後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ヨットのセイリングの光景を見ると胸が熱くなる

2014年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨットの趣味は25年間楽しんでいました。風が強いと怖い思いをする趣味です。冬のセイリングは辛いものです。しかし港に舫って夕日を見ながら飲むビールの素晴らしさは格別です。
その趣味を3年前の75歳の時にスッパリ止めました。
しかしヨットのセイリングの光景を見る度に胸が熱くなります。
今日は繁田慎吾さんのお蔭で神戸ー横浜外洋ヨットレースの写真を見せて頂きました。自分が波濤を越えているような錯覚をおぼえて興奮してしまいました。
その写真と記事を以下に転載いたします。
下の写真のヨットは風を左前方から受けて風上に上っています。クロ-ズホールドという帆走方法です。
ヨットが一番安定し、波が船体を打つ音がザワザワと聞こえ、何とも言えない良い心地になるのです。この写真を見ると風の強さが丁度良いようです。これ以上風が強くなると船体がもっと傾いてスピードが上がります。
右のデッキを波が洗うようになり最高のスピードになりますが、怖いのです。転覆しそうに感じて怖いのです。ヨットは怖いから面白いのです。そんなことを想像して興奮しています。ヨットは止めても楽しめるのです。

第2回神戸横濱ヨットレース:第二回神戸・横濱ヨットレースを開催する目的;
「もし、自分が出たいと思うレースがあるならば、自ら汗を流し、レースを育て支えていくべきだ」これが私共の基本的な姿勢です。
その考えを原点に置き、神戸・横濱ヨットレースを始めました。ヨットレースは、伝統を守り、行われてきた歴史を大切にするべきものだと思います。
世界の有名レースであるトランスパックは100年以上の歴史を誇ります。
バミューダレース、ファストネットレース、シドニー・ホーバートレースも長年続いてきたレースです。
残念ながらわが国には、世界に誇れる外洋レースが存在いたしません。これは誠に残念であります。
ひとつのレースを長い間時間をかけて、地域に根ざして地域に支えられて、そうして育てていく。そのようなレースでなければ、世界的といわれるレースには成長できません。
私たちは、このような方向性を持ち、第二回神戸・横濱ヨットレースを実行してまいりたいと思っています。
このページをご覧になっていただいている皆様、どうぞ宜しくお願いいたします。
・・・第二回神戸・横濱ヨットレース実行委員会・・・https://www.facebook.com/pages/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E7%A5%9E%E6%88%B8%E6%A8%AA%E6%BF%B1%E3%83%A8%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B9/237390309787727?pnref=story
以下の2枚の写真は2011年10月18日に家内と一緒に最後のセイリングをしたときの写真です。

場所は霞ヶ浦です。下の写真の遠方に筑波山が写っています。

秘郷、秋山郷の紅葉は悲しみの色・・・・・・鈴木牧之の「北越雪譜」

2014年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム
丁度、2年前の2012年の10月28日に秘境、秋山郷を訪れました。山々は華やかな紅葉に彩られていました。
しかし私は鈴木牧之の「北越雪譜」を読んでいたのでこの秘境で飢饉が何度も起きたことを知っていました。ですから美しい紅葉を見ても「北越雪譜」を思い出し悲しい気分になります。
悲劇が繰り返し起きた秋山郷の紅葉は悲しみの色です。飢饉で亡くなった人々の鎮魂のための紅葉に見えたのです。
日本は山国と言いますが、こんな山奥に何故人間が住むのでしょうか?飢饉で全部が死に絶えたという歴史を繰り返しても、山奥に連綿と人が住むのは何故でしょうか?
新潟県と長野県の県境にまたがる秘境の秋山郷はあまりにも山深いのでそこに人が住んでいるとは誰も知りませんでした。
それが江戸時代に「北越雪譜」を書いて有名になった鈴木牧之が秋山郷に入り、「秋山紀行」を書き、人が飢饉にもめげず住み着いていることを報告しました。
そして隔絶したの独特な風習を書いています。食べ物が無くて村落の全員が死ぬという悲惨な生活に胸がつまります。見回せば田圃や畑など作れないような険しい地形です。豪雪地帯です。
「北越雪譜」は1770年(明和7年)に越後の塩沢に生まれ、1842年(天保13年)に亡くなった豪商、鈴木牧之が書いた名著です。魚沼郡、塩沢とその近辺の人々の豪雪の中での生き方を詳しく書いています。商人や農民の生活を丁寧に観察し記録しています。多数の精密な絵も示しています。
そして山深い秋山郷の13の貧しい山村を巡り人々の生活の実態を記録しています。
そこでは大きな囲炉裏を囲んだカヤ壁の掘っ立て小屋に一家が雑魚寝をしています。フトンは一切なく冬はムシロの袋にもぐって寝ます。粗末な着物を着たままもぐって寝るのです。
家具は一切なく大きな囲炉裏に鍋が一個だけです。食べ物は稗と粟だけです。病人が出ると大切にしていた少しのコメでお粥を作って、薬として食べさせるのです。
その生活ぶりは縄文時代のようです。鈴木牧之は冷静に記録します。その態度は文化人類学の研究者のようです。
わずかに開けた山肌に稗や粟を植えて一年間の食料を作ります。その命の綱の粟と稗が冷害で取れない年には栃の実の毒を根気よく抜いて飢えをしのぎます。しかしそれも尽き果てる豪雪の冬には囲炉裏を囲んで寝る他はありません。寝ている間に囲炉裏の火も消えて一家の人々の命のともしびも静かに消えて行きます。
カヤぶきの掘っ立て小屋の外では音も無く雪が降り続き、やがては白一色の夢幻の世界に化してしまうのです。
現在、秋山郷は舗装道路がついていますが大型バスは通行出来ません。津南町まで大型バスで行って、そこで小型バスや乗合タクシーに乗り換えて、山並み深く分け入ります。
紅葉の山並みが幾重にも折り重なり、深い谷が小型バスを飲み込みそうで怖い道行きでした。
2012年10月28日の午後にこの小型バスで観賞した紅葉の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)