後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「中国の鵜飼の人々の悠久の人生」

2024年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム
中国は本当に広いのです。広大な湖沼地に住む鵜飼の人々にとっては日中戦争も別世界の出来事です。1000年、2000年と王朝が変わっても日中戦争があっても一切関係なく同じ生活をしています。これこそ悠久の人生ではないでしょうか?
私が実際に中国人の鵜飼から聞いた話をご紹介いたします。
○河北の湖の鵜飼漁師部落にて
あれは1996年のことでした。北京の南、河北省の保定市が技術センターをつくりたいというので、出来るだけの協力をしようと、何度か同地に通ったのです。
仕事が休みの日、河北大学の先生が、日帰りの観光旅行へ連れて行ってくれました。その観光地は広大な湖でした。縦横ともに約40Kmもあり、近隣の農民の観光地らしく、湖上遊覧の船がビッシリと並んでいます。客を呼び込む声が騒がしく響いていました。
岸辺には、質素な魚料理店がいくつもあり、農民が群がっていますが、外国人観光客は一人もいません。
船に乗ると、水面から3メートルぐらいに伸びた葦が密集して視界がききません。船の通れる幅だけの迷路のような水路を右左に進むと、突然視界が開け、一面大輪の白いハスの花が咲いていました。
花が散った後は、蜂巣のような形にハスの実がなっています。ハス田に船を押し込み、船頭が実をむしり取って、健康に良いから食べろと言います。おそるおそる食べましたが、青臭い味で美味しくはありません。
さらに密集した葦の中を沖へ沖へと進むと、かなり沖に出た所で水路が開け、黒い鵜(う)を20羽くらい乗せた舟が何艘も舫っています。そこは鵜飼漁で生活をしている人々の住んでいる島で、何軒かの粗末な漁師の家が見えます。
鵜飼と言えば、長良川の鵜飼を見ていたので、鵜飼の発祥の地へ分け入ったような感じがします。
そこで漁師の話を聞くことにしました。黒い鵜が並んでとまっている舟に近付いてもらって中国人の鵜飼と話をしました。それは通訳を通しての一時間ほどの会話でした。
○鵜に助けられ、日本兵から逃げ切った話
「お邪魔しますが、少しお話をして良いですか?」「いいよ」「鵜飼は日本にもありますが、中国から伝ったようですね。これで生活しているのですか?」「そうです。一年中よく魚が取れるので十分生活出来ます」「鵜飼の難しいところは?」「鵜は一羽一羽、皆気性が違うので、それに合わせ世話をすることです」
「話は変わりますが、前の大戦では日本兵が来ませんでしたか?」「われわれを強制的に使役に使うために、よく駆り出しに来ました」「ひどい話ですね」
「いや、私は一回も捕らなかった。日本兵は駆り出しを始める前、湖に向かって威嚇の鉄砲をパパーンと打ち上げます。それを聞くと、舟に鵜を乗せて視界の悪い密集した葦の中に入ってしまうのです。岸から遠く離れ、二、三日、鵜が取った魚を食べて暮らすのです。燃料は枯れた葦の茎、野菜は食用になる水草とハスの実。生活には困りませんね。二、三日して島に帰ると、日本兵は居なくなっている。戦争で日本兵を見たことはありませんでしたね。鉄砲の音だけでしたよ」
「鵜に助けられたのですね」「いや全くそうです」
○日本は中国の一地方?
「私は日本から来た者ですが、日本はどこにあるかご存知ですか?」「知っているよ。いまは東北地方と呼んでいる辺りにあったよ。清朝があった満州というところらしいね」「そうでなく、その東の東海の上にある細長い国です」「ああ、そう言えば朝鮮とか言ったね。まあどちらにしても中国の一つの地方にあるんだ」
この老人にとって満州も朝鮮も日本も大差無く、そのいずれも中国の一地方と思っているらしい。
「ところで、1949年に中国の共産党が国民党に勝って全中国を統一し、独立させたことは知っていますか?」「ああ知っているよ。中国を植民地にしていた外国どもを追い出した。でも何百年と続く鵜飼漁のこの島の生活はなんにも変わり無いよ」「丈の高い葦が密集し、そして、この沖の島まで迷路のような水路しか無いからですね」
共産党中央の権力闘争も文化革命もはるか別世界のことに違いない。
初夏の風が葦を騒がせ、遠方では一面の白いハスの花が揺れている。保定市の騒がしい経済開発区の傍に、こんなに静かで悠久な生活がある。中国の湖沼地帯の田舎は想像以上に広く草深く、そこには悠久の人生が何代も続いているのです。


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。