34)年頃 乳幼児の布おむつレンタル事業が開始されたという(※9参照)。

今では、主流となっているのが「紙おむつ」。世界で最初の紙おむつは、1940年代の半ばにスウェーデンで誕生した。当時、ドイツによる経済封鎖を受けていたスウェーデンでは、綿が不足し、赤ちゃんの布おむつが間に合わない状況に陥っていた。そんな中で、貴重な綿布ではなく紙を使った紙おむつが開発された。
初の紙おむつは、何枚も重ねたティッシュペーパーのような紙を、伸縮性のあるメリヤスの袋でくるんだ簡易なもの。必要に迫られて登場した紙おむつであったが、布おむつに比べ吸水性で遜色がなく、洗う手間と干す手間がかからない便利さから多くの人に受け入れられた。
日本では昭和20年代後半に初めて紙おむつが発売された。しかしこれは紙綿を重ね布で包んだだけの物で、おむつカバーがなければ使用できなかった。そのため、紙おむつは外出時や、雨で洗濯できない時などに限って使用される程度であったようだ。
1962(昭和37)年、紙おむつより一足早く乳幼児用ライナーが発売された。当時は電機洗濯機が普及しつつある時期であったが、おむつは下洗いをして便を取り除いてから洗濯機に入れるという手間が必要であった。そこで重宝だったのが布おむつの内側に敷く紙綿製のライナー(ここ参照)だった。当時は、まだ、ほとんどの家庭が汲み取り式便所だったからトイレに汚物も捨てやすかったのだろう。その後も紙おむの改良はされていったたが、高価なことや使い捨ての習慣がない時代だったせいもあり、広く普及することはなかった。
日本で紙おむつが普及し始めたのは昭和50年代からである。1977(昭和52)にアメリカから乳幼児用のテープ型紙おむつ「パンパース」(P&G社 )が輸入され、福岡県・佐賀県でテスト販売がはじまった。立体裁断された紙おむつは、腰の部分2ヵ所をテープで止めるだけで、おむつカバーとおむつの両方を兼ねてしまう、テープ型という新しい形で,最大の特長はおむつカバーがいらないことであった。
おむつの洗濯という重労働から世界の母親を解放した革命的商品は、日本でも大ヒット。特に、病院(産院)ではこぞってパンパースを導入。一時は9割以上の寡占的なシェアを占めていた。
日本でも1981(昭和 56 )年に、ユニ・チャーム㈱が初めて純国産の.テープ型紙おむつ「 ムーニー」を発売。それ以降乳幼児用.紙おむつ市場には多くのメーカーが参入し、本格的な普及がはじまった。
国民生活白書(※10参照)を見てもわかるように、同じ頃、働く女性の数が急上昇していた。1970年代半ば以降の労働力率(ここ参照)は,男性が引き続き低下する一方で女性は上昇に転じた。その特徴として,女性が労働力としてとどまる期間が長期化したことに加え,男性の賃金が従来ほど伸びない中で,短時間の雇用者,いわゆるパートタイマーを中心とする既婚女性の雇用者が増加したことである。女性の雇用者に占める短時間雇用者の割合は1970(昭和45)年には12.2%であったのが,1985(昭和50)年には,22.0%となり,その後も上昇している。
そこには、経済成長率が低下して賃金が従来ほど上昇しなくなったなかで,子供の教育の重要性に対する認識や住生活の向上への欲求が高まり,そのための費用を女性が働いて賄おうとするようになったことがある。サラリーマン世帯の収入に占める妻の収入の割合を見ると、,平均で1970(昭和45)年の4.5%から1985年には8.0%に上昇している。
また,電子レンジや全自動洗濯機などの新たな家庭電化製品の普及と共に、紙おむつやベビーフードなどの普及,外食産業や惣菜産業などの発達による食事づくりの簡便化などにより,家事の負担が一層軽減されて,働くための時間的な余裕も生まれたことも小さくないようだ。
それに1975年の国際婦人年とそれに続く国連婦人の10年を経て世界的にもフェミニズムが広がり,女性が働くことに対する社会の風潮も変化した。また,女性の高学歴化の進展などを背景に社会において自己実現を求める女性が増え,ていったことなどもある。
そのようなことが相まって、日本で紙おむつの消費量が急激に増えたのは、1980年代半ばのようだ。ちょうどその頃、高分子吸収体を使った紙おむつが登場した。それまでの紙おむつよりも吸水性が格段にアップし、取り替える頻度も減った。
1990年代に入るとそれまでのテープ方式やフラット型に、新しくパンツ型が登場した。下着のパンツのように一体成形した形で、立ったままはかせることができ、テープ型のようにかさばらないのが特長である。そのほかにもパンツ型の紙おむつは、おむつ離れの時期を迎えた幼児用のおむつ離れを促すものや、排尿告知ができるようになった幼児が、おねしょ防止のため寝るときだけに使用するものなど、異なる目的の製品も作られている。
ライナーやフラット型からスタートしたわが国の乳幼児用は、今日に至ってテープ型にパンツ型を加え、使用する乳幼児の成長過程、それぞれのニーズに合わせて、最適のものが選択できるようになった。そして、1985(昭和60)年頃から急速に普及した乳幼児用紙おむつへの転換率は現在では90%以上いや99%近くに達しているとも聞く。※11:「日本衛生材料工業連合会」の以下の紙おむつ・ライナー生産統計参照。
紙おむつ・ライナー生産統計(年度別推移)

一方で大人用は高齢化社会により需要が急増し、2000年頃からドラッグストアなど販売店での大人用紙おむつ・吸収パッド・吸収パンツの売り場スペースが拡大される傾向にあり、数年以内に大人用紙おむつの生産量が乳幼児用の生産量を追い越すかもしれないといわれている。
「紙おむつ」といえば赤ちゃん用」・・と思っていたが、そんな常識が近年覆りつつあるようだ。少子高齢化の状況は、以下参考の※12:「総務省統計局人口推計の結果概要」のV.長期時系列データを参照。
「紙おむつ」の種類は大きく分けて、乳幼児用は主にテープ止めタイプとパンツタイプが使用されるが大人用は、テープ止めタイプ、パンツタイプ、フラットタイプ、パッドタイプと4つあり、すべての種類が使用されている。
この大人用紙おむつのタイプ別の生産枚数は、パンツタイプ紙おむつ(テープで腰部分を止めるテープ型と、下着のようにはくパンツ型が含まれる)が着実な伸びを見せている。また、それと併用して使用するパッド類は、交換の手軽さや、1枚あたりのコストが安いことなどから、急速に普及し、1997年から2008年の10年間で約3倍になっている。これらに対し、おむつカバーと併用するフラットタイプ紙おむつは横ばいである。 データーは先に乳幼児用で示した紙おむつ・ライナー生産統計(年度別推移)を見てください。
因みに、日本衛生材料工業連合会(※11)の調べによる直近のデーター、紙おむつの2014年度の生産数量を2013年対比でみると以下のようになっている。
2014( 平成26)年の乳児用紙おむつの生産量(枚数ベース)はテープ型60億96,134千枚(昨年51億38,587千枚)で前年比119%の伸び、パンツ型は、59億30,274千枚(昨年55億81,992千枚)で前年比106%の伸び、合計120億26,4085千枚(昨年107億20,579千枚)で前年比112%と上向きである。
大人用の生産量はパンツ型(テープ型+パンツ型の計)で14億05,804 千枚(昨年13億44,015 千枚)で105%の伸び(テープ型101%、パンツ型106%)、フラット型は1億69,933 千枚(昨年2億00,882 千枚)で85%と減少しているが、パッド型は、(尿とりパッド+軽失禁ライナー+軽失禁パッドの計)52億18,245千枚(昨年49億45,326千枚)で計106%の伸び(尿とりパッド102%、軽失禁ライナー、軽失禁パッド114%)で、総合計では67億93,982千枚で 105%の伸びとなっている。データーは以下参照。
2013(平成25)年:2014( 平成26)年紙おむつ・ライナー生産数量(日衛連調べ)
乳幼児用は、少子化で国内の需要が減退している中、この伸びは海外輸出が旺盛なようである。2001年から2011年の紙おむつの輸出状況は以下参考の※13:「紙おむつの輸出」についてを参照。
中国における衛生用品(生理処理用品、乳幼児用紙おむつ、大人用紙おむつ)市場については、2013(平成25)年の販売総額594.5億(5月 24日為替レート1元=19.61円)であり、成長率で前年比12.7%増と伸び続けている。その内訳は生理処理用品が前年比13.5%増の324億元、乳幼児用紙おむつが前年比9.3%増の240.4億元、大人用紙おむつが前年比36.2%増の30.1億元。
市場がスタートしたばかりの大人用紙おむつの成長率が特に高い結果に。また2013(平成25)年の市場浸透率は生理処理用品が91.1%、乳幼児用紙おむつが47%となっている生理処理用品、乳幼児用紙おむつは共に高級品への需要が増加。薄くて軽く表面材をよりソフトにした肌触りのよいものに人気が集まっている。
一方、大人用紙おむつは基本的な機能が備わっていればよいとの考え方が主流で価格に対して敏感だといえるそうだ。生理処理用品に対して、これからまだまだ伸びてゆくだろう紙おむつ市場。人口の多い中国は日本にとって重要な輸出国である(※11:「日本衛生材料工業連合会」の日衛連news No.79「第二回『中日衛生用品企業交流会』参照)。
また、以下※14:「産業ニュース:マーケットウィークリー・783号(2014.6.13)」には以下のように書かれている。
紙おむつ市場の中長期的な成長余地は高い。経験則では乳幼児用紙おむつは、1人当たりの年間GDPが3,000ドルを超えると浸透し始め、4,000ドルを超えると普及率が加速する。中国やタイに続いて、2億人超の人口を抱えるインドネシアが12年に3,000ドルを超えた。インドネシアは普及初期段階で使用頻度にも大きな差がある。日本では1日5枚以上使用するのに対し、インドネシアは約0.3枚。外出時のみに使用するため、日本に比べ少ない。ただし外出時以外にも使用する段階に入りつつあるため、頻度が高まるだろう。
日本の紙おむつメーカーのグローバル(世界的な)シェアは10%以下と決して高くないが、ポテンシャル(潜在的な能力、可能性として持つ力)の高いアジア地域のシェアが高い。中国やインドネシアに続いてフィリピンやインド、ミャンマーなどの需要が伸びそうだという。長期的にはアフリカ市場の参入も見込め、見通しは明るい。
大人用は1人当たりのGDPが1万ドルを超えてから普及期に入ると言われている。先進国でも成長の見込める分野である。
紙おむつは参入壁が高く、寡占化している製品である。背景には多額の初期投資や原材料の調達力、ブランド認知度を向上させるために多額の広告宣伝費が必要だからである。国内の乳幼児用紙おむつのシェア1位がユニ・チャーム(マミー・ポコ)、2位が花王(メリーズ やリリーフ)、3位が米国・P&G(パンパース)、4位が大王製紙(グーン)、5位が王子製紙(ネピア)。この5社で90%超のシェアを占めている。大人用紙おむつ1位がユニ・チャーム、2位が大王製紙、3位が花王。3社で70%強。成長市場である大人用紙おむつでは価格競争はほとんどないが、乳幼児用紙おむつはP&Gがシェアアップを狙い、単価は一時的に下落。足元ではほぼ横ばいしているようだ。一方でグローバルベースの乳幼児用紙おむつのシェアは1位がP&G、2位が米国・キンバリー・クラーク(乳幼児紙おむつブランド「HUGGIES(ハギーズ)」で知られる)、3位がユニ・チャーム。ただ3位にランクインしているがユニ・チャームのシェアは8.6%で、1位と2位グループとは大きな差がある。しかしタイやインドネシアではトップシェアでアジア地域のシェアは27.2%と存在感は高い。北米や南米市場についてはP&Gなどの米国メーカーの認知度やシェアが高いため、日本メーカーの参入は難しいが、P&Gがやや出遅れている大人用紙おむつでは可能性があろう。・・・と。P&Gは、日本でも。P&G・ジャパンを展開している。
いま世界的に日本の商品の品質が評価されている。衛生用品などは特に評価されるだろうから、この産業の成長は期待できる。日本のメーカーに頑張って欲しいものだ。
ただ、その一方で、紙おむつは、資源の問題やごみ問題が指摘されている。使用済みの紙おむつは、衛生上の問題があるため、燃えるゴミとして焼却処分している。そのため、繰り返し洗って使う布おむつに比べてごみを増やすことになる。また、使い捨てのおむつは資源を多く使用するという問題もある。 そこで、各紙おむつメーカーでは、製品の薄型化や軽量化を進め、原料には安全規格に合格した,古紙を使用するなどの対策も行っているようだ。
今や「人生90年の時代」と言われている。誰もが何時介護人の世話にならなくなるかもしれないが、中でも人の世話にだけはなりたくないのが下の世話だろう。人には尊厳がある、しかし、排泄は待ったなしに訪れる現象。自分で処理できるなら自分でしたい。世話になるなら介護人には極力いやな目をさせたり、負担をかけたくない。誰も同じ気持ちだろう。だから、おむつが本人にも家族など周りの人にも「安心」を与え、「明るく前向きな毎日をもたらしてくれるもの」として、さらに進化した安くて扱いやすく快適ななものへと改良していって欲しいものだ・・・・。
このことについては今日は触れない。以下産参考の「※15:乳幼児のおむつ使用の実態と今日的課題」など参照されるとよい。
冒頭の画像はある食品スーパーの幼児用紙おむつ売り場。
参考:
※1:日本記念日協会
http://www.kinenbi.gr.jp/
※2:紙の知識とデーター集
http://www.kamipa.co.jp/info/
※3:、日本製紙連合会
http://www.jpa.gr.jp/
※4:衛生用紙等について - MiLCA User Forum
http://milca-milca.net/forum/viewtopic.php?t=114
※5:大王製紙事件と日本企業の問題点 - みんかぶマガジン
http://money.minkabu.jp/30156
※6:青空文庫-作家別作品リスト:No.76岡本かの子
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person76.html#sakuhin_list_1
※7:ニコニコ大百科「」
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A5%81
※8:やえむぐら草子
http://homepage3.nifty.com/yaemugura/index.html
※9:布おむつの歴史
https://www.kobe-baby.co.jp/3-2_nunoomutsu_02.html
※10:平成9年 国民生活白書 働く女性 新しい社会システムを求めて 第I部 女性が働く社会
http://www5.cao.go.jp/seikatsu/whitepaper/h9/wp-pl97-01102.html
※11:日本衛生材料工業連合会(JHPIA)
http://www.jhpia.or.jp/index.html
※12:総務省統計局人口推計の結果
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/2.htm
※13:「紙おむつの輸出」について - 税関(Adobe PDF)
http://www.customs.go.jp/kobe/boueki/topix/h23/omutsu.pdf#search='%E7%B5%B1%E8%A8%88+%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E7%B4%99%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%A4+%E8%BC%B8%E5%87%BA'
※14:産業ニュース:マーケットウィークリー・783号(2014.6.13)
https://www.chibagin-sec.co.jp/pdf/analyst/783sangyo.pdf#search='%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%A4+%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%BC%E5%88%A5+%E5%9B%BD%E5%86%85%E5%8D%A0%E6%9C%89%E7%8E%87'
※15:乳幼児のおむつ使用の実態と今日的課題 - 佐賀大学機関リポジトリ(Adobe PDF)
http://portal.dl.saga-u.ac.jp/bitstream/123456789/118152/1/takeshita_201101.pdf#search='%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%A4+%E7%B5%B1%E8%A8%88'
おむつ – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%82%80%E3%81%A4