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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

選挙

2010-07-12 | ひとりごと
2010(平成22)年7月11日、政権交代後初の大形国政選挙となる第22回参議院議員通常選挙の投票が行なわれ、その結果が開票された。
民主党は改選54議席を大きく下回って44議席にとどまり、国民新党も含めた与党の議席数は過半数を割り込んだ。一方、昨年野党に転落した自民党は予想を上回り51議席を確保し改選議席で第1党になった。これで、国会は、衆参各院で多数派となる完全な「ねじれ」状態になった。前自・公政権時の「ねじれ」とは異なり、今の民・国連立政権は衆議院での2/3以上の議席数を確保していないため、今後の政局は前自・公連立政権時代の「ねじれ」以上の大混乱が予測される。いや、「ねじれ」だけでは収まらず、政界再編の波が押し寄せてくるやもしれない・・・。
昨・2009(平成21)年8月30日の第45回衆議院議員総選挙では、子ども手当高速道路の無料化などを政権公約に掲げて戦い、選挙前の予想を大幅に上回る308議席を獲得し衆議院第一党となった民主党。その民主党を中心とする鳩山由紀夫内閣は当初、70%を超す国民の高い支持率を得てスタートし、発足直後からCO2削減目標の引き上げ、自衛隊インド洋派遣の撤退、公共事業の見直しなどの政策(鳩山由紀夫内閣の政策を参照)を積極的に推し進めたが、首相自身や小沢氏(当時幹事長)の政治資金に関する問題もあり、国会は混乱、8ヵ月間で支持率は20%以下に低下。普天間基地移設問題では自民党政権時代の日米合意をくつがえし基地の県外移設を追い求めたが実現できず、ほぼ自民党の原案に近い状態で米側と決着、そのことに当然のことながら沖縄県民は猛反発している。この首相の迷走と対応のまずさは、社会民主党の連立離脱を招き、鳩山政権の支持率も急速に低下、迫る参議院選を前に人気回復のため、沖縄問題と自らの政治資金問題などの責任をとる形で、強引に小沢幹事長をも道連れにする形で首相の座をおり、2010年6月4日に鳩山内閣総辞職。後任には副首相の菅直人氏が、民主党新代表に指名され、6月8日に菅内閣が発足した。
野党となった自由民主党総裁の谷垣禎一氏からは、衆議院本会議で(著書に書いたことと異なり、与党内での政権たらい回しであり)「言行不一致である」との追及を受けていた。
それは、鳩山政権時代の副総理・国家戦略担当大臣であった当時の彼の著書『大臣 増補版』(岩波新書)の中で「政策的に行き詰ったり、スキャンダルによって総理が内閣総辞職を決めた場合は、与党内で政権のたらいまわしをするのではなく、与党は次の総理候補を決めたうえで衆議院を解散し、野党も総理候補を明確にしたうえで総選挙に挑むべきだろう」・・・と述べていることを言っているのだ。自民党自体がやって来たことを民主党がやったからと言って、「よく言うわ・・・」といった感じではあるが、そのことをさんざん野党時代に非難していたものが、政権交代をし、自らの本でまで非難をするなど、大変立派なことを仰っている以上、菅氏が本当に心底そう思っておられたのであるなら政権移譲時に、何故鳩山氏に解散・総選挙を実施するよう進言しなかったのか・・・と、私も思っている。最も、自民党がしたと同じように、反小沢勢力(以下参考の※1、※2、※3など参照)に担がれて、当然、菅氏が選ばれることが分かっていての形式的な、急な民主党代表選は演じられているが・・・。この菅氏を担いだ半小沢勢力と言われる人達も、本気で菅氏を総裁になる人物、適任者であるからと本気で思って担いでいるとは到底思えず、残り僅か、9月の民主党代表選まで菅氏を担ぎ、その間に自分の名前を売っておき、代表選には総裁候補として争おうと計算づくでやっている人達の心の中は、見え見え・・・だ。
鳩山氏が、小沢氏を道連れにしてまで、菅氏に政権を移譲したのは、あくまでも、この参議院選にどうしても勝ちたいが為であり、鳩山氏・いや小沢氏にとっても、いわば、菅内閣は選挙管理内閣的なものと考えていたはずだ。それを、どう勘違いしたのか、切れ菅からズル菅に変身した彼は、サミットへの参加もあって、急に自分が偉くなったと勘違いしているようだ。
私の記憶では、彼はかっての自民党政権時代に「かいわれ」を食べた大臣ぐらいの存在であり、鳩山政権になってからは、鳩山氏が沖縄問題で苦労しているときには、副首相でありながら、私は何も関係が有りませんといった感じで傍観し、世界の中でも日本だけは、デフレ経済が進行し、円高に株安と深刻な経済状況の中にあるにもかかわらず、財務大臣になってからも、なんの有効な手立てもせず、副首相として、ポスト鳩山の地位を狙い、ただただ失敗をしないことだけを心がけ、官僚は馬鹿だとし公言ていた経済用語もわからない経済音痴は、官僚の力を借りないと何も出来ずに、官僚を使いこなすどころか、官僚は優秀だと褒め称え彼らに利用されながら、虎視眈々と次期首相の座を狙っていた。そして、首相になると、かっての自民党政権と同じような強引な手法で予算を決めるなどの国会運営を行い、選挙にはいるや、選挙前に十分な審議もしないままに唐突な「消費税10%」発言を行いこれを争点化し、それに対する批判が行なわれると、その言い訳にやっきとなっていた。
二人区に2人の民主党候補者が立てたことに対しての小沢批判も有るが、小沢は本気で参議院選に勝ちに行っていた。どんなに立派なことを述べようと、政治の世界、数がなければ何も出来ない。民主党が本当に自分達の理想とする政治を行なおうとすれば、良くても悪くても数を制しない限りは実行できない。小沢はそれを一番良く知っている。
無党派層が民主党離れをした。それが、2人区の組織票を持たない無党派の民主党立候補者が敗れた原因であるが、その原因を作った最大の要因は菅氏の突然の消費税10%論とそれに反発した人達への言い訳や弁解の迷走振りと強引な国会運営である。それが証拠に、鳩山から菅への政権移譲で支持率は相当回復していたのだから・・・。
12日朝日新聞朝刊にも書いてあったが、このような中での選挙でいざ投票となると、誰に投票したら少しは政治がましになるのかと、国民にとって選ぶのにこれほど難しい選挙はなかっただろう。
前回選挙の衆議院選挙で、選挙民の一票が政治を変え、政権交代まで実現することを知ったのだから・・・。その結果が、民主党とズル菅が独走しないようにとブレーキをかけた。
消費税論議をすることが悪いわけではない。もうぼちぼち、方法論は別として消費税率アップなどの増税のこと考えなくてはいけない時期に日本が来ていることぐらいは、日本国民の多くは承知している。しかし、何故10%なのか、消費税論議をする前に、民主党はどれだけ政治や行政改革に取り組み実行したのか・・・。
自動仕分けなど評価の出来ることもあるもののこれといった大きな改革には手をつけていない。子供手当の問題にしても、選挙目当てのバラマキのように、お金がありすぎて困っている鳩山家の孫にまで子供手当を支給するほど日本の財政が豊かではないとを、国民の多くは知っており、増税をしてまでこのような手当を望んではいなかった。本当に困っている人には支給すればよいし、少しでも子供が生み易い環境を作るには、子供手当意外に幾らでも方法論があることを指摘していた。しかし、自分たちが昨年の選挙で約束した「マニフェストを守る」と言う大義名分を建前に、選挙に勝つために役立ちそうなバラマキだけを実行して、選挙のどさくさ紛れに、消費税アップを狙うなどのやり方は、国民を馬鹿にするにも程がある。
去年の選挙で、野党であったが故に財政状況などがわからずに実施が困難となったものについては、そのことを国民に素直に詫びれば良いことである。自分たちの面子を守るだけの為に、膨大な額の税金を使われたのではたまらない。
私も、去年は、民主党に期待したからこそ、1票を入れさせてもらった。しかし、金のありすぎて世間のことも何も分からない人や、経済のことは何も判らず口先だけは達者でただ要領が良いだけの人や、物覚えが良くて東大を出たものの、世間のことはさっぱりの理屈人間ばかりが、選挙に勝ち与党になると、自民党以上の独善的な手法で政治をしようとするなど、勝手なことを黙ってさせるわけにはゆかない。
今、世界の中でも例のないデフレから脱却できずにもがいている日本は経済の活性化なしに、失業問題も福祉も何もあったものではない。次の衆議院選挙まで、3年以上ある。今の小ざかしいだけの人達に好きなように政治を任せ迷走を繰り返していると、日本は本当に沈没しかねないと心配している。もっとリーダーシップのあるものが党を率いるべきである。
(画像は、7月12日記者会見する菅首相、朝日新聞掲載写真をちょっとかいわれでお飾り)、
参考:
※1:民主党内『小沢vs反小沢』勢力図予測:2010参院選候補者編
http://blog.trend-review.net/blog/2010/07/001685.html
※2:なぜここに来て大手マスコミと民主党内反小沢勢力が「小沢幹事長辞任」要求の世論誘導に踏み切ったのか?』
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=228733
※3:「あの人が煽動」小沢側近が“黄門様”渡部氏を痛烈批判
http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100219/plt1002191209000-n2.htm
"策士"菅直人が「9月再選後」に狙う「消費税10%増税」選挙
http://ameblo.jp/asuma-ken/entry-10569119109.html
討論×闘論 " 記事アーカイブ " 「疑似政権交代」か「たらい回し」か
http://blogs.jp.reuters.com/blog/2010/06/02/%E3%80%8C%E7%96%91%E4%BC%BC%E6%94%BF%E6%A8%A9%E4%BA%A4%E4%BB%A3%E3%80%8D%E3%81%8B%E3%80%8C%E3%81%9F%E3%82%89%E3%81%84%E5%9B%9E%E3%81%97%E3%80%8D%E3%81%8B/
第22回参議院議員通常選挙 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC22%E5%9B%9E%E5%8F%82%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E9%80%9A%E5%B8%B8%E9%81%B8%E6%8C%99

由美かおる水戸黄門降板

2010-06-28 | ひとりごと
TBS系の時代劇「水戸黄門」に忍者役でレギュラー出演していた俳優の由美かおるさん(59歳)が、2010(平成22)年6月28日放送の第41部最終話(12話)への出演を最後に降板することになった。
水戸黄門の名は、水戸藩主・徳川光圀が、徳川御三家の一統である水戸藩の藩主であり、武家官位として権中納言を名乗っていたことから、「徳川光圀」と直言することを避けるために、藩名である「水戸」と、中納言の唐名である「黄門」をとって広く用いられていた別称である。実在の水戸藩主・光圀は、国史編纂(『大日本史』)のために史局員の儒学者らを日本各地へ派遣して史料蒐集を行っているが、光圀自身は世子時代の鎌倉遊歴と藩主時代の江戸と国元の往復や領内巡検をしている程度で、漫遊したという史実はないが、光圀は、同時代から名君と評され、庶民にもその知名度が高かったようで、光圀の伝記資料として残り、それらの伝記資料が黄門様の物語を生み出すことになり、そのような中から、彼が世直しのために日本各地を漫遊したという物語として発展していった。
「水戸黄門」の物語は、かっては、「水戸黄門漫遊記」とも呼ばれ、古くから講談・歌舞伎・演劇・小説で取り上げられ、それが映画・テレビドラマ化されてきた。日本でも映画製作が始まると時代劇映画の定番として尾上松之助をはじめとして数々のスターたちによって演じられてきたが、中でも、東映映画の月形龍之介主演によるシリーズ物が興行的に大成功。水戸黄門と言えば、月形龍之介の名が出てくるほどに彼の黄門様役が有名になった。時代劇大好き人間の私など新作映画の封切りを待ちかねて見に行ったものだ。
テレビ時代になると、TBSがやはり月形を主演にブラザー劇場にてテレビドラマ化し、さらに月形と同様に悪役が多かった東野英治郎を主演に起用したナショナル劇場(現・パナソニック ドラマシアター)シリーズ『水戸黄門』が、1969(昭和44)年8月4日から放送を開始した。
同シリーズの水戸黄門役は、初代・東野英治郎が1969年8月4日-1983年4月11日の間に第1部-13部、381回を演じた。月形の水戸黄門があまりにもはまり役であり、イメージが強かったので、東野の黄門様に最初は違和感を覚えたが、流石にベテラン俳優であり、その役を自分のものにしていった。
その後、2代目、西村晃(14部-21部。1983年10月31日-1992年11月9日、 283回)、3代目 ・佐野浅夫(22部-28部。1993年5月17日-2000年11月20日 246回)、4代目・石坂浩二(29部-30部。2001年4月2日-2002年7月1日 50回) 、そして、5代目・里見浩太朗(31部-40部。2002年10月14日- 212回(2009年12月21日)と続いてきた当シリーズは実に40年に及ぶ長寿番組であった。そして、里見の41部(全12話)が4月12日から始まり、その最終回(第12話)が6月28日の今日終了したわけだ。
時代劇映画が大好きな私は、月形主演の映画・テレビは勿論、ナショナル劇場のシリーズ物も最初から、特別なことがない限り殆ど見てきた。
水戸黄門のストーリーは、水戸黄門が家臣の佐々木助三郎(助さん)、渥美格之進(格さん)らとともに諸国漫遊の旅先で世直しをする。後半、助さん格さんが悪党どもをやっつけた後、ころあいを見計らって「静まれ、静まれぃ! この紋所が目に入らぬか!」と葵の御紋の印籠を掲げて「こちらに居わす御方をどなたと心得る! 畏れ多くも前(さき)の副将軍・水戸光圀公にあらせられるぞ! 一同、御老公の御前である、頭が高い! 控え居ろう!」と一喝、悪人一味が土下座して平伏するという決まりきった「勧善懲悪」もののワンパターン物語。それに、ナショナル劇場のシリーズでは、元義賊である伊賀忍者風車の弥七が旅に出る一行に付かず離れず行動し、後方支援をするようになり、由美かおる演じる女忍者も加わるようになった。ワンパターンなドラマが、この2人の役どころが加わって、それなりの見せ場を作り、人気を維持してきたと言えるだろう。
由美かおるが、レギュラーとして女忍者(くノ一)の「かげろうお銀」とし初登場したのは2代目西村黄門による1986(昭和61)年のシリーズ第16部(1986年4月28日 - 1987年1月19日)で、“初入浴”はその第1話だった。その色っぽい入浴シーンが人気を呼び番組名物として恒例化した。
しかし、これより以前に、東野と由美が入浴シーンで共演するシーンがあった。それは、第6部第2話(1975年4月7日放映)であるが、この時点での由美は町娘役での出演でレギュラーではなかったが、事実上は、これが、本作での由美の入浴シーン初登場である。由美、まだ、24歳初々しいね~。以下で見られる。
YouTube - 水戸黄門 入浴 第6部第2回 由美かおる
http://www.youtube.com/watch?v=cjqWE22KHdU&feature=related
初代東野の後、2代目西村、3代目佐野とそれなりに個性を生かした黄門役を演じお茶の間を沸かせてきたが、この『水戸黄門』も佐野の28部が終わった2000(平成12)年11月20日時点で既に、31年間、910回も放送されている。この従来型のイメージの出来上がった『水戸黄門』に親味を加えたかったのであろう、21世紀を迎えての2001年4月2日からの29部では、レギュラーが刷新され、4代目黄門役も今まで演じてきた役者のタイプとは違った現代的・インテリの石坂浩二を選び、史実にのっとりながら、水戸光圀の人物像に迫ろうと図った。黄門役に石坂が登用されたことに伴い助さん格さん他キャストがほぼ総入れ替えとなったが、唯一由美かおるだけは役名を「疾風のお絹」(かげろうお銀参照)と変更して残った。お娟は伊賀忍でなく風魔一門の山賊に育てられた女風魔の頭領で、くノ一3名を配下とする。第29部ではお銀のイメージを払拭するためか男物の忍装束を身に付ける事や普段から男言葉を使っており、お銀のようにくの一として、色仕掛けを用いた諜報活動をすることも稀であったが、視聴者の評判が芳しくなかったためか第30部ではお銀に近い忍装束に戻り、入浴シーンを始めとする色仕掛けを用いた諜報活動の機会も再び増加した。黄門さんもトレードマークの白髭がなくなっていたが、これも、違和感があるとして論争が起こったようであり、最終回の終盤シーンからは髭をつけるようになった。
兎に角、典型的な娯楽番組として、多くの人達に焼きついているイメージの『水戸黄門』を、歴史的文学作品のように、変に史実に近い形でドラマを作ろうとしたこと事態に無理があったのではないか。娯楽作品なら娯楽作品らしく変に難しくしない方が良いだろう。非常に中途半端な作品で、面白くなく、私も途中からは見なくなってしまった。
2002(平成14)年10月14日からの第31部では、又、由美かおるの「疾風のお絹」以外のキャストを一新し、今度は時代劇の大物俳優・里見浩太朗が黄門役を演じ現在に至っている。しかし、今度は、お供の助さん格さんが如何にも貧相。第38部(2007年放映)以降では、お銀の頃には余り見られなかった他のゲスト出演者と共に入浴するシーンも増えており、これまでに磯山さやか山口あゆみ安達祐実らがお娟と共に入浴している。以下が、その安達との入浴シーンである。
YouTube - 入浴(由美かおる・安達祐実)
http://www.youtube.com/watch?v=tSmwj65kZm4
前作の第40部第14話(2009年11月9日放映)で由美は、レギュラー出演700回と同時に入浴シーン200回を数えた。
今年の第41回放送が開始される前の4月5日、TBSで記者会見をした由美さんは第41部への出演を最後に降板をすることを発表後、「人生たった1回きり。違うこともやってみたい」と笑顔で語っていたが、1つのドラマシリーズで、同一人物が入浴シーンを200回以上演じることは極めて異例である。石坂黄門様以降以降、時代劇好きの私も最近のテレビ時代劇は、俳優らしい俳優も少なく、何か学校の学芸会を見ているようなものが多いので、見ることは少なくなった。由美の入浴シーンが、あるとかないとかではなく正直、第41部にはいってからは、全く見ていないが、第41部(全12話)の最終話となる今日の番組だけは見ておこうと思っている。
今年11月に還暦を迎えるという彼女が、スリーサイズ86-58-86センチの抜群のプロポーションを、15歳のデビュー当時からほぼ変わらず維持してきて、お色気たっぷりの入浴シーンで、お茶の間の男性視聴者を四半世紀も楽しませてきたというのは驚くべきことであるが、幾ら、若々しさを保っているとはいっても、由美自身、若い頃の自分と今の自分では、肌の色艶など衰えを感じていないわけではないであろうし、そんな自分が番組の人気維持のために、何時までも若い女性と一緒に混浴したりしながら入浴シーンを撮り続けることには耐え切れなくなっていたであろうと同情している。
2008(平成20)年10月13日から始まった第39部第2話(10月20日放送)の『水戸黄門』の平均視聴率が9,7%(関東地区)と、1969(昭和44)年のスタート以来、初の1ケタになったことがビデオリサーチの調べで分かったと以前に報じられていた。今までの『水戸黄門』は2クール(24話)以上が当たり前であったが、41部は1クール(12話)のみで終わった。これも時代の流れであり視聴率などの影響もあってのことだろう。秋から始まる第42部は当初、代役は置かない予定だったそうだが、グラビアから女優業へシフトした雛形あきこが風車の弥七の知り合いの女の娘であるという設定の「楓」役でレギュラー出演することが決定しているらしい。彼女が由美と同じように入浴シーンを撮るのかどうかは知らないが、もうマンネリ化したこのドラマを彼女の入浴シーンなど見たさにテレビを見るほど、私は彼女のファンでもないし、もうそんな年でもない(^0^)。好きにやって・・といった感じ。
私自身は、中学生の時から「西野バレエ団」に入団し、本格的なダンスを修得し、以後、抜群のプロポーションと愛らしい風貌で人気を集め、1967(昭和42)年、音楽番組『レ・ガールズ』(日本テレビ)で、金井克子奈美悦子らと共演し、ミニスカート姿で歌って踊るシーンで話題を呼んだ頃からの由美ファンであった。だから、彼女が何時までも入浴シーンを撮り続けることは望んでいなかったので本当に良い潮時と思っている。本当に今までご苦労さんでしたと言いたい。
これからは、彼女の得意のダンスや歌で魅了してくれると良いなと思っている。ぴちぴちした昔の彼女の姿が懐かしいので、今一度見てみようっと・・・。以下は16歳当時の彼女である。
YouTube -レ・ガールズ
http://www.youtube.com/watch?v=fUmhJpBl1-E&feature=related
(画像は、入浴シーンの由美かおる。2010年4月6日朝日新聞掲載写真より)
参考:
由美かおる - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B1%E7%BE%8E%E3%81%8B%E3%81%8A%E3%82%8B
由美かおる - プロフィール - Yahoo!人物名鑑
http://talent.yahoo.co.jp/pf/detail/pp16413
TBS「水戸黄門
http://www.tbs.co.jp/program/mito.html
雛形あきこ 水戸黄門に雛ポーツの入浴?助格はカツラ&スイーツ?
http://moresens.net/fun/2010/05/post-812.html
asahi.com(朝日新聞社):「水戸黄門」39年目で初の1ケタ視聴率
http://www.asahi.com/showbiz/nikkan/NIK200810220018.html


よしみを通じる

2010-03-13 | ひとりごと
私が愛読している「天声人語」に先日“ある行為がすたれるために忘れられていく動詞がある。燃やすために、物を火の中に入れることを云う「くべる」(漢字では【焼べる】)もその1つである」・・と、時代・生活様式の変化と共に、昔と言っても、私たちが子供時代までは普通に使われていたような言葉が次々と消えてゆくと共に、その言葉の持つ意味や言葉が表す文化そのものも消えてゆくことへの感慨が書かれていた(以下参考の※:「asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2010年2月12日(金)」参照)
私も、常々そう思っているのだが、今日何を書こうかと思っていると、以下参考の※:「hi-ho日めくりカレンダー」の<松下幸之助一日一話>の中の今日・3月13日の一話は「よしみを通じる」についてであった。抜粋すると以下の通り。
「最近は商売の上での競争が大変激しくなり、同業者どうしでも、ともすればお互いを競争相手とばかり考えているようです。もちろん競争意識は必要でしょうが、考えてみれば、誰も争うために商売をしているわけではありません。ですから、近所に新しく同業者のお店ができたからといって、目にカドを立てるのでなく、おおらかに迎える。新しいお店の方も、先輩に対し謙虚な気持でいわば“仁義”をきる。そういう好もしい姿は、お客さまのお店全体に対する信用を高めることになるでしょう。だから一方で適正な競争をしつつも、同じ道にたずさわるお店どうし、お互いによしみを通じていくことが大切だと思うのです。 」・・・と。本当にその通りだがなかなか難しいことだよね。
「よしみを通じる」・・・この言葉も、懐かしい言葉だ。「くべる」(焼べる)同様、「よしみ」(漢字で書けば【好・誼】)と言う言葉も、まだ若いころはよく使っていたものだが、改めて振り返ってみると、このような言葉も余り聞かなくなくなったように思う。「よしみ」は、広辞苑に書かれているように、①親しい交わり。親しみ。公誼(こうぎ)。「-を結ぶ」「-を通ずる」②ちなみ。ゆかり。因縁。「昔のーで」といった意味で使われる。
戦後以降時代とともに、人間関係が希薄になり、友人関係や親戚関係いや兄弟の間でも①のような良い意味での公誼は薄れたようだ。あるのは、②のゆかりや、因縁でのお付き合いで使われることが多くなったようだ。
ただ、先日(2月13日)の衆院予算委員会の質問の中で与謝野馨元財務相が、鳩山首相に対して、弟の「鳩山邦夫さんがぼやくんですよ」と切り出し、「うちの兄貴はしょっちゅう、おかあさんのところへ行って『子分に配る金が必要だ』とお金をもらっていた」と言う話を聞いたと披露。鳩山首相はそんなことを言っことがないと気色ばんでいた。実際にどのような話し方をしたのか、中身がどうであったかなどその真実がどのようなものであったかは知らないが、考え方や政治信条の違いで、兄弟が異なる政党に属し、政策面などで討論をするのは結構なことだが、同じ親から生まれた兄弟が、テレビというマスメディアの前で恥ずかしげもなく、家庭の中のことを暴露してまで、自分の兄弟を苦境に追い込もうとし、兄弟でそんなことを言った言わないなどともめている光景ほどほど見ていて気持ち悪いものもない。そこには②で結うところの「兄弟のよしみ」と言ったものさえ微塵も窺えない。立派な家庭の立派な大学を出たエリートの政治家がこれなのだから、それを見て育つ日本の子供たちはさぞ立派な人間に育つだろうよ。鳩山兄弟だけではない。そんな話を公の場で披露して得意になっている与謝野馨の祖父母である歌人の与謝野鉄幹晶子も政治家の「よしみ」なんて言葉さえも教えてやらなかったのかと息子の馨(はちやま兄弟の父)をあの世で叱咤しているのではないだろうか。
こんな話はあまり書きたくないので少し話題を変えよう。今日・3月13日は、戦国の武将・上杉謙信の1578(天正6)年の忌日である。
謙信は、上杉氏の下で越後の守護代を務めた長尾氏出身で初名(しょめい)は長尾景虎。長尾家家臣団のなかでは、後継問題で兄弟の対立が起り、家中分裂の危機を迎えたが、主君の越後守護・上杉定実の仲介のもとに兄である晴景の養子となって長尾氏の家督を継いだ。上杉定実から見て「正妻の甥」且つ「婿の弟」にあたる。のちに関東管領上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ、上杉政虎と名を変えて上杉氏が世襲する関東管領に任命される。また、将軍足利義輝より偏諱(へんき)を受けて最終的には上杉輝虎と名乗った。周辺の武田信玄北条氏康、越中一向一揆(越中大乱参照)、織田信長佐野昌綱らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の合戦(川中島の戦い)は、後世たびたび物語として描かれており、よく知られているところである。天正5年9月23日(1577年11月3日)加賀国の手取川での合戦((手取川の戦い)において上杉謙信軍が織田信長軍を撃破した後、春日山城に帰還したあと、翌年次なる遠征に向けて準備中に春日山城で倒れ、3月13日急死した。
後世で「軍神」などと評されているそんな謙信には妻や子はなく、生前に景勝景虎という2人の養子を迎え、後継者を景勝(実父は長尾政景)と定めてはいたようであるが、後継者指名が不徹底であったことや、越後の長尾諸家(越後長尾氏参照)を中心とした、何代にも渡る権力争いなどの複雑な事情が背後に絡んで、謙信の死後、上杉家では、その家督の相続争いから家中を真っ二つに割った内乱(御館の乱)を引き起すこととなった。
世継ぎ候補の1人景虎は、元亀元年(1570年)10月、輝虎(謙信)が北条氏康と和睦して越相同盟が結ばれた際に、謙信の養子(人質)として上杉家に入ったものであり、北条氏の当主である氏政の弟であった。御館の乱においては当初、戦局は景勝有利であったが、景虎は実家の後北条氏へ援軍を要請。北条方では景虎の上杉家相続を応援し、甲相同盟を結ぶ甲斐国の武田勝頼(父は武田信玄。母は信玄の側室諏訪頼重の娘)に、景虎支援を要請。この要請を受けた勝頼が、越後国へ出兵したため、形成は逆転し、景虎側の有利となり、一転して景勝は窮地に陥った。しかし、景勝は、東上野の割譲と多量の黄金譲渡を条件として武田氏と和睦。これによって武田家の後ろ盾を得た景勝が戦局を覆した。またこのときに勝頼の異母妹菊姫と婚約し、翌年9月には正室として迎えることで甲越同盟を結び、武田家との関係を強化した。この後、勝頼は、景勝側との同盟により外交方針を転換し、景勝を応援して景虎を追い詰め、ついに自刃させてしまった。
「武田との誼(よしみ)もこれまで!」と、弟を殺された北条氏政が激怒したのは当然のこと。
天正3年(1575年)5月に、武田勝頼軍は織田・徳川連合軍との長篠の戦いで大きな損害を受けるが、さらに、勝頼が「武田とのよしみ」を反故にして、上杉景勝と甲越同盟を締結し、北条氏との甲相同盟を破綻させてしまうという外交政策の誤りを招いたことにより、駿河や東上野において武田と北条は再びもとの対立関係に戻る。北条氏は、徳川家康と同盟。武田氏は西の織田氏・東の北条氏を同時に敵に回してしまい、衰亡への道を歩むこととなる。
この間、勝頼は第一次高天神城の戦いで手に入れた高天神城の拡張を行って縄張りを西側の峰・現在の高天神社の範囲まで広げ、城代として今川氏(今川義元)の旧臣であり、戦上手で知られた岡部元信を任じている。
天正8年(1580年)9月、徳川家康は付城として横須賀城など6箇所の拠点を築いた上で、満を持して5千の軍勢を率いて高天神城を攻撃(第二次高天神城の戦い)。岡部元信は千程度の軍を率いて激しく抗戦するものの、兵糧攻めにあって兵の士気が大きく衰えた。これに対して、勝頼は東の北条氏政を警戒して動けず、甲斐から援軍を送ることができなかったことから城兵は餓死寸前となり、翌天正9年(1581年)3月、逃亡する城兵が続出し、城代岡部元信以下そのことごとくが城から討って出て玉砕し、高天神城は陥落したといわれる。この高天神城の攻防戦に最後まで援軍が送れなかった武田勝頼の声望は大きく低下し、翌年に木曾氏・保科氏など豪族が寝返っていく理由となったといわれている。
戦国時代の世の中で、信長を主とする織田家以外の武士団は相互扶助の関係によって出来上がっており、すわ!というときには、自分たちの主家筋が危機を救ってくれると思うからこそ、豪族たちは主家に忠誠を誓い、命を預けて戦場で戦っているのであり、このような大事のときに主家側がその約束事を履行しないならば、家臣達が主を見限るのは当然である。
本来、武士団は、広義には武士の集団をさすが、厳密には、古代末期より中世初期にかけて成立した地侍の同族結合を中核とする戦闘組織を言い、そのような、武士の発生期には、村落における豪族が血縁的に結ばれた一族の家々と強固に団結しており、その同族に従う郎党達をも含めて一個の武士団を構成していたもの。このような団結は、そもそも、その武士団の棟梁が集団を構成している武士たちの土地や権益を守ってくれるから成立しているのだから・・・。
ま、今の社会でも、武力が財力に変わっただけの似たようなものだ。戦後日本の政治において、政権政党は、その議員の数の力で予算を獲得し、それを地元の選挙民にばらまき、その「よしみ」で地元より選挙の票をもらい当選して来たといっても過言ではなかろう。又、選挙民も選挙民で、政治家に票を入れてやったよしみで、道路や空港を造ってもらった。何か、「よしみ」と言えば、余り良いことには使われていないことの方が多く目に付く。
私など現役時代、「友達のよしみ」で、仕事上の助け合いもいろいろあったが、そんな友達との「よしみ」をつなぐものと言えば、それは、お酒であったような・・・。(^0^)

「歓楽もやがて思い出と消えようもの、
古き好(よしみ)をつなぐに足るのは生(き)の酒のみだよ。
酒の器にかけた手をしっかりと離すまい、
お前が消えたって盃(さかずき)だけは残るよ!」

上記は、セルジューク朝期ペルシアの学者・詩人ウマル・ハイヤームの4行詩『ルバイヤート』の1節である(“生きのなやみ”16-25の中の21)。人生の無常、宿命、酒の賛美などが基調となっている。 日本語版では、小川亮作訳のものが、以下参考の※青空文庫で読める。

「酒をのめ、それこそ永遠の生命だ、
また青春の唯一の効果(しるし)だ。
花と酒、君も浮かれる春の季節に、
たのしめ一瞬(ひととき)を、それこそ真の人生だ!」

上記は”一瞬(ひととき)をいかせ”108-143の中の133。又、

「さきのこと、過ぎたことは、みな忘れよう
今さえたのしければよい――人生の目的はそれ。」

と144(部分)にあるが、まるで私はこの年になるまでこの詩のごとくにお酒とは切っても切れない「よしみを通じてきた」気がするよ(^0^)。
それにしても、今日は随分脱線してきたな~
(画像は、『ルバイヤート』のイラストレーション「大地は答うること能わず、嘆く海もまた然り」。Wikipediaより)
参考:
※:hi-ho日めくりカレンダー
http://kurashi.hi-ho.ne.jp/cale/index.html
※:asahi.com(朝日新聞社):天声人語 2010年2月12日(金)
http://www.asahi.com/paper/column20100212.html
※青空文庫:小川 亮作訳『ルバイヤート』:新字新仮名
http://www.aozora.gr.jp/cards/000288/files/1760_23850.html
ぶしだん【武士団】 | 学習百科事典 | 学研キッズネット
http://kids.gakken.co.jp/jiten/6/60016270.html
ウマル・ハイヤーム - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%A0
御館の乱 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%A4%A8%E3%81%AE%E4%B9%B1
与謝野馨 - Wikipedia 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E9%87%8E%E9%A6%A8

時を待つ心

2010-02-26 | ひとりごと
PHP:松下幸之助 [一日一話]の今日の題目は、「時を待つ心 」について、語られている。短い文なので先ずは読んでみてください。
「PHP:まつした幸之助 [一日一話] 」 http://www.php.co.jp/fun/matsushita/?02-26
「時(とき)」と言う言葉は、広辞苑にもあるように、「時の流れ」などのように、過去から未来へと流れ行く月日の移りゆきや”時間”・”時候”・”季節”を表すのに使われるほか、「時のなりゆき」「時に合う」「時を得る」などのように”時世”の意味や「時が解決してくれる」などのように”時分”や”時期”の意味にも使われる。、また、「国家存亡の時」、「時に望む」と言えば、特に大切な時期や重大な時期に使われるし「時が来るまで待つ」と言う場合には”良い機会””好機”が来るのを待つ場合に使われることが多い。そのようなことから、松下幸之助[一日一話]」の今日の題目の「時を待つ」・・では、時機を待つ。好機が来るのを待つという意味で使われている。要するに、何事を成すにも「時」というものがあり、この時というものは、人の力ではどうにもならないの力によるものであるから、時機を待つしかない。人の一生、良いときもあれば悪いときもある。悪い時は天が与えた試練の時と認識し、 悪あがきせずに時機のくるのを待ち、その時のために今出来ること、なすべきことをきっちりとして力を蓄えておきなさい。そういう試練を耐え偲んで人も会社も成長する・・・と言うことだろうと、理解はしているのだが・・・。しかし、言うは易し行いは難し・・・というべきか・・・・。
儒教経書四書の一つ『孟子』の巻第十二 告子章句下15章で、民間人から古代の君主で聖王と呼ばれるまでになった(しゅん)や、道路工事の人夫から武丁を補佐し衰えた(いん)を復興させた殷の賢相・傅説(ふえつ)などの成功者の例を引き、「天が地上の人に大任を下そうとするときには、必ずまずはその人の心を苦しめるものなのだ。肉体を苦労させ、餓えに苦しませ、しようとすることをしくじらせる。こうやってその人の心をゆさぶって忍耐強い性根を築かせ、それまでできなかったことまでもできるように力をつけさせるのだ。」としている。(当孟子の言葉の解説は、以下参考の※:孟子を読む〔鈴本仁:『孟子』の原文と訳〕を引用させてもらっている)。要するに、今までにできなかったこともできるようにするための試練が与えられているということだろう。仏教には「四苦八苦」と言う言葉がある。釈迦は、この世はすべての世界(一切皆苦)であると説いており、人生は何をするにもすべて苦しみとの闘いであり、四苦に耐え八苦を忍んで生きるところにこそ、人生の意義と価値がある・・・・と説いているのである。
人生における苦しみや悩み。「苦」はすべての人生の根本問題であり、苦を知り体験することによって、人間の生命。即ち、生きる事や生きている状態、存在する状態。対義語は。仏教で四苦の一つ)がより深く明らかになる。この苦の問題に正面から取り組むのが宗教であるともいえる。先にも書いたように「仏教では、この世は『苦』であると説く」と聞くと、日本語の"苦"を思い浮かべてしまうだろうが、釈迦の説く「苦」は、現代語の「苦」とは別物である。苦には、肉体的な苦痛と、精神的な苦痛とがあるが、仏教で説く「苦」とは「思うようにならない苦しみ」という程の意であり、ここでは、精神的な苦痛を、哲学的意味をもった「苦」として表現している。つまり、仏教は迷いの存在、あるいは人間のもつ自己矛盾・自己否定のあり方を、苦の根底に据えているのであって、悟り(さとり。覚りとも書く)を得たからといって、病気や肉体的な苦痛が無くなる訳ではない。
「苦痛」というのが肉体的感覚であるのに対して、人間の生存そのものが苦であるという意味では精神的苦痛は、生を受けた人間に与えられた「試練」と受け止めるべきなのだが、この「試練」というものは、本人が、それをどうとらえるかといった認識(考え方)の問題である。現実の日常生活は「苦痛」に満ちたものだが、それをただ「苦痛」としてのみ受け止め、もがき苦しむか、それとも、それを天から与えられた「試練」と受け止め、それを乗り越え、克服することによって、自分の価値を高めようとするかは、本人の意思次第・・・と言うことになる。
昔から、『楽は苦の種、苦は楽の種』と言う諺もあるが、これは、「苦は楽を、楽は苦をそれぞれそのうちに含み持っている」ということであり、楽もそれが崩れた後には苦を味あわなくてはならず、苦はそれを忍べば後で楽ができる。今の苦労は、将来の楽に繋(つな)がるものなのだから耐え忍ばなければいけない。
昔は、子供の教育でも「可愛い子には旅をさせろ」とよく言っていたものだ。これは何も、一人で旅行をさせろということではない。昔は、今とは違って旅行は非常に危険なものであった。そんな旅行を経験させろと言うことは、本当に子供を愛しているのであれば、甘やかさないで、今の内に少しは辛いことや苦労を経験させた方が本人のために良い・・・と言うことであり、大店(おおだな)のぼんぼん(上流家庭や金持ちの子供をこう呼んだ)でも自分の店には置かず、他所の店で、丁稚の仕事から体験させて、ある程度の経験を積まなければ自分の店に入れなかったものだ。だから、どんな財産がある大店のぼんぼんでも、お金の値打ちやその大切さ、また、働いている貧乏な人達の苦労や悩みも知っている。だから、自分が店の跡を継いで大勢の人を使い、商いもしっかり出来たのだろう。だから2世だからといってぼんやりとした人はいなかった。しかし、戦後は、第二次世界大戦での敗戦による惨めさを経験してきた世代は、逆に、自分の子には、自分が味わったと同じ苦労をさせたくないと甘やかしに甘やかして育ててきた人が多いようだ。だから、ちょっとした苦も耐えられない人が多く育ったようだ。
今の時代は、戦中、戦後世代が、どん底の生活から抜け出したいがために必死に休みも取らず、働きに働き続けて、近年の経済成長を支えてきたのは良いのだが、それも、いつしか、バブルに翻弄され、物事の正しい判断が出来なくなり、戦後の誤った思想を持った教育者や親たちにより、子供たちへのまともな教育もしてこなかったことなどが、今の歪んだ社会を作り出してきているようにも思われる。政治も経済の世界も、2世3世がはびこり、そんな2世3世が、かっての大店の子の様な下積の苦労もせずに、とんとんと、おぼんぼんのままで親の跡を継ぐ、世襲社会を作りだしている様に思われる。そして、そんな世襲議員が、今、日本の政治も動かしている。ハトポッポのような苦労知らずの世襲議員が、今、一国の首相となっているが、その人の金銭感覚では親からの毎月の数千万円の相続も全く知らなかったそうだ。お金を腐るほど持っている人の金銭感覚がどのようなものか庶民には分るよしもないが、そんな金銭感覚のない人が、毎日の食時を作るのにスーパーのチラシを見て、野菜が何十円安いからとあちこち駆けずり回っている庶民の願いごとなど判るはずもなかろう。いずれにしても、これからの日本の社会は、暫くは、渾沌とした時代が続くだろう。ここのところは、暫く、「時を待つ・・・」より、仕方がないかもしれない。その時の為に、ここは、じっと耐え忍び、その時の為に、じっくりと力を蓄えておくようにしなくてはならないだろうね~。
最後に、一言。今の時代、かっての謙虚な日本人とは違って、物欲や我欲が深く、人のことよりも己の我を通すことばかり考えている人達が非常に増えている様に思われる。仏教は、根本的には生きていること自体が苦であるという形而上学的な考え方をもととして、人間の「自分が・・・自分が・・・」という「我執こそが苦の根本」であるとしていることを承知しておいた方が良いだろうね~。
(画像は、孟子。Wikipediaより)
参考:
※:PHP:まつした幸之助 [一日一話] 2月26日
http://www.php.co.jp/fun/matsushita/?02-26
※:孟子を読む〔鈴本仁:『孟子』の原文と訳〕
http://suzumoto.s217.xrea.com/website/mencius/mencius.html
中国史関連書籍解説【Kouta!sHP】
http://homepage2.nifty.com/kouta_idx/CB_index_Init.htm
苦-Yahoo!百科事典
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E8%8B%A6/
聖書研究 用語の解説 >用語(苦、苦難)
http://homepage3.nifty.com/IUCC/kuru.html
人生の格言
http://kuroneko22.cool.ne.jp/one's-life.htm
松下幸之助 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%B8%8B%E5%B9%B8%E4%B9%8B%E5%8A%A9
孟子 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90
一切皆苦 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%88%87%E7%9A%86%E8%8B%A6
世襲 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E8%A5%B2
バブル経済 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%96%E3%83%AB%E7%B5%8C%E6%B8%88
教育 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2
丁稚 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E7%A8%9A


幸せを売る男

2010-02-15 | ひとりごと
皆さん、昨日のバレンタインは素敵な贈り物を貰いましたか。
私の年になると、ネットのお友達からはいろいろと贈り物をいただいたが、家人からはもうくれないよ。もう・・いいでしょ・・て感じ・・(^0^)
らららららら・・・ららららららん♪
冒頭の画像は、私の貯金箱のコレクションより、「幸せを売る男」。
昔、喫茶店のテーブルの片隅にこんな貯金箱を置いてあったのを覚えています。
貯金箱の中にお金を入れるとオルゴールの曲で幸せを運んでくれます。
すべての人に幸せを!
以下で私の大好きな歌手だった越路吹雪の「幸せを売る男」を聞ける。
YouTube-越路吹雪「幸せを売る男」
http://www.youtube.com/watch?v=97Vrxu4zU9s