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今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

復刊判少女雑誌『少女の友明治・大正・昭和ベストセレクション』

2012-03-13 | ひとりごと
3年前の今日・3月13日、雑誌『少女の友明治・大正・昭和ベストセレクション』が発売された。
これは、2009(平成2)年に、創刊100周年を迎えた『少女の友』の版元である実業之日本社が、54年ぶりに、過去の傑作記事をセレクトし、再録したリバイバル特別号として1号だけ復刊させたもの。
創刊100周年記念復刻版のサイトによると『少女の友』は“「少女にこそ一流の作品を」をモットーのもと、与謝野晶子 、井伏鱒二 、太宰治川端康成吉屋信子中原中也ら、当代きっての作家達の作品が筆をふるい、若き中原淳一が表紙画家として活躍した少女向け雑誌”であり、1908(明治41)年に創刊、1955(昭和30)年の終刊まで48年間続いた。日本の少女雑誌史上、もっとも長きにわたって刊行された雑誌である。...としている。
題字は当時20代だった北大路魯山人揮毫(きごう)したものという(※1の会社概要>実業之日本社トリビアを参照)。この「少女の友」創刊100周年記念号発刊は、廃刊から50年以上にもなる今も多勢いる愛読者からの強い要望によるものであったという。

上掲のものが、雑誌『少女の友』創刊100周年記念号明治大正昭和ベストセレクション。
掲載された小説でとりわけ人気の高かったのは吉屋信子と川端康成で、川端康成の『乙女の港』(1937年[昭和12年]6月号 ~ 1938年(昭和13年)3月号)は、中原淳一の挿絵の魅力とあいまって一大ブームを巻き起こしたというが、『乙女の港』は、のちに芥川賞をとる中里恒子が、当時のまだ無名時代に代作したものらしい(※2参照)。
以下参考の※3:「中原淳一公式HP」のプロフィールによると、日本美術学校で、本格的に西洋絵画の勉強に励み、1930(昭和5)年、17歳の時には、上野広小路の高級洋品店にオーダー服のファッションデザイナーとして迎えられ、1932(昭和7)年19歳 の時、銀座の松屋にてフランス風人形の個展を開催し、新聞雑誌にて絶賛され、一躍有名になり、これを機に『少女の友』と専属契約を結び、雑誌『少女の友』の表紙、挿絵を手がけるようになり、一流抒情画家の仲間入りをするようになったようである。
戦時中の1945(昭和20)年3月に横須賀海兵隊に召集されるが、8月には復員してすぐに出版の「ひまわり社」を設立し、1946(昭和21)年に雑誌『ソレイユ』(フランス語で太陽、ひまわり。後のそれいゆ)を創刊する。その後、雑誌『ひまわり』、『ジュニアそれいゆ』を次々に創刊。掲載内容は、マナーなどの礼儀、洋服や浴衣の型紙、料理のレシピ、スタイルブック、インテリア、等幅広く一貫し「美しい暮らし」を演出した。
雑誌『宝塚をとめ』の表紙を中原が手掛けたことが縁で、戦前の宝塚歌劇団の男役スター葦原邦子を妻とした。この時期の画風は妻の容貌に似た挿絵も多く、中原の葦原への思い入れが窺えるという。晩年の22年間を館山市で送った。
今日このブログで、3年も前の創刊100周年を迎えた『少女の友』の特別号のことをとやかくと書くつもりはない。ただ私は、若い頃、大阪の商社の衣料品部門でファッション関係商品の企画・製造の仕事にも就いていた事があり、その後も、長く衣料品分野で仕事をしていたこと、それに、絵が好きで、中原淳一の絵のファンでもある。
もともとお酒大好き人間なので、趣味で酒器のコレクションなどしているうちに、いつの間にか絵葉書まで購入しており、その絵ハガキの中に、彼の書い絵ハガキも少しだけ持っていることから、彼の絵とそのような少女が書かれた歴史的背景などをちょっと、この機会に調べてみようと思い、このブログを書いた次第である(冒頭の画像は、戦時中のものと思われる少女雑誌付録絵葉書。中原淳一画)。
彼の略歴等は上述のようなものであるが、公式HPには触れられていなかったが、中原は、『少女の友』で、1937年(昭和12年)]5月号 ~ 1940年(昭和15年)5月号まで、「女学生服装帖」というファッション・ページを担当していたそうだ。
この「女学生服装帖」は、中原が大戦前夜の1937(昭和12)年、街をゆく女学生の洋装のちぐはぐさに心を痛めて筆をとったイラストエッセイで、1940年(昭和15)年、戦争が始まると、優美でハイカラ、かつ目が大きく西洋的な淳一のイラストが軍部から睨まれ、その軍部の圧力によって突然雑誌への執筆を禁じられ終了するまで、セーラー服の着こなしから、髪型、しぐさなど、すこぶる親身でちょっぴり辛口なアドバイスで、読者に大きな影響を与えたという。どうも、淳一は少女たちに、外見の服装だけではなく立ち振る舞いや身だしなみ、心掛けなど内面も美しい存在であることを願っていたのだろう。
このユニークな連載もの「女学生服装帖」を一冊にまとめて単行本化した『中原淳一の「女学生服装帖」 (少女の友コレクション) 』も2010(平成22)年9月、同じく、実業之日本社から、販売されている。本の内容、イメージはAmazonの本の紹介ここを参照されるとよい。
当時少女向けに、少女雑誌でこのようなファッションが紹介されていたのを見ると単に美少女の抒情画家としてだけでなく、プロフィールにもあるようにファッションデザイナーとしての素晴らしい能力があったことに驚かされるだろう。
私は、「女学生服装帖」でどんな絵が書かれ、どんな説明がされているのか詳しくは知らないが、贅沢で華美なおしゃれではなく、既製品の充実している現代とは違いまだまだハンドメイドが主流だった当時のこと、この連載では洋服も型紙はもちろん生地などの素材も紹介されているようだが、それはギンガムや木綿といった廉価な生地がほとんど、また、男物の袴や古い制服などを再利用して作る方法もよく出ているという。
先に紹介した私の絵葉書のコレクションの中にも、中原が戦時中に戦場の兵隊さんたちを慰めるために書いたと思われる慰問絵葉書のセット物「歌」と「服装」があり、これも当時(戦時中)のファッションを紹介しものであるが、「服装」では絵葉書には何を使って再利用するかなどその方法が補足説明されている。
中原淳一のファン非常に多く、このような希少な絵葉書は、古書店などでは1枚1000円もするそうだが、興味のある人は、私のHPの
コレクションルーム:Room 2絵 葉 書のところを覗いて見てください。

上掲の画像はその1枚である。
今、今著名なファッションデザイナーとして活躍しているコシノヒロコジュンコミチコの「コシノ3姉妹」を育て上げ、自らも晩年同じ職で活躍し、2006(平成18)年に死去した小篠綾子の生涯を実話に基づくフィクションストーリーとして描き、放送されているのが、NHKの朝ドラ「カーネーション」で、非常な人気を呼んでおり、私も毎朝見ているが、「カーネーション」の時代設定としては、1924(大正13)年9月の岸和田だんじり祭の初日の早朝、祭に参加する主人公の父親を見送るところから始まる。
設定当時の時代背景として、ちょうど1年前(大正12年)の9月1日に発生した関東大震災をきっかけとした、服装の洋装化への流れがあり、劇中でも洋装を提唱する新聞記事や心斎橋で洋服を着た人を良く見た話といった、洋装が進む様が出る場面がある(※4参照)。
物資不足の中、当時、11歳の糸子が初めて作ったアッパッパは、呉服店である家にあった晒(さらし)」で作った設定になっている。当時は、こういう方法で洋服を仕立て直すことが多く行われていただろう。主人公の糸子は、呉服屋の生まれにも関わらず早くから洋裁に興味を持ち、数々の修業と経験を経た後1934(昭和9)年に自らの洋裁店を立ち上げる・・・・。
NHKの連続テレビ小説「カーネーション」公式HP(※5)では、ドラマをもっと面白く見るための企画特集(スペッシャル)のページには「糸子がデザインした洋服たち」や、テレビタイトル画面などでも当時の懐かしいファッションが少し登場するが、「カーちゃん、ネーちゃんのふぁっション写真ギャラリー」では、大正から平成10年代にかけてのファッションが沢山紹介されており、当時の懐かしい風俗を鑑賞できるようになっているので、好きな方は、公式HP(※5)を覗かれると良い。
この小篠家に大きな影響を与えたデザイナーが、少女雑誌『少女の友』に可憐なスタイル画を描いているうちに、ファッションデザイナーの草分け的存在となった当時の中原淳一であり、NHKでは、今年(2012年)2月15日に、「歴史秘話ヒストリア」101回「“カワイイ”に恋して~中原淳一と“カーネーション”の時代」と題して、中原淳一の生涯について放映していた(※6)。
番組の最後に、晩年を過ごした千葉県館山市の塩見海岸にある中原淳一の詩碑から、詩の一部が紹介されていた。
赤いいガーベラの添えられた詩碑に刻まれた『もしもこの世に風にゆれる「花」がなかったら、人の心はもっともっと、荒(すさ)んでいたかもしれない』・・・で始まるこの詩の「花」や「色」の字にはそれぞれ、赤や青の色がつけられている。彼の色彩感覚、詩作の素晴らしさを感じさせてくれるものである。参考の※7:「Kaonfu~getu」を参照。詩碑の写真をクリックすると拡大するのでちゃんと詩が読める)。
中原淳一の絵を見ていると、どこか大正ロマンを象徴する画家・竹久夢二(1884-1934)の絵を感じさせる。私は、もともと夢二の絵が大好きで同じような中原の絵にも興味を持つようになったといえる。
中原は、昭和4(1929)年16歳のときに、画家を目指し上京したとき、当時一般の学生が目指していたピカソルオーなどの本格的な油絵には目もくれず、夢二の描く可憐で可愛らしい絵に惹かれたという。それから、夢二の絵が載った雑誌を買いあさり、それを手本として描く事に熱中するが、中原を養ってくれていた兄に反対され、「カワイイ物がなぜ悪い」と引きこもっているとき、1927(昭和2)年、日米友好の印としてアメリカから日本各地へ贈られてきた青い目の人形が大きな話題を呼び、街角でも西洋人形が売られるようになりチョットしたブームになった。
なお、「青い眼の人形」は野口雨情が同名の詩を発表して有名になったもので、人形に添えられた手紙には「友情の人形」とだけ書かれており、人形も雨情の詩にあるセルロイド製ではなく、多くがビスクドール(陶器製)であったようだ。
これを見て、大きな目をした人形を作って個展をすると評判となり、『少女の友』へ誘われ入社し表紙絵を描くようになっことは中原のプロフィールのところで書いたとおりである。
今年(2012年)3月8日朝のMBSラジオ:子守康範 朝からてんコモリ!で「なぜ子供は可愛いのか」といったことを話していた。結論から言えば、心理学的に、目が大きいほど好まれることが分かっているようだ(詳しくは※8参照)。
だから少女画も目を大きく書いた方が可愛く見えるので、現代書かれている少女マンガの主人公も目の大きいものが多いし、現代女性の化粧方法なども、どのように目を大きく見せようかとずいぶん苦労しているようだ(^0^)。
しかし、それでは、昔の少女雑誌の少女の絵が皆、目が大きかったかと言うとそうではない。これからは、雑誌『少女の友』と中原淳一の直接的な話からは少し離れ、雑誌『少女の友』誕生までの少女雑誌の世界のことに触れてみる。ただ、何もこれは目の話しを書こうという訳ではない。
普通、こども以上大人未満の若い男子を「少年」とするとき、「少女」はその対義語となっているが、このこども以上大人未満の年代の女性をさす「少女」という概念は明治初期以前には存在しておらず、「少年」は、現代で言うところの少女をも含めた性別を区別しない言葉であった。それは、現代の「少年法」などでも司法の世界では、性別を問わないことが通常であるのと同様である。
「少女」という言葉がメディアに登場しはじめたのは、明治30年代ぐらいからである。このころから少女小説が書かれはじめ、1902(明治35)年、当時誕生したばかりの女学生をターゲットに日本で最初の少女向け雑誌『少女界』(4月号)が創刊された。
これは、『少年界』という少年向け雑誌の姉妹誌として、金港堂書籍から出版されたものであり、このころから少女というカテゴリー(事柄の性質を区分する上でのもっとも基本的な分類のこと)が、「少年」から分岐したといえる。
女学生とは当時、中等教育機関である旧制高等女学校の生徒をこう呼んだ。
明治維新後、日本は西洋の科学技術の移植を目指して、国家をあげて科学者・技術者の養成を行ってきたが、女子の高等教育の始まりは、1871(明治4)年文部省を新設し、翌1872(明治5)年、フランスの学区制を模範とした学制が発布されてからである。これは、従来根強かった「女子に教育は不要」との男尊女卑の考え方を否定し、国民皆学を目標とする近代教育の建設を目指して、教育を受ける機会が男女児童に平等に与えられたという画期的な意義を持つものであった。
この年に東京神田に官立東京女学校が設立され、一般教養に重点を置いたわが国の新時代の女子教育の中心機関として期待されたが、西南戦争後の財政難を理由にわずか5年でこの学校は閉鎖(1877[明治10]年)されてしまった。
一方、学制は1879(明治12)年には教育令に変わり、これ以降中等教育以上の男女別学を原則とする教育体制が作られ、中学校において、男女同等の教育を受ける機会は失われたもののそれでもなお、ミッション系女学校を初め、明治20年代の女学校や私塾では欧米の思想や風習、キリスト教などに触れ、文明開化の時代精神と知識を享受することが出来た。
この間教育制度には、色々と、試行錯誤があったが、 1885(明治18)年、内閣制度の成立にともない初代文部大臣に就任した森有礼の下で翌・1886 (明治19) 年学校令がしかれ、4年間の義務教育(1907年には6年間に延長)が認められ、国民教育は発達し、1899(明治32)年高等女学校令の発令によって女学生は急激に数を増やした。
そして、彼女達のファッションや言葉は良くも悪くも世間の注目を集めるようになる。
少女の名はついていないが、1901(明治34)年1月博文館より創刊された日本最初の女学生を主な対象とした雑誌『女学世界』(※10参照)や、「少女界」(明治35年創刊)、「少女の友」(明治41創刊)など彼女達を対象にした雑誌も数多く刊行され始め、いわば女学生は一定の社会的価値を持つ存在となった。
こうした女学生に対する教育のあり方については当時の知識人の女性観・家庭観が大きく影響していた。
幕末から明治前期にかけて、欧米留学や洋行を経験した為政者や啓蒙家達は、欧米社会の進歩を一方で支えているのは、人間としての教養を見につけ、良き妻として、夫を助け、賢母として子供を育て、家庭を管理できる聡明な女性の存在である事を知り、近代国家の道を急ぐわが国が、妻妾同居もありえた当時の家庭像を改め、一夫一婦制を確立することは議会制度や近代的法体系の確立と並ぶ緊急にして重要な政治課題の一つと考えた。
そんな中で、福沢諭吉や森有礼らの一夫多妻制批判の後を受けて、一夫一婦家族の具体的イメージを提示し、その担い手となる女性たちの育成にあたった教育指導家が、巌本善治であった。
そんな巌本のあるべき家庭と、女性のあるべき姿は、凡そ次のようなものであったようだ。
従来の君主と家来の関係にも例えられるような家族のあり方は、女性にとっても、男性にとっても決して幸福ではないし、また、緊張に満ちた家庭に育った子供は国家を建設する人材として完全に能力を開花することは出来ない。
新しい基礎を為すべき家庭は、愛し合う夫と妻が、互いに協力して作っていくもので、夫が一方的に命令し妻が従うという武士型の家族ではない。
社会と言う戦場で闘い帰って来る男達の疲れを癒す、団欒の場としての家庭が機能するためには、妻も「ホームの女王」として、家庭を合理的に経営する才覚を持つことが必要である。
また、時代を担う子供たちの教育に当たるのは、教養のある有能な母親像でなければならない。そのために料理や裁縫のみならず文学や歴史、科学など幅広い教養を身につけさせることが女学校教育の課題である。・・と。
すなわち、西洋近代化に範をとった家庭の建設と、それを担う「賢母良妻」の育成こそ彼の言論活動と、教育活動の目標であった。
1885 (明治18)年7月、巌本は、近藤賢三を編集人に日本初の本格的女性誌『女学雑誌』を創刊した。創刊号の「発行の主旨」には、「日本の婦女をしてその至るべきに至らしめんことを希図す」とある(※11参照)。「女学」とは、「女性の地位向上・権利伸張・幸福増進のための学問」と理解されている。
翌1886(明治19)年5月近藤が急逝し後を継いだ巌本善治が長く編集人を勤めた。主筆であった巖本は、明治女学校の教頭、校長を歴任し、思想と実戦を両立していることで一目おかれ、次第にその女性改良運動の先頭に立つことになる人物であった。
それは明らかに近世日本の儒教的女性像を批判する開明的色彩の濃いものであった。
こうした理念に基づき、政府は明治5年(1872年)、欧化主義の東京女学校を創立したのだが、明治30年代になると、
1、日清日露戦争の体験から夫が不在でも国のために家を守るという概念を定着させること。
2、条約改正による外国人の内地雑居への対応策として、日本女性の「婦徳」(女子の守るべき徳義)を涵養すべきこと。
3、資本主義の発展に必要な女子労働力を供給し、なおかつ、それによる家制度の弱体化を防ぐことを目的に、国家のため、家のために働くという労働感を養成すること。
等の要因から日本の良妻賢母像は、明治中期までの開明的色彩から国家主義的性格の濃いものへと変化し、とりわけ女子教育の場で家制度維持、女子の本分の強調、家計補助的労働観、家事裁縫教育の重視などを中心に展開されていく。
森有礼は、「良妻賢母教育」こそ国是とすべきであると声明。翌年、それに基づく「生徒教導方要項」を全国の女学校と高等女学校に配布し、国家主義的性格の濃い「良妻賢母教育」を、高等女学校令で法的に規制して、公教育を通じて浸透させることを図った(週刊朝日百科」「日本の歴史」129号)。
大正期に入ると12歳から20歳前後の女性たちが、社会的義務(良妻賢母となること)を果たすことを猶予される期間(モラトリアム期)つまり、「少女時代」という時間をもつようになり、多様で流動的な生の輝きを見せ始めた。
そして、高等女学校の生徒達を中心とした、「女性文化」という独特の世界が形成された。その社会的背景には、尋常小学校卒業後も高等女学校や女子師範学校だけでなく実業学校、裁縫学校、看護婦、やタイピスト養成等々各種学校で学生生活を送る者が大正期を通じて激増し、実生活から相対的に独立した世界を持つ層が産まれたことがある。それに、この層は中等教育以上の男女別学により、同性・同年齢集団から成っていたので「女性であることは、どういうことか」と模索しつつある少女達にとって、お互いに問題を深める場となったようだ。
巌本の思想を受け継いだのは、このような都市の中間層に属する女子ちまり、「少女」たちであり、その後、続々発行される少女雑誌がいわゆる良妻賢母主義に沿った誌面づくりをし、少女たちを誘導する型ともなっていたが、当時の雑誌の読者欄の影響が大きかったようである。
そして、女学生の増加が、又、公教育の普及による読み書き能力の向上に伴う読書人口の増加が、少女雑誌の誕生を後押しする原動力ともなった。
竹久夢二の叙情的な挿絵を収めた少女雑誌、吉屋信子の少女小説を耽読(たんどく)し、宝塚少女歌劇団のスターたちに胸ときめかせ、友人や上級生との妖(あや)しくも美しい親密な関係性を生きた「少女」たち。近代日本の都市新中間層の興隆とともに誕生した「少女」という存在のリアリティーを、社会的・歴史的・政治的な背景に照準しつつ分析している人(今田絵里香。日本学術振興会特別研究員)がいる。
彼女が当時の雑誌が少女たちにどうのようなイメージ付をけし、少女像が時代とともにどう変わってきたととみているかなどは以下参考の※12:「少女雑誌にみる近代少女像の変遷:『少女の友』分析から」を見ると良い。又、「女学生:女学校:少女文化」等については、以下参考の※13:「第148回常設展示 女學生らいふ | 本の万華鏡 | 国立国会図書館」に詳しく書かれているのでそこを見られると良い。
最後に、私の好きな少女雑誌の挿絵についてであるが、雑誌の表紙絵の少女像、その瞳は明治から大正、昭和にかけ徐々に大きくなっているのが判る。
「少女界」(明治38年11月号)の表紙絵。その少女の目は、線や点でシンプルに描かれているが、これは、江戸時代以来の美人画の伝統を受け継いだ顔である。
大正5年2月号「新少女」。大正時代には、竹久夢二の描く少女像が登場。初めて瞳が開き、瞳の輝きが描かれている。語りかけてきそうな、生き生きとした表情が生まれた。
「少女画報」(大正15年2月号)。夢二の後、大きな瞳が主流になる。高畠華宵の描く少女は、大きな二重まぶた。白めが強調され、あでやかさが特徴。
「少女の友」(昭和14年4月号)。瞳は、昭和に入ると極端な大きさになる。中原淳一の絵である。大きな瞳が支持された背景には、当時、自由な発言ができなかった少女たちが目で自分の意思を伝えたい、という自己表現への思いが反映されている、と評論家の上笙一郎氏は語っているという(※14に画像とこの説明あり)。
大正時代を代表する高畠華宵の絵のことについては、以前このブログで大正と言う時代背景とそこに描かれた華宵の絵のことを書いた居るので興味があったら見てください。ここ→「挿絵画家・高畠華宵 の忌日
次代とともに、少女の目も姿もどんどん変化してきているが、私などの年齢のものには、現代の女性は何か攻撃的で恐く見えて仕方がない。もう元に戻ることはないだろうが、大正・昭和初期の芯は強くても、温和で優しそうな女性像が懐かしい・・・、などと言うと叱られるだろうな~・・・( ̄ρ ̄)

(冒頭の画像は、戦時中のものと思われる少女雑誌付録絵葉書。中原淳一画。雑誌『少女の友』創刊100周年記念号明治大正昭和ベストセレクション。)
※1:実業之日本社ホームページ
http://www.j-n.co.jp/company/presidentmessage.html
※2:川端康成の「乙女の港」という本に盗作疑惑があったという話があるようだが・・・
http://q.hatena.ne.jp/1262778167
※3:中原淳一公式ホームページ
http://www.junichi-nakahara.com/
※ 4:大手小町 企画・連載(3)「アッパッパ」で洋装化、読売新聞、2011年8月26日
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20110826-OYT8T00156.htm
※5:連続テレビ小説「カーネーション」
http://www9.nhk.or.jp/carnation/
※6:NHK 歴史秘話ヒストリア
http://www.nhk.or.jp/historia/
※7:Kaonfu~getu
http://kaonfu-getu.blogzine.jp/yoke/cat2781588/
※8:なぜ子供は可愛いのか
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5184706.html
※9:大手小町:断髪洋装 働く女の決意 :企画・連載 : ニュース :: YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/komachi/news/rensai/20090414ok0b.htm
※10:『女学世界』における「投書」の研究(Adobe PDF)
http://www.iii.u-tokyo.ac.jp/pdf/bl/77/77_07.pdf#search='女学世界'
※11:伊藤明己:女権論の系譜
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~ito/works/dm/dancem2.htm
※12:少女雑誌にみる近代少女像の変遷:『少女の友』分析から
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/28817/1/82_P121-164.pdf#search='少女の友 創刊号'
※13:第148回常設展示 女學生らいふ | 本の万華鏡 | 国立国会図書館
http://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu148.php
※14:file148 「少女雑誌」|NHK 鑑賞マニュアル 美の壺
http://www.nhk.or.jp/tsubo/program/file148.html
国際教育協力懇談会資料16我が国の家庭科教育の経験と特徴
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kokusai/002/shiryou/020801ef.htm
女 学 生 の 絆(Adobe PDF)
http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/nichigen/issue/pdf/9/9-06.pdf#search='明治、女学生 誕生'
明治~昭和の少女雑誌のご紹介
http://www.kikuyo-lib.jp/hp/08_menu.htm
雑誌「少女の友」の歴史 100周年記念号刊行 - YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=VhXQUskDiAw
Kotobank.jp
http://kotobank.jp/
上田信道の児童文学ホームページ
http://nob.internet.ne.jp/
少女の友 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%91%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%8F%8B

辰年に思う

2012-01-17 | ひとりごと
皆さんお正月はいかがお過ごしでしたでしょうか。
私は1月ほどブログも休みゆっくりと休養しました。これからまたぼちぼちとこのブログを書こうと思っていますので宜しくお願いします。
2012(平成24)年の今日・1月17日で、神戸市ほか兵庫県内を中心に死者6434人、負傷者約4万4千人にのぼる戦後最大の自然災害をもたらした阪神・淡路大震災から、丸17年を迎えることになった。そして、あと2ヵ月後の3月11日には、現代に生きるわれわれの想像をはるかに超える規模の地震津波で多くの方々が犠牲になった東日本大震災から1年となる。
17年前の阪神・淡路大震災では、大勢の若者がボランティアとして被災地へと駆けつけてくださり、今時の若者・・・が見直され、被災地神戸のみならず全国に共同体感情のようなものが生まれ、この年は、日本の本格的ボランティア元年と言われるようにさえなった。
丸17年目を迎えた今日も各地で、被災者を悼む追悼行事がおこなわれるが、昨年暮れのマスコミなどの報道によると、ボランティア団体やNPO法人の代表らでつくる「市民による追悼行事を考える会」(神戸市)調べによると、毎年1月に行なわれてきた被災者を悼む様々な行事も15年の節目となった2010(平成22)年には102件も行なわれたが、昨年は遺族等の意向で参加型行事は減少したが、今年(2012年)も更に減少し、地元の人たちだけで粛々と行なわれる形のものに変わってきたようだ。そこには、遺族等の高年齢かもあるだろう。
しかし、一方、東日本大震災の被災地・東北地方などに場所を移したり、追悼の対照を変えたりして行事を継続させる動きが増えてきており、追悼行事そのものは、今なお減らない点を考えると、関係者の方の思いの強さがよくわかる。
阪神・淡路大震災の起こった翌・1996(平成8)年以降、日本付近で発生した主な被害地震(平成8年~平成23年11月の人的被害を伴った地震)の状況は、※1:「気象庁 | 地震・津波」のここを見れば詳しく判るが、これを見ると我が国はなんと地震の多い国かと言うことがよくわかるであろう。中でも、最近のものでは、平成16年(2004年)新潟県中越地震では死者68人負傷4,805人を出した他、負傷者1000人以上の平成17年(2005年) 3月20日の福岡県西方沖地震(死者:1名)、平成19年(2007年)新潟県中越沖地震(死者15人、負傷者 2,346人)と大地震が続き、昨年の東日本大震災(死者16,146 不明者3,333人負傷者6,052人【平成23年12月12日現在】)へと繋がったわけであり、防災に関する文章などによく用いられる物理学者にして随筆家・寺田寅彦の言葉・警句として有名な「天災は忘れられたる頃来たる」(※2参照)どころではない。地震大国とも言われる日本では、ここのところ、周期的大地震が頻繁に来ているのである。
私が子供の頃、戦後暫くまでは使われていた言葉であるが、科学も発達し、家庭では亭主(親父)の権威も失墜してしまった今の時代には余り耳にもしなくなった言葉、「地震、雷、火事、親父(オヤジ)」にもあるように、かって、怖いものの筆頭に地震が挙げられていたのは昔人の教訓でもあった。
「地震」と言う字は「地が震える」と書くが、「地震」のことは、古くは「なゐ」と言い、鴨長明が1212年(建暦2年))に書き上げたとされる『方丈記』には、自らが経験した天変地異に関する記述を書き連ねており、その中のひとつに1185年(元暦2年)に都を襲った元暦の大地震があり、ここで、「地震」を意味する言葉として「なゐ」が出てくる。
その原文及び現代語訳等は、以下参考の※3:「古典に親しむ 「方丈記」鴨長明」の【元暦の大地震】の項で読めるが、その現代語訳のものを引用すると、長明はその恐ろしさを以下のように書いている。
“また、同じころだったか、ものすごい大地震(現文では、「おおなゐ」と表記)があったことがある。そのさまは尋常ではなかった。山は崩れ、その土が河をうずめ、海が傾いて陸地に浸水した。大地は裂けて水が湧き出し、大きな岩が割れて谷に転がり落ちた。波打ち際を漕ぐ船は波の上に漂い、道行く馬は足の踏み場に惑っている。都のあたりでは、至るところ、寺のお堂や塔も、一つとして無事なものはない。あるものは崩れ、あるものは倒れている。塵や灰が立ち上って、もうもうとした煙のようである。大地が揺れ動き、家屋が倒れる音は、雷の音とそっくりだ。家の中にいると、あっという間に押しつぶされかねない。かといって、外に走り出れば大地が割れ裂ける。羽がないので、空を飛ぶこともできない。であったなら、雲にでも乗るだろうに。これまでの恐ろしかった経験の中でも、とりわけ恐ろしいのは、やはり地震(現文では「なゐ」と表記)だと思った。“・・・・・と。
その後余震も長く続き地震の恐さを書き、最後に、
”その直後には、だれもかれもがこの世の無常とこの世の生活の無意味さを語り、いささか欲望や邪念の心の濁りも薄らいだように思われたが、月日が重なり、何年か過ぎた後は、そんなことを言葉にする人もいなくなった。”・・・と。又、”そんな恐い目をした人達も、年月を重ねると、地震のことは忘れ去られてしまう・・・・と、書かれている。
この『方丈記』に登場する1185年(元暦2年)の大地震では、「大地は裂けて水が湧き出し」とあり、正にこれは、液状化現象ではないか?日本の内陸部京都で何故液状化が起こるのか?不思議に思うが、調べてみると、京都府の南部、現在の京都市伏見区、宇治市、久御山町にまたがる場所には巨椋池という巨大な池があったそうで、規模からいえば池よりも「湖」の方がふさわしく、現在「池」と称する最大の湖沼である湖山池よりも広かったそうだ。

上掲の画像が在りし日の巨椋池である(画像はWikipediaより借用)
京都は、扇状堆積した地形上に古都を作って、鴨川木津川の流れなど自然を利用して暮らしてきた。
そんな京都府下には、主要な活断層として、滋賀県境付近から奈良県境付近にかけて三方・花折断層帯が、南東部には、三重県・滋賀県から延びる木津川断層帯が、南部には兵庫県・大阪府から延びる有馬-高槻断層帯と、それに直交するように大阪府・奈良県の県境付近から延びる生駒断層帯が、中央部の丹波高地の西部から京都盆地西縁にかけては三峠・京都西山断層帯が、北部には山田断層帯と・・いくつもの断層帯が延びており、当時大きな地震が頻発していたようである(※4:「地震調査研究推進本部」の近畿地方>京都府 参照)。
そんな中、琵琶湖西岸の断層帯で、約800年前、栄華を誇った平家が滅亡に至った治承・寿永の乱の最後の戦いである壇ノ浦の戦いの時に起きた地震が、『方丈記』に記載されている地震であり、この時のマグニチュードは7.4だったという(※5も参照)。
内陸部でも軟弱な地盤は崩れ、あるいは地割れして水が噴き出る液状化が起こっても不思議ではない状況であったのではないか。これを見ると、安全だと思っている内陸部だからといって、場所によっては液状化がないという保証はないことになる。いわんや阪神・淡路大震災時の神戸ポートアイランド、東日本大震災時の千葉県浦安市など、自然界のときの概念からに見れば、昨日・今日埋め立てたばかりの地域での液状化は、大地震が来れば当然起こることが想定していなければいけないことであったろう。
「なゐ」の言葉の文献による初出は、もっと古く、『日本書紀』巻第十六(武烈紀)の歌謡の中にも「なゐ(那為)」(那為我与釐拠魔=那為【なゐ】が震【よ】り来【こ】ば=地震が来れば。6:日本書紀【朝日新聞社本】のここ参照)として出てくる。
以下参考の※7:「公益社団法人日本地震学会」によれば、大地が突然震動することを、昔の人は「なゐふる」と言い。「な(土地のこと)」+「ゐ(居)」で「大地」を表わす古語「なゐ」に、「ふる(震動する)」が加わったものが、転じて「なゐ」だけでも大地の震動(地震)を指すようになったらしい(※3の広報紙名「なゐふる」についてを参照)。
今年、年初めのブログに「地震」を選んだのは、今日が阪神淡路大震災の丸17年目であるからだけではない。今年の「えと(干支)」と関係があるからである。
今年・2012(平成24)年は、辰年(たつどし)であるが、ただ「干支(えと)は辰(たつ)」というのは正しくない。
今日では、「干支」(えと)と言えば「十二支(じゅうにし)」のことを指すことが多いが、「十二支」は古来、「甲子(きのえね)」「乙丑(きのとうし)」のように、十干と組み合わせて用いられてきた。字音から言えば、十干は「幹」、十二支は「枝」であり、この十干十二支を合わせたものを、干支(「かんし」または「えと」)といい、干支を書くとき干は支の前に書かれる。
「えと」という呼称は本来、十干を「きのえ」「きのと」のように、陰陽説でいう陽と陰を表した言葉兄(え)、と弟(と)の組み合わせとして訓読したことに由来するが、この逆転現象は干支のうち、五行思想とともに忘れ去られつつある十干に対して、「ネ」「ウシ」「トラ」「ウ」など動物イメージを付与されることによって具体的で身近なイメージを獲得した十二支のみが、現代の文化の中にかろうじて生き残っていることによるようだ。
今年・2012(平成24)年の場合、干支では29番の「壬辰(みずのえたつ・じんしん)」となる。
十干のは陽の水(水の兄)であり、その本義は「“”に通じ、陽気を下に姙(はら)む意」(植物の内部に種子が生まれた状態。水のように自由に適応していく等の意味を持ったもの)だとしている(干支について詳しくは、 Wikipedia-干支 また、※1参照)。
干支は、「竜」や「龍」(竜を参照)ではなく、「辰」と書き本来「しん」と読む。
」の字源は、部首「虫」と「辰」(音符)からなる会意形声文字」で、部首「」は、今日では主に水中以外の節足動物を指しているが、もとは、ヘビをかたどった象形文字で、本来はヘビ、特にマムシに代表される毒を持ったヘビを指していたが、それ以外の小動物に対して用いる文字へと変化していった。そのことから、貝の種類を表す漢字には虫偏のものが多い(「(ハマグリ)」など)。
Wikipediaによれば、蜃(しん)とは、蜃気楼を作り出すといわれる伝説の生物。古代の中国と日本で伝承されており、巨大なハマグリとする説と、竜の一種とする説があるそうで、蜃気楼の名は「蜃」が「気」を吐いて「楼閣」を出現させると考えられたことに由来するという。
中国の古書『彙苑』では、ハマグリの別名を蜃といい、春や夏に海中から気を吐いて楼台を作り出すとあり、この伝承が日本にも広く伝わったようだ。
そのようなことから、一般的に部首「」(しん)は、二枚貝から、びらびらとした肉がのぞく様(象形)であり、唇(「口とともに小刻みにびらびらとに動く肉)、振・震(ぶるぶるふるえる)などと同系の意を含み、『漢書』律暦志によると「振」(しん:「ふるう」「ととのう」の意味)で、草木の形が整った状態を表しているとされる。後に、覚え易くするために辰には唯一の神話上の動物である(龍)が割り当てられたが、干支で辰だけが実在の動物ではなく、伝説上の生き物を割り当てられている。
龍(竜)は神獣・霊獣であり、麒麟鳳凰霊亀とともに四霊のひとつとして扱われる。
その中でも、一説によると、龍の姿は「角は鹿、頭は駱駝、眼は兎、身体は蛇、腹は蜃、背中の鱗は鯉、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」。つまり、他の部族と融合した結果、次々と相手のトーテムの一部を取り入れ、平和的な統合(融合)を繰り返した結果、あのような複雑な姿(シンボル)姿になってしまったものであり、他のものより「龍は平和の象徴」を最も表現しているものであり、縁起のよい動物であるという(※8のここ参照)。
長々と書いたが、今年の干支「辰」が震(ふるえる)と同系の文字であり、「辰」の関連語「賑」も「人や財貨が頻繁に動く・・・つまり、にぎわい」が字源。
2012年辰年のキーワードはこの「震」になるのではないか。
辰年は俗に昇り竜(昇竜)とも称し、勢いの良い様に例えられる。昨年は大地震もあり、激動の一年であったので今年はその辛さや悲しさに、震える心を、奮い立たせて、より成長してゆきたいものと願ってはいるのだが・・・・。
今年の干支の「壬辰」は、陰陽五行では、十干のは陽の水、十二支の辰は陽の土で、相剋(土剋水)だそうである。
相剋とは、国語辞書にあるように、”対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと争うこと。「理性と感情が―する」”を言い、その意味で、今年は、相矛盾したことが衝突する年であるということになる。
昨・2011(平成23)年の幕開けは中東のジャスミン革命であり、後半はギリシャ問題(ギリシャの経済参照)に代表されるユーロ圏金融危機で先進諸国の脆弱ぶりが炙り出され、米国など日本を含む幾つかの国の国債格下げの動きとなった。また、世界の各地では相次で天災が発生している(※9参照)が、そんな渾沌とした状況の中、我が国もデフレ経済からの脱却が出来ず景気も低迷している中、3月11日未曾有の東日本大震災により、チェエイノブイリ原子力発電事故以来の福島第一原子力発電所事故まで引き起こしてしまうなど大揺れの年であった。
今年は、世界的金融不安の中、世界一巨大な財政赤字(※10参照)を抱える日本は、震災からの復興と原発事故によるエネルギー問題(※11参照)の解決、格差社会の是正、年金・医療問題・・・と、余りにも多くの問題を抱えているが、それを解決しなければならない現政権政党を見ていると、本当に今年は、昇り竜にあやかって、希望の持てる年になるのだろうか?・・・不安を感じざるを得ない。
私は易の事など分からないが、“対立・矛盾する二つのものが互いに相手に勝とうと衝突する”ことを意味する五行の相剋は、その年が平和的な年でなく、その時に有能な良きリーダーが現れ上手く時流に対応できるか否かで良くも悪くもなるものと解釈している。
言いかえれば干支の波動は60年周期で、新しい波動は前波動の対極に向かうべく動いていく、つまり、分水嶺にいるのだと思う。その動きは分水嶺を境にして一気に高まり、もし、社会や政治、経済の変革を推し進める衝動(外からの強い力や刺激)が良い方向に向かえば、その進展や改革が早まることになると言うことかもしれないが・・・・。
今世界を襲っている激震は、直ぐに収まらずその余震は長く続きそうな気配だ。今年は米国大統領選ほか主要国の多くのトップが入れ替わるかも知れない。日本の場合も、その可能性が大である。今の日本の状況で、政局を誤り、根幹の問題で、改革すべきことを改革しないと、坂道を転げる落ちるようなことにもなりかねない危険状態の年だと言えるだろう。
それに、歴史上、記録に残っている大きな地震は辰年に発生しているという。例えば、1952壬辰年(07/21 カリフォルニア: マグニチュード7. 5(、11/04 カムチャツカ半島付近: マグニチュード8.25 )、1964甲辰年(03/27 アラスカ: マグニチュード9.2、06/16 新潟: マグニチュード7.6 )、1976丙辰年(07/28 唐山 中国: マグニチュード7.8 )、1988戊辰年(08/21 ネパール: マグニチュード6.6、12/07 レニナカン ロシア: マグニチュード6.9) 、2000庚辰年(11/25 アゼルバイジャン: マグニチュード7、06/04 スマトラ: マグニチュード7.9 )等(※12参照)。
日本では昨年大震災があったから今年はないだろうとは言えない。洪水や地震などの自然災害が今年も場所を変えて何処であるかも知れない。防災への備えを怠ってはいけないだろう!
最後に、先にも紹介した、寺田寅彦の伝説の警句 「天災は忘れた頃に来る”」の言葉は寺田の随筆や手紙や手帳なども含めて本人が書いたものの中には見当たらず、今村明恒著『地震の国』によると、“天災は忘れた時分に来る。故寺田寅彦博士が、大正の関東大震災後、何かの雑誌に書いた警句であったと記憶している。”・・とあるそうだ(※2参照)。
因みに、地震の神様とも呼ばれている地震学者今村明恒の予想通り1944(昭和19)年に東南海地震、1946(昭和21)年に南海地震が発生した。東南海地震後には南海地震の発生を警告したものの、被害が軽減できなかったことを悔やんだと言われる。また、1933(昭和8)年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための住民の高所移転を提案したという(Wikipedia)のだが、今村の提案に対して地元民はどう対応したのだろう・・・?
寺田も『天災と国防』の中で、
“戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水(こうずい)が来るか今のところ容易に予知することができない。(中簡略)
文明が進むほど天災による損害の程度も累進する傾向があるという事実を充分に自覚して、そして平生からそれに対する防御策を講じなければならないはずであるのに、それがいっこうにできていないのはどういうわけであるか。そのおもなる原因は、畢竟(ひっきょう)そういう天災がきわめてまれにしか起こらないで、ちょうど人間が前車の顛覆(てんぷく)を忘れたころにそろそろ後車を引き出すようになるからであろう。
 しかし昔の人間は過去の経験を大切に保存し蓄積してその教えにたよることがはなはだ忠実であった。過去の地震や風害に堪えたような場所にのみ集落を保存し、時の試練に堪えたような建築様式のみを墨守して来た。それだからそうした経験に従って造られたものは関東震災でも多くは助かっているのである。“・・・と、
書いていることなどから、寺田の著作に、「天災は・・・」という言葉が使われていなくても、「天災は・・・」の言葉そのものはしばしば使っていたことは想像出来る。
『天災と国防』のなかに書かれているところを見ても、寺田が真に憂えていたのは天災が起こることではなくて、起こった天災を教訓とした次の天災への備えが進まないことであったろう。
有り難いことに、今の時代、寺田の随筆は、青空文庫(※13「作家別作品リスト:No.42寺田寅彦」)で何時でも読むことが出来るが、同リストにざっと目を通しただけで、「天災と国防」の他、災害や防災に関する記述のあるものは、「芝刈り」、 「断水の日」、「怪異考」、「時事雑感(地震国防)」、「函館の大火について」、「からすうりの花と蛾」 、「Liber Studiorum」、「地震雑感」 「災難雑考」 「静岡地震被害見学記」 「震災日記より」 「塵埃と光」 、「津浪と人間」など多数あり、これらを読んでいると、寺田は、歴史を振り返れば“天災が来る事は想定外のことではないのだよ”“天災はその備えを忘れた頃に必ずやって来るものなのだよ”と言うことを警告しているのだと私は思っている。
そして、「津浪と人間」では東北日本の太平洋岸で起こった津波のことに触れているので、最後に、そこで書かれていることをそのまま以下に抜粋する。

“昭和八年三月三日の早朝に、東北日本の太平洋岸に津浪が襲来して、沿岸の小都市村落を片端から薙(な)ぎ倒し洗い流し、そうして多数の人命と多額の財物を奪い去った。明治二十九年六月十五日の同地方に起ったいわゆる「三陸大津浪」とほぼ同様な自然現象が、約満三十七年後の今日再び繰返されたのである。
 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。
 学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
 しかしまた、罹災者(りさいしゃ)の側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。
 災害直後時を移さず政府各方面の官吏、各新聞記者、各方面の学者が駆付けて詳細な調査をする。そうして周到な津浪災害予防案が考究され、発表され、その実行が奨励されるであろう。
中略
(追記) 三陸災害地を視察して帰った人の話を聞いた。ある地方では明治二十九年の災害記念碑を建てたが、それが今では二つに折れて倒れたままになってころがっており、碑文などは全く読めないそうである。またある地方では同様な碑を、山腹道路の傍で通行人の最もよく眼につく処に建てておいたが、その後新道が別に出来たために記念碑のある旧道は淋(さび)れてしまっているそうである。それからもう一つ意外な話は、地震があってから津浪の到着するまでに通例数十分かかるという平凡な科学的事実を知っている人が彼地方に非常に稀だということである。前の津浪に遭った人でも大抵そんなことは知らないそうである。“・・・・と。

寺田のどうしようもない苛立ちが痛いほど感じられないだろうか・・・。もう、自然災害に対して、想定外という言葉は、ただの言い訳に過ぎなくなったといえるかもしれない。

(冒頭の画像は、私のコレクションで平戸焼きの酒器・玉を追う竜です。)

参考:
※1:気象庁 | 地震・津波
lhttp://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/jishin.html
※2:寺田寅彦の伝説の警句 天災は忘れた頃に来る
http://www5d.biglobe.ne.jp/~kabataf/torahiko/torahiko.htm
※3:古典に親しむ 「方丈記」鴨長明 
http://www.h3.dion.ne.jp/~urutora/houjouki.htm
※4:地震調査研究推進本部
http://www.jishin.go.jp/main/index.html
※5:災害の歴史 - 京都市市民防災センター
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/bousai_s/history/index.html
※6:日本書紀(朝日新聞社本)
http://www.j-texts.com/sheet/shoki.html
※7:公益社団法人日本地震学会
http://www.zisin.jp/modules/pico/index.php
※8:干支(えと・かんし)///_十干十二支_///_漢字家族
http://1st.geocities.jp/ica7ea/kanji/kanshi.html
※9:災害ニュース 国際ニュース : AFPBB News
http://www.afpbb.com/category/disaster-accidents-crime/disaster
※10:リアルタイム財政赤字カウンター 11
http://www.kh-web.org/fin/
※11:エネルギー問題 エネルギー - 環境用語集
http://eco.goo.ne.jp/word/energy/S00080.html
※12:2012年壬辰年の運勢-レイモンド・ロー 日本公式ウェブサイト
http://raymond-lo.five-arts.com/articles-2012dragon.html
※13:作家別作品リスト:No.42作家名: 寺田 寅彦
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person42.html
阪神・淡路大震災教訓情報資料集(内閣府)
http://www.bousai.go.jp/1info/kyoukun/hanshin_awaji/index.html
東洋の歴史から学ぶ ~時代を生き抜く知恵と思考~
http://www.jpc-net.jp/cisi/mailmag/m116_pa2.html
ギリシャ問題が終息しない理由
http://www.gci-klug.jp/ogasawara/2011/09/15/013788.php
PIIGSとは何か?ギリシャ問題とは何か? [外国株] All About
http://allabout.co.jp/gm/gc/44500/
防災システム研究所  
http://www.bo-sai.co.jp/index.html
地震年表
http://homepage2.nifty.com/yyamasaki/SHEEP1.TXT
大地震、京都では30年以内に震度6の可能性(YOMIURI ONLINE)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110424-OYT1T00267.htm
干支(えと)情報 ~2012年・辰(たつ)年版
http://www.nengasyotyuu.com/nenga/ninfo/ninfo_01.html


クリスマス・イブ

2011-12-24 | ひとりごと
クリスマスの日の前日、今日12月24日の夜は「クリスマス・イヴ」(英語: Christmas Eve)。単に「イヴ」とも呼ばれるこの日のことは、以前にこのブログでも書いた(ここ)。
私たち夫婦は、仏教徒なので、本気でクリスマスを祝うことはないが、それでも毎年イブには、クリスマスの真似事のように、鳥の手羽を焼いたものなど食べながら夫婦でワインをかたむけたりして楽しんでいる。
思い起こせば、私など飲兵衛は、若い頃、行きつけのバーなど数件のマダムや馴染みの女の子などから「必ず来てくれ」と誘われるので、同じ飲兵衛仲間と一緒に出かけて、バーでもらった赤いとんがり帽子などかぶせられて、夜通し、騒ぎながら、はしご酒で夜を明かしたものだ。
しかし、今の若者は、私たちの年代の者のようにバーなど飲み屋で馬鹿騒ぎ等せず、イブは彼女とホテルのバーなどで、しっとりとデートをしたりして、楽しく過ごしている人が多いのだろうと思いながらも、実際にはどのようにして、イブを過ごしているかちょっと気になり、今朝、ネットで検索してみたら、昨・2010年、2000人のインターネットユーザーに「クリスマスイブの夜は誰と過ごす?」とのアンケートを実施したところがあった(ここ→ガジェット通信)。
又、同じところが、今年・2011年11月にも、同じように500人を対照に調べた結果(ここ)もあるが、それを見ると、イブを半数近くの人が1人で過ごしており、恋人と過ごしている人は非常に少ないようだ。
統計など、どのような人を対象に調べるかで結果は違ってくるものだし、クリスチャンでもない日本人が、クリスマス・イブをどのように過ごすのも自由だが、思っていたよりは、少々寂しい現実・・・。今の世知辛い世相を見てしまったような感じもするのだが・・・。
今夜も夫婦二人での簡単なチキン料理とワインでの夕食の楽しみごと・・・イブ。
阪神・淡路大震災の発生を契機に鎮魂と追悼、街の復興を祈念して始められた神戸ルミナ­リエは、17年目の今年、3月の東日本大震災に遭遇された人達の鎮魂と追悼も同時に行なわれた。
その祭典も12日に終ると、町にはクリスマスソングが響き渡るが、東北には、それどころではない人たちも大勢いるが、幸いにも、今日も、普通に生活の出来るしあわせを感じると共に、一日も早い震災復興を、神様にも御願いしたいと思っている。
以下は、阪神・淡路大震災からの復興を願って作られた臼井 真さんのすばらしい曲、今私は、クリスマスソングの変わりに、この歌の神戸を被災地に変えてうたっています。
「しあわせ運べるように」ー YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=oIfMOPz8s98&feature=related

(画像はl神戸北野異人館街のサンタさん)

皆既月食

2011-12-11 | ひとりごと
昨日(2011年12月10)は、皆既月食を見ることが出来た。
月食(lunar eclipse)とは、太陽地球の順に一列に並んだときにおきる天文現象で、望(もち。満月)のときにしか起こらない。 普段、月は太陽の光を反射して輝いているが、月食のときは地球が太陽と月の間に入るため、地球の影の中を通るため月面が暗くなる。
月は地球の周りを公転しているので、時間経過とともに欠けて行き皆既(全面が隠される現象。「皆既食」の略)となる。そして、また満月へもどる。
太陽の光が完全にさえぎられる本影に月のすべての部分が入ると皆既月食 (total eclipse)となる。また、一部分だけが本影に入った場合を部分月食 (partial eclipse) という。
月が半影(地球が太陽の一部を隠している部分)に入った状態は半影食(もしくは半影月食。penumbral eclipse)と呼ばれるそうだが、半影に入った月面部分の減光の度合いは注意深く観察しなければ分からならない程度であり、事前の予告なしに肉眼で見ても気がつかない場合も多いそうだ。
満月のたびに月食にならない理由は、月の軌道黄道面(地球の軌道平面)に対して約5°傾いているためだそうで、月食になるためには、満月の時に月の軌道と黄道面の交点の近くに月がなければならない。
皆既月食中の月は地球の影に入っても完全な真っ黒にはならず、赤っぽい色(赤銅色)をしている。理由は、太陽のが地球の大気によって屈折や散乱され、うっすらと月面を照らすためであり、赤くなるのは、朝焼けや夕焼けの原理と同じように波長の長い赤い光のほうが大気中を通過しやすいためだが、皆既月食の時の月面の様子は、地球の大気中の塵の量によって異なり、塵が少ないと、太陽の光が大気中を通過する際の散乱が少なくなり、月面は黄色っぽく明るく見える。逆に、塵が多いと、大気中の散乱が多くなり、月面は暗く見えるそうだ。ただ、火山爆発等で大気中に特に多量の微粒子が浮遊している場合には、月が非常に暗くなり灰色かほとんど見えなくなるそうで、月食時の明るさは、「ダンジョンの尺度」(0~4までの5段階)などで表されるようだ(※1参照)。
冒頭に掲載の写真は昨夜の皆既月食(神戸)だが、これを見て、どの尺度に該当するのか私には良くわからないが、中間の尺度2「暗い赤または赤錆色の月食。月の中心はとても暗く、周辺ぶはやや明るい」・・・・くらいに該当しているのだろうか・・・。
今回の月食の月が欠け始めてから終わるまでは約3時間30分あり、空の高い所で皆既の最大を迎え、時期的にも澄んだ天候だったので始まりから終わりまでの全過程を日本全国で誰もが観測を楽しめたようだ。
今回の月食の始まりから終りは以下のようだ。
部分食の始まり 21時45分
皆既食の始まり 23時05分
皆既食の最大 23時31分
皆既食の終わり 23時58分
部分食の終わり 01時18分
昨日、皆既月食のある事は知っていたのだが、カメラの準備もせず、夕食時気分よく晩酌をして、TVなど見ているうちにうとうとと居眠りをしていた。そんな時すぐに起すと私のご機嫌が良くないのを知っているので、暫く眠らせ、皆既食の最大 の頃、家人が、見に行った後、今が一番綺麗よと起してくれたので、慌ててカメラを持って表に飛び出し、2枚ほど写真を撮っただけで、準備の不手際からカメラの電池切れ。慌てて、そこらにおいてあった電池に入れ替え、外に出て撮ろうとすると、何と言うことその電池も切れていた。処分せず放っておいてあったものだったのだ。それで、大騒ぎをして、家人に新しい電池を持ってきてもらい、急いで撮ったのだが、それが23時45分くらいだったので、皆既食の最大から終わりの中間という時間帯か・・・。 数年前に買ったデジカメで、慌てて望遠レンズも三脚も使わず、撮ったものだから、手振れのものが多く。掲載のものも少々手振れ気味である。
このような月食が全国で観測できたのは、2000(平成12)年7月16日以来、11年5ヶ月ぶりのことだという。次回の皆既月食は約3年後の2014年10月18日だそうだが、その時はちゃんと準備しておかないといけないな~。
参考:

※1:皆既月食中の月の色について(国立天文台)
http://naojcamp.nao.ac.jp/phenomena/20101221/color.html

※2:asahi.com(朝日新聞社):皆既月食 スカイツリーとランデブー
http://www.asahi.com/national/update/1210/TKY201112100510.html

月食 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E9%A3%9F

ウェザーニューズ、皆既月食観測可能エリアを公表
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111210-00000001-inet-inet

飛ばし 

2011-11-24 | ひとりごと
1980年代終盤から数年間に日本で起こったバブル景気は、1990年ごろから景気が後退し、バブル経済も崩壊。それによって消費や雇用に悪影響を及ぼし、デフレになった。
かつて、そのような状況であった1990年代から2000年代初頭までの経済を「失われた10年」(平成不況)と呼んでいたが、2008年の世界金融危機(米国のサブプライムローン問題(サブプライム住宅ローン危機)に端を発するリーマン・ショックが発生したことがきっかけで、1990年代、2000年代以降の経済を合わせて「失われた20年」と変更して呼ぶようになった。
このリーマン・ショック後の最悪の状況からなんとか持ち直したかに見えた日本に、今年3月、東日本大震災が発生、しかも、震災以降、世界的に大きな問題が表面化した。
それは、昨・2010(平成22)年のギリシャの財政破綻の危機(ギリシャの経済参照)が発覚以来、EU(欧州連合)ではユーロ圏のイタリアやスペインの財政問題(※1の中の政府債務残高の推移の国際比較グラフなど参照)が話題となり、世界的に「ソブリン・リスク」(国家=ソブリンに対する信用リスク、※2参照)が高まってきたことだ。そして、EUの国だけでなく、米国債、日本国債も実際に格付け会社から格下げ(国債参照)されているが、今のような各国の財政状況を引き起こしたのは、リーマンショック時に、投機に夢中になっておかしくなっていた銀行や企業を救うために、国民の税金を使って国家が援助をし、それら企業の赤字を国が肩代わりしたことや、戦後、金も無いのに財力以上の福祉や社会保障に金をつぎ込んできたこと、破綻を仕掛けている国は、何処も親方日の丸の公務員天国である事などが共通している。・・・・ことは、先日(2011・11・10 )。このブログ「天皇陛下御在位60年記念硬貨が発行された日」でも簡単に触れておいた。
そのような中で、国際的に何処の国も今、財政状況が思わしくなく、国によってはデフォルト(債務不履行。※2参照)の危機さえ、囁かれている中で、東証1部上場会社で、 生産量基準では日本国内では日本製紙・王子製紙・王子板紙に次ぐ国内第4位の規模を持つ
大王子製紙井川意高前会長の昨年5月~今年9月に計26回にわたり、連結子会社から取締役会の承認を得ないまま無担保で計106億8千万円にのぼる借り入れをし、未返済額85億8千万円(株式での返却は拒否されため)にのぼる損害を与えたとして、告訴され(ほぼ全額がカジノでのギャンブルに使用されたと見られている)、東京地検特捜部に会社法特別背任容疑で逮捕(特捜部は今年7月から9月の4社からの借り入れ7回、32億円の損害分を逮捕容疑)される事件(※3参照)があった。
冒頭貮掲載の図向かって左が「大王子製紙から前会長への貸付金の流れ」(2011・11・22、夕刊朝日新聞夕刊より)
また、大手光学機器メーカーオリンパスが、1990年代の財テクで生じた損失を有価証券の含み損を海外のファンド(fund。※4参照)などに売りはらって損失を付け替える「飛ばし」などの隠蔽工作を重ね、10年以上も不正決算を続け、今年・2011年3月期連結決算(連結決算の語は※2参照)で財務の健全性を示す純資産を300億円以上水増ししていたことがわかったという。この損失は、2001(平成13)年に新しい会計基準(※2:「金融経済用語集」の時価会計また、※5を参照)が導入されたことをきっかけに始められたことがわかっている(※6参照)。
冒頭掲載の図右が、オリンパスの損失隠しのイメージ図である(朝日新聞2011・11月16朝刊“ニュースがわからん!オリンパス問題の「飛ばし」って何?”より)。
『飛ばし』(※2:「金融経済用語集」の飛ばし参照)・・・と聞いて、1997(平成9)年11月24日(月曜日)に起こった大きな事件を思い出す。
同年の前日(11月23日、「勤労感謝の日」)が振替休日で休業日だったこの日は1日、異様な興奮が日本中を覆っていた。
先ず、未明に、サッカー日本代表チームがアジア最終予選でイラン戦に勝ち、初のワールドカップ(1998 FIFAワールドカップ)出場を決めた。日本時間では深夜の放送であったにもかかわらず、50%近い視聴率であり、この歴史的勝利に日本中が沸いていた(その感動的動画は※7で見れる)。
その余韻もまだ醒めない早朝、今度は北海道拓殖銀行が経営破綻した・・・と言う衝撃が日本列島を走った。
日本の資本主義の根幹(縁故資本主義参照)が揺らいだのが、1997(平成9)年とすれば、その混乱の頂点となったのが11月だった。
11月3日に準大手証券の三洋証券が経営難に陥り、会社更正法の適用を申請し、証券会社としては戦後初の倒産をした。この倒産自体はそれほど世間の注目を浴びたわけではなかったが、その後の金融市場に与えた影響は計り知れないものがある。
翌11月4日には、三洋証券に対する裁判所の資産保全命令により、インターバンクのコール市場(銀行間取引市場。※2参照)と債券レポ市場(※8参照)でデフォルト(債務不履行)が発生。戦後初の金融機関のデフォルトとなり、コール市場が疑心暗鬼・大混乱に陥った。
この信用収縮の余波を受け、11月17日には綱渡りで運転資金をやりくりしていた北海道拓殖銀行が都市銀行では初めての経営破綻となり、続いて、7日後の11月24日(月)、野村、日興、大和とともに当時、日本の4大証券の一角である山一證券が経営破綻(※15参照)し、自主廃業を大蔵省に届出のニュースは、日本列島に衝撃が駆け抜けた。
同日の午前11時30分、会長の五月女正治、顧問弁護士の相澤光江と共に東京証券取引所で記者会見に臨んだ社長の野澤正平は「私らが悪いんです。社員は悪くございません。」と泣きながら訴えた。その様子は当時のマスコミによって大々的に報じられたので誰の記憶にも残っているだろう。
この山一證券の経営破綻の引き金は資金繰りの悪化ではあったが、顧客の損失を転々とさせる今回のオリンパスがやったと同様の「飛ばし」(※2)が行き詰まり、山一自身が抱え込むことになって、膨大な簿外債務が出来たのが最大の原因であった。
この間に、「大手銀行だけは安心」という神話も崩れたことから、まだ破綻したわけでもない大手銀行や地方銀行に預金解約を求める長い行列が出来、静かな「取り付け騒ぎ」の状況もあり、金融機関同士の資金の融通さえままなら無い状態が続き、大蔵大臣や日銀総裁が何度も声明を出して、国民に冷静な行動を呼びかける様は「平成不況」を予感させた。
経済の血液である金融の分野が機能不全に陥った1997(平成9)年は、金融界が闇の精力と癒着していることが表面化した年でもあり、「総会屋」と呼ばれる特殊な株主に脅される型で、野村證券(※15参照)をはじめとする4大証券と大手都銀の第一勧業銀行(現みずほ銀行の前身)が利益供与(※8参照)を行なっていたとして東京地検特捜部が次々告発し、現役のトップを含め役員らを続々逮捕していったが、金融機関トップの腐敗は総会屋との癒着だけではなかった。
このような総会屋事件と並行するように日本債権信用銀行に対する“奉加帳方式による救済”(※6参照)、拓銀と北海道銀行(※15)の合併合意と白紙撤回(※7参照)、そして、日産生命保険の経営破綻(戦後初の保険会社の破綻)といった事件が表面化している。
これらは、全て、経営幹部が不良債権の処理を先送りし、決算を粉飾していた結果だった。
経営情報を仲間内だけで処理し、不利な情報には目をつぶり、闇の精力を使ってでも握り潰す。日本の資本主義の心臓部である金融界の膿が一気に噴出した年であったのだ。
この年、11月に入っての金融の混乱は日本発の世界恐慌(※9も参照)に発展する、との指摘もされ始め、そうした危機意識が住宅金融専門会社(住専)以来、タブーになっていた「公的資金」(※4にて公的資金も参照)の投入を政府に決断させ、世論にも受け入れさせる役割を果たした。
また、1999(平成11)年以降の大手銀行を核とした金融界の再編成は、この1997(平成9)年の「危機」がなければありえなかったといわれており、まさに、日本資本主義の分水嶺であったといえる。
だが、政策当局が「金融システム」(※10の金融システムを参照)という公共財をまもることを錦の御旗にしてしまった結果、一企業としての銀行に危機感を薄れさせてしまったともいえる。
翌1998(平成10)年の日本長期信用銀行(現新生銀行の前身)、日債銀(現あおぞら銀行の前身)の相次ぐ破綻・国有化と2000(平成12)年の小売業としては日本最大の負債総額を抱えてのそごう倒産(※11参照)に象徴される混乱は先延ばしされていた1997(平成9)年危機(※15参照)の帰結でもあった(アサヒクロニクル「週間20世紀」094)。
この1997(平成9)年危機については、以下参考の※12:「第2章 日本の金融危機と金融行政」や※13:「森崎研究室」経済学余滴の“総括・平成大不況”に詳しく書かれている。
その後、リーマンショックやギリシャ危機が発生したとは言え、日本政府の抱える国および地方の債務残高(国家財政の赤字)は過去最大(※1参照)となっており、未だに平成不況から脱出できないどころか、ますます悪化してきている。※13:「森崎研究室」経済学余滴の平成の不況は、なぜ長引いたのか?に不況からなかなか脱出できなかった原因がまとめられているが、今、又、政府が財務省の言いなりになって、当時と同じような過ちをしようとしているように思える。
今回のサブプライムに端を発するによるリーマンの破綻による不況も損害額の規模は全く違うとはいえ、日本の不動産バブル崩壊とよく似ている。ただショックによる危機を回避するために国が金融機関に税金の投入をしたのだが、山一は、「飛ばし」と呼ばれる形での大量の隠し不良債権を持っていたが当時、多くの銀行の債務超過が公然の秘密であったが、それを公的資金投入によって救済するため世間を納得させるために無理矢理破綻させたともいえるのに対し、リーマンのケースはそれを隠しに隠していた。そして、その損害額そのものも山一の500倍もあり、この桁違いの債務超過による破綻劇であったことから全世界の激しい信用収縮が始まったといえる(※14参照)。
前の「山一證券が自主廃業を決定」のブログでも書いたが、山一だけでなく、これら企業が損失隠しのため有価証券への虚偽記載をしているにもかかわらず、会社の取締役・監査役、それに、会計監査人である監査法人が知らなかったというよりも、黙認していたことが一番の問題であるが、今回の大王製紙事件やオリンパス事件を見ていても、今の時代になってもこれら一部上場の大手企業のガバナンス(corporate governance)に問題があることが、露見したことが一番問題視されなくてはならないのではないだろうか。
上場企業の決算書類が信用できないでは、金融市場がまともに機能するはずが無い。これら役員や監査法人の責任の追及されるべきだが、会社や代表取締役を監視し物言わなくてはならない立場のものがその会社から報酬を受けていたのでは、どうしても強い対場を貫きにくい。表面的な体裁だけを整えたような現在の会社法などを見直しをし、本当に有効な内部統制の強化をどのように構築するか検討しなければ、何時までもこのような不祥事が起こるのではないか。そうしなければ、日本企業の信用、それを許している日本の国の信用が問われるようになると思うのだが・・・。
参考:
※1:国家財政 - Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/budget/
※2:金融経済用語集
http://www.ifinance.ne.jp/glossary/
※3:大王製紙前会長への巨額融資問題- Yahoo!ニュース
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/daio_paper/
※4 :Yahoo!辞書
http://100.yahoo.co.jp/
※5:時価会計とは何か - 金融用語辞典
http://www.findai.com/yogo/0050.htm
※6:オリンパスに関するニュース- Yahoo!ニュース
http://news.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&p=%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9&ei=UTF-8
※7:[動画]日本代表 1997年11月16日『ジョホールバルの歓喜』
http://funfunfantasy.blog98.fc2.com/blog-entry-1268.html
※8:マネー辞典
http://m-words.jp/w/E582B5E588B8E383ACE3839DE5B882E5A0B4.html
※9:世界恐慌、1929年と現在の違い(1)Allabout
http://allabout.co.jp/gm/gc/293314/
※10:経済指標のかんどころ
http://www.cap.or.jp/~toukei/kandokoro/top/top1.html
※11:YouTube-そごう倒産 〜水島廣雄の「戦後」と「バブル」2 /2
http://www.youtube.com/watch?v=nxrqKx2ja1E
※12:第2章 日本の金融危機と金融行政(Adobe PDF)
http://www.esri.go.jp/jp/archive/sbubble/history/history_02/analysis_02_04_02.pdf#search='日本の金融危機と金融行政'
※13:森崎研究室
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~morisaki/
※14:リーマンと山一證券の破綻はスケールが全く違う  朝倉 慶氏
http://blog.goo.ne.jp/hitsuku/e/f528d4b1b2635354e27bd600f47fa244
※15:お金と沈滞した不況
http://www.okanetochintai.com/
ビジネス法務の部屋
http://yamaguchi-law-office.way-nifty.com/weblog/
東電の救済案でよみがえる不良債権の悪夢
http://www.newsweekjapan.jp/column/ikeda/2011/04/post-314.php
1997年[ザ・20世紀]
http://www001.upp.so-net.ne.jp/fukushi/year/1997.html
北海道拓殖銀行の経営破綻
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2912/taku.htm
今日のことあれこれと・・・山一證券が自主廃業を決定
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/89a0ea86810d2e5e687c93d2ea8f9a6a
山一証券、破産手続き きょう終了: 泥酔論説委員の日経の読み方「山一証券、破産手続き きょう終了」
http://deisui-nikkei.seesaa.net/article/210325879.html
山一證券- wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%80%E8%AD%89%E5%88%B8
税務会計用語辞典
http://www.keikazf4.com/zeimu/index.html