goo blog サービス終了のお知らせ 

福岡発 コリアフリークなBlog

韓国や韓国語に関するオタクの雑学メモ。韓国映画はネタバレあり。 Since 2005/9.14

韓国市場

2006年01月04日 |   〇在日コリアン


(通販カタログ 「韓国市場」新年号)


(通販カタログ 「メイルメイル」1月号)

韓国市場」と「메일매일」いう通販カタログが我が家の郵便受けに
セットで届いていた。

2冊とも東京の同じ業者が発行している。昔、この業者を通じて
格安の国際電話カードを購入していたのだが、その時以来、
定期的に「オタク」の家にカタログを送ってくれている。

主に新しく渡日した在日韓国人を対象とした通販カタログだと
言える。

「韓国市場」は日本人も対象にしているが、「メイルメイル」の
ほうは韓国語一色だ。


(「メイルメイル」は全て韓国語で広告している)

最近、「オタク」の家族が世話になっているのは、韓国食品を
取り扱っている「韓国市場」のほうだ。

この業者が扱っている韓国食品のなかで、「オタク」が個人的に
はまっているのが「もち米スンデ」だ。見た目は全くグロテスクな豚の
腸詰料理だが、一口食べてから大ファンになってしまった。香ばしい
風味に、春雨やもち米、ピーナツなどが詰まったプチプチっとした
食感がたまらない。



(「オタク」の大好物 もち米スンデ)

 

 ← 応援のクリックをお願いします。  


イギョラ!大阪朝鮮高校

2006年01月03日 |   〇在日コリアン


△1月3日 「オタク」も茶の間でテレビ観戦

1月3日、全国高校サッカーで強豪、長崎国見高校を破った大阪
朝鮮高校の快挙には、なぜだか韓国語(朝鮮語)を学ぶ九州人の
「オタク」もいたく感動した。

韓国でも大きく報道されているが、ここで二つの記事を紹介してみる。
大阪朝鮮高校に送る「オタク」なりの「エール」として翻訳に取り組んでみた。

총련계 고교, 日서 파죽의 3연승 8강 안착
総連系高校 日本で破竹の3連勝 ベスト8進出
(連合ニュース)

1990년대 초까지 전국대회 출전이 금지됐던 재일 조선인총연합회
(총련)계열 오사카 조선고급학교가 제84회 전일본고교축구선수권
대회에서 파죽의 3연승으로 8강전에 올랐다.
1990年代初めまで全国大会出場の道が閉ざされていた在日本
朝鮮人総連合会(総連)系の大阪朝鮮高級学校が、第84回全日本
高校サッカー選手権大会で破竹の3連勝を遂げベスト8に進出した。

1차전 승리가 목표였던 오사카 조선고는 일본 고교축구 강호팀을
잇따라 격파하며 8강에 올라 3년전 준준결승에 올랐던 야주고와
5일 4강티켓을 놓고 맞붙게 됐다.
1回戦突破が目標であった大阪朝鮮高校は、日本の高校サッカー
界の強豪を立て続けに撃破しベスト8進出を決めた。5日、ベスト4
進出をかけ、3年前準々決勝に進んだ野洲高校との試合に臨む。


오사카조선고, 66년만의 연승
大阪朝鮮高、66年ぶりの連勝
(連合ニュース)

일본 오사카 조선고급학교 축구부가 새해 벽두부터 3연승을 거둔
전일본 고교축구선수권대회는 우리와는 유독 인연이 깊은 대회다.
日本の大阪朝鮮高級学校サッカー部が新年初頭から3連勝を
収めた全日本高校サッカー選手権大会は我々にとっても実に
因縁の深い大会だ。

이 대회의 전신인 전일본 중등학교 축구대회는 한국 축구사에서
첫 해외원정 경기로 기록돼있다. 1920년대 중반 배재고보
축구팀은 오사카에서 열린 전일본 중등학교 축구대회에 출전해
한국 축구 사상 첫 해외 경기를 펼친 것.
この大会の前身である全日本中等学校蹴球大会は、韓国サッカー
史における初の海外遠征試合として記録されている。1920年代の
半ば培材高普のサッカーチームは大阪で開かれた全日本中等学校
蹴球大会に出場し韓国のサッカー史上、初の海外遠征試合を
くりひろげた。

첫 경기 결과는 0-1 패배였지만 이를 대회 우승으로 만회하는
데에는 그리 오랜 시간이 걸리지 않았다.
初戦の結果は0-1での敗北であったが、この屈辱を優勝で雪辱する
のにそれほど長い時間はかからなかった。

평양 숭실중이 1927년 10회 대회 결승전에서 히로시마이치중에
6-1 대승을 거두고 우승했다.
平壌崇実中が1927年、第10回大会で決勝戦において広島一中に
6-1の大勝を収め優勝した。

이 소식이 암담하던 일제의 압제에 시달리던 우리 민족에게
얼마나 큰 기쁨이었는지는 소파 방정환 선생이 발행하던 잡지
'어린이' 1929년 7권3호에 실린 김원태의 '우리의 운동자랑'이라
는 글을 보면 쉽게 알 수 있다.
このニュースが暗澹とした日帝時代、圧制に苦しめられていた我が
民族にどれほど大きな喜びを与えたか。パン・ジョンファン先生が
発行していた雑誌「子ども」の1929年7巻3号に掲載された
キム・ウォンテの「我らの運動自慢」という文章を見ればよく分かる。

그 후로도 1928년(11회) 준우승(평양학교), 1938년(20회) 3위
(숭인중)를 거쳐 태평양전쟁 발발 전 마지막 대회였던 1940년
(22회)에도 보성중(보성고 전신)이 다시 우승을 차지했다.
その後も1928年(11回)準優勝(平壌中)、1938年(20回)3位
(崇仁中)を経て、太平洋戦争勃発前、最後の大会となった1940
年(22回)にも普成中(普成高の前身)が再び優勝を遂げた。

전쟁을 거쳐 1947년에 대회가 재개됐지만 이 때부터는 남북한
고등학교 팀은 참가할 이유가 없었고 북한의 정책적인 지원
아래 일본 전역에 개설된 재일 조선인총연합회(총련) 계열
조선학교에는 아예 참가 자격이 주어지지 않았다.
第2次大戦後の1947年に大会が再開されたが、以後、南北朝鮮の
高校チームは参加する理由がなかったし、北朝鮮の政策的支援のもと
日本全域に設立された在日本朝鮮人総連合会(総連)系の朝鮮
学校には全く参加資格が与えられなかった。

일본 교육당국은 1990년대 초반만 하더라도 조선학교의 전국
규모 본선 참가를 막았고 이는 자라나는 재일교포 청소년들에게
 좌절을 안겼다.
日本の文部省は1990年代初めまで朝鮮学校が日本の全国
大会に参加する道を閉ざしていた。この政策は多くの在日同胞
青少年に挫折感を抱かせた。

재일교포와 일본 시민단체가 조선학교의 전국대회 출전권 보장
운동을 펼친 끝에 1994년 일본 고교종합체육대회(고교총체),
1996년 전일본 전국고교축구선수권대회의 문이 개방됐지만
이후 10여년간 1승도 거두지 못했다.
在日同胞と日本の市民団体が朝鮮学校に対する全国大会の門戸
開放運動を進めた結果、1994年、日本高校総合体育大会
(高校総体)、1996年、全日本高校サッカー選手権大会への
出場の道が開かれたが、その後10年間、1勝も挙げることが
できなかった。

(中略)

축구 첫 해외원정 패배의 설움을 우승으로 극복했던 79년 전
평양 숭실중 축구부의 혈기나 66년 전 보성중 선배들의 패기가
겁없이 질주하는 오사카 조선고 학생들의 피속에 흐르고 있는
지도 모를 일이다.
初のサッカー海外遠征での敗北という悲しみを優勝で雪辱した79年
前の平壌崇実中蹴球部の血気や66年前の普成中の先輩たちの
覇気が、勇ましく疾走する大阪朝鮮高の選手たちの血の中に流れて
いるのかもしれないのだ。

(終わり)


 ← 激励のクリックを!


小倉オフ会

2005年12月21日 |   〇在日コリアン


△12月18日 「オタク」撮影

12月18日(日)の夕刻より北九州市の小倉で、カフェのオフ会(忘年会)を
開いた。

集まったのは、「オタク」を含めて6人。韓国語を学んでいる日本人2名、
商社や建設会社、大学で働いている韓国人3名、英語教師のイギリス人。

日本語や韓国語の学習、ソウルマルとプサンマル、イギリスの冬、
旅行などなど、話題は多岐にわたり、参加者一同、時間を忘れるほど
会話が楽しめた。

2次会は、場所をカラオケに移し、韓国語、日本語、英語の歌を楽しんだ。


△キム・ヒョンシクを熱唱する「オタク」


年末には、ソウルでのオフ会も予定している。残念ながら、プサンのオフ会は
参加希望者の名のりがなく取り消しになったが、小倉同様、ソウルでも
楽しいひと時が過ごせるに違いない。


2005年の暮れも「オタク」らしく締めくくれそうだ。


韓国情報 - 海外生活ブログ村← クリックで応援!   ← クリックで応援!


ほっとする翻訳依頼

2005年10月22日 |   〇在日コリアン

僕のカフェでは機械的な長文の翻訳依頼等は受け付けていない。
一応、利用規則の中に盛り込んでいる。

以前、時折ではあったが、J-POPの歌詞をそのままコピーしてきた
ものや、日本人にもよく分からない工業分野の専門用語や古語の
単語を何十も羅列したようなものを、韓国語に訳して欲しい、などの
依頼が掲示板に載ることもあった。

そのつど頭を絞りながら、辞書を調べ検索をかけ、可能な限り答えて
来たが、機械的でからかい半分とも思えるような依頼にまで応え
ようとすると、実力的にも精神的にも「質問コーナー」の運営自体が
難しくなってしまうのは目に見えていた。

そこで、ある時期から、その類の質問・依頼は受け付けない旨、
規則として明記したのだ。

とは言え、「質問コーナー」が僕のカフェの「売り」であることに
変わりはない。たとえ一部にわずらわしい質問や依頼があった
としても、その全てが僕の韓国語の勉強になるのは事実だし、
僕の能力と時間が許す限り、できる限り誠実に質問に答えるよう
努力していくしかない。

ただ、最近、そういう「質問コーナー」も徐々に変わりつつある。

韓国(プサン、ソウル)や日本(北九州市、福岡市)で小さな
オフ会を積み重ねながら、直接、顔を会わせ歓談したり、お酒を
酌み交わした会員が、徐々に増えて来たことが、いい効果を
もたらしてくれていると言えよう。

実際に面識のある人々の近況が伝わってくるような内容の
質問や依頼が、ぽつぽつ増え始めているのは、実にありがたい
ことだ。

例えば、Aさんは、去年(2004年)の夏にプサンで開いたオフ会に、
初めて参加してくれた20代の女性だ。その時、すでに、秋から
北九州市のとある建設会社でプログラマーとして働くことが
決まっていた。

彼女の場合、ほとんど全く日本語を知らない状態で来日し、会社で
働き始めた。その上、会社の朝礼時、およそ週に一度の割合で
簡単なスピーチをしなければならなくなった。もちろん日本語で・・・

社員同士の意思疎通を円滑にするための工夫なのか、彼女の
会社では、朝礼時の時間を利用し、全社員が何人かずつ順番で、
短いスピーチをするというルールがあるのだそうだ。

実は、僕は、当初からカフェを通じて、そのスピーチの原稿づくりを
手伝ってきた。・・・早いもので、それももう1年が過ぎた。

インターネットの特質上、相手の正体も質問の意図も全くわからない
会員の依頼に応えることが多い中、彼女の依頼のように「血の
通った」ものには、やはりほっとするものを感じる。

モニターの向こうにいる「人間の顔」が見えるのと見えないのとでは、
電子文の持つ意味も全く違ってくる。

そのAさんが最近、カフェに投稿した実際の依頼(スピーチ文の
日本語訳)の中身と僕の日本語訳をいっしょに紹介してみる
ことにする。

・・・・・・・・・・・・・・・

일본에 온지 1년이 되었습니다..
にほんに きて いちねんに なりました。

처음 일본와서..정말 아무것도 모르고 모든게 낮설어서
はじめて にほんに きて なにも わからず
すべてのことが みなれないものばかりで

혼자서 힘들었던 기억이 엊그제 같은데.벌써 1년 되었습니다..
ひとりで つらいおもいを した のが きのうの ことの
ようですが もう いちねんが たちました。

이렇게 처음 혼자 집을떠나서.1년이라는 시간을
이렇게 잘 지낼수 있었던것은
こういうふうに はじめて いえを でて 
ひとりぐらしを しながら いちねんという じかんを なんとか 
ぶじ すごすことが できたのは

정말 여러분의 덕분이었습니다
ほんとうに みなさんの おかげだと おもいます。

아직 많이 부족하고..배울것도 많지만..더욱더 열심히 하겠습니다..
まだまだ たりない ところが おおくて
まなぶことも たくさん ありますが
これから もっともっと がんばりたいと おもいます。

정말 감사합니다
ほんとうに ありがとう ございました。

(終わり)


韓国情報 - 海外生活ブログ村    ← 応援のクリックをお願いします。


「にあんちゃん」だって!?

2005年10月14日 |   〇在日コリアン

■ 니안짱·행복을 찾는 니노
ニアンチャン・幸せを探すニノ
(韓国日報 10月14日付け)

・・ ・・

いやぁ・・・この記事にも驚かされたなぁ。

見出しからもわかるように、この記事は日本の「にあんちゃん」、
ブラジルの「幸せを探すニノ」、そして韓国の「저 하늘에도 슬픔이
(ユンボギの日記)」の三つの作品についての回想や紹介が
中心だった。しかし、そういう物語は決して遠い世界の話ではなく、
現代の韓国にも、今もなお厳しい貧困の中を生きている人々が
大勢存在している事実に思いを馳せながら、そういう人々を
置き去りにしたまま、富める人々が享受している「幸福の質」を
問い直すことが、真の主題となったメッセージ性の濃い記事であった。

それにしても「にあんちゃん」だなんて・・・

この本は、昭和20年代の末、佐賀県の炭鉱町を舞台に、
両親をなくした四人の兄弟姉妹がおりなす日常を、末っ子の
小学生がつづった日記が元になっている。彼女を暖かく見守った
担任教師の手から出版社へと移ったその日記が「にあんちゃん」と
いう題名で1958(昭和33)年に出版され、たちまちベストセラーに
なったのである。

貧しくとも希望を失わず、周囲の協力にも助けられながら、
たくましく生きる兄弟姉妹の生活をつづった素朴な日記は、
家族や人間のぬくもりを伝えるヒューマンな応援歌ともなり、
戦後の貧しい時代を歯をくいしばりながら生きていた同時代の
多くの日本人の共感を呼び起こした。

1959(昭和34)年には今村昌平監督のメガホンで映画化も
されている。

作者家族が在日韓国人だったということもあってか、この日記は
韓国でも大きな注目を集め、翻訳本もかなりの人気を集めたようだ。

そういう意味では、「にあんちゃん」は海峡を越えた応援歌とも
なったのである。

実は、僕は、1980年代末のプサンで、この「にあんちゃん」の
翻訳本を買っている。現在、手元にないし、読んだかどうかも
はっきり覚えていないが・・・。

この「にあんちゃん」に限らず、日本のベストセラーは、ほぼ全て
韓国語に翻訳されてきたと言っても過言ではないだろう。

現在でも韓国では、合法・非合法を問わず(!?)日本の小説が
たくさん紹介され、広く人気を得ている。

今年に入ってからも、ソウルにある韓国最大の書店であるキョウボ
文庫で販売された月間「小説ベスト100」(2005年6月)の中に、
日本人作家の小説(翻訳本)が27冊も入り、韓国人作家の22冊を
追い抜いたことが新聞紙上で話題になっていた。
(僕が確認した記事は2005年7月4日付けの中央日報の記事)

・・・・・・・・

翻訳本とは言え、日本の小説をこれだけたくさん読んでくれて
いる国が、日本以外に、はたして存在するだろうか?


 ← 応援のクリックをお願いします。