後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

カトリック小金井教会のミサ

2014年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は家内とカトリック小金井教会のミサに行きました。
今日の聖書の朗読は、エゼキエルの預言(一部分)、答唱詩編、使徒パウロの手紙、そしてアレルヤ唱を唄い、ヨハネによる福音でした。
ヨハネによる福音はイエス様が暴力を使う唯一の場面です。
・・・ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このようなものはここから運び出せ。私の父の家を商売の家としてはならない」・・・・・
神殿で金儲けの商売はしてはいけないというイエス様の言い分には賛成です。しかし暴力はいけません。しかも牛や羊や鳩は、信者が買って「いけにえ」として神に供えるのです。いけにえは供えたあと食べたのでしょうが。
そのいけにえを買うのには占領軍のローマの貨幣を使ってはいけません。ユダヤの貨幣を使わなければいけません。ですからこそ両替屋が必要だったのです。
境内で商売をしないで神殿の外の参道ですべきだったのでしょう。しかし神殿の中のほうが商売繁盛です。つい境内の中で商売をしたくなります。
この様に新約聖書は当時のユダヤ人の風習をいきいきと描いているので面白いのです。
福音書の朗読のあとは聖歌を歌ったり信仰宣言をします。そしてイエス様の体の一部に見立てた聖なるパン切れを神父様から貰って、それを食べてから帰ってきました。
その上、今日のミサの終わりのほうで七五三の可愛い子供たちが祭壇の前に並んで神父さんの祝福を受け、千歳あめを貰っていました。
今朝の記事では、おたあジュリアのことを書いたのでジュリアのためにも祈ってきました。
さてと、午後は天気が悪いのですが一回りドライブにでも行くつもりです。
皆さまも楽しい日曜日を過ごすように祈っています。
今日のミサの報告でした。

写真には函館のカトリック元町教会をご紹介いたします。
1859年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。このカトリック元町教会は、以後、3度の火事にあいます。現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。
この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い作品です。美しい作品です。この教会全体が調和を持った一個の美術的な作品になっています。
この教会の創立は明治維新の起きる前の江戸時代です。キリシタン禁教は厳しく、明治政府になってから7年間もキリシタン禁教が続けられたのです。ですから教会が出来ても隠れキリシタンは訪れることは出来ませんでした。下に外観と内部の写真を示します。




あなたの隣人を愛せますか?・・・朝鮮文化を少し知ろう(4)日本人に感動を与えた朝鮮の少女

2014年11月09日 | 日記・エッセイ・コラム
この連載記事の目的は日本文化と朝鮮文化には絶対に優劣が無いということを理解してもらうのが目的です。今まで朝鮮の歴史や文学や韓国の世界遺産を紹介してきました。
今日は日曜日なので日本人に感動を与えたカトリックの朝鮮の少女の事を書きたいと思います。彼女の名前は、おたあジュリアといい、秀吉の朝鮮出兵の時、小西行長に連れて来られてのです。そして信仰を捨てなかったのでい伊豆七島の神津島へ流されたのです。その島で彼女は人々に非常に大きな感銘を与えたのです。
この話は何度か書きましたが、その記事を再編集して以下にお送りします。

一番目と二番目の写真は神津島の写真です。
(写真の出典:http://runo345.btblog.jp/)

神津島へは私も2006年に旅をしました。
江戸幕府は250年間にわたる恐怖のキリシタン弾圧を続けたいたのです。
キリシタンとして捕まった朝鮮出身のジュリアは、むごい拷問にあっても絶対に棄教しなかったのです。
ジュリアは秀吉の朝鮮遠征のとき日本の武将、小西行長によって連れて来られたのです。磔の刑を免れて神津島への遠島の刑を言い渡されます。
流された神津島では、ジュリアは罪人にも拘わらず人々の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。
江戸時代はキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。
ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事は絶対に秘密にしなければいけません。幕府の役人の拷問を想像して恐れました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。
時代は明治、大正、昭和と流れて行きましたが、この秘密は島民に守られ語り継がれて来たのです。
話は変わりますが、2006年に私は満70歳になったので仕事を一切止めました。
そして伊豆七島の神津島へ東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島へ小さな旅をしました。
山ばかりで平地が無い小さな島で、島の民宿に投宿しました。
そして燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞いたのです。彼は低い声で話し出しました。
「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 ・・・・
「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 ・・・・
「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」 ・・・・
「おたあ、に島の人々は感銘を受け、彼女の島での生活を暖かく助けたのです。しかしキリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」 ・・・・
「ですから神津島の人々はこのおたあジュリアのことは絶対に秘密にしたのです」・・・「秘密は明治、大正になっても固く守られたのです」・・・
「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。まあ、つまらない話かもしれませんが」
現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものです。
帰宅後、調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の養女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かりました。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首されます。
家康の側室の侍女となったが家康の言いなりになりません。
桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になったのです。
それは慶長17年、1612年のことでした。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もあります。
現在は、毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」があります。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアあたあの慰霊祭も同時に行っているのです。
尚、ジュリアの最後には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではありません。
三番目から六番目の写真4枚は順々にジュリアの姿、神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)、韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、そして六番目の写真は荒れる太平洋の波の様子です。
なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)







毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。2010年にも5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されました。