後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

幻想的な樹木の写真をお楽しみください

2014年11月11日 | 写真
昨日、40年前に「知り合ったアメリカ人が綺麗な木々の写真を送ってくれました」と題する記事を掲載いたしました。今日はその続きとして幻想的な樹木の写真を5枚お送りいたします。
Jim & Santa さんは1972年ごろカトリック立川教会で知り合ったアメリカ人です。時々面白い写真を送ってくれます。今日は先日ご紹介した木々の写真3枚の続きです。お楽しみ頂ければ嬉しく存じます。
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Amazing pics of tree the world over. Hope you enjoy.
Jim & Santa
http://www.duskyswondersite.com/tag/amazing-trees/









あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(5)革命的な磁器焼成と李朝の白磁

2014年11月11日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は柿右衛門が磁器の絵に赤絵を焼き付けの成功したことを学校の教科書で習ったことを憶えていると思います。それは1646年のことでした。
日本では秀吉の朝鮮出兵まで磁器の焼成ができず土器を焼いた須恵器という陶器しか出来なかったのです。それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。
この新しい技術には2つの絶対条件が要求されます。
(1)磁器になる岩石成分を多く含有する磁石(じせきと言い、じしゃくとは違う)を発見する技術。
(2)焼成する炉の熱効率を上げて1000度以上の温度が出る構造の焼成炉を作る技術。
この二つの技術が日本には無かったのです。
さて朝鮮から連行されて来た陶工達はどのようにして上の新しい技術を伝えたのでしょうか?この問題を詳細に研究して発表している専門家がいます。彼は東京都の東京都の清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんです。以下は彼の2008年6月発表の研究論文(http://members3.jcom.home.ne.jp/nabari.u.y/imari.pdf)からの抜粋です。佐賀県の一帯には、古来より須恵器からつづく窯が点在していました。その景観が一変する契機となったのが、秀吉による朝鮮半島への出兵でした。  
  ・文禄の役(1592 ~ 94)
  ・慶長の役(1597 ~ 98)
 この文禄・慶長の二度にわたる出兵により、数多くの朝鮮人が各武将の軍とともにわが国へ渡って来たのです。そのなかに陶工達がいました。
 もともと朝鮮半島での戦は恩賞としての領地を与えられぬ戦です。
そこで朝鮮陶工を帰化させることにり、諸藩へ新たな窯業を興させ、それをもって恩賞に代えることにしたのです。それが秀吉の政策でした。
 彼らは付き従った諸藩へ帰化し、各々の領主の庇護を受けて陶器の焼造をはじめたのです。それらは後に、唐津焼、上野焼、高取焼、薩摩焼、萩焼と呼ばれる窯業地帯を形成させていったのです。     
 なかでも多数の朝鮮陶工をともない、後の唐津焼きの礎を築いたのが北九州の鍋島藩、平戸藩、唐津藩でした。
 その陶工らは、松浦・佐賀・多久・武雄、平戸・諫早に陶土をみいだし、それぞれの窯を築いた。のです。やがて有田西部の乱橋に移住した李参平は、有田川上流の泉山の地で磁器原料となる磁石(北を指すいわゆる磁石とは違います)を発見します。
上白川の天狗谷に窯を築き、磁器の試作を完成させたという。これこそが我が国で磁器が焼成された新しい技術革新でした。
そして正保三年(1646)、酒井田柿右衛門が赤絵に成功したのです。
国産赤絵の成功を契機に、藩は一方で磁器製法の秘術を守り抜くために有田皿山へ番所を設け商人の直取引を禁じ、他方で海上輸送の焼物の集積港である伊万里津へ買い付けの場を定め、販売の制度を確立していった。
美しい絵模様のついた磁器はやがていろいろな藩で焼成されるようになり藩財政を潤したのです。そして江戸時代の外国貿易の主要な輸出品になっていったのです。その詳細は是非、清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんの研究論文をご覧ください。
それはさておき日本で現在でも尊重されている朝鮮本土の李朝白磁の写真を見てみましょう。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流でしたが、17世紀以後は白磁に変わりました。
中国の元、明の白磁の影響を受けたものですが、17世紀には色が青味がかり、李朝末期には濁った白色に変わったのです。
李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていました。
1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になっていましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わったのです。
下絵付はありましたが、上絵付はありませんでした。
コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂(赤茶色)も作られたのです。

しかし、李朝白磁の95%以上は他の色による装飾がない純白磁であり、江戸時代に日本で作られていたような華やかな色絵磁器は李氏朝鮮には存在していません。以上の解説文は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9C%9D%E7%99%BD%E7%A3%81#mediaviewer/File:Baekja-White_Ceramic.jpg から抜粋いたしました。
さて李朝の白磁は素朴で暖かみがあります。その上、上品な感じがします。見る人の心をなごやかにするのです。私も好きです。現在の日本人も尊重していますので、その写真を示します。
李朝の焼き物の一番目の写真以外の写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html です。一番目の写真の出典は上の解説文の出典と同じです。
二番目は李朝初期の白磁皿です。三番目は初期の白磁徳利です。四番目は李朝中期の貝文大徳利です。五番目は李朝後期の大白磁徳利です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)