怒りのブログ

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大衆メディアは死んだ(ジョンライドン風に)

2012-04-26 00:08:27 | 戯言
【武邑光裕氏×武田隆氏対談(前編)】 フェイスブックから離れ始めたアメリカ人(ダイヤモンド・オンライン) - goo ニュース

もうね。馬鹿さらしとうかナンセンス。
そんなの10年以上前に知っていたよというのが当時のネット標準の意識。
こういう輩がいるからメディアは息の根が止まらない。

(以下引用)

【武邑光裕氏×武田隆氏対談(前編)】 フェイスブックから離れ始めたアメリカ人
ダイヤモンド・オンライン2012年4月24日(火)14:00

ツイッターやフェイスブックをはじめとする世界的なソーシャルメディア企業が数多く生まれる米国は、まさに“ソーシャルメディア先進国”の名にふさわしい。
だがその一方で、米国人のソーシャルメディア疲れは相当なレベルに達しているとも言われている。最近では、行きすぎたデジタル化の毒気を抜くという“デジタルデトックス”と呼ばれるトレンドも目立つ。
今回と次回の2度にわたり、アメリカのソーシャルメディア事情にも精通するメディア美学者 武邑光裕氏をゲストにお招きし、ソーシャルメディア社会が進んでいった先に見えてくる問題について、エイベック研究所の武田隆氏とともに考察を進めていただく。

武田:最近は日本でも、テレビだけが中心ではなくなってきて、「メディアを消費者が選択する」時代と言われています。個人の身近なメディアでいうと、タブレットがあって、スマートフォンがあって、フィーチャーフォンを使っている人もいる。両方を使い分けている人もいる。そして、彼らがマスメディア、テレビを見ないかというと、見ない人もいるけど、見る人もいる。

 このように、個人を取り巻くメディアが多様化しています。私のようなマーケターや広告主側は、メディアについて改めて解釈をする必要に迫られています。

 他方、一般の消費者たちも、「フェイスブックはこんな使い方がいいよね」とか「ツイッターだからもっとフランクになっていいよね」とか、メディアの特性について語り始めています。こうした「メディアそのもの」を語る状況は、10年前までは、メディア論を学んでいる学徒でもないかぎり、会話の中にあがってくるものではありませんでした。


武邑光裕(たけむら・みつひろ)
札幌市立大学デザイン学部(メディアデザイン)教授。日本大学芸術学部専任講師、京都造形芸術大学情報デザイン科助教授、同大メディア美学研究センター所長、東京大学大学院新領域創成科学研究科環境学専攻メディア環境学分野助教授を経て、2006年より現職。専門はメディア美学、デジタルアーカイブ情報学、創造産業論、ソーシャルメディアデザイン。一般財団法人デジタルコンテンツ協会評議員、札幌市「創造都市さっぽろ実行委員会」幹事長、TMT Strategiesアドバイザー。 著書『記憶のゆくたて デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普財団テレコム社会科学賞を受賞。平成19年度北海道総合通信局長賞受賞。

武邑:おもしろい時代になりましたね。マーシャル・マクルーハンはかつて、「メディアはメッセージだ」と言いました。デジタル時代になってコンテンツが0と1になってメディアを選ばなくなったから、「メディアはメッセージだというのは崩れた」という人がいます。

 ところが実際は逆で、ソーシャルメディアが広まる中で、メディアはメッセージということがより鮮明になってきています。たとえば、ツイッターとフェイスブックの違いは、みんな感覚的にわかっていて、それぞれを使ったメッセージの発し方にも表れます。各メディアが含んでいるメッセージがより際立ってきているのだと感じます。

武田:マクルーハンのメディア論は今こそ、もう一度振り返ってみる価値がありそうですね。

 先生は、マクルーハンとはどんな関わりをお持ちだったのですか。

武邑:直接お会いしたことはありませんが、トロント大学にマクルーハンがつくったマクルーハン・プログラムという研究所があって、ディレクターをやっていたデリック・ドゥ・ケリコフが友人だったことから、そこにおじゃまして研究員のようなことをやっていました。

 また、現在は息子さんのエリック・マクルーハンといっしょにニューヨークのデジタル系のコンサル会社TMTストラテジーのアドバイザーを務めているという縁もあります。

武田:ケリコフ氏は、90年代前半に先生からご紹介いただきました。ケリコフ氏が来日された際、講義を受けたこともあります。その時のテーマが「コネクテッド・インテリジェンス」、つまり集合知でした。今なら理解できますが、当時学生だった私には、何のことやらさっぱりわかりませんでした(笑)。