後藤和弘のブログ

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盲目の詩人、エロシェンコが何故新宿、中村屋に住み込んだのか?そしてその後の生活は?

2009年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム

油絵の好きな人ならきっと中村彝と鶴田吾郎のエロシェンコ像を知っていると思います。思慮深そうな、そして暗い、悲しい表情をしたロシアの盲目の詩人の油絵です。このような表情はどうして生まれるのでしょうか?なにか深い理由があるに相違ありません。そこで、中村屋サロンというHP,http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p01.html からその生涯をご紹介したいと思います。

その中に、中村屋の創業者の相馬夫妻がエロシェンコ逮捕に抗議して淀橋警察署長を告訴するくだりがあります。そしてエロシェンコの1921年の国外追放のあと彼を偲んで中村屋はロシア料理のボルシチを発売するのです。相馬夫妻の熱い情熱が眼に見えるようではありませんか?皆様はどのようなご感想をお持ちになるでしょうか

===========中村屋サロンのHPより抜粋。転載==========

ワシリー・エロシェンコは1890年、ロシアのオブホーフカに生まれました。不幸に真央4歳の時ひどい病気になり失明します。狂信的な両親が神様しか病気を直せないと思い、医者に見せなかったのです。それからはエロシェンコは気持ちが荒れ、暗黒の世界で苦しんだのです。心配した両親はモスクワの盲人学校へ入れたのです。そこはまるで盲人の収容所いや刑務所のような残酷な場所でした。

この経験からエロシェンコは迷信への怒り、科学への憧憬、権威への反発などを持ようになったのです。悲劇的な少年時代を過ごしたのです。その結果、人間を見かけではなく、人間性で見る姿勢が見についたのです。

1909年やっと自宅に戻ったエロシェンコは盲人オーケストラで働き、1911年にカスカズ、そして1912年にイギリスへ旅行をします。21歳のとき行ったカスカズではでは当時流行の人造国際用語のエスペラント語を覚えます。そしてイギリスでは日本が盲人へ対して寛容な社会だという噂を聞きます。

そこで日本へ渡る決心をし、日本語を勉強し、日本人と文通をしながら渡航の準備をします。1914年、24歳の時、はじめて憧れの日本へやって来るのです。

日本では劇作家の秋田雨雀、早稲田大学の教師、片山伸、ジャーナリストの神近市子らと交流を持ち、片山のサークルで相馬黒光女史に出会います。

黒光女史はエロシェンコを気に入り、衣食住の面倒をみ、エロシェンコもまた黒光女史をおかあさんとまで呼ぶようになります。

1916年には一度東南アジアへ出ますが、1919年にはまた中村屋へ戻ります。そして1920年に中村彝と鶴田吾郎のエロシェンコ像のモデルになるのです。しかしその後エロシェンコは次第に社会主義へ傾倒し始めます。そこで淀橋警察は中村屋に土足で踏み込み、エロシェンコを逮捕するのです。それに対抗して相馬夫妻は淀橋警察署の所長を不当逮捕のかどで告訴します。結局のこの告訴は淀橋警察所長の引責辞任で幕を閉じます。

しかし1921年、エロシェンコ31歳の時、三回の逮捕後、日本から国外追放になったのです。

相馬夫妻はエロシェンコへの想いを込めて、店員の服装を彼が愛用したルパシカにして、さらに1927年にはロシア料理のボルシチを発売したのです。

国外追放後は魯迅に招かれて北京に渡り、北京大学で教鞭をとり、かたわら演劇活動もします。北京でのメーデーに参加したりエスペランチスト大会に参加したりして国際友好にも貢献しました。

1923年には故国ロシアへ帰国し、盲人のための仕事に熱心に従事します。その後故郷のオブホーフカに住み、1952年12月23日に62歳の生涯を閉じます。エロシェンコ像で長く日本では忘れられないないのです。彼も、天国で日本のこと、相馬夫妻のことを懐かしく思い出しているに違い有りません。草の根交流とはこのようなことを言うのでしょう。(終わり)


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