アウトドアライフの記録

四季それぞれに あちこちの山に登ったり、桜や紅葉の写真、および南の島の記録を写真とともに整理して、ブログにまとめました。

世界文化遺産熊野参詣道中辺路を歩く 熊野灘路 その3 2014年9月4日

2014-10-17 09:58:48 | 世界文化遺産熊野参詣道中辺路を歩く
その3
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王子神社に到着。さっそく参拝する。

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こじんまりした お社がある。その傍らの「主祭神 」を読んでびっくり仰天した。

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この神社の主祭神 は「稲飯(いないい)」と「三毛入り(みけいり)」だと書いてあるではないか。非常に驚いた。

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秦国から大量の技術者や若者ー海童たちを連れて 紀元前2世紀のはじめに石見の五十猛海岸に上陸する。
一旦秦国へ帰った徐福は校庭に更なる資金と海童をもらい船出して
二度目に和国上陸を九州築紫にする。

徐福は、宇佐王家(出雲王家の第六代主王臣津野の皇子吾田片隅が宇佐に移住して開いた王家)
の宗像家三姉妹(吾田片隅の三人の娘)の市杵島姫を后にする。そして生まれた皇子穂穂出見ホホデミが立ち上げた王家が 九州物部家だ。

それから約300年後の二世紀はじめ 九州物部王家の物部五瀬(いつせ)は大和への第一次東征を開始する。五瀬たちは 最初紀の国に上陸するが 徐福が最初に上陸した出雲で 出雲王家の高照姫と結婚して出来た長男五十猛の息子高倉下の子孫たちに 紀の国で手痛い反撃を食い 大将の物部五瀬は戦死する。

残った九州物部軍は 船で南下して 熊野に上陸するが、ここでも大和磯城王朝の軍勢の反撃で身動きがとれず、
熊野川の中州(昔の熊野大社本殿、今の大斎原)に閉じ込められていたという。

そこでひそかに密使を大和の登美家(出雲王家の分家大和登美家)へ送り、ヤタガラス(登美家当主の加茂建津乃身)
の導きで 無事大和の磐余の地に入り 磐余彦(いわれひこ)と呼ばれるが それが戦死した物部の五瀬の弟の 
稲飯なのか ミケイリなのか分からないので 記紀は「物部のウマシマチ」と言う名前をでっち上げたのだ。

その熊野上陸した 物部の稲飯と物部の三毛入りの両方が主祭神 なので驚いた。
私が読んできた「斎木雲州先生」の出雲王朝の古代史のまさにその通りなので 驚いた次第だ。

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この神社の前のアスファルトの道路には なんと「熊野古道」の案内標識が埋め込まれていた。
この「王子神社」から「阿須賀神社」へ行きそれから「熊野速玉大社 」へ行くように表示してある。そこで次に阿須賀神社へ向かうことにした。

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道路に埋め込まれた標識どおりに歩いていく。これも熊野古道なのだ。

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突然きらきらした支那風の門が出てきた。見ると「徐福公園」と書いてあり、びっくりだ。早速中へ入ってみる。

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なんとこれが 道教の導師「徐福」だという。説明を読んで またまたびっくり。
なんと徐福は沢山の海童を連れて この熊野川の河口から 和国へ上陸したと書いてある。
どこから こんな嘘を思いついたのだろう。

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徐福は 一回目に和国上陸する前に 忠実な部下の「穂日ほひ」を出雲王家に使わして上陸の許可を取った。
実際に上陸したのは 石見の国の五十猛海岸だ。その穂日の子孫が今の出雲大社の宮司なのだ。
出雲王家の高照姫と結婚し長男「五十猛」を生み、五十猛の長男「天の村雲」が大和入りし初代大和の大王となる。

一旦秦国に帰国した徐福は 秦の始皇帝に更なる資金と若者(海童)たちと技術者をもらい不老不死の薬を求めて 
再び船出して 二度目は九州築後平野に上陸し、宗像王家(出雲王家の分家)の三姉妹の末っ子姫の市杵島姫と結婚し、
次男穂穂出見をもうける。ホホデミが九州物部家を起こし その子孫が東征して大和入りするのである。

つまり熊野に上陸したのは 徐福ではなくて、徐福亡き後約350年後の子孫の九州物部王家の稲飯と三毛入りなのである。
しかし嘘もこう堂々と書かれると 感心するなあ。

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阿須賀神社が分からなくて、地元の方に聞きまくり やっと到着した。

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この阿須賀神社の由来書を読むと大変面白い。
考霊天皇(フトニ大王)の7年に徐福がこの地に上陸したと書いてあり、この神社は徐福を祀っているらしい。

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その頃この地に上陸したのは 先ほどの王子神社の主祭神 「稲飯と三毛入り」で
彼らが大和入りしたので 村雲に始まる海部王朝(あまべおうちょう)第七代フトニ大王
(のちほど考霊と贈り名をつけられた)は大和の国から吉備の国へ逃げ 更に出雲王国の伯耆の国へ進出して 
出雲王家と第一次出雲戦争を引き起こすのである。

つまり紀元後170年頃に 熊野に上陸した徐福の子孫たちのことをこの神社では 
「徐福が上陸した」と書き換えて ついでに徐福を祀っているのである。

このあたりの神社は 先ほどの王子神社のように 歴史も非常に古く その由緒を読むと大変面白い。
その由緒は全くのでたらめではなくて 何らかの根拠があり、とても面白いのである。

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あちこち歩いているうちに、いつの間にか例の「熊野古道」のプレートを埋め込んだ 熊野古道に戻っていた。
さあいよいよゴールだ。正面に赤い大鳥居が見えてきた。熊野速玉大社 だ。

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ゴールの「熊野速玉大社 」にやっと到着した。

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境内に入ると立派な神殿が立ち並んでいる。

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拝殿の向こうが本殿だ。主祭神 はもちろん熊野速玉大神つまり徐福だ。

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徐福は最初の石見五十猛海岸に上陸した後 和名を「火明(ほあかり)」と名乗ったが 
二度目の九州筑後平野への上陸では 「饒速日(ニギハヤヒ)」と名乗った。
その「速」を採り 徐福の名を隠したのが「速玉」なのであろう。

中辺路を歩きとおし 滑りやすい山道で 転倒滑落することも無く 
無事にゴール出来たので 速玉大神に感謝とお礼をして旅を終わる。

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実際に歩いた記録 その1 高野坂


実際に歩いた記録 その2 新宮市内

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実際に歩いた高度と距離の記録 歩行距離は約10キロであった。

あちこち迷いながら歩いたので 実際は3時間ほどかかった。
高野坂は標高60メートルほどの低い坂で そのほかの道は ほとんど平地だった。



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※歴史については 大元出版 斎木雲州著 「出雲と蘇我王国」、「古事記の編集室」、
「出雲と大和のあけぼの」、「御伽噺とモデル」、勝友彦著「親魏和王の都」、谷戸貞彦著「幸の神と竜」 などを参考としました。



地図については、最終熊野灘高野坂コースはメイツ出版「熊野古道」から借用しました。
それ以前の滝尻から熊野那智大社までの地図は 田辺市発行の「熊野古道めぐり地図帳」から借用しました。(滝尻の熊野古道館で頂きました)。



実際に歩いた記録は「ガーミンハンディGPSの記録です。

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