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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

客船の救命ボートの構造と扱いかたを憶えておこう!

2012年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

今回のイタリア豪華客船の座礁、横転事故で、約4200人もの乗客と乗員が救命ボートで助け出されました。幸いにも港が近かった上、完全に横転するまでにかなり時間があり救命ボートにほぼ全員が乗り移れたのです。しかし11人の死者と21人の行方不明者が出てしまいました。

「救命ボート」を検索すると大小さまざまな種類のボートが写真付きで紹介してあります。そこで大型客船の両側の舷側に吊り下げてある救命ボートの写真を下に示します。

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上は日本の豪華客船、「飛鳥」の写真です。そして下は北欧の豪華客船の写真です。

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救命ボートの操作は船員がします。しかしその船員が操作方法を知らない場合もあります。今回もあるボートではそんな事態があり、乗客が操作したという報告もありました。

乗客は自分の部屋番号によって乗る救命ボートが決まっています。避難訓練が必ずあり、部屋の救命胴衣を身につけて自分の乗るボートまで迅速に駆けつける訓練をします。そうすると担当の船員が、ボートへの乗り方や海面への降ろし方を説明します。上の写真のように完全密閉式の覆いがついていて乗船口が小さいのです。はたして混乱状態で無事乗り込めるのかが心配になります。乗り込んだ後は船員が船の上から遠隔操作でクレーンのワイヤを伸ばして海面におろします。エンジンを始動させてからフックを外します。その後は急いで本船から離れます。

救命ボートには食料、水、蒸留機、通信機、発煙信号機、GPSなどが積んであり、1週間位の漂流には耐えられます。

上の写真の救命ボートの定員は40名から50名のように見えますが、すし詰めにすると100人近く乗れるそうです。

今回の座礁事故は港が近かったので救命ボートが船と何度か往復して乗客を救ったと報道されています。それが幸運でした。

尚、今回の事故では船が傾いたために、左舷の救命ボートが海へ降ろせず、使うことが出来ませんでした。しかし豪華客船の救命ボートはそのような事態に備えて片方の舷側に吊り下げた救命ボートだけで乗客・乗員の総数を収容出来るようになっているのです。それが国際的な原則です。

荒れる海の上で、傾いた暗い船上で救命ボートに定員通り乗せることは至難のことです。定員まで乗船する前に見切り発車してしまうのは仕方のないことです。

そんな事をいろいろ想像してみると今回の船員による救命ボートの操作は見事だったと思います。一部の船員が操作方法を知らなかったとしても総括的にはよく働いたと感心しています。

しかし30人以上の犠牲者が出たことは残念です。

犠牲者のご冥福をお祈り申し上げます。(終り)


イタリア豪華客船の座礁後の経過と無責任極まり無い船長の行動

2012年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

11万トン、乗客・乗員4230人の豪華客船が座礁し、横転し、11人が死亡し、21人が行方不明になりました。13日の夜9時頃大きな岩にぶつかり、エンジンルームへ浸水し、左舷に見える岸辺に向けて少し航行しましたが、再び座礁し、右舷を下にして横転しました。幸い乗客の大部分は船員が懸命に操縦する救命ボートで近くの港へ運ばれ助かったのです。

乗客や船員がすべて船を離れてから下船すべきイタリア人船長が先に降りてしまい、救助活動の指揮を放棄していたのです。無責任極まりない船長の行動にマスコミは厳しい非難をしています。

さてその後いろいろな写真が発表されて座礁後の経過が少し分かって来ました。以下に順序良く考えてみたいと思います。

まず下の写真は初めの岩礁との衝突で左舷側の後方の船体が大きな岩を抱え込んでしまった様子を示しています。事故後、12時間以上経過した次の日の写真ですが、まず何が起きたか理解するために非常に重要な写真です。なお以下に示す写真の出典は、http://donicchi.jp.msn.com/special/2012/Jan/article.aspx とhttp://matome.naver.jp/odai/2132698380940755001 です。

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このように完全に横転するまでには何時間もかかるのが普通です。下の写真は座礁後、まだ少ししか傾いていない夜間の船の様子です。

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ここで注目すべきは右舷側に吊り下げてある5隻の救命ボートです。大きなボートで、すしずめにすれば100人近く乗れます。水密の屋根が完全に覆っていて、エンジンがついています。船員がクレーンを操作して、デッキと同じ高さにして、乗客を収容し、海面に降ろします。エンジンをかけて近くの港へ直行しました。

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まだ船が傾いていない時間です。乗客が救命ボートが降りてくるデッキに集まっています。船がまだ水平なので緊張はしていますがパニックにはなっていません。

どの救命ボートに乗るかは客室番号によって決まっています。豪華客船ではお客も全員、自分の乗るべき救命ボートのあるデッキへ素早く集合する非難訓練を受けます。自室の救命胴衣を着て集まる訓練を受けます。

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しかし時間の経過とともに傾きが増して、まだ暗いうちに完全に横転してしまいました。ここで注意すべきは左舷側に吊り下がっていた救命ボートが海面まで降り切れずに船体の上にひっかって役に立っていない状態です。この状態は下の写真でもっと鮮明に写っています。

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左舷側の上に4隻の黄色の救命ボートが引っかかっている状態が良く見えます。

私が何を主張したいか?豪華客船の救命ボートは乗客の総数を収容するに十分な数を積んでいます。これはタイタニック号の大事故以後に決められた大原則です。しかし船が急速に傾いてしまえば片側の救命ボートを海面に降ろせなくなくなってしまうのです。ですからこそ船長の迅速な総員退避の命令が一番重要になるのです。その船長が総員退避の指揮をとらずに自分だけ迅速に逃げてしまったのです。

今回の事故では右舷側に積んでいた半分の救命ボートだけで4200人の乗客・乗員を助けたのです。幸い港が近かったので救命ボートが何度も往復出来たのです。下に活躍した救命ボートの写真を示します。

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その救命ボートを懸命に操縦したのが船員だったのです。船長さんはそれを眺めていたのです。陸上の救助隊長が船長に船に戻って避難作業の指揮をとれと言ったそうです。しかし船長は戻りませんでした。

船には事故がつきものです。不幸な悲劇が起きます。水の上に出る以上は覚悟すべきです。しかし今回の事故は後味が良くありません。(続く)


離れ島への憧れ(3)大島、波浮の港の哀愁

2012年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム

大島へは何度か船で行きましたが、いつも岡田港か元町港に着き、そこから下の写真のような三原山に登るバスに乗りました。いわゆる標準観光ルートです。

しかし停年後に別の大島を発見する旅に出たのです。

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少年の頃、「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、波浮の港は夕焼け小焼け、、、」という歌がラジヲから流れていました。

島の娘が波浮港を出て行く船の艫綱を泣いて解く、、、船出する人と見送りに来た人が別れを悲しんでいます。鵜の鳥は日暮れに帰るがその人は二度と帰らない、、、。

そんな悲しい歌なので忘れられません。2006年に仕事を一切止めて、あちこちへ旅をすることにしました。

大島の波浮の港へ独り旅をして見よう、と思い立ちます。長い長い間、歌だけで知っていた波浮の港へ行く事にしたのです。

まだ寒い3月5日の朝、竹橋桟橋から船に乗ると、高速船なので昼前に大島に着きます。

観光客で騒がしい岡田港の交通案内所で波浮の港へ行って一泊したいと相談します。対応してくれた若い女が。「あそこは観光客は行きませんが。何をしに行くのですか?」と聞きます。

少年の頃の感傷で行きますとも言えず赤面してしまいました。それでも国民宿舎のような宿をとってくれました。バスで行き、宿に着くと高台にあり、火口湖のように丸い波浮港が見下ろせます。景色が良いのですが、憧れの波浮の港までは遠すぎます。

港へ降りて行って地魚の寿司を食べようと思うがタクシーがありません。宿の人が電話をすると寿司屋の人が迎えに来てくれるよと言います。60歳くらいの元気なオバサンが軽自動車を運転して迎えに来ました。

気さくでいろいろ話してくれるのですが乱暴な運転なので怖い思いをしました。曲がりくねった急な坂道を降りて行き、そこ一軒だけ営業している寿司店に着きます。

地魚の島寿司を頼みます。ご存知ですか?「島寿司」を?あれはいけません。

活きの良い地魚の握りの上に、どういう訳か甘ったるい醤油が塗ってあるのです。ワサビでなくカラシです。

甘い魚の寿司です。泣きたくなりましたが、ビールの酔いのお陰で元気になり、店の中を観察することにしました。2組の客が居て日本酒や焼酎を飲んでいます。

客の一組が、寿司を握っている60過ぎの主人や手伝っている息子やその嫁と雑談をしています。寿司屋の一家は明るく、地元の人々に好かれているようです。

見ると店の壁に古い写真が沢山飾ってあります。波浮の港に木造漁船がビッシリと並んでいる写真です。港の通りには漁師が溢れ、居酒屋が軒を連ねています。主人に聞くと昔は漁船の船足が遅く、この港が太平洋での漁の中継基地として賑わったそうです。

現在は船が高速化して、取れた魚を冷凍し、積んだまま築地の魚河岸へ直行するのです。だれも波浮の港へ寄らなくなり、すっかりさびれました。と主人が淋しそうに言います。

そして島では火山灰の土地で、米が取れなく、昔から貧しい所だったと説明してくれます。

気分を引き立てるため地魚の刺身と「亀の爪」という一品を注文しました。亀の爪のように見える小さな一枚貝が、磯の岩にしがみついているそうです。味が貧乏臭く、普通には食べるものではない代物です。救荒食とはこんなものかも知れないと考え込んでしまいました。少年の頃聞いた歌で、島の娘の悲しい歌が実感として体で感じられるのです。店の主人は、娘達が出稼ぎに行ってしまい、島へは二度と帰って来なかったと言います。

主人へ亀の爪は不味いとも言えず、「結構おつな味ですね」と言います。ニコリとして、主人が、「そうでしょう!昔は毎日のように食べたものです」と答えます。

酔い醒ましに、暗い港通を散歩すると、店も居酒屋もすっかり寂れ、閉まったままです。真っ暗な通りには淋しげな波音だけが響いています。

通りが尽きた浜辺に「磯の鵜の鳥ゃ、日暮れにゃかえる、、、、」の野口雨情の記念碑が立っています。

まだ3月の始めで、寒い夜風が吹く抜けて行きます。昔は賑わっていた港が寂れ果てている光景は哀愁が漂い悲しいものです。

もとの店へ戻り、もう一杯飲み暖まってから帰ることにしました。帰りは赤ん坊を連れた嫁が、軽乗用車で高台の宿まで送ってくれました。助手席に赤ん坊を乗せているので丁寧な運転です。道々、乳飲子の自慢話を聞かせてくれたのでこちらも明るい気分になりました。(続く)

(上の大島紀行記は2010年11月8日に掲載したものです。)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

後藤和弘(藤山杜人) 

上の三原山の写真と下の波浮の港の写真の出典は;http://www.town.oshima.tokyo.jp/highlight/habu-harbor.html です。

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