いきなり個人的な感情を書いて済みませんが、私は白人に対して長い間人種的劣等感を持っていました。戦前、戦後の育ちの日本人は同じような劣等感を持っていました。その反発で中国人や韓国人を差別していたのです。
しかし、この私の人種的な劣等感がいつの間にか無くなってしまいました。無くなってしまったと書けばウソになります。少なくとも昔のように頻繁に口惜しい思いをしなくなったと言えば真実に近い表現ですが。
何時頃からこの劣等感が無くなったのでしょうか?次第に変化してきた感情なので何時と断定は出来ませんが、強いて言えばベトナム戦争の頃から急速に無くなったようです。
その頃、アメリカへ仕事で行きました。暇が出来たのでアメリカ原住民の民族博物館へ行きました。入場券の売り場で強烈な体験をします。私がここはインディアン文化の博物館ですかと聞きました。若い女の子が入場券を握って渡してくれません。インディアンという言葉を使う人は入場禁止ですと言うのです。インディアンと言わないでアメリカ原住民と言って下さい。でもインディアンはインディアンでしょう。下らんこと言わないでチケットをくれと私がいいますと、彼女は優しい口調で長話を始めたのです。客が他に居ないので静かな雰囲気でした。
現在、アメリカでは全ての差別用語が禁止になっているのです。ビッコは足の不自由な人。セムシは背中の不自由な人。メクラは目の不自由な人。ニグロはブラック・ピィープルと言いなさいと教えます。(当時、不自由な人をハンディキャップのある人と言いました。現在はそれも使いません。)
それから差別した、あるいはされた暗い昔の事を思い出させる言葉も使ってはいけません。現在のアメリカ人は外国を蔑んだ呼び方は一切使いません。あなたは旅行中の日本人のようだから少しゆっくり説明したのです。とニッコリしています。
彼女の説教の仕方が優しさに溢れ、私を差別していなかったのです。その故か、その体験が強烈な印象になって残りました。後から差別用語の禁止で社会がどのように変わるか何度も考えるようになったのです。
当時のアメリカの差別用語禁止の社会運動と同じ頃に、黒人差別撤廃運動が燃えさかっていたのです。そしてアメリカの白人が生まれつき色のついた肌を持っている人種を差別しなくなったのです。少なくとも表面的にはしないのです。その頃から私自身の白人へ対する劣等感が急速に消えて行ったようです。
帰国して日本人が差別用語にあまりにも鈍感なことでショックを受けたり、悲しくなったりしたものです。この際、ハッキリ書きます。満州や支那や朝鮮という言葉は禁句なのです。それを使えば当時日本人に差別されて酷い目にあった人々が暗い悲しみを思い出すからいけないのです。ですから、新聞では差別用語を絶対に使いません。
差別した人は簡単にその事実を忘れますが、された人々は絶対に忘れません。しかし差別した日本人が差別用語を使わない事で、中国人や韓国人がほんの少し心が休まるのです。この「ほんの少し」が愛の第一歩なのです。
差別用語が無くなったからこの世で差別が無くなったわけではありません。しかし差別用語の禁止は多くの差別されて来た人々へ幸せを送ったのです。
差別用語の問題は複雑な問題なので続編を書いてみたいと思います。
少しこみ入った話題でしたので頭を休めるために、やがて咲く藤の花の写真と、やがてやって来る新緑の玉川上水の散歩道の写真をお送りします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
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