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アイリス あいりす 

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💓エンジェルナンバーに導かれて(93)魂の法則とアシュターの宣誓文

2019-09-23 22:15:24 | エンジェルナンバー

          魂の法則とアシュターの宣誓文

 

9月16日(月)

3は、アセンデッドマスターがあなたの傍にいます。あなたの祈りに応え、あなたをサポートしたいと思っています。

 https://niconicohappy.com/angelthree/

333は、安心してください。アセンデッドマスターたちがあなたを見守っています。あなたは一人ではありません。彼らはあなたと共にいて、あなたを愛し、導いてくれています。

https://niconicohappy.com/three3/ 

 

9696は、精神的、スピリチュアルなことに意識を向けてバランスを取ってください。また、あなたの使命に専念することも忘れてはいけません。

https://niconicohappy.com/angelnumber9696/

 

18は、あなたの経済的な流れは、思考によってコントロールされています。あなたが前向きでいれば、あなたに必要なものはスムーズにあなたにもたらされます。しかしあなたが不安や心配などネガティブな感情に囚われいると、その流れが止まってしまいます。もしあなたがネガティブな思考を抱きやすいならば、お金に関して楽観的になれるよう天使たちにお願いしてみましょう。

https://niconicohappy.com/angel18/ 

111は、エネルギーの通り道が開きました。あなたの思考はすばやく現実のものとなります。この時期は、思考を賢く選んでください。

 https://niconicohappy.com/one5/

212は、あなたの思考の中に宿るアイディアやひらめきに注意を払ってください。そしてそれらがあなたをより良い世界へ導くものであると信じてください。あなたが信じれば信じるほど、良い結果がもたらされることでしょう。

 https://niconicohappy.com/angel212/

2000は、天からの無条件の愛が、あなたの心を満たし、疑いの気持ちを一切排除してくれています。『信じたもの、想像したものは、やがて現実になる』という事実を、あなたは今受け入れることができています。

 https://niconicohappy.com/angel2000/

717は、あなたが今進んでいる道は、まっすぐにあなたの望む未来へと続いています。これはあなたの思考や行動の選択が正しいことを証明しています。引き続きあなたの目的または理想に意識を集中させてください。

https://niconicohappy.com/angel717/ 

358 は、アセンデッドマスターがあなたをサポートしています。彼らは、あなたに好ましい変化が起こるよう導いてくれています。この変化はあなたの仕事など経済面に関わるものです。

 https://niconicohappy.com/angel358/

 

 

9月17日(火)

今朝も宇宙からのエネルギーを浴びる中起床しました。おはよう天界のみなさん!

 

♬「魂の法則」を昨日も読んで投稿しました。以前、エンジェルナンバーに投稿しましたが、望まない不快なエネルギーが私のところにやって来た理由もわかりましたし(自分の波動が低いと、このようなエネルギーが来やすいと)、アシュター司令官からの、1日3回は読むことと、教えてもらった事をやり続けた結果、それもキレイに無くなったことで、私の波動は問題なく上がって来たことが、わかりました。

https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/e2b0da430103176e3c30d724dc9b2892?fm=entry_awp (宣誓文)

1日に3回は読むことって、結構時間を取るのが大変でしたが、(忘れっぽいので)忘れても、めげずにやりましたよ。そしてそのエネルギーが来なくなると、自然とこれも不要になり、忘れていました。アシュターも波動の高い人には不快なエネルギーは来ないと言っていました。

この宣誓文は心の波動を上げるための、宣誓文だったようですね。ありがとうアシュター!私はこうして、元気でいますよ!

 

222は、あなたの中に芽生えた思考が現実になりつつあります。あなたはもう少しで、その兆しを知ることになるでしょう。奇跡が起こる直前で足を止めてはいけません。

https://niconicohappy.com/angel222/

 

8080は、神はあなたに、溢れんばかりの豊かさを授けて(さずけて)います。これはあなたに対する、ただのご褒美ではありません。原因と結果の法則によって、与えられるものです。あなたはこれまで光の導きに従い、成功に向かって一生懸命努力してきました。

 https://niconicohappy.com/angel8080/

 

2929は、喜びいっぱいで踊り出している姿、大きな意義のある仕事をしている自分の姿を、毎日心の中でイメージしてください。それは、あなたの使命や聖なる目的が実現するための助けとなるでしょう。

https://niconicohappy.com/angelnumber2929/ 

 

8686は、今のあなたは安定して収入を得ていたり、お金に関しての不安も少ない状態にあることでしょう。つまり、あなたには十分な恵みがあるということです。宇宙からあなたの元に注がれたその恵みに、惜しみない感謝の思いを伝えてください。

 https://niconicohappy.com/angelnumber8686/

 

8883は、アセンデッドマスターがあなたの経済面をサポートしています。あなたの元へ豊かさが流れ込むよう支援してくれているのです。宇宙には無限の豊かさがあります。あなたの想像をはるかに超える豊かさがあります。

 https://niconicohappy.com/angelnumber8883/

 

331は、どんなときもあなたの世界は、あなたの内面の反映であることを忘れてはいけません。すべてはあなたの選択なのです。あなたの考え方、心の持ち方を明るいもの、前向きなものにすれば、自ずとあなたの世界はあなたにとって喜ばしいものになります。

 https://niconicohappy.com/angelnumber331/

 

♬ 夜寝る前にまた、頭の左上から聞こえる機内の音が、大きく聞こえてきました。今夜は月夜ですから、ベランダに出て見ました。

雲の中から、丸くて銀色に輝く光が瞬いているのが瞬間的に沢山見えました。私は絶対にUFOだと思いました。天界の皆さんありがとう!

 

 

9月18日(水)

55は、変化はこれから起こるまたはすでに変化が起こっている可能性もあります。もし人生の中に上手くいってない部分があれば、それらを手放す時期になります。それらが癒され、より良いものに置き換わることでしょう。

https://niconicohappy.com/angel55/ 

3336は、お金など物に対する不安を手放してください。宇宙には無限の豊かさがあり、あなたはそれにいつでも容易にアクセスできる存在であることを思い出してください。

https://niconicohappy.com/angelnumber3336/

(♬実は私、ずっと以前に購入したコートの布地が気になり、そのコートのデザインを頭に描いていただけなのですよ。笑。私は今スピリチュアルに専念するように促されていますね。一旦かかってしまうと、時間がとられるからでしょう。ほんとに、頭で考えただけなのですよ。信じて!)

 

8888は、今、あなたの人生のひとつの章が終わりを告げようとしています。次の章へ進む準備をしてください。変化というトンネルの向こうには必ず光があることを忘れないでください。

 https://niconicohappy.com/eight/

は、彼らの小さなサポートはやがて大きな力と変わるでしょう。あなたが安らげる時間を大切にし、自分自身にも愛を注ぎましょう。あなた同様に天使たちもあなたに愛を送ってくれることでしょう。

https://niconicohappy.com/angel4/ 

330は、いつ何時も、マスターたちはあなたを支え導いてくれています。あなたに助けが必要な時は、いつでも彼らを頼ってください。彼らはいつでもあなたの力になりたいと願っています。心を開いて、彼らから与えられるものを有り難く受け取ってください。

https://niconicohappy.com/angelnumber330/

 

358は、アセンデッドマスターがあなたをサポートしています。彼らは、あなたに好ましい変化が起こるよう導いてくれています。この変化はあなたの仕事など経済面に関わるものです。

 https://niconicohappy.com/angel358/

 

4545は、あなたが願っていたことが、実現に向けて動き出しています。最近あなたの中で新しいアイディアが浮かんだり、今までと何かを変えてみようと思いませんでしたか?まさにそれがあなたを見守る天使たちからの応えなのです。あなたの中で変えてみようと思ったことを行動に移してみてください。

https://niconicohappy.com/angelnumber4545/

(♬確かに以前はなかった事を思いついてやっています。笑 「魂の法則」について導かれていたのですね。)

 

2244は、大勢の天使たちがあなたの周りにいます。彼らはあなたが自分自身や自分の能力を信じられるようサポートしています。

https://niconicohappy.com/angel2244/

 

555は、大きな変化が起きようとしています。その変化はあなたにとってとても意義深いものとなるでしょう。サナギの状態から抜け出し、あなたに本当にふさわしい人生を見つけにいきましょう。

 https://niconicohappy.com/angel555/

808は、神があなたに豊かさを授けています。あなたに必要なものはすべて与えられます。両手を広げ、それらをすべて受け止めてください。豊かさは、いろんな方法であなたの元にやってきます。

 https://niconicohappy.com/angel808/

 

 

9月19日(木)

今朝は久しぶりに宇宙からのエネルギーはありませんでした。

こういう日もあるのでしょう。それとも、起床した時にはもう遠ざかってしまっていたのかもしれないですね。

   ・・・・・・・・・・・・・・・

 今日夫の話し方で、私はまたムカっと来て、怒りを感じました。その時にすぐにアセンテッドマスターを呼びました。「マスター助けて!」と

そうしましたら、「すぐに別の部屋へ移動しましょう。」と言われて、そうしました。横になって、気分を落ち着けてから、

「どうしてこうも私は、夫の口調に心を反応させてしまうのでしょうか?」「その時の気持ちはどうでしたか?」

「いつもの事ですが、嫌な気持ちになりました。そして腹が立ったのです。」「今はどうですか?」

「今は少し落ち着いています。」「そうですか、では先ほどの夫との会話について、フォーカスを外してみてください。」

「わかりました。」「今はどんな具合ですか?」

「もう大丈夫です。不思議ですが、消えてはいませんが、気にならないです。」「そうですか、それは良かったですね。」

「マスター、私は何を言われても気にしない様になりたいのですが、」「あなたの自分の感情を、きちんと知る事が最初の一歩ですよ。そしてあなたは、別の場所に移動することが適切にできましたよ。これはとても良かったのです。」

「そうですか、なんだかそう言われたら、ホッとしてきました。」「夫の会話から、自分を遠ざける事がひとつ、その後フォーカスを外す事が二つ目です。そしてこれらが出来て良かったと思うのが三つ目ですよ。」

「そうなんですね。わかりましたよ。これからも、このやり方をやります。また助けてもらいました。どうもありがとうございます。」「いつでも、また呼び掛けてください。」

 

     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

 9月20日(金)

今日は微熱があり、ずっと寝ていましたが、宇宙からのエネルギーは昼間も当てられていました。いつもありがとう!それでも気分転換も必要ですから、スーパーに出かけました。

711は、あなたは熱心にアファーメーションビジュアライゼーションに取り組みました。その結果、奇跡とも言える素晴らしい現実があなたに近づいてきています。あなたはあと少しでその現実を目にすることができるでしょう。

https://niconicohappy.com/angel711/

1212は、あなたの思考や信念が、現実のものとなりつつあります。信じる心と前へ進む勇気を持ち続けてください。

https://niconicohappy.com/angel124/

88は、あなたの元に豊かさの波が押し寄せています。その波はとても大きく、あなたの生活を豊かにしてくれることでしょう。

https://niconicohappy.com/angel88/

77は、あなたの進んでいる道はスピリチュアル的にも正しい道です。あなたの意志に忠実に、そして揺るがずに前へ進んでいきましょう。

https://niconicohappy.com/angel77/

 

 

 

9月21日(土)

 2232は、アセンデッドマスターたちが、あなたと共にあなたの目的に取り組んでいます。彼らは、あなたの未来は輝かしく理想通りのものであると伝えています。未来を知っている彼らは、あなた同様に未来へのワクワクした気持ちを感じています。

https://niconicohappy.com/angel2232/ 

 

110 は、例えあなたが一人ぼっちだと感じていても、いつでも天(宇宙)はあなたのことを見守っていることを忘れないでください。あなたがどんな姿で、どんな行動を取り、どんな気持ちを持っていようと、あなたは無条件に愛されているのです。今、あなたに送られているその愛を思い出してください。

https://niconicohappy.com/angelnumber110/

 

114は、一見ピンチに感じるような場面でも、それがかえって自身の成長に繋がったり、新しい扉が開かれる機会になったりします。安心してください。今自分がある環境の中で、良い面ばかりを積極的に見つけにいってください。

https://niconicohappy.com/angelnumber114/

 (♬あ~これは、夫とのピンチのことでしょう。)

115は、あなたは今、これまでと何かが変わったなと感じていませんか?どんなことであれ、あなたに起こっている変化について、前向きにとらえてください。こんな風になるつもりじゃなかったと感じていたとしても、とりあえず”いいことなんだ!”と結論づけてみてください。

https://niconicohappy.com/angelnumber115/

(♬上の3つは時計からです。次々と偶然見ているので、すぐに調べました。そして実に私にとってタイムリーな内容なのです。このような事は、天界でないと、わからないでしょうし、出来るはずもありません。凄いです!とにかくいい事なんだ。と自分を励ますことにしました。)


9月22日(日)

昨夜からずっと宇宙からのエネルギーが来てくれています。そして今朝も続いています。いつもありがとう!

♬ 今日また、マスターに私は自分の思っている事を話しました。ところが、1時間もしないうちに、どんな内容だったのか、忘れています。少し前にも同じようなことがありました。その時は、忘れっぽいとだけ思いましたけれど、今回は天界が私の思考を持って行ってしまった。と感じたのです。「忘れましょう」というのが、天界の応えなのではないかと思いました。

今日は一日ほぼ主婦はお休みしました。食事の支度も少しだけして、休んでいました。こんな日は1年に何回もないですから。それにしてもよく寝ました。笑 

今週は、またマスターとの問答を投稿しました。少しづつですが、良い方向へと向かっていると、ポジティブに考えるようになりました。

これから来る世界が待ち遠しいですね? 

今日も読んでいただきありがとうございます。ではまた


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後で必ずためになる日記の書き方 大愚和尚

2019-09-23 12:00:25 | 動画

後で必ずためになる日記の書き方

♬私の実家が曹洞宗なので、とても親近感があります。9分位から、修行の瞑想についての一段階目のお話は、スピリチュアルな話と同じですね。 ブッダも天界から降りて、こうして人間世界の精神性を教えてくれていたのでしょう。また禅僧の修行は、5年はゆうにかかると言われています。日記についての講話も、こんな風な考えもあるのね、と気づくことは、うれしいですね。合掌。


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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~第三の法則「霊的裁きの法則」 

2019-09-22 11:57:17 | 魂の法則

 

 https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~第三の法則

「霊的裁きの法則」    P93~P109


(P93 ~P109)

第三の法則:「霊的裁きの法則」又は 霊的な作 用と反作用(原因-結果)の法則

• 他者にすることは、自分自身にもすることになる。

• 魂が自分の過ち(万物の生命に反する行為)を自 覚し、それを償えれば、霊的に進歩できる。

 

*無神論者は、「神が実在するのだったら、この世の多くの理不尽を許 す筈などない」と声高に主張していますが、これを、どう思われますか。

 そのような意見の者は、人の命が肉体の誕生と共に始まるという信念 を持つために霊的な真相を完全に理解できず、それで、地上の一部の劇 的な状況を理不尽だと解釈してしまうのだと思う。 人間の生が誕生をもって始まると見なせば、神が初めから一部の者だ けを優遇して、その他の者を虐げているように見えるので、この世は不 平等で、創造主がいても同じように不公平なのだろう、という避けがた い結論に行き着いてしまう。

 生まれた時から、先天的な病気や極貧、歓迎されない家族の下に生ま れるなど、災難が山積みの人生が見込まれる人がいる一方で、ずっと賢 く美しく、深く愛され健康で、神のお気に入りに思える人がいないだろ うか? しかし我々が、今生は各人の生のほんの短いエピソードに過ぎず、今 編は、今の魂の状況と内容的にきちんと噛み合うこれまでの連載ものの 続編で、ふさわしい結末であると考えられれば、以前は理解できずに不 公平に思えた事柄を、次第に理解し始めるであろう。

 実に全ての魂は、同じ起源から生じている。魂という存在は全て、無 知・無自覚な生命の素として等しく創造されたが、無数の転生経験を総 合して、愛と叡智の最高次元に達するまで、絶え間なく永久に進化する 可能性を宿している。 ある魂と他の魂との唯一の違いは、創造された時期、つまり魂の年齢 による。魂の生命の創造過程は、止むことがないからだ。

 あるものは、君たちの銀河系がまだ星雲になる以前の何十億万年前に 冒険を開始し、物質界への数え切れない転生の歴史があるが、他のもの はまだ進化を始めたばかりのいわば若い魂だ。 各々の行為と決断により、進化の道程は真っ直ぐにも、曲りくねった ものにもなるし、遅くなったり速くなったりもする。

 ほんの稚い幼児期から、愛と理解の偉大な能力を持ち、年齢に不釣合 いなほど精神的にとても成熟している人がいる一方で、肉体上では大人 や老人になのに、まだ振る舞いが幼稚で、見かけほど年がいっていない ように思える人がいることに、気づいたことはないだろうか? ある魂と他の魂との霊性能力の違いは、一見先天的なものに見えるが、 魂の年齢差と、これまでの転生を霊的進歩のために有効活用してこられ たかによる。

 各人の今生の環境の違いは、宿命の産物に思えるが、実は、これまで の前世や肉体に宿っていない期間に、決断してきたことに起因するのだ。

*現在の人生での行いが、過去のものとどう関係するのですか。

 宇宙的な法則がある。それを「霊的裁きの法則」、「原因と結果の法 則」、「霊的な作用と反作用の法則」などと呼べるが、その概要は、魂 は与えたものと全く同じものを受け取る、というものだ。それは、我々 が他者にすることは、実際には我々自身にすることになる、ということ に等しい。

 各魂は自らが創り出した状況に立ち向かわなければならない、という のがこの法則の結論であり、それゆえ、魂が人生で直面する逆境の多く は、前世で自分が作り出した原因の帰結、又はその影響なのだ。

*それがなぜ、宇宙的な法則なのですか。

 なぜなら魂は、宇宙の諸法や万物の生命に反する自分の行為や状況に 立ち向かって、それを解決しない限り幸せになれないし、自己の霊的な 進化においても前進できないからだ。 好きな道を選び適切な決断をする自由が、「自由意志の法則」で魂に 認められているとするのなら、「霊的裁きの法則」では、自分の行為の 一つ一つがそれぞれの結果をもたらし、遅かれ早かれそれらが自分に影 響することを知らねばならない。

 別の言い方をすると、「種は自由にま けるが、刈り取る責任がある」のだ。 つまり、行為の担い手として正当に思える行いなら、受け手としても そう見えるべきで、その逆も然りだ。だが、もし自分がしたのと同じこ とをされたくないのなら、そこにはあまり善意がないという訳だ。我々 にとって善くないことは、他者にとっても善くないのだ。 イエス自身を含む多くの偉大な預言者が、「自分にして欲しいと思わ ないことは、他者にしてはならない」、「自分がして欲しいと思うこと は、他者にもしなさい」と言っていたのを、君たちも耳にしたことがあ るだろう。

 「作用と反作用の法則」を知ったからには、これらの金言に、一文を 付け加えて「自分にして欲しいと思わないことは、他者にしてはならな い、なぜなら結局は自分自身にもしてしまうことになるのだから」、 「自分がして欲しいと思うことは、他者にもしなさい、なぜなら本当は 自分自身にするのだから」とするべきだ。 「私たちが他者にすることは、私たち自身にもすることになる」とい う至言に、霊的裁きの原理が含有されている。

*どうして、「霊的な作用と反作用の法則」と呼ぶのですか。

 それは、ある意味でニュートンの第三の法則、つまり伝統物理学の作 用と反作用の法則に似ているからだ。 これに馴染がない者に説明すると、この法則は、物体が他方にある力 をかけると、同時に同じ大きさの力で押し戻される、ということだ。つ まり、二人の宇宙飛行士が宇宙空間で手を繋いでいて、一方が他方を押 したとしたら、自分自身も等しい力で逆方向に移動させられるのだ。 銃や同様の武器で撃ったことがある人なら、物理的作用・反作用の法 則をよく知っている。射撃では、銃が弾丸に力をかけて、弾丸が物凄い 速さで外に飛び出すというのは周知の事実だ。しかし実は、弾丸は、同 時に銃に、同じ力を反対方向にかけるのだ。 作用・反作用の法則が存在するがゆえのこの反力は、銃器業界では 「後退」として知られる大変強いもので、訓練できていない場合には、 銃を支えていた部位が怪我してしまうこともある。

 物理的な作用・反作用の法則に類似する「霊的な作用・反作用の法 則」は、霊的な次元では、他者に行った全ての行為は同じ規模で我々自 身に戻される、と言っているのである。それは実生活では、他者に行う ことは全て、実際には我々自身に行うことになる、という意味である。 各人がそれぞれの行為と向き合うことになるというのがこの霊的裁き の基本であり、自分の行為の結果を経験した後で、その行為を修正する か否か決めるのは本人次第なのだ。

*他者に対する行為は、どのように霊的進化に反映されるのですか。

 それらの行為が「愛の法則」に反するものなら、魂が進化の高域へ上 昇するのを阻むおもりのように重たいものとなる。反対に、「愛の法 則」と調和した行為は、気球のバーナーの炎のように作用する。 炎は空気を熱すると、ガス粒子の振動レベルを増加させ、気球内部の 空気濃度を希釈し、気球がもっと大気の薄い地帯まで上昇していくこと を可能とする。 同様に、「愛の法則」に賛同する行為は魂の波動を高め、もっと高振 動でさらに霊性が高いアストラル界域まで上昇することを可能とする。

*この法則が一般的に適用されているようには見えませんが。世間に知 れた殺人鬼や犯罪者や大量殺戮者が、一度も裁判にかけられないまま、 年を取ってから、穏やかに亡くなってはいないでしょうか。


 特定の原因または行為に連結した結果は直ぐには顕れないので、犯罪 者が生存中に罪を償うのを観ていない者には、裁きが存在していないよ うな印象を与える。 確かに、特に地上の権力の座を占める者の場合には、ただ一度の人生 では、その多くの犯罪行為が、裁きを逃れて終わってしまう。このよう な場合には、他者を傷つけて「愛の法則」に違反した者は、その後の転 生で、自分の行為の結果と向き合うことになる。

 戦争を招いた統治者が、大勢の人を拷問し死刑にする命令を下したと 想定しよう。その権力がゆえに、地上のどの裁判所でも、絶対に裁かれ ることも有罪とされることもなかった。だがその人生で帳尻が合わされ なかった借金は、以後の転生に持ち越され、かつての死刑執行人が、明 日は一見無実な犠牲者となり得るのだ。 これが「義に飢え渇く人びとは幸いである、その人たちは満たされ る」という一文の意味だ。地上での裁きが解決せずに残したものは、霊 的な裁きが解決するということに、疑問の余地はないのだ。 だがそれでも、この仕組みは、懲らしめるためのものではなく、教え るためのものなのだ。いずれにせよ、悪いことをした魂は自分自身に負 債を負い、前進していくためには、先ず自分が与えた害を自覚して、次 にそれを償うことが必要となるのだ。

*その対極には、生存中に多くの善行を積んだのに、感謝されるどころ か、中傷されたり拷問されて、殺されてしまった人たちがいるのではな いでしょうか。

「霊的裁きの法則」のコインの裏面も見なければいけない。 「愛の法則」に従って行動したのに、同輩から感謝されずに、無理 解・拒絶・暴力・拷問や死を、善行の対価として受け取った者たちは、 人間の独善的な法律に縛られない真の世である霊界で、行為の成果が報 われるのだと確信すべきである。 これが、イエスの言葉の「心の貧しい人びとは(謙虚であるとの意味 だ)幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人びとは、 幸いである、その人たちは慰められる」が意味することだ。

*なぜ、作用と反作用、つまり行為とその結果との間に、時間のズレが なければならないのですか。行為と反動が連続した方が、もっと公正で はないですか。

 反作用は行為の瞬間に起動するが、直ちに効果を発揮しないのだ。 行為が「魂の法則」に賛同するものなら、「霊的な褒美」を受け取り、 反するものなら「霊的な負債」を負うと言える。

「収穫」は、魂が自分を試す期間が終わるまで、つまり人生が終わる まで延期されるだろう。それは、試験の際に、完全に終了するまでは成 績を知ることができず、また、終えた問題を先生が採点し終わらなくて も次に進んでいくのと同じだ。 請け負い仕事では、途中ではなく終了した時点で報酬を受け取るよう に、「魂の法則」に則った行為の場合も直ちにではないが、いつかは霊 界で妥当な代償を授かる。

 この「霊的報酬」は、最終的に魂が肉体を離 脱した時点で、もっと愛情深い霊が居住する高い次元まで昇って行くこ とを可能とする。 霊的な負債の場合には、償い自体は、魂自身の意志で自発的に損害を 修復しようと決意するまで延期されるが、それは必然的に、魂が自己の 言動を自覚したことを意味する。「自由意志の法則」により、償いを強 いてはならない。いつその状況に立ち向かうのかを決めるのは、魂自身 である。

 しかし霊的に進歩したいのであれば、遅かれ早かれそれに立ち 向かい、犯した罪業を償わなければならない。罪の償いがされない限り、 新たな試練には立ち向かえないのだ。 人生が終了すると、「愛の法則」に反した行為の重さで、似通った性 質の魂が住むアストラル界の下層レベルに留まることとなる。「愛の法 則」と調和できずにお互いに傷つけ合うレベルなので、かなり不幸で苦 悩に満ちた生活となるが、ここで更生の決断が待たれる。

*魂は、他者に与えた害を、どのように自覚できるようになるのでしょ うか。

 魂は、肉体の死後のどこかの時点で、最後の転生中に起こった最も道 徳的な部分に関わる事件を徹底的に振り返らされる。魂は、この人生回 顧の間に、それらの経験一つ一つにおいて、その時の自分の気持ちのみ ならず、自分の行為に影響を受けた他の人たちの感情や情緒も感じ取り、 その人たちの悦びや不快を自分のことのように感じるのだ。

*具体的にどういう目的で、回顧するのですか。

 魂が、「魂の法則」や他者への行為に関して生存中に決断したことの 重要性に気づいて、進化に役立てるのが目的だ。つまり、愛を持って行 動したのか、我欲によって行動したのかを、顧みるのだ。 また、その転生で取り組んだどの科目に合格し、不合格なのはどれな のかを知るのが目的だ。今後の転生での試練は、これまでの転生での行 動によるところが大きいからだ。

*最後の審判みたいではないですか。

 それに似てはいるが、魂を蔑んだり罰する意図は全くなく、「魂の法 則」や万物の生命に対する行為を自覚できるようになるためなのだ。

*自分の行為が正しかったか正しくなかったかを、判定するのは誰です か。

高次の霊の手助けを得て、自分自身で判定するのだ。

*生存中に気づけなかったのに、自分の行動が不当だったかどうかを、 どうして自覚できるのですか。

 高次の魂が助けてくれるので、自分の進化レベルではまだ持ち得てい ない、霊的な洞察力が授けられるのだ。

*自分自身を裁くのでしたら、完全に公平にはなり得ないのではありま せんか。魂が自分をひいきしないように、どう阻止するのですか。

 今言ったように、魂は高次の存在に誘導されて、霊的に明晰な状態に いるので、自分をえこひいきするような行動はとらない。その状態で、 現実をありのままに、完全に公平に見れるのだ。

*そして、どうするのですか。

 魂は、自分の悪い言動を修正してその後の転生で克服できるように準 備をして、能力に応じた償いのための試練を選ぶのだ。 それは、魂が選びたい方法による。ゆっくりだが時間がかかる修復も ある一方で、試練はきついがもっと速く進化するために役立つものもあ る。

*でも直後には何が起こるのですか。つまり、魂は直ぐ次の生で、早速、 前世の行為の修復に取り組むのですか。

 矯正する意図を全く見せない魂が沢山いるので、必ずともそうとは限 らない。彼らはそのために、下層アストラル域に停滞してしまい、更生 の前段階を踏まないで、再び転生して来てしまう。 また、魂が更生のプロセスを開始したとしても、初めは善と親和する 意志力が弱いので、厳しい試練には耐えられない。よって、負債の償い に直面しない過渡的な転生をし、更生のための意志力と忍耐力を養う準 備期間とする選択肢もある。 きつい試練に立ち向かう本当の贖罪のための転生は、魂に充分用意が 整って、確固とした改善の意志を持った時にやって来る。

*「負債を持つ」魂には、どんな種類の試練が待っているのでしょうか。

 一般に、前世で自分が生み出したのと類似した状況を、自分が身を持 って体験する。そして、「魂の法則」と何が調和し、何がしていないの かを自覚して、罪の償いに尽くす。

*理解できるように、例を挙げていただきたいのですが。

 良かろう。大農場と耕作奴隷を所有する、十八世紀の白人の家庭へ、 ある魂が転生したとしよう。 おそらくこの魂は、両親の教育によって、農奴も自分同様に感じ苦し む人間なのだと気づかない。また、物的なものかを問わず個人の利益の ために 、他の生き物の意志を蹂躙してはならないことや、それが自分と 同じ人間の場合にはさらに悪質であることに気づけない。そのため、奴 隷制は「愛の法則」と「自由意志の法則」に反する行為だ、と思い至ら ないでいる。

 大人になってそこの若旦那となったこの魂に、奴隷を所有するのがい いことかと尋ねたならば、「汚い無知な奴隷と立派な領主とをなぜ比較 するのだ」と、彼の自尊心を怒らせるに違いない。「汚い・無知・奴 隷」というのは、彼が積極的に維持してきた状況だ。もしこの状態が妥 当だと思えるのなら、それは、逆の立場からもこの状況を経験すること に、同意していることになる。 つまり、以後の転生では、自分の家族に隷属する農奴の息子または娘 として生まれ、奴隷であることから生じる苦悩を、身を持って体験する のだ。そして今度は奴隷となった魂に、奴隷制は良いことかと尋ねてみ れば、それは非人道的だと語り、「神よ、私が一体何をしたというので すか」と、自分の不運を苦々しく嘆くことだろう。

 結局のところ、自分がまいた種を刈り取ったに過ぎないのだ。もし彼 がこの経験から有益な教訓を引き出せたとしたら、たとえば再び大農場 の領主に戻るなど、社会の諸相を変えられる立場になった時に、自分が 前世で内面的に学習したことを思い出し、奴隷制度の廃止に尽くすかも しれない。

*この例から、奴隷は前世では、奴隷制を利用していた領主だったかも しれないと推測すべきなのですね。

 そう、そして領主が、奴隷なのだ。 自己の自由が尊重されるための最善策とは、どんな状況でも他者の自 由を尊重することなのだ、と気づくに至るまで、同じグループの魂が、 多くの人生で両方の立場を交代で経験することだろう。全てがこうなっ ているのだ。

*でも、自分がしたのと同じ目にあわせるのは、目には目を、歯には歯 を、に等しいのではないですか。

 これは懲罰ではなく、学習形態なのだと言っておこう。 正しい行いをしたと確信できるのなら、自分がしたのと同じことをさ れるのも、全く怖くはないだろう。そればかりか、その善行に見合う報 酬を受け取ることを、待ち望むであろう。 しかしそうではなく、我欲によって、他者を足蹴にしたのだったら、 自分がまいた悪い種を収穫する気には余りならないだろう。 復讐の一種のように、違反者を罰することが目的だとしたら、「目に は目を」だと理解できる。

 しかし、この法則の趣旨は罰することではな く、他人に行った行為を自ら体験して、魂の進化を促進させることなの だ。 別の言い方をすると、「霊的裁きの法則」は、我々が学び取れるよう な方法で、各人をそれぞれの行為と向き合わせてくれる。そして、自分 が招いたものと文字通り同じ状態を経験する必要はないものの、それが 最も速い習得法なので、惨めな霊的な劣等感から脱却したいと願う多く の魂がそうしている。

*それほど過激にならない別のやり方で、負債から解放される方法はな いのですか。

 試練の厳しさは、本人がどれだけ早く霊的な借金を返済したいのかと、 試練を乗り越える力があるかどうかによる。試練は、魂にそれを乗り越 える準備が整った時にだけ訪れる。 利子の付かない銀行貸し付けに似ており、カルマの借金がある進化を 望む魂には、負債を支払って更生するための選択肢が複数提示されるの だが、どれを選ぶかは自分の決定による。時間はかからないが高額な分 割金で返済することも、時間はかかるが低額な分割金で払い戻すことも 可能だ。

 清算し終えるには、より多数の転生が必要となるが、霊的なガイドた ちは、二番目の選択肢、つまり借金をより楽に支払う方を勧める場合が 多い。 しかしながら大抵の場合、魂は、犯した罪の呵責で苦しむ状態から抜 け出したいと急いでいて、カルマを素早く消し去ることができるように、 より厳しい試練を選ぶ傾向がある。

 いずれにせよ、魂は試練に向き合うことを承諾しなければならず、上 手く乗り越えられるように、準備を整えるのだ。

*「カルマ」とは何を意味しますか。

東洋起源の言葉で「霊的負債」ということに等しい。

*でもある種の試練はとてつもなく辛そうで、そこからは、「人生は涙 の谷である」という教訓以外は、引き出せそうにないですよ。

 原因を知らずに判断しているからだ。犯罪がお咎めなしだった物語の 冒頭部分しか見なかった多くの者にとっては、その人が裁きを受けなか ったのが不公平に見えたろう。 だが観客が、その後の転生で勘定が清算される第二話だけを見ても、 災いがどこに起因するのか理解できないので、そのような辛酸を味わわ ねばならない人がいることが、理不尽に思えるのだ。 しかし、もしその魂の犯罪に満ちた過去を知っていたとしたら、多く の者が、二つ目のチャンスをあげようとさえしなかったろう。霊的世界 では、いつも次のチャンスがある、いや、更生の機会は無数にあると言 った方が良い。

*霊的世界に改悛の機会が無数にあるのだとしたら、たとえばキリスト 教義で見られるような、悪者に対する永遠の刑罰や懲戒の信念はどこか ら生まれたのでしょうか。 

 永遠の懲罰の概念は、神聖な源から発したものでない。根拠に欠け、 霊的な真相に一致していない。不合理な怖れで人びとを支配しようとし た、聖職階層が導入した誤った教えの一つに過ぎない。 他者の霊道の探求に寄与する指導役を自負する者が、そうするどころ か、人びとをさらに混乱させ、思考を操作して愚かにし、弱点を利用し て自らの地位を上げたのだ。彼らは、嘆かわしくも、すでに充分に苦境 に満ちたその道のりを、邪魔することに一役買ったのだ。

*では多くの人が、人生の悲惨な出来事は、事前の打診もなく強制され たものだ、という感じを受けるのはなぜでしょうか。

 それは生まれ変わる前に決めたことで、魂は肉体に宿ると過去を忘れ てしまうので、自分ではその決断に関与していないと思ってしまうのだ。 「魂の法則」を知らない者は理解できないだろうが、進化の一歩を踏 み出す決意をした多くの魂は、非常に困難な状況に立ち向うのだ。 多くの人は、何もしていない善人が、運命のいたずらのように、悲惨 で不幸な数々に見舞われなければならないことが、理解できない。そし て、善人がこんなにも酷く苦しまねばならないのだとしたら、真の裁き が存在する訳がないと結論づける。

 しかし、もしその魂の過去を垣間見 ることができるとしたら、その原因を見出せることだろう。その魂は、 「魂の法則」と同調できる前に、犯した罪の修復をし始めているのだ。 したがって、困難に立ち向かう人たちがいることを喜びなさい。第一 にその人たちは、更生しようと深く肯定的に改心した魂であり、第二に それほどの試練に直面すること自体がかなり進んだレベルに達したとい うことで、負債を集中的に清算することにも成功する可能性があるから だ。

*それでは、魂が出会う否定的な状況の全てが、過去の行為の結果であ ると理解すべきですか。

いや、そうではなく、その多くは今生の行為の直接的な結果だ。 また自分が生まれ変わった惑星の進化レベルに特有のものもある。

*それは、負債がない魂でも、贖罪とは関係のない逆境を経験する可能 性がある、ということですか。

そうだ。それは頻繁に起きていることだ。しかし、そうするかどうか は、魂が自由に選択する。

*そうすることに、どのような意味があるのですか。自虐的に思えま す!

 魂は、苦しむのが楽しいからこの道を選ぶ訳ではないのだ。また、苦 悩自体が全く不毛なものであり、霊的に何も成長できないのだとしたら、 それもやはり意味をなさない。 しかし、それによって、愛の学びにおける霊的な進歩ができるのだ。 したがって、真の幸福へと近づけるので、自己記録を更新してゴールし た長距離選手がレースを頑張って良かったと思えるように、悲痛な状況 を上手く乗り越えられると、努力の甲斐があったと思うのだ。 このような選択は進化した魂特有のもので、後進の同胞を助けるため に転生して導こうとする、愛の行為なのだ。そして同時に、自分自身も さらに速い進歩を遂げようとする。なぜなら、後進の者の恩知らずな行 為と不正の多くに耐えなければならないので、無償の愛の能力が試され るいい機会となるからだ。

*逆境は進化の役に立ち、その多くが過去の行為の結果であると言われ ても、前世のこととは切り離して、余りにも不平等で非人道的な耐え難 い ―たとえば飢餓や貧困や戦争など― 許せない物事があります。それなのに、大変善良で能力が高いとされる存在たちは、人類のこの 嘆かわしい未来を変えるために何もしてくれません。これにはどう返答 されますか。

 確かに、非人道的で許しがたいことは数多くあるが、それらは地球に 転生した魂たちが生み出したもので、それらを自覚し、地表から撲滅す る努力をするのは、その責任があり、そうすることができる人間自身で なくてはならない。

 すでに述べた通り、霊的な進歩は、何の強制も強要もされず、それが 魂自身の自由意志と努力で決断されて、内面に取り入れられた時にだけ に起こる。これは、「自由意志の法則」という、霊的に進化した存在全 てに尊重されている「魂の法則」だ。これが、神や他の高次の存在の、 この世の不正を改善する姿が見られない理由である。

 ある問題を解決しようと全能の存在がこの世に現れたとしても、その 決断が全ての者の意向に沿う訳ではないので、それまで救世主を要請し ていた地上の者は、今度は自由が失われたと文句を言うであろう。 君たちの世界には、我欲を放棄する覚悟のある人も、自分のものだと 思っている物を、それを持たない人びとと分かち合うことのできる人も ほとんどいないので、どんな決定であったとしても、損をしたと思う不 平分子は、常にいることだろう。

 だから人間には、物質界で、制限なく自由意志を使う経験をさせて、 自分が招いた状況に対処させるのだ。苦しみはエゴのせいであり、我欲 が人類の心に君臨し続ける限り、戦争も飢餓も貧困も不正もなくならな い、という結論に独りで達しなくてはならない。 全ての災いを根絶する唯一の方法は、一人ひとりの心から我欲を一掃 することだが、エゴの毒を解毒できるのは、愛だけなのだ。

 腕組みをしながら救済者がやって来るのを、待っていてはいけない。 行動するのだ。そうすれば助けが得られる。「愛の法則」を信奉する高 次の魂は、いつでも君たちを蔭から応援するために、傍にいるのだ。し かし、君たちの意に反することはできないので、君たち自身の意志で、 率先して行わなければならない。 川に落ちてしまった者が助けを求めているにも関わらず、本人は腕を 動かしてなんとか泳ごうともせず、浮ぶ努力さえしないのと同じことだ。 決断しさえすれば、君たちには、自分の運命の方向を変える力がある のだ。 

 間違いを犯す度に、父親が助けに来てくれるとしたら、一体どんな方 法で進歩できると言うのだ? 学びのためには、自分の決断が及ぼした効 果を味わう必要があり、自由に行動して、一方の道を採るか、別の道を 選ぶのかを決めなくてはならない。

*霊性がさらに進化している世界は、高次の霊性というものを示すため に、どうして人を送って来てくれないのですか。

 そうしたいと思ってはいるだろうが、何度とくりかえしているように、 君たちの自由意志に干渉できないのだ。 進化した物質界の人は、進歩の劣る世界側の合意と同意がなければ、 その世界の発展に、集団として干渉できない。そこで、目立たない方法 で、軍隊を上陸させたりもせずに、高次の人が地球に転生して手本を示 すことで、援助をするのだ。そうすれば、その高度なテクノロジーの魔 法に眩惑されることなく、感じ方や考え方の共似性によって、彼らの教 えを取り入れてもらえるからだ。

 テクノロジーで圧倒するケースは、「自由意志の法則」を尊重しない 文明なので、国民は高度な文明に依存してしまい、破壊的な結果がもた らされるだろう。自主努力の成果でないものは簡単に忘れられてしまう ので、達成できたと思われた革新も、彼らが立ち去ればたちまち元の木 阿弥となってしまうのだ。 それに君たちは、現在は肉体を持たないガイド役や霊界の親しい者た ちから、精妙な方法で、常に支援を受けている。援助を受けるために、 どのように霊界とコンタクトしたら良いかは、もう充分話したろう。助 けられるためには、助けが欲しいと願う必要があるのだ。

 なぜなら、孤 独で世間からの孤立を願う者や、進化を望まない者には、その願いが尊 重されるからだ。 愛における進化を、誰にも強制することはできない。自分の意志で進 化しようと決意しなければ無駄であるし、おまけに、「自由意志の法 則」に違反することになる。

*もっと大きな災いを避けたり、平和や民主主義を守るためには仕方が ない、と戦争を正当化する人たちがいますが、これに関してはどう思わ れますか。

 もし本当に平和や自由を愛するならば、自分が主張することと反対の ことをしてはならないだろう。目的に対して手段が矛盾するのであれば、 その人は嘘つきか偽善者なのだ。

 手段は求める目的と合致しているべきで、目的によってその手段が正 当化されることなどあり得ない。戦争によって平和は実現できないし、 強制によって自由を得たり、不正によって正義を得ることも不可能だ。

*でも、大部分の人びとは平和に暮らすことを望んでいるのに、一部の 権力者たちが戦争を決定してしまうではありませんか。

 それなら、なぜ君たちが望むことと反対のことをする者に権力を渡す のか? 君たちの世界の腹黒い支配者たちが、国民を戦争に招集したとしても、 銃を取る者も他者に強要する者も誰一人おらず、武器を製造する者もい ないとしたら、彼らがいかに邪悪であろうと、何できない筈だ。 しかし、もしそれが可能だとするなら、それは君たちのエゴがそその かされてしまうからだ。自分は他の者たちの殉教者だと納得させられて しまうから、羊は所に連れて行かれてしまうのだ。だからこれは、 自分が同類の命を奪う権利があると信じて、他者も自分の命を奪っても いいのだ、と納得させられてしまう者の問題なのだ。

*もし誰かが襲われて、自己防衛で加害者を殺してしまったとしたらど うですか。また、これは例ですが、子どもたちに危害を加える者がいて、 加害者を殺さなければ子どもが守れない、としたらどうでしょう。

 いいかね、霊的世界では、出来事自体はそれほど重要ではなく、その 時の意図が重要なのだ。 殺されるのを回避しようとしただけで、相手を殺すつもりのなかった 者を、最初から殺意を抱いていた者と、同じように裁くことはできない。 当人は、大きな損害を与えることなく被害を避けようと、できる限り努 めるだろう。 しかし、これは戦争に行く人たちのケースではない。人が戦争に赴く 時には、いつかは他の人間を殺したり、自分が死ぬ羽目になると、完全 に自覚している。 神を信じる「愛の法則」の信奉者ならば、敵軍に転生した自分の兄弟 を殺害に行くために、絶対に自ら進んで入隊などしない。殺人を正当化 し得るほど高尚な理念や信仰は、何一つ存在しないからだ。

*でも、多くの人びとが意に反して徴兵されて、前線に赴くように強要 されていることも、確かではありませんか。これについては、どうでし ょうか。 

当事者の魂にとっては、進退窮まることなので、かなり大きな試練で あろう。しかし、このような状況は偶然ではない、と知るべきである。 このような試され方をされる者は、おそらく前世では、他者を同じ状況 に誘導したのであろう。 これは、愛に賛同する自分の信念が試される、大変厳しい試練である。 殺して殺人者になり果てるか、敵軍に拷問されたり傷つけられるか、 造反者や裏切り者のレッテルを貼られ「友達」だった自分の一味から投 獄・拷問されさらには死刑にされるか、を選択しなければならない。こ れらの選択には情状酌量の余地があるが、死ぬか殺すかの戦争に行くよ うに他者を強要した者の責任はもっと重く、重責だとされる。

 君たちの世界では、命を危険にさらして敵軍の兵隊を殺した兵士は、 勇者である。一方、一人の敵兵も殺さないで済むよう自分の命をさらし た者は、臆病者とされる。 しかしながら、霊的世界では、それが正反対となる。勇敢なのは、殺 人に反対する平和主義者であり、造反者であり、裏切り者であり、兵役 忌避者である。見知らぬ、おそらく別の信仰やイデオロギーを持つ者の 命を守るために、死ぬまで自軍に迫害されることになるだろうと知りつ つ自らの命を危険にさらすので、勇者なのだ。他方、どちらかの軍に自 分が一番初めに殺されることを怖れて、他者の命を奪うために自分の命 を冒す者は、勇者からはほど遠いのだ。

 いずれの場合にせよ、どちらを選ぶかを決めるのは魂だ。兄弟の殺害 を拒んだために、利己主義者に報復されて地上で一時的に苦しむが、霊 界で報酬を授かるのか。それとも、戦争のヒーローとして地上で報われ るが、兄弟を傷つけたために、後で霊界で苦しむのか。

*それなら、他国を侵略しようとする国や勢力があったとしたら、攻撃 されたり侵略されることを防ぐために、他の国々は何をするべきなので しょうか。破壊されている間、腕組みをしてじっとしているのですか。 ナチスドイツのケースが思い浮かびました。ヨーロッパやアメリカ 

 君たちが知り得る人類の歴史の知識は、過大に操作されたものだ。 多くの者が未だに、戦争には善い陣営がいると信じ、神が応援するの は常に自分が所属する方で、もう一方の陣営は悪魔に支援されるとする。 しかし、敵対する側でも全く同じ意見で、自分たちこそが善人で神は彼 らを支援しており、もう片方には悪魔に支援された悪人がいると思って いる。 君が言及したような戦争は、一朝一夕にはでき上がらないのだ。

 実際 には戦争というものは、武力抗争が始まるずっと以前から練り上げられ るもので、嘆かわしいことに、将来的に敵対することになる二つの勢力 はお互いが武装するために予め協力し合い、それから破壊し合うために 敵対するのだ。 過激で暴力的なイデオロギーによって、国民は道徳的にも経済的にも 退廃してしまうのだ。大規模な戦争は、国民が極度の困窮に陥るような、 深刻な経済危機の後に起こってきた。

  これらの経済危機は偶然に派生したのではなく、他者の不幸と苦悩の 犠牲の上に私腹を肥やして、さらに大きな力を得ようとする経済的・政 治的な大権を持つごく少数の一グループによって意図的に誘発されたも のだ。 彼らは、悪の根源は、人種・宗教・信仰・文化などの違いがある人た ちなのだと吹聴するために、自分たちの広報メディアに極端な理念を流 布させているのだ。しかし、もしそれができるのなら、君たちの我欲を そそのかすことに成功し、君たちが我欲によって、他者の中に兄弟を見 出せなくなってしまうからだ。

 真に愛を信じる者は、自分の兄弟 ―人類は誰でも兄弟なのだから― を 殺すために、絶対に戦争に行ったりしないだろう。 君たちには子どもがいないのか? 子どもたちに、戦争に耐え、傷つい たり殺されたり、飢えたり苦しんだりして欲しいのか? 君たちの家や村 や町が、破壊されたいのかい? もしそうでないのなら、それは相手側に とっても同じことで、戦争をすれば、望まない苦しみ・死・痛み・破壊 を与えてしまう、と考えてみるのだ。敵側にも苦しむ子どもがいて、そ の子たちは貧困・飢餓・痛み・苦悩・破壊と死を患うのだ。 君たち自身の子どもに望まないことは全て、他人の子どもにしてはな らない、とはっきりと言っておこう。他者の子どもにすることは、実際 には「霊的裁きの法則」によって、将来の君たちの子どもに対してする ことになるのだから。

*お話によると、戦争の主な扇動者は少数で、残りは自分の我欲によっ て彼らに引きずられるままになるようですね。 そうだ。 

*それなら、戦争の主犯者たちは、苦悩と破壊を大勢の人びとにをもた らすので、霊的に莫大な借金を負いますね。

 全くだ。反省して態度を改め始めてくれるかもしれないので、物質界 の「権力者たち」が自身の借金をさらに増やしてしまう前に、言ってお きたいことがある。 彼らは、侵略や戦争を企てて、躊躇せずに不和や憎しみを国民の間に ばらまき、おまけに厚顔にもそれを、神や民主主義や自由やその他の高 尚な名目の下に行って、それらの理念を汚がしているのだ。 彼らは、血の凍るような種をまいているのであり、来世では、地雷を まく指示をした国の不具の子どもや、飢え死にさせた国の腹ペコな子ど もとして生まれ変わり、否応なくふんだんに苦い果実を取り入れなけれ ばならない、と知るべきだ。

 物質界で権力があっても、霊界での地位は、お金や権力や影響力によ るものではなく、どれだけ愛の能力を開発できたかだけで決まるので、 現状は一時的なものに過ぎず、霊界でそれを維持することはできないの だ。 この世の主だと思い込んでいた者たちが霊界に移動し、現実をありの ままに見て、自分のせいで死んだり苦しんだりした者たちが、霊的には 自分よりも上のレベルにいるのを見れば、なんという失望を味わうこと だろう! 国家元首は凱旋で礼遇されなぞしない。その反対に、悪行の報 復をしたがっている、大勢の劣った者たちが待ち構えているのだ。自分 が招いた苦しみの分だけ、苦しみを受けるのだ!

*結果として、不具や貧困や飢餓、その他の困窮と辛苦を味わう羽目に なった、武力抗争の犠牲者には何と言ってあげられますか。

物質的なものを喪失することや、肉体の命ですら失うことに執着して はならない。それらは全て、仮初めなものなのだ。 君たちは不死で、誰にも君たちを殺すことができない、と思い出すの だ。君たちが本当の生である霊界に戻った時には、そんなことはどれも どうでも良くなる。そこでは、全ての苦しみが癒されて、全ての傷も治 されるのだ。そして、愛のみが重要となる。 経験した災いの全てが、同胞の苦悩に敏感になることに役立ち、同じ 経験を二度と誰もくりかえさないようにと願えるようになれたのであれ ば、それは結果として、愛せるようになったということで、たとえ僅か であっても、無駄ではなかったのだ。

(P93~P109)


(作者あとがきをご覧ください)

https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。



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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~愛の法則から見た病気

2019-09-21 21:06:27 | 魂の法則

 

 https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~愛の法則から見た病気

P187~P201


P187~P201

「愛の法則」から見た病気

*肉体的な病は、特定の感情やそれを抑圧することと関係がある、と何 度も言われましたが、それを掘り下げてみたいのですが。

 そう、感情を黙殺してしまったがために魂が病気になった人は多く、 魂が病気になると、肉体も魂と緊密に結びついているので、病気になっ てしまうのだ。

*肉体的な病気が、感情面に起因しているのですか。

 その通りだ。君たちの世界では感情を抑圧することが、精神的にも肉 体的にも病気の最大の原因となっている。

*精神病に関してならそれに同意できるのですが、癌はどうでしょうか。 癌は遺伝子の異常で起こる、と科学的に証明されませんでしたか。

 遺伝子の異常は癌の全てのケースに認められるが、多くの場合、それ が最初の要因ではない。

*では、最初の要因は何ですか。

 話した通り、原因は精神的なもので、霊的内面を抑圧したことと関連 がある。 人は感情に従って生きて行動しなければ、内部に深い不快感が生じて 苦しむのだ。それが、怖れ・憤り・憎しみ・悲しみといった精神的に有 害な「エゴ的感情」を生み出し、それらが病気の原因となるのだ。 直面できないような困難な状況に出会うと、それが外因となって、不 快感が増長される場合がある。そうなった状態を感情的トラウマと呼ぶ としょう。

*感情的な不快感はどのように肉体に影響し、最後に病気となってしま うのですか。

 精神的に調子が悪い時には、霊体とメンタル体との間でショートが起 きていて、それがエネルギー体もしくはアストラル体に伝達されて、そ の構造を乱してしまい、波動を下げてしまう。 この「エネルギー低下」は、送電系の一部が停電したように、アスト ラル体の特定の箇所に影響してしまい、そこと繋がっている身体の部分 にきちんと活力を与えられなくなってしまう。こうして生命エネルギーが不足して活力をなくした領域が、身体の他の部分と連動しなくなり、 その結果、活力を失った細胞組織は、他と調和して機能できなくなって しまう。 エネルギーの供給が途絶えると、通常の細胞機能はその影響を被り、 遺伝子異常が起こり始め、細胞が破壊されて進行性の病となったり、細 胞が制御不能なほど増殖し始めて癌を発生させる。

*この話は、アストラル体について話していた時に推薦下さった、物理 学者バーバラ・アン・ブレナンの著書、「光の手」と「癒しの光」の中 で、病気について書いてあったことを思い出させます。 彼女によると、精神的・感情的な問題は、暗いまたはくすんだ色合い の部位としてアストラル体に現われ出て、その原因は、当事者が抱いて いた否定的な考えに根づいているとのことです。これが消えずにアスト ラル体に留まってしまうと、当人の肉体にも遅かれ早かれそれが顕現し て、病気を引き起こすのだそうです。それでは、これは正しいのですか。

まさにその通りだ。

*新ドイツ医学を宣言したドイツの医師、ライク・ゲールト・ハマー (Ryke Geerd Hamer)の推論も思い出されます。 ハマー医師によれば、癌やそれと同等な病気は全て、独りで経験しな ければならなかった極度の感情的トラウマから発症するそうです。そし て、トラウマの種類によって、癌が発生する器官が異なるそうです。そ れに、感情の葛藤があると先ず脳に影響して、そこで一種のショートを 起こし、それから、その脳の部位に対応していた肉体領域が病気になる とのことです。また、原因となった感情的トラウマを解消すれば病気が 治癒する、と主張しているのですが、この医師の言っていることは正し いのでしょうか。

 100%ではないが、彼が言っていることはかなり正しい。全ての病気 が感情的葛藤から生まれる訳ではないのだが、大半はそうなのだ。

*では、感情の葛藤を解消すれば病気を治せる、ということについては どうですか。

 それは正論だが、葛藤を解決できるためには、本人にかなり深い変化 が起こらねばならない。「エゴ的感情」にしがみついたままで、感情を 抑圧し続ければ、一つの病気が治っても、また別の病気になる。それは、 特定の葛藤を解消できたとしても、同じような「エゴ的感情」を引き起 こす別の葛藤が再び現れてしまうからなのだ。こうして病気の根本的な 原因に行き当たる訳だ。

 本当に病気を発病させる原因とは、我欲とその顕現形態なのだ。そし て、治癒効果があり健康にするのは、愛とそれを表現することなのだ。 これは、確実に断言できることだ。

*しかし僕たちには、大なり小なり、そういうことが起こるのではない でしょうか。つまり、ほとんどの人に、憤りや悲しみや攻撃欲を目覚め させて不機嫌にさせるような物事が、人生では色々と起こるのではない でしょうか。 僕は、感情の抑圧についての説明がかなり自分に当てはまると思いま したが、癌に罹っていないのはなぜでしょう。

 確かに、君たちは時々病気になるのだが、癌のように本当に重い病に 罹るには、感情的な不快感に「囚われて」いなければならない。囚われ るというのは、不快感が恒常的な固定観念に変わり、「エゴ的感情」に 支配されるがままとなり、相当長い期間そのままの状態でいるという意 味だ。長いこと、眠りの妨げとなる場合もある。 また、そういう感情を発散させたり表現する、全ての手段を抑制した 場合である。

*では、癌になり易い性格というのがあるのですか。

 そうだ。「エゴ的感情」(憤り・憎しみ・悲しみ・怖れ)に流される 人と、感情の授受や表現が抑圧されていると感じている人だ。

*それなら、病気は、物事に正しく対処しなかった罰だという結論にな りませんか。

 罰ではなく、内的な感情的苦痛の結果である。 病気を生み出すのは当人であり、癒せるのも当人である。そのために、 魂の本当の姿を抑圧せずに表明して、我欲から愛へと自分自身を変化さ せるのだ。

*でも、もう苦しんでいるのに、そのような重い病になることには、ど ういう意味があるのですか。苦しむだけで充分ではないですか。

肉体の不快感は、内面の不快感の反映だということに気づきなさい。 この場合、肉体的な病気は、当人に内面の病を気づかせ、変化を促す ためのアラーム音のように作用する。

*でも当人が、肉体的な病気が内面の病と関係していると連想できなけ れば、どう自己変革できるというのですか。

肉体的な病気は、内なる魂を出現させまいとする頭脳の防壁を弱める ので、自己の感情のみならず、他者の感情や苦悩についての感知力が高 まるのだ。そして、これが、人に変化を促すのだ。

*自分が変われば、病気は治るのでしょうか。

大半は治るが、全てのケースがそうではない。肉体レベルで修復不能 な病害もあるのだ。

*治らない人たちは、死んでしまうこともあるのですか。 そういうことになる。

*自分を変えても治らずに、どうせ死んでしまうのなら、病気にどうい う意味があるのですか。

 霊的視点では、肉体の命は本当の命のほんの一瞬に過ぎず、肉体の死 は終わりでも悪いことでもなく、より制限のない別次元への移行期だと いうことを思い出すのだ。

 病気は、人がより高次の理解・愛・叡智へと進歩するために役立つ手 段なのだ。すでに述べたように、肉体の病は、内面の感受性の表現を妨 げる頭脳の障壁を弱めるので、実のところ、進化に寄与するのだ。 人が、愛における進化で成し遂げた変化は、失われることがない。ど こに行こうと、自分と一緒に持って行ける。これは、人生で得られるも のの中では、最も貴重なものだ。生涯を通しての目標に掲げることがで き、もしそれを達成できたとしたら、魂は自分の仕事に満足して、穏や かに霊界に戻ることができるのだ。

 実際、自分の魂に成し得た変化だけ が、死ぬ時に持って行ける唯一のものだ。なぜなら、物的な成果は全て、 物質界に残るのだ。 イエスの次の言葉はそれに言及しているのだ。 「自分の宝を地上に積むのはやめなさい。そこでは、虫とさびでキズ 物になり、また盗人が忍び込んで盗み出したりする。自分の宝は、天に 蓄えなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が忍び込んで盗むこと もない。自分の宝のあるところに、自分の心もあるからだ」(マタイ6・ 19〜21)

*でも、死んでしまったら、学んだことをどう実践できるのですか。

 魂は体に宿っていようと離れていようと、生き続けるのだと気づくの だ。どちらの場合でも、学んだことは魂の一部となり、継続して進化し ていく役に立つ。

*でも、家族や愛する人たちはどうなるのですか。過酷な病気になって、 必死に頑張って自分も変えたのに、その上、愛する人も失ってしまうの は、ショックが大き過ぎやしませんか。

 病気であろうと自然死であろうと、愛する者たちとの別離は一時的な ものだ。向こう側では、我々は皆、愛する者と再会できる。 物質界に生まれ出る時には、その転生で一緒に生まれ出ない愛する者 たちと、同じように別れてやって来るのだと気づくのだ。しかし、彼ら にとっては、それはトラウマとはならない。一時的な別離だと分かって いるし、生まれ変わる魂は霊的に進歩するためにそうするのだと理解し ているからだ。そのため彼らには、君たちのような喪失感はない。 君たちが、生命は決して尽きることがなく、肉体の死は終わりではな く霊的次元への移行段階に過ぎないと会得できれば、愛する者が死ぬこ とで生じる問題・トラウマ・落胆の多くのものが、消え去ることだろう。

*自分の葛藤を解消できずに、病気のせいで死んでしまう人たちはどう なのですか。

試練を乗り越えて自分に打ち克つために必要だった変革を実現できな かったので、霊的に停滞してしまったのだ。彼らは霊的に超越する戦い で「匙を投げた」のである。つまり、霊的に進歩できそうになかったの で、彼ら自身が霊界へ戻れるようにしたのだ。次回の転生では、同じ試 練を携えて来て、それを乗り越えようとするであろう。

*病気の原因の話に戻りますが、表面上は、何の感情的な葛藤もなく比 較的幸せなのに、癌のような病気を患う人がいませんか。 それに、感情的トラウマを体験するほど充分な自覚がないのに、先天 的な病気を持って生まれる子どもについてはどうなのですか。

 いい質問だ。生まれたばかりの子についてだが、魂は胎芽に結びつい た時点から、周囲で起こる全ての事や母親の気持ちを感知できるのだか ら、妊娠期に感情的トラウマを経験し易く、それが肉体的な病気の発症 原因となり得るのだ。 しかし、どんな感情的トラウマとも関係のない病があるのは確かだ。 したがって、感情的トラウマが全てのケースの要因とは言えない。 遺伝的要因を持つ先天性の病と呼ばれるものがそれに当たるが、他の 病気の原因は、感情要因と遺伝的な性質が組み合わさったものである。 

*先天性の病気の場合、何がその原因ですか。

 前世での行いに原因がある。病気は、我欲に駆られて犯した、「愛の 法則」に反する行為で貯った負債を清算するための試練なのだ。

*言われることが分かりません。病気が過去の行いとどう関係するので すか。病気をどのように前世から他生へと繰り越すのですか。もう少し 教えていただけますか。

 人は「愛の法則」に違反すると、「霊的な作用と反作用の法則」によ り、その行為が心理的毒素となって魂に浸透し、振動レベルを下げ、そ の様相を乱すのだ。 波動低下に呼応した乱れは、しまいには、メンタル体や将来の肉体の 型となるアストラル体などの、より濃密な体を変化させてしまうのだ。 転生時に、まだアストラル体が乱れたままだと、肉体の遺伝子コードに 変異を起こしかねず、先天的な病気を引き起こす。 だから、たとえ前世のものであろうと、病気の要因が我欲であるとい うのは、やはり正しいようだ。

*でも、継承すると分かっている遺伝的変異、つまり、両親の遺伝子を 受け継ぐための変異もありますよ。だから、転生者のアストラル体が原 因のようには思えませんが。これに関してはどうでしょう。

 両親からの遺伝で受け継いで、特定の病気になり易くなるというのは、 極めて確かなことだ。だが、転生する魂は、その状況を知っていて同意 したのだ。肉体または精神の障害が、前世の行為の結果であり、通過す べき試練だと知っているのだ。また、過去に、そのような状況を経験す ることを同意した両親にとっても、試練となるのだ。

*本人や愛する人がこのような状況を経験している人に、こんな話をし ても、受け容れはしないと思いますよ。「こんな目にあうなんて、僕ら は一体何をしたんだ」と考えるに違いないでしょう。

 そういう風に考えるのが普通だ。なぜなら、総括的に理解するには、 誕生以前に前世が存在していたことや、魂がその時に以後の転生で直面 する状況を創り出したことを、認める必要があるからだ。 生命はその人生の後も存続するので、病気も結局は一時的な状況に過 ぎない。その一時の経験からは、愛の学びを積むことができ、病気はそ のためのものなのだ。

*先天的なもの・事故のような状況的なものを問わず、普通の生活を営 む上で妨げとなる、精神または肉体の障害を持った子どもや家族のいる 人には、どう声をかけられますか。

 普通の子に接するように振る舞いなさい。実際、普通の子どもなのだ。 外見で判断してはならない。肉体の奥底に、皆と同じような魂を見出す だろう。その子、その愛する者の中に、不完全な肉体を見るのではなく、 完全な魂を見るのだ。そしてその魂の通りに、完全な存在として扱って あげなさい。不良品の衣装の下には、健全な肉体の人と同等かそれ以上 に力強く生き、感じ、気づくことのできる人がいるのだ。

 音楽を理解している者ならば、音楽は楽器が奏でるのではなく、それ を弾いている音楽家の心で生まれるのだ、と言うであろう。ヴァイオリ ンが未調弦であったり壊れていても、弾き手自身が演奏できない訳では ないし、一時的に思い通りに弾けないだけで、手元の楽器がどのように 調弦されているかに関わらず、自分の音楽の才能を伸ばすことができる のだ。

 それと同じように、楽器となる肉体が一時的に調子外れだからといっ て、愛という心の曲を聴き取り、それを表現する可能性を魂から奪って はならない。普通の子どもに接するように、その子に話しかけたり、気 持ちや愛情を表して伝えたりすることが、不毛な努力だと思ってはなら ない。 人は、肉体の感覚によって感知できなければ、魂の感性を介して感受 するのだ。特に愛の行為に対しては、もっとずっと感受性が強い。健常 人の反応をしなくても、感じていない訳ではなく、その子の身体が、魂 が望むがままに物質界で表現することを、妨げているだけなのだ。その 子のために心からしてあげることで、無駄になるのは何もない。

 霊界で は、愛のためや愛を抱いて行うことで、失われるものはないのだ。 すでに言ったが、くりかえしておこう。 肉体的または精神的な障害は 一時的な状況で、それはひと度肉体が消滅するや、終わるのだ。だが、 その体験を通して、その人本人や周囲の人びとに目覚め、強化された感 情は、魂の糧となって永続する。そして、それが真に大切なことなのだ。

*でもそれによって、何を学べるのですか。

 自他の苦悩に敏感になれる。おそらく前世では、今苦しんでいる人た ちが、他者に同様な苦しみを与えていたのだが、自分がどれほど傷つけ ていたのかを自覚しようとしなかったのだ。 愛への第一歩は、他者も自分と同じ感情を持ち、自分が苦しむのと同 じことで苦しむのだと認識することだ。

*先天性の病気に霊的な意味があるとしたら、それは何でしょうか。

 このケースでの病気は、魂が高次の霊的進化を遂げる妨げとなる心理 的毒素を、肉体に転写するプロセスなのだ。肉体は病気になることで、 その毒性を緩和し、吸い取りスポンジのように吸収し、毒素の除去に貢 献する。つまり、魂は毒素を肉体に渡し、肉体は汚れをふき取る雑巾の ような働きをする。この「汚れ」が肉体レベルでの病気の要因であるが、 病気は、排水システムのように、より精妙な霊体を清めるために役立つ のだ。

 また、人生の最後で、この排水システムを利用して毒素を一気に洗い 流そうと、病気になることを選択する魂もいる。つまり、生涯で重い病 を患わなくても、肉体との分離の時が近づくと肉体は不要になるので、 霊的な体に蓄積されていた心理毒素の一部をそれに転写するために利用 して、浄化しようとする。 このようなケースは頻繁に見られ、この場合には死を妨げようとどん なに頑張ってみても、全く効をなさない。なぜならそれは、現在進行中 の感情的な葛藤とは無関係で、霊的な浄化だからだ。

*魂が「愛の法則」に違反すると、次の転生で病気にならされるのです か。

 いや、そうではなく、心理的毒素を除去する方法は幾つかある。 悪かったと反省することを愛の行為で償っていけば、病気を体験する ことなく、魂の毒素を取り除ける。だから先ほど、病気の原因がエゴで あれば、愛が諸悪の解毒剤と処方箋になる、と述べたのだ。 したがって、必ずしも病気になって毒を消散させる必要はないのだが、 それが一番手っ取り早い方法なので、多くの魂がそう選択するのだ。 明らかなのは、毒素の負荷を取り除くために何かをしない限り、それ は残存してしまい、より高次の愛と幸福へと魂が進むことを阻止してし まうということだ。

*感情要因と遺伝的な性質が組み合わさった病気もあると言われました ね。

その通り。

*もう少し説明いただけますか。

  特定の試練に立ち向かうために生まれて来た魂は、物質主義に流され て転生の目的から外れてしまわないために、病気を記憶の喚起剤として 利用するのだ。つまり病気は、ドライバーに車線を逸脱したことを警告 する路肩のランブルストリップスであるかのごとく、魂が事前計画から 逸れてしまった場合にだけ起動する。 同じ状況でも重病にならない人がいる一方で、遺伝的な性質で特定の 病気になり易い人は、アラームが鳴り易いのだ。言い換えれば、それほ ど強くない感情の刺激でも、病気を誘発させるには充分なのだ。

*病気の原因が、今生の感情トラウマの場合には葛藤を解消することで 治癒できたり、浄化の工程であれば先天的な病で治らないことがあるの なら、現在用いられている薬学療法は、たとえば癌などの場合で、何か の役に立つのでしょうか。

 現在の治療法、つまり、化学療法と放射線療法は、細胞の増殖という 症状をなくそうとするが、病気の原因には作用しないので、病気を回避 することはできない。 また、遺伝子を損傷してしまうので、細胞を酷く傷つけ、多くの場合 にそれが永続して再生不能となる。君たちは、癌が遺伝的変異に起因す ると思っているのに、どうして変異を誘発させる薬をその治療に用いる のか、理解に苦しむよ。

*薬は悪いのですか。

 全部がそうではないが、攻撃性が過ぎるものは、効用よりも弊害をも たらすので良くない。 特定の場合には、抗炎症剤やコルチコイドや、ある種の免疫調整剤な どは有益である。薬学を正しく適用すれば、人生に病が訪れる際に、健 康を回復するために役立ち、治癒を可能にする。また、治るの見込みの ない病でも、症状を和らげ、生活の質を向上させる助けとなる。

*では、薬学治療をして、癌が治る人がいるのはなぜですか。

 治ったとしたら、原因となった感情面の問題を解消できたからか、実 は良性だったからで、症状を排除したためではない。 感情的または霊的な毒素が残留すると、最初に冒された組織を切除し ていれば近部になるかもしれないが、癌は別のところに再発してしまう。

*癌を治すために有効な、肉体上の助言がありますか。

 質素な菜食主義とビタミンを多く摂ること。異常細胞の除去に身体が 専念できるように、休息を多く取り、平穏でいること。体器官を傷めず に回復できる、身体にやさしい治療法を使用すること。

*お話のように、「エゴ的感情」が残留することによってアストラル体 が力を失い、それが長期的には肉体的な病気を誘発するのだとしたら、 健康を回復するために、アストラル体をエネルギー的に綺麗にすること は可能でしょうか。

 可能だ。特定の運動(ヨガ)をしたり、人がパイプとなってエネルギ ーを供給(レイキ)したり、生体エネルギー発生装置などによって、悪 い流れを取り去り活力を与えることができる。 エネルギー治療は、アストラル体レベルに作用し、疲弊したエネルギ ーを洗い流し、そこに新しい活力を供給し、気の流れを修復する。生体 エネルギーを用いた治療は、病気の回復を促したり、症状を緩和させる ことに貢献する。 だが、エゴ的な感情を放棄できなければ、アストラル体の乱れが再発 し、その結果、肉体の病も再び出現することとなる。それゆえ、霊体・ メンタル体・エネルギー体・肉体を総合して、治療に取り組むべきであ る。

*レイキとは何なのでしょうか。

 レイキとは、宇宙の生命エネルギーを利用する自然療法の一つで、肉 体的・精神的な病気の治癒に役立つ。レイキは、宇宙的生命エネルギー を意味し、それを発見した日本の先駆者に命名された。 現在ではその名前で有名になってはいるが、健康改善を目的としたエ ネルギーの授受は、何千年も以前から、磁気やプラーナなどの様々な名 称の下に行われてきた。それは、「奇跡の癒し」と呼ばれたイエスの手 かざしのことなのだ。

*レイキは何を基本としているのですか。

 レイキのセッションは、不快感や病を緩和したり除去するために、送 り手またはパイプとなる人が、自分の手を通して、生命エネルギーを受 け手に伝達するのが基本だ。受け手となるのは、自分自身でも他者 (人・動物・植物)でも良い。 レイキは、アストラル体でのレベルに作用し、エゴ的な感情に起因す るエネルギーブロックの除去に役立つ。だが、外傷または中毒など、完全に肉体的な原因による不調の場合に は、損傷を受けた部位の気の流れを再動させ、痛みを緩和し、体組織の 再生を促進させる。 アストラル体の構成についてや、気の流れやチャクラの知識、及び感 情的問題と影響を被る肉体箇所との関係を理解するのは、正しい位置に 手を置く助けとなり、損傷を受けた部分の気の流れを再生できる。

*でも、癒しのエネルギーは、どこから出るのですか。送り手からです か、宇宙からですか。

 生命エネルギーは、宇宙のどこにも存在し、レイキの担い手は、それ を必要としている人に集中してエネルギーを向けようとする。時々、送 り手となる人が周囲からエネルギーを結集できなかった場合に、自分自 身の生命エネルギーを譲り渡してしまうことがある。 また、霊的な存在にエネルギーの伝達を手助けしてもらっている人も 多く、その人の能力が非常に高められる時もある。この場合は、意識の 高い仕事は精霊たちが行っており、レイキの送り手は、癒しの魂たちが、 肉体とエネルギー次元に接近できるための道具のように機能する。

*人が自分自身のエネルギーを与えてしまうについては、どんな理由が あるのでしょうか。

 過度に力を投入する、集中力の不足、リラックスできていない、私心 なく助けようとしていない、精神的・肉体的な悪習、などが原因だ。 レイキのセッション中に以上のようなことがあれば、送り手は疲れき り、エネルギーが不足し、受け手の不快な症状まで自分で感じてしまっ たりする。

*レイキができるようになるためには、何が必要ですか。

 レイキが効力を発揮するために最も重要となるのは、送り手が、仲間 を助けようとする意志を持つことと、愛を実践して自分のアストラル体 の波動を高めることだ。 積極的にエネルギーを受け取ろうとする受け手の姿勢も大切だ。その 人がどれだけ素直に信頼できるかによるからだ。受け手が、レイキに効 き目がある筈がないと思ったり、送り手を信用していなかったり、愛に 賛同し我欲を捨てる自己変革をする意志がなく、エネルギーを拒否すれ ば、その人のチャクラは閉じたままで、送り手にどんなに力があろうと、 気は流れない。

 ラジオで起こることに似ているのだ。放送番組を聴くためには、強力 な信号を放つ優秀な発信機が必要だが、受信機をつけて正しい周波数に 調整するのも、同じように大事なのだ。 その後は、スポーツと同じで、継続して練習することで、回を追うご とにエネルギーの伝達能力が高まり、もっと大きな波動になるのだ。非 打算的に助けようとする意志があれば、いつも最善の結果を得ることが できる。 さらに、肉体を浄化させれば、エネルギーが身体を通過する際に、波 動が低下してしまうこともない。そのためには、菜食と、身体の器官に とって有害となる、アルコールやタバコ、その他全ての薬物の消費を控 えることが必要だ。

*エネルギーを伝達できるようになるためには、レイキの師匠がその人 のチャクラを事前に開ける必要があるというのは、本当ですか。

 その必要はない。伝達能力は、魂の進化の力量と、他者を助けようと する意志と、練習とによる。私利私欲をなくして行うほど、霊界からの 援助は大きくなる。 先生の役目は、生徒の潜在能力を開花させることだが、独学も可能だ。 スポーツのように、練習すれば能力は増す。そして、他者を助けようと いう意志があれば、霊界から必要な援助を授けられる。エネルギー伝達 の真の達人がいるのは、霊界なのだ。

*レイキの段を取るための有料の講習がある、と話しているのを耳にし ましたが。その件に関して、どうお思いですか。

 お金と引き換えに、天国に行けると文書で約束した免罪符と同じよう な商売だ。最初にそれを再発見した者(臼井)が無償で行ったのに、そ の継承者たちがどうしてお金を取るのだろうか? くりかえすが、レイキを始めるために、イニシエーションをする必要 などない。どれほど有名であろうと、見返りとしてお金を要求するよう な人から受けるイニシエーションであれば、なお更だ。なぜなら、それ でお金を儲けようとしているのなら、自称するほどレベルが高くはない からだ。 真の師匠は、万人のエネルギーでお金を取ろうとしない。伝達者に過 ぎず、謙虚であるので、師匠と名乗ろうともしない。 ここに、イエスの手本がある。エネルギーで多くの人を癒し、弟子た ちにも伝授したのだが、誰からもお金を受け取らなかった。

*講習だけでなく、レイキのセッションでお金を取る人もいますよ! これについてはどう思われますか。

 宇宙エネルギーは、伝達する人の所有物ではなく、お金を払わずに使 用できるものなので、同じく無料で与えねばならない。 レイキでお金を取る人たちは、自分自身のエネルギーや自分が努力し て周囲からかき集めたエネルギーを扱うのだろう。 だが、高波動の霊的存在たちからの手助けは期待できない。彼らと同 調するためには、心を浄化し、他者を助けたいという無私の思いが必要 となるのだが、お金を取る者には無私の志はなく、金銭的な利益を得る ことに関心があるからだ。

*でも多くの人が、レイキで儲けようとしているのではなく、それで時 間が取られるとサラリーマンにはなれないし、何かで暮らしを立てる必 要があるから、と言っていますよ。

それなら、エネルギーの伝達では生計を立てようとしないことだ。経 済的にやっていけるように、他の活動で報酬を得られる仕事を持ち、自 由な時間にレイキをすれば良い。これは、意志力の問題だ。 しかし実際には、レイキでお金を取る者の多くが、生活を維持するだ けでなく、それによって儲けようとするのだ。レイキの料金は、オーラ を綺麗にするというよりも、それにひっかかった愚か者の財布の中身を 綺麗にしてしまうほど高いことがあるからだ。 イエス自身も、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返しなさい」 と言っている。

 物質的に自立する必要があるのなら、物的な仕事でそうするように努 めなさい。霊的な仕事を介してはならない。霊性にお金を関与させるの は、止めなさい。霊性が穢れてしまうのだ。 君たちを助けている霊的なガイドたちは、君たちからお金を取るのだ ろうか? 彼らがそうしないのならば、彼らを見習い、君たちもそうして はならないのだ。しかも、自分に能力があるのだからお金を取る資格が あると思っていると、本当にそうなって、自分自身のエネルギーしか使 えなくなるのだ。 「神と富とに兼ね仕えることはできない」ということを肝に銘じて欲 しい。現在の言葉に置き換えれば、愛と我欲とに兼ね仕えることはでき ないという意味だ。それらは、相容れられない対立する概念なのだ。

*エネルギーを貰う代わりに、お金であろうと他のものであろうと何か を引き換えにあげる必要があるので、これは交換をしているに過ぎない、 と言う人たちもいますが。

 それならその人たちは、無条件の愛という、何の見返りもなく与える 行為を知らず、また理解したくもないのだ。見せかけの霊性で外側を装 おうとしていても、見習うべき手本とはならない。 それを忘れないようにしなければ、霊性復興運動も、ついにはキリス ト教と同じことになってしまう。つまり、皆の大師匠だと勝手に名のり 出る者が現れて、自分の富と権力への渇望を満たすために、聖なる教え を管理し操作し始めてしまうだろう。

*でも、有料レイキに効果はあるのですか、ないのですか。

 効果はあるかもしれないが、無料で行うレイキよりは、常にずっと貧 しい結果しか得られない。効果は、助けたいという意思の力次第なのだ。 大半の場合は、他者を助けたいという思いと、何かと引き換えに行お うという我欲とが混在している。善意によって得られる効用も、私欲で 失われてしまう。 一つはっきりさせるが、我欲があると、与える以前に貰おうとしてし まうので、癒しにはならないのだ。

 我欲に委ねる人は、本当は他者を助 けようとは思っていないので、助けてあげることができないのだ。 お金を取っているならば、それが他者を助けるためなのか、自分が有 名になるために他者を利用したいのか、あるいは自己の物質的な欲求や 期待に沿うためなのかを、分析してみるがよい。 イエスがあれほど優秀なエネルギーの担い手であり、奇跡と思われた ほどの素晴らしい、強力で迅速な結果が得られたのは、一体どうしてだ と思っているのかね? それは彼が、無条件の愛を感得するに至った魂だ ったからで、その愛がエネルギー次元で顕現する時に、高振動のエネル ギーとなり、それに肉体的・霊的な障害を癒す力があったからだ。

 多くの者が、イエスがしたことをできるようになりたい、と思ってい るが、彼らには本質的なものが欠けているのだ。それは、無条件に愛す ということで、我欲を ―虚栄・自尊・尊大を― 放棄しなければならない のだ。

 イエスがしたことをできるようになりたいのか? それなら、他者に何 かをしてあげる度に、集金してまわるのは止めなさい。イエスが癒しに 対してお金を取っていたとしたら、高次の存在ではあり得なかったし、 高次の精霊たちからも支援されなかったので、癒しそのものが不可能だ ったろう。

*病気とその意味について、最後に言っておきたいことはありますか。

 病気は、運命のいたずらでも神の罰でもなく、霊的成長の糧となるも のだ。 今生で患う病気は、今回の転生で立ち向かわねばならない試練を知ら なかったり受け容れようとしなかったのが原因か、または心に従って行 動や生活せずに霊的な内面を抑圧したのが原因だ。 この場合、肉体的な病は、内部の病気の警報として作動し、自分を変 えるように誘導する。 先天性またはカルマによる病気のケースでは、原因は前世での行為の 中に見出せる。それは、溜まった負債を清算するための試練であり、魂 が霊的により高い段階へと昇るために障害となる心理的毒素を肉体に受 け渡すプロセスなのだ。

(P187~P201)

 

 

(作者あとがきをご覧ください)

 https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 ♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。


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米軍戦闘機が撮ったUFO映像「本物」と米海軍が認める

2019-09-21 15:09:58 | 黄金時代

米軍戦闘機が撮ったUFO映像「本物」と米海軍が認める

https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2019/09/ufo-3.php

CNNも

https://www.cnn.co.jp/fringe/35142842.html

FNN・jpも

https://www.fnn.jp/posts/00424354CX/201909201227_CX_CX

TBSも

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3783775.html

 

ガラパイア (詳細を知りたい方は)

https://www.excite.co.jp/news/article/Karapaia_52282656/


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🍳ドライカレーのお弁当は逆転発想で

2019-09-21 08:42:57 | 家庭料理

お弁当用にドライカレーを作っても、パッキンが黄色に染まってしまい、取れなくなってしまいまい、ドライカレー専門の弁当箱になってします。

そこで、ドライカレーを下一面に敷き、その上にご飯を乗せます。白いご飯が見えるだけでは、ちょっと味気ないので、ウズラのゆで卵、パプリカ、インゲンの塩ゆでなどを、切って散らせば、食べる時に混ぜて食べられます。

パッキンも染まらないで、うれしいですよね。

渡すときに一言言っておかないと、お弁当を開けた時に、ごはんだけ?とびっくりしてしまうでしょう。食べないで帰って来たらがっかりするので、この一言は大切です。

 


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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~人間関係と愛の法則

2019-09-19 13:14:06 | 魂の法則

  https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~人間関係と愛の法則

(双子の魂)

P175~P186



(P175~P186)

         人間関係と「愛の法則」


*愛についての話で思い出したのですが、僕たちには全員双子の魂がい るのだと言われましたよね。    その通りだ。
 
*双子の魂は存在するのですね。 そういうことだ。
 
*想像の世界の中の幻想で、ロマンチックな夢とばかり思っていました。
 
 そうではなく、実在するのだ。ただ、君たちが想像する通りだとは限 らない。
 
*それでは、双子の魂とはどういうものですか。
 
お互いを補い合える、100%似通った魂のことだ。双子の魂は、愛で 結びつくように創造され、完全に幸せになるためには、お互いを必要とし合うのだ。
 
*各人の双子の魂は一つだけですか、それとも複数存在するのですか。
 
とても似通った魂は複数あり得るが、100%類似するたった一つのも のだけが、双子の魂だ。
 
*双子の魂は、どういう目的で創造されるのですか。
 
誰もが絶対に、孤独を感じることのないように。自己覚醒を促し、愛 の道を歩むよう突き動かしてくれる自分と同じ存在がいるためだ。双子 の魂は、君の理想のパートナーで、永遠の伴侶だ。
 
*それは、双子の魂は一緒になるために同時に生まれ変わる、という意 味ですか。
 
 多くの場合にそうだが、いつもそうとは限らない。魂の発達に求めら れることによる。たとえば、自己の意志力を発展させて相手に依存しな いようになるために、独りで物事を経験しなければならない場合も時に はある。
 
*一緒に転生する場合には、カップルとして暮らすためにそうするので すか。
 
 それは理想的な状況で、多くの場合にそうなるように転生が準備され るのだが、必ずしもそうなるとは限らない。また一緒に転生しても、カップルとしてではなく、身近な家族や別の関係に生まれ変わることもあ る。 魂の成長のために要請されることや、魂自身の選択にもよる。転生し た後で、一緒にならない選択をする可能性もあるのだ。
 
*では、今生で関わる人たちが選ばれるのは、転生前の決定なのですか、 それとも生まれ変わってから決めるのでしょうか。
 
 家族構成や特定の友人や将来のパートナーなど、一番身近な人間関係 は、転生以前に話し合われる。これに関しては、生まれ変わる魂たちの 間で、それぞれの使命や試練においてお互いに助け合う約束がなされる。 たとえば、将来生まれ変わって来る子どもに対して親になる約束をする ことなどだ。ただ、その約束がのちに果たされるかどうかは別物だ。
 
*転生以前の約束は、大抵守られるのですか。つまり、ある人とカップ ルになる約束をしたのに、のちに生まれ変わってから、違う人を相手に 選んでしまったり、ある夫婦が二人の子どもを持つ約束をしていたのに、 一人しか、あるいは一人も生まなかったということもあり得るのですか
 
君たちの世界ではごく頻繁に、転生以前の約束が破られている。
 
*約束が破られてしまう原因は何でしょう。
 
 通常は、本人自身の欠点である我欲に身を委ねてしまい、頭で決断を 下すからだ。頭は、君たちの住む物質界のありさまに多大に影響されて いる。物質の獲得にのみ努力すること(消費主義)や、物質的な悦びを 味わうこと(快楽主義)にだけ焦点を当てた生活へと誘導され、自分の 志や霊的な約束を忘れてしまうのだ。
 
*魂は転生以前のことを全く覚えていないのに、転生してから、生まれ る前の霊的な約束がどんなものだったのかを、どうやって知ることがで きるのですか。
 
 霊的な直感に従えばいいのだ。人は、心で感じた通りにする時には、 どの道を選ぶべきか察している内面の声に従っているのだ。そして、当 初の目的を果たしていくにつれて、もっと幸せになり、さらに自信がつ いて落ち着いて、人生での次の目標が明らかになってくる。 心の声に耳を貸さなければ、頭脳のみに導かれるが、頭脳は感情とは 異なり、純粋に物質的な目的を追うように仕向けるので、人は虚無感を 覚え、自分自身と折り合いがつかず、不満足で自信がなく、人生に意義 を見出せないのだ。

*具体的なケースで説明下さいますか。

 生まれる前にカップルになる合意があった二つの双子の魂が、今生で 出会ったとしてみよう。双方の魂はお互いを認識し、両者に愛情が芽生 えたとする。しかし、一方がひどく自我に洗脳されていて、今生での決 定を下す際に、その我欲のままになったとしよう。 我欲は頭の中で、物的に不利な状況を悪影響を与えるために利用し、 あらゆる方法で感情を無視させようとする。「いい相手じゃない、お金 がない、学歴がない、社会層が違う、肉体的魅力がない、家族は反対す るだろうし面倒はご免だ、遠くに住んでいる、これこれしかじかの人で はない」などと。 こうして、本物の感情を味わって、真の幸福の一端を共に経験できる 霊的に似た人と暮らす機会が現れたというのに、その機会を見送って、 気持ちに反した選択をして、双子の魂との転生以前の約束を破ってしま うのだ。 我欲の言いなりになると、自分の気持ちには従わず、知的・物的な期 待に沿って相手を選ぶことだろう。こうして、肉体的にもっと魅力的な 人やもっとちやほやしてくれる人、もっと経済力がある人など、別の人 を優先し、表面的にはもっと刺激的な生活や安楽な生活を送るだろうが、 感情的には虚しいのだ。

*本当に約束を果たそうとする人たちはどうなるのですか。たとえば、 前のケースで拒絶されてしまった人は、どうなるのですか。
 
 Bプラン、つまり代替計画は常に存在する。霊的なガイド役たちは各 人の能力を把握し、その限界が分かっているのだ。霊的にはそれほど類 似していなくても、我欲のためにではなく、感情のために努力する気の ある別の人と人生をやり直すことが可能だ。

*それでは、たとえば、未来の両親がもう転生していて、彼らが打ち合 わせとは違う選択をしてしまって、それぞれが別の配偶者を見つけて最 終的に一緒にならなかったとしたら、二人の子どもになろうと決めてい た魂はどうなるのですか。生まれ変わるのを止めるのですか。

 眠っている間に、魂はほぼ毎晩霊界に戻っているので、転生していて も、霊的世界から切り離されてはいない。他の魂が関わることは、その 状態にいる時に決めることができる。 たとえば、最初に準備した計画とは異なるものの、将来子どもになる 筈だった魂と、かつての約束を再考することもできる。両親になる予定 だったどちらの親も引き受けない場合には、その魂が子どもとして生まれ変わることに同意してくれる、似た特徴を持ったカップルを代わりに 探す。 ガイド役たちは、生まれ変わった後で人間が考えを変えやすいことを 知っているので、進化の代替プランを数多く用意してくれている。こう して、選ばれた環境が、転生前の計画からどんなにかけ離れてしまって いても、進化のための選択肢が残るように努めてくれているのだ。最初 に描いた「ルート」から逸れてしまったら、自分が選んだ道から新たな 「ルート」を再検索するのだが、目的地は同じである。

*約束を果たさなかったことは、魂に影響しますか。

 一見すれば、その人が幸福への最短距離から逸れてしまったかのごと く、否定的なことに思えるだろう。しかし、好きな時に考えを変える自 由も、味わってみなければ自覚できない状況を経験することも、自由意 志の一部なのだ。 それに、ある方法で学ばないことは、別の方法で学べるのだ。同じ場 所に行き着く道は色々あって、それぞれが異なる選択肢だが、体験する ことと学ぶことは同じなのだ。

*転生する魂は、自分の家族や近親者となる人たちを前世から知ってい たのですか。

それは、色々だ。同じ家族に生まれた人の中に、前世での仲間がいる かもしれないし、別のケースでは、同じ家族に一緒に生まれ出るのは初 めてかもしれない。

*家族構成、つまり、父親や、母親や、兄弟を決めるのは誰ですか。

通常は、一緒に生まれるそれらの魂自身が、霊的ガイドの支援や助言 を得て、相互に合意して決めている。

*家族関係は何によって決まるのですか。
 
贖罪や使命など、転生する魂の進化に求められることによる。

*進化に求められることがどのように家族構成に影響するのかと、贖罪 と使命との場合で、どう異なるのかを教えていただけますか。

 よかろう。兄弟・親・子を問わず家族の構成員が前世の天敵で、憎悪 や報復欲や恨みに駆られて酷い危害を加えた合った過去を持つ場合があ る。これらの魂は、血縁から生まれる愛情を奮い起こしてお互いの傷を 癒すという目的で、一緒に生まれ変わる。つまりこの場合は、前世でお互いに傷つけ合い「愛の法則」に反したために、彼らの間に清算すべき 負債があった訳なので、一種の贖罪となるのだ。
 
 使命の場合には、魂は帳尻を合わせるために集まるのではなく、愛し 合っているからであり、より進んだ霊的な目的を果たすために助け合お うとして一緒に転生する。このような霊的な目的は、進化の遅れている 人たちを支援することに関係しているが、同時に、自分たちの霊性向上 にも役立つのだ。 この二つの極端なケースの間に、我欲と愛情、贖罪と使命とが混在す る、色々な意味合いの中間的な状況が存在する。魂は、霊的進化の道程 を進んで行くにつれて、支払うべき借りが少なくなり、無条件に与えら れる愛が大きくなるのだ。
 
*でも、家族関係が贖罪の場合には、逆効果にならないでしょうか。つ まり、憎しみ合っている人たちが同じ屋根の下で共存を強いられたら、 虐待・暴力・緊張・口論などが絶えないのではありませんか。
 
 共存を強要された訳ではない。自分たちの悪感情を克服するために、 彼ら自身が霊的ガイドの提案を受け入れたのだ。 君が言う、虐待・暴力・緊張・口論は、これらの魂がまだ霊的な悪習 にしがみついており、自己改善をしたくないから起こるのだ。
 
*どちらにせよ、憎み合っている人たちを同じ家族に入れるのは、過激 な療法に思えますよ。それでは、危険な囚人をまとめて同じ独房に入れ るようなものではないですか。しまいにはやり合いませんか。こんな状 況から愛が生まれるとは思えません。
 
 家族の全員がお互いに仲が悪いとは言っていない。たとえば、父親と 息子の間で衝突が起こるとか、兄弟間の仲が悪くても、他の家族とは問 題がないケースだ。通常、このような家庭には、より進化した魂が転生 し、愛情に満ちた行いとはどのようなものであるべきかの手本を示す。 似たような欠点のある魂が一緒に転生するのは、まさに一方が他方の鏡 となるためであり、自分と似た人との共存体験から学ぶためだ。
 
*この経験から学ぶべきことは何ですか。
 
一番大切なことは、我々は皆兄弟だと知ること。これは、まさに文字 通りだ。前世で最も憎むべき人が、次の転生では君の兄弟となり得るの だ。
一つはっきりさせよう。 一部の人だけを愛して、その他を憎んでいて は、進化はできない。憎悪を愛に変えない限り、前進できないのだ。 だから、憎しみによってしてしまったことを償う必要があるのだが、 一番苦手で最も借りのある人に償いをするのが理想的なのではなかろう か。 また、我欲が顕現したものが欠点だが、我々と同じ欠点を持つ他者の エゴを認識したり、それを身を持って体験してみることも有益である。
 我々は、隣人の目の中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に 気づかない傾向にある。要は、我々は、特に嫌いな人の欠点には、非常 に注意を払うのだが、それと似ていることが多い自分自身のものは見よ うとしないのだ。 他者の我がままのために実際に苦しんでみれば、欠点がどう影響する のかを体験できるので、欠点を自覚でき、それをなくすべきだと考える だろう。

*人間関係のテーマに戻りますが、どういう理由で二人の人がカップル になるのでしょう。

 愛によって、霊的な進化の必要性によって、あるいは執着によって。 最初の二つの理由は、霊的な判断に従ったもので、転生以前に取り決 められる。 最後のものは、転生してしまってから本人が選択するもので、霊的と いうより「現世的な」理由によって決められる場合が多く、転生以前に 交わした魂の約束が何度も変更される。

*これらの結びつきの種類による違いを説明いただけますか。

 最初のものは、愛情の結びつきと魂の類似性によるものだ。 霊的な進化のための結びつきは、互いの学習上の必要性によるもので、 通常、課題が残っている魂の間や、特定の欠点・美徳に共に取り組むこ とで霊的に向上し得る魂の間で見られる。

 三つ目の執着による場合は、肉体または性的な魅力、知的・物的な目 標が似ていること、物質的な必要性、愛情の欲求や、一緒になる二人の 便宜・義務などによって結びつく。

*子どもたちの転生が、霊界で決められることは理解できるのですが、 二人がカップルになるというような決定は、生まれ変わった後に、いつ も物質界でなされるのではないでしょうか。
 
 確かに最終決定は転生してからなされるが、見ず知らずの二人が、何 十億という人の中で出会うというのは、どれほどの確率だろうか? 偶然 であろうか? その環境が整うには、つまり、特定の人たちが出会って知 り合う機会ができるには、無数の状況が重なる必要があり、実はこれが 霊界で調整されているのだ。 それに、自分の人生において、ある人が重要な人になると予感できる のは、前世の記憶からの感覚によるのだ。
 
*お話から推察すると、各転生で違うパートナーになるかもしれないの ですね。
 
 もちろんそうだ。君たちの進化レベルの世界ではそれが普通であるし、 おまけに多くの場合、霊性進化のために変える必要があったり、前世の 行為の結果として変わることがある。
 
*どういう意味ですか。
 
 霊的に完全に似通った双子の魂の場合でも、愛情よりも欠点が勝って しまって、それを認識も修正もしたくなければ、一時的であるにせよ、 別れてしまうこともある。人は、失ってから初めて大切なものに気づく ことがあるからね。そうして、次生では余り似てはいないが、悪習を修 正するために役立つ人を相手に選ぶことになる。 君たちの世界では、大半の人が内面をほとんど気にかけていないので、 愛によって結びつくカップルは非常に少ない。大多数は、物的または情 緒的な必要性や便宜、性的な魅力などによって一緒になり、魂の要請に 従って結びつく者はごく一部だ。
 
 我欲の大部分を取り除き、魂が気持ちと一致している進化した世界で は、大半の結びつきが愛に基づくものだ。それは、類似する魂同士が相 手を見間違えることがないためであり、物的な欲望がどれほど満たされ ようと、相互の愛情ほど幸せを感じさせてくれるものはない、と知って いるからだ。その世界では、私欲によって相手を選ぶ男女は皆無だし、 双子の魂ではないカップルには滅多にお目にかかれない。
 
*「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません」という有 名な言葉があるので、世間では、ただ一人だけを伴侶にすることが最も 霊的だと思われてきました。それなのに、あなたは、多くの相手を持つ のが「普通」で、霊的にも有益となり得ると言われました。矛盾するの ではありませんか。
 
愛の絆と結婚の絆とは別物なのだ。
ある程度の時間が経つまでは夫婦にははっきり分からないものの、地 上の90%の結婚に真の愛は存在しないのだ。だが、一枚の紙に署名して しまったために、どうやら人には、考えを変える権利がないようだ。 自分たちの関係を感情に基づいて選ぶようになれば、進化した世界の ように、君たちの関係も永続的なものとなろう。しかし、その世界で二 人を結びつけているものは、義務ではなく、愛情なのだと知らねばなら ない。 人には誰もに、相手を選ぶ自由と同じく、自分で決意するなら別れる 自由があるし、自己の決定については誰にも言い訳をする必要がない。 はっきりさせておきたいのは、二人を結びつけるものは相互愛である が、それぞれが個人の自由を完全に保持しているということだ。
 
 司祭の 前であろうと宗教遺物と花で飾り立てられた祭壇の前であろうと、サイ ン入りの契約書では結びつかないのだ。そのようにして二人を結びつけ ているものは神ではなく、君たちが作り上げた法律や習慣によって、君 たち自身がそうしているのに過ぎないからだ。 神が本当に与えてくれたものは、愛せる能力と、愛を体験して幸せに なるための双子の魂であり、自らの運命を決定できる自由だ。 だが、君たちの世界では、愛情で結びつく僅かな夫婦も、まだそれぞ れの我欲を克服する必要がある。多くの場合に我欲が勝ってしまい、感 情を押さえつけるからだ。 それゆえ、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりませ ん」という常套句は、真の幸福を体験したい者の助言となり得る、「愛 が結び合わせたものを、我欲が引き離してはなりません」というより適 切な文言に置き換えられるだろう。
 
*それでは、霊的な観点からは、離婚は肯定できることなのですか。キ リスト教の大半が離婚に反対なので、いつも悪いことなのだと思ってき ました。
 
 宗教と霊性とは異なるものだ。 誰と一緒にいたいか、またはいたくないかを選ぶ自由があるのは、い つも良いことだ。自由意志を行使できるので、肯定的なことだ。霊界は、 いつも自由意志の味方なのだ。 ただ紙に署名をしたというだけで、なんの愛情もない相手といること を強制したり、気持ちはあっても、理由はともあれ、一緒に暮らすこと が不可能な人を強要することは、自由意志の侵害となる。
 
 君たちは、夫婦になるということは、自由意志の一部を放棄すること だとまだ思い込んでいるが、そうではない。たとえば君たちは、結婚し たり同棲すれば、絶対に果たすべき義務であるかのように、相手と性関 係を持たねばならないと思っているが、それは違う。人は、嫌だったり 望まないのであれば、ただ結婚しているという理由だけで、性関係を義 務づけられたりはしない。 また、単に性関係を持ったというだけで、その相手と一緒になる義務 もない。さらに、どんな状況で一緒になったにせよ、自分にない気持ち を感じなければならない義務もない。 そして、これが一番重要なのだが、そのために罪悪感を覚える必要は ない。感情とは強制されるものではなく、自発的に湧き出なければなら ないのだ。霊的な観点からは、全ての上に自由意志があり、他のあらゆ ることに勝るのだ。 執着を手放さない限り、愛の至福を味わえはしない。愛にとっての執 着とは、鳥にとっての鳥かごなのだ。
 
*性関係を持つ人たちが、愛し合っているからではなく、単に愉しいひ と時を過ごしたいのであれば、何らかの霊的な法則に背くことになりま すか。
 
 いや、その人たちが自由にそう選択したのであれば、全く問題となら ない。 ただ魂は、進化すると性関係以上のものを期待し、ただの肉体関係だ けでは満ち足りなく虚無感を覚えるものだ。しかも、お互いに性的に惹 かれ合っても、魂の類似性がなく内面の気持ちがなければ、単に性関係 だけの結びつきでは、しまいには飽きてしまう。そのため、長続きしな いことが多い。続いたとしても、二人の絆はとても弱いものなので、不 安定な関係となり、いざこざが絶えないことだろう。
 
 魂が成長していくにつれ、性関係は、本能という生物的な欲求から、 気持ちを表現する手段へと変わる。原始人の性は、基本的に本能的なも のであり、好きでもない人と性交しても、まだ感情がほとんど発達して いなかったために、空虚感を覚えることもなかった筈だ。 愛の能力の高い進化した魂ならば、本能を満足させるだけの性関係に は、大きな虚無感を覚えるだろう。進化した魂にとっての性的関係は、 親密な愛情表現なのだ。 性関係を持つ魂が、霊的に似ていて互いに愛し合っている場合には、 その深い愛情が、性関係にも反映される。肉体の交歓と共に、お互いの エネルギーが交流し、活力を与え満たし合うのだが、これはアストラル 体・メンタル体・霊体が交わることから生じるのだ。
 
 それに反して、完全に性的な関係、つまり、性行為に及ぶ男女が双方 ともに愛情を感じていない場合は、肉体が満足しても、アストラル体・ メンタル体・霊体などの精妙な体の交じわりに欠ける。その結果、虚無 感と不満感がもたらされるだろう。 進歩した世界では、一緒になろうと魂を奮い立たせるものは、純粋に 内面に感じる愛だけで、その他の理由で二人が結びつくことは、極めて 稀である。また、そこでは洞察力が非常に発達しているので、地球で良 くあるケースのように、外見に惑わされたせいで思っていた通りの人と 違って、後で騙されたり失望したりすることがない。
 
*性の問題をどう解決できますか。
 
 君たちの性の問題は、その大半が、ほとんどなんの愛情も感じない人 と性関係を持つということに由来している。君たちは、まだ肉体の部分 しか見ておらず、性の悦びの最たるものは、肉体的に非常に魅力的な人 と関係を持つことだと思い込んでいる。
 
 大多数の人は感情面を認識しようとはせず、霊的に似ている愛する人 と一緒にならない。そのため、愛情がないことから問題が生じる。内面 が満たされたと感じられないことが問題なのだ。愛のない性関係を持つ ことで一番苦しむのは、進化した魂だ。
 
 愛情がないことが問題なのだと気づき、気持ちに従って行動すべきだ と認める代わりに、同じように愛のない別の人との体験を求め続けたり、 セックスを魅力的にしようと色々な要素を加えてみるが、相変わらず虚 しいのだ。こうして、感情でしか埋められないものを、物質で埋めよう とするので、悪循環に陥るのだ。
 
*それなら、映画で見る関係のように、ロマンチックな愛は、僕たちの 世界には不足しているのですか。
 
 この場合は男女の愛のことだが、問題は、愛というものの君たちの概 念が、霊的な視点からの愛から歪められていることだ。 君たちが誤って「情熱的」な愛とか「ロマンチック」な愛と呼ぶ、強 い肉体的な魅力からの関係は少なくはない。それは、花火の光のようで 一瞬は強烈だが、その後は完全に消えてしまう。 そのため、物的な調味料で感覚を過剰刺激(高価なレストランでのデ ィナー、豪華なプレゼント、五つ星ホテルのスィートルームでの一夜、楽園のような島でのバカンス)して、なんとか継続させようと無駄な努 力をする。そしてこれら全てを、君たちはロマンチックな愛と呼ぶが、 実際には、ひと度性欲が満たされるやだんだんと薄れていく、強い性的 魅力を指しているに過ぎない。
 
 情熱に関しては、多くの場合、愛とは何の関係もなく、誰かを所有し たいという満たされぬ欲求であり、我々が執着と呼ぶところの自我が顕 現したものだ。人は物ではないので、所有できないし、本人以外の誰に も属さない。愛すことと所有したいこと、愛と執着とを、混同してはな らない。 はっきりさせておこう。 誰かを愛すように強いることはできない。愛 が自由でないならば、それは愛ではないのだ。 感情は強要することができない。感情は提言・操作・強要・命令に従 わない。愛されたいのであれば、何の見返りも期待せず、無条件に愛す のだ。そうすれば、いつか、原因-結果の法則が、与えたものをもたら すだろう
(P175~P186)

(作者あとがきをご覧ください)

 https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 ♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。


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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

2019-09-19 11:39:06 | 魂の法則

 

  https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~


悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

P160~P175

(P160~P175)

         悲しみ・絶望・苦々しさ・自暴自棄・諦め

 

 悲しみは、士気の喪失と低下という情緒的な状態だ。 悲しみは、攻撃性と同じ原因や状況で生じがちだが、感受性がもっと 強い人の場合にそうなるのであり、我欲に由来していることが攻撃欲ほど明白ではないので、捉えるのが難しい。

 実際、無力感や罪悪感や、場合によっては憤りと自棄も、本当は攻撃 性と悲しみの入り混じったものだ。 悲しみは、自分が求める成果が見られなかったり、結果が期待したも のと違ったりして、憔悴したりがっかりした際に表れる。 悲しみには色々な形態があり、それぞれに特色がある。 苦々しさは恒常的な悲しみで、長期に及ぶ。日常生活の妨げとはなら ないが、とても深く内面に根を張っているので超えるのが難しく、悲し みによってその人が少しずつ死んでいくような印象を与える。努力する 動機づけや生き甲斐がないというのが特徴である、絶望と諦めという悲しみの形態にも深く関連しているが、後者は通常、認めたくないような 状況から生まれる。

 自暴自棄は、鋭く強烈な悲しみの極端なもので、日常的ないかなる仕 事も行えなくなり、精神不安定になって自分の命や他者の命を奪うなど、 致命的な行為に及ぶことがある。

*悲しみが我欲の感情だと思われているのは、予想外でした。

 ところがそうなのだ。人が時々悲しくなるのはとても普通のことだ。 だが、諦めて投げ出してしまって、悲しみがその人の日常的な状態にな ってしまうと、それは停滞した状態なのだ。悲しみは、霊的成長の努力 を怠る口実となるのだ。

*悲しい時に、誰かに何か悪いことをするとでも言うのでしょうか。

 悲しみは自分に有害であるし、間接的には他者をも害する。悲しみの せいで、自分の務めが果たせなくなる場合があるからだ。悲しみや落胆 に沈んでいる人と一緒に暮らすのは、とても疲弊することなので、大変 強い意志力を持たない限り、うつ状態の人と暮らす者たちにも容易にそ の状態がうつってしまう。

 悲しみが蓄積されると、攻撃欲と同じように、多数の病気を引き起こ す。悲しみで病気になり死んでしまい、今生で取り組んでいた試練や使 命を途中で止めてしまう人は大勢いる。そうした人たちは、同時に、他 の魂たちを助けるという約束も投げ出しているのだ。たとえば、悲しみ に蝕まれて死んでしまう父親や母親は、子どもたちを見捨てているのだ。

*悲しみはどう超えたらいいでしょう。

 攻撃性と悲しみを生み出す要因は大変似通っているので、攻撃性を乗 り越えるために処方したレシピを、ほぼその一点一点、悲しみを克服す ることにも適用できる。 それゆえ、悲しみを乗り越えるための基本となるのは、理解である。 自分自身への理解、他者への理解、我々の人生の状況への理解。 我々が直面する逆境の多くは、愛の学習と我欲の克服という工程の一 部を成しており、その多くは生まれる前に我々自身で選んだものだと理 解するのだ。

 そしてその他のものは、他者への不寛容・頑固さ・無理解 などで、我々自身が招いたものなのだ。 時には、自分が間違っているのを認めたくなかったり、自分自身の利 己的な態度を認めたくないために、悲しくなる場合があるのだと理解す ること。

 誰かに傷つけられて悲しくなるのであれば、それは、その魂の成長が 足りないためで、愛の知識をまだほとんど持たないためなのだと理解す るのだ。 自分らしさを抑圧したり、意志を黙殺して悲しくなるのであれば、自 分を在るがままに表現するよう努めて、悲しみを超えるのだ。

*あなたのレシピは、諦めを勧めているようですが。

 とんでもない。理解と諦めは全く異なるものだ。諦める者は、匙を投 げ、理解を放棄し、自分の意志を否定する人だ。もうどうでもいい、と 生きる希望を失い、落ち込むのだ。 もう言ったことだが、諦めも、悲しみに関連する我欲の一形態なのだ。 それは苦しみを避けるために頑張らない、というやり方なのだ。しかし、 この方法では、別の理由でだが、もっと苦しむことになる。 理解は、生きる希望と悦びを失わずに、努力し続けて前進する鍵とな るのだ。以前は分からなかったことにも、意味を見出すことを可能とす るからだ。

*諦めと理解の違いがはっきりする例を挙げていただけますか。

 例を挙げれば、死に対する姿勢だ。 君たちの世界の大半の人は、死に対して諦めの態度をとるが、それは 死の意味を理解しようとしないからだ。君たちは生きている間は、死と 向き合うことを避け、懸念を直視しようとしない。 この話題について真面目に話をしたがる人に出くわすと、冗舌家か頭 のおかしい人に思えるのだ。本当は君たちは怖いので、この話題を避け て、日々の雑事に没頭しているのだ。理解しようとはせず、ただ避けて いるのだ。 そうするうちに、愛する者が突然死んで、驚愕するのだ。この状況は、 悲しみ・苦々しさ・憤怒・無力感をもたらす。そして、このどうしよう もない事実を変えることが不可能なので、最後に諦めてしまうのだ。諦 める者は、仕方がないので受容せざるを得ないものの、理解できていな いので、不機嫌に暮らし無益に苦しむのだ。 死は単なる移行期で、実際に死ぬのは体だけで愛する者は生き続け、 遅かれ早かれまた一緒になれる、と理解できる者は、もう生きる希望を 失うことがない。そればかりか、再会の時が来たら大いに楽しめるよう に、物質界で何もやり残さないようにと、もっと頑張って生きようとす る。 進化した世界では、人が死んでもそれが肉体からの離脱のプロセスだ と皆が理解しているので、誰も、悲しんだり、絶望的になったり、苦々しく思ったりしない。

 その反対に、仲間が魂の真の故郷である霊界に戻 るので、喜んであげるのだ。

淫乱と色欲

 セックスへの依存は、虚栄心の顕れでも自尊心の顕れでもある。 だが、人がセックスを常習するようになる原因は、それぞれの場合で 異なる。そのため、見栄っ張りな者に特有の淫乱と、自尊心の強い者と 尊大な者の特徴である色欲という、二つの表現形態に区別してみよう。 淫乱とは、セックスの悦びへ過度に傾倒することだ。虚栄心の強い者 のセックスへの依存は、他者から認められたいという欲求と関係してい る。

 つまり、セックスを通して人から認められたり、称賛されたりちや ほやされることを期待しているのだ。彼らは、自分自身を満たす手段と して性的快楽に溺れるが、他者の欲求を配慮することがほとんどない。 しばしばセックスを利用して人を独占し、意のままにしたり優位に立と うとする。 感覚が飽和しあきあきしてしまうと、性欲をメンタルに駆り立てる手 段として新しい刺激を探す。

 それは、パートナーを頻繁に変えることで あったり、サディズムとマゾヒズムなどの堕落した性様式に訴えたり、 他の人たちをその意に反して乱交に巻き込んだりといったものだ。

 一方、自尊心が強い人のセックスの常習は、愛せる人がいないことを 認められないとか、特定の人への愛情を抑圧したり認めようとしないな どの、愛情の空虚感や欲求に起因している。 つまり、自尊心の強い者が本当に必要としているのは、愛され愛すこ となのだが、自分の愛情欲を認識せずに抑圧してしまうことが、安全弁 のように、セックスへと逃避させてしまうのだ。

 要は、愛の欠如をセッ クスで補っているのだ。そのために過度の性欲があるが、虚無感は、性 的なものではなく感情的なものなので、性関係では満たすことができず に満足できない。 そこで、益々セックスを求めるようになる。そうすることで、この空 虚感を癒そうとするのだが、上手く行かずに、前述のような堕落した様 式に至る場合もある。

*色欲はどう克服するのですか。

 色欲に関しては、セックスによって満たそうとしている内面の虚無感 は愛情の欠如によるもので、愛情だけがそれを満たすことができると認 めることが、それを克服する唯一の方法だ。

*淫乱はどう克服しますか。

 それが虚栄心の反映したものだと認識して、それでは絶対に幸せにな れないことに気づくのだ。 残念だが淫乱のケースの大半は、若さや肉体美や性力などの衰えが顕 れ、性的魅力を失ったり、体が精神的な性欲に応じられなくなった時に、 自然に消滅するのだ。肉体の衰えにより、自分の取り巻き連中は消え、 それまでの人生の主要な刺激剤も失われる。 こうして人は、便宜上の虚しい関係を築きながら、無意味な人生を送 ってしまったという、厳しい現実に直面するのだ。肉体的な魅力だけで 寄って来る人たちに囲まれていたが、魅力が失われるや、その人たちは 魔法のように消え失せるのだ。

 その人の我欲にも関わらず、本当に愛し てくれた何人かが残ってくれるかもしれないが、彼らに注意を払ったこ となどほとんどなかった筈だ。 虚栄心を満足させるために使用した外見美という武器が失われてしま うと、真相にずっと近い新たな局面と対峙しなければならない。そこで は、人を惹き付けるためには、自分の内面から何か美しいものを引き出 さねばならないのだ。こうして、便宜上の関係と気持ちの通う関係との 違いを評価できるようになり、後者を尊重することを学ぶだろう。

*でしたら、美しく魅力的な人たちだけが淫乱なのですか。

 そうではないが、その多くが淫乱の深みに陥り易い。 魅力がないその他の見栄っ張りな人たちは、そうしたいと思っても、 欲しいものを手に入れる餌としては、肉体的な魅力を利用できないから だ。そういう場合は、虚栄心が羨望を呼び起こし、自分が持たない美貌 を獲得したいという叶え難い欲望にかられ、体重を落としたり、整形手 術を何度も受けようとする考えに取りつかれ、自分をより魅力的に見せ ようとする。 肉体的に魅力的なのに、完全な肉体を持とうとする執念に捉われてし まう人は多く、それは「ナルシシズム」または「肉体信仰」と呼ばれる 虚栄心の具現形態の一つである。

*ナルシシズムまたは「肉体信仰」がどういうものなのか、もう少し広 く説明いただけますか。

 それは、今言ったように、虚栄心の表現形態の一つであり、自己の肉 体美が望み得る最大の価値を持つものとして傑出するものだ。 自分の体で満足できずに「完全な肉体」を求めることは、脅迫観念へ と変わる。これは精神的な病気であり、食べることを止めたり、あらゆる種類の痩身サプリ・強壮剤・興奮剤などを摂ったり、自分の命を危険 にさらすことさえいとわず、様々な人工物をインプラントするといった、 常軌を逸脱した行動を取る。

 ナルシシズムに感化されてしまった人は、絶対に自分の体で納得しな い。時間とエネルギー、意志とお金の全てを、肉体の改善へと費やして しまう。肉体自体が自分自身だと思い込んでいるのだが、実際には、物 質界で動くために使用する衣服に過ぎない。 いつかは理想的な肉体を手にして幸せになれるのだ、という偽りの幻 想を抱いている。そして幻想を利用して儲けている、エステ産業や化粧 業界や消費主義によって、その信念が益々強まっていく。だが、その幻 想は我欲が仕掛けた罠に過ぎず、それでは幸福にはなれない。幸福は、 愛を育むことでしか獲得できないのだ。

 そのため、不満はどんどん膨張 する。 そして、体内時計が老年へと向かって情け容赦なく進んで行くにつれ て、あんなにも一生懸命になって得られた成果が、老化という自然現象 に台なしにされていくように思える。人生はこうして過ぎていき、かつ ては美しかった肉体を完全に去る時が来て、非情にも自然の腐敗プロセ スが宣告される。 魂は霊界に戻ると、今や墓の中で朽ちた自分自身ではなかった肉体を 美しくしようと無駄に時間と努力を費やしたことに気づき、魂という永 続する本当の自分を改善することにはほとんど努力しなかったことに気 づく。 しかし、手遅れなことなどない。魂の命は存続するので、再び生まれ 変わって、着ている肉体を自分だと思い込んで無駄にしてしまった人生 でやらなかった事を、もう一度やり直せるのだ。

*こういう見方をすると、肉体美は魂の進歩にとっては障害だと言って もいいですね。

 私の話から、美しさはそれ自体がネガティブな特性なのだと思わない で欲しい。その反対に、魂が進化していくにつれて内面の美に呼応して、 魂が宿る肉体はより完全により美しくなるのだ。そして実際に、君たち よりも霊的に進化している物質界では、そうなっているのだ。 しかし、進化の乏しい魂たちが支配する後進的な世界では、確かに諸 刃の剣となる。虚栄の段階から抜け出せない進化の乏しい魂にとっては、 肉体的な魅力は虚栄心の奔放を許す武器となり、そのために使用される。 気紛れ・下品・不躾・横柄に振舞っても、自分の肉体美が欲しいものを与えてくれると知っているのだ。それは、称賛してくれる者やちやほや してくれる人たちだ。

 目も眩む体の美しさで欲しいものが手に入るのな ら、なぜ善い人になる努力をする必要があろうか? …こうしていつしか老年になり、自分の唯一の魅力を失い、独り取り 残されて、自分のモラルの貧しさに失望する。美しく魅力的な外見を維 持することばかりにかまけていて、内面を改善しようと努めたことが一 度もなかったからだ。

*ナルシシズムはどう克服しますか。

 自分は肉体ではないので、肉体にそれほど煩わされるべきではないと 認識するのだ。人が幸せになるためには、自分自身を、つまり自分の内 面を耕さねばならないのだ。 肉体美という罠に陥った多くの魂がそのことを知っている。そのため、 自分の体ばかりを眺めて人生をそれ以上浪費したくないので、直ぐ後の 転生ではありがたみの少ない肉体を選ぶのである。我欲を克服して人間 として改善したいので、美しい肉体を持つことが誘惑の原因となるので あれば、現状では持たない方を選ぶのだ。

*それでは自尊心の強い者は「肉体信仰」に陥らない、つまり、自分の 体に不満を覚えたり、魅力的で美しくなりたい、と熱烈に願いはしない のですか。

  もちろん願いはするが、見栄っ張りな者とは違う要因でそうするのだ。 気位の高い者は、称賛の的となるよりも、愛されることを求めている のだが、もっと美しくなればもっと愛してもらえる、と間違って信じ込 んでしまうのだ。 自尊心の強い者がハンサムな場合は、周りの人たちは自分を好きでそ ばにいるのではなく肉体やその他の魅力に惹かれているからで、飽きた りもっと素敵な人に出会えば簡単に捨てられてしまう、と知ってしまう と失望する。

*僕たちは、本当は魂であって肉体ではないのに、どうして自分の魂を 意識せず、身体ばかりを自分と同一視するのでしょうか。

 それが君たちの世界が教えることだからだ。 魂は存在せず、人とはそ の体であると教えている。君たちの快楽主義の世の中では、評価される 資質とは物的なもの(肉体美・富・権力)で、内的な資質(感受性・慈 悲深さ・謙虚さ・慎み深さ)は軽視されるのだ。

 霊界では、それと全く逆だ。全ての霊的な資質が評価される。中でも 謙虚さは最も評価される資質の一つだが、外的な資質は、魂個有のもの ではないので、何の価値もない。外的な資質は、劇の作品が変われば俳 優の衣装替えがされるように、ある人生から他の人生で変化するので、 状況的な付随物だと考えられている。人は、今生では外見的に美しくて も、次の転生では醜いかもしれないし、今回は金持ちでも、次回は貧し いかもしれないのだ。

 魂は、肉体から離れている間は、その違いが明確に分かっていて、霊 性の改善のためにこの世にやって来ると知っている。しかし肉体に宿る と、身体との一体感や過去の忘却や、転生先の文化の影響などで、霊的 に改善する目的意識の低い魂は、自分を完全に肉体と同一視してしまう。 そして、魂が顕現するということには、個人的に経験したことも他者の 経験も、頭から否定するのだ。

*魂の顕現とは何を意味するのですか。

 魂の存在とその能力を示す全てのものだ。それらはたとえば、肉体を 持たない存在たちとの交信、幽体離脱、自他の気持ちを直感すること、 五感以外での超感知などだ。このような体験をした多くの人が、頭がお かしいと見なされる。だから、自分の霊感に自信のあるかなり進歩した 魂でなければ、自分が気が狂っていて精神療法が必要だと信じ込むに至 るだろう。

                                              怖れ

 怖れとは、懸念・動揺・不安の感情であり、自分や自分が愛する者へ の危険や脅威を感知して生まれるが、危険自体は、現実的なものである 場合と、想像上のものである場合がある。 怖れに脅かされている者は、自分に全く自信がなく無防備であると感 じ、大事な決断では、感情または肉体を傷つける悪い結果になりはしな いかといつも迷う。しかも怖れは怖れを呼ぶ。つまり、怖れは頭を過度 に刺激して、現実の状況を、空想上の脅威が出現する架空の状況に創り 変えてしまう。

 しかも、それを本物だと信じてしまい、現実の脅威だけ ではなく想像上の脅威によっても、自分の怖れを増大させてしまうのだ。 怖れは心配も引き起こす。頭の中で、脅威となり得るあらゆる状況を 予め想定して、その全てから無傷で逃れる方法を探そうとするからだ。 恐怖とパニックは、強烈で鋭い怖れの感覚で、非常にトラウマとなり易い。

 怖れは、自分が在るがままに振舞う妨げとなるので、霊的進化に最も 有害な感情の一つである。進化する意志のある善意の魂でさえも、怖れ を乗り越えられなければ、長期にわたって成長が滞ってしまうことがあ り得る。

*でも、全ての怖れが同じだとは思わないのですが。

 もちろん違う。だが一般的に、怖れは魂を抑圧して、気持ちに従って 行動できなくさせ、感情を窒息させて完全に抑制してしまうことさえあ る。そのため、停滞してしまうのだ。

*しかし、正確には何を怖れているのですか。

 最も一般的な怖れは、自分への他者の否定的な反応をこわがるものだ。 この定義から派生する怖れとしては、愛してもらえない怖れ、理解して もらえない怖れ、拒否されたり軽蔑される怖れ、攻撃性(肉体的・精神 的暴力)への怖れ、孤独になる怖れなどがある。 ところで、自分への他者の否定的反応が怖いと、その怖れが、在るが ままの自分を表現する怖れをもっと増長させてしまう。そして、これに 負けてしまうと、他者が望む自分らしくない振舞いをしてしまう。

 他者 とはこの場合、身近にいる人で、愛する人や家族(母親・父親・兄弟・ 伴侶など)のように、少なくとも愛情を期待できる人のことだが、全般 には、どんな人間関係にも当てはまる。この怖れは、家族内外を問わず、 こどもが肉体的・精神的な暴力や虐待の対象となった幼児期に由来する ことが多い。

 前述のカテゴリーに入らない怖れとしては、未知なものへの怖れ、死 への怖れ、苦痛(肉体的または精神的)への怖れがある。 未知への怖れは、不安を呼ぶ。人は、知らないものについて、多大な 脅威や危険を想像してしまうものなのだ。実際のところ、死の恐怖とい うものは未知への怖れであり、死後に起こり得る未知なるものへの怖れ であるか、無というもっと冷酷なものがやって来ることへの怖れである。

 まだもう一つ別の怖れがある。人間にとっては最大の怖れで、他のも のはそこから派生するので、特別に言及しておく必要がある。それは、 自分自身を知ることへの怖れであり、自分の欠点や美徳も含めて、自分 が本当はどういう人なのかを発見する怖れである。 我々は、我々自身の欠点を知るのが怖い。我々は、自分にエゴがある ことや、自分の災いのほとんどが自我のせいだということがなかなか納得できないために、欠点を認識すれば余計に苦しむに違いないという誤 った思い込みをしているのだ。気づきは、我欲の一形態に過ぎない「自 己愛」を苦しませはするが、幸せになろうとして我欲からの解放を望ん でいる魂を痛めることはない。 エゴから解放されるためには、先ず自分自身にエゴがあることを認め て、次にそれがどう表面化するのかを認識しないといけない。認めるの を怖れてはならない。

 我欲は全員に存在していて、それからの脱却の過 程のどの地点にいるかが違うだけなのだ。だが、自分自身を知ることを 怖れて長期にわたって我欲を覆い隠してしまうと、我々は停滞してしま い、ずっと苦しむことになるのだ。 同様に、我々は、愛情・感受性・謙虚さ・優しさ・同情・博愛など、 自分の美徳や愛の表現を発見することを恐れる。実際にそうすることで、 傷つけられたり利用されたりして苦しむのが怖いのだ。そしてそこから、 自分に対する他者の否定的な反応への怖れが生まれるのだ。 しかしそれにも関わらず、この怖れに打ち克ち、自分自身になって、 愛情深い自己を目覚めさせるために戦えば、内なる幸福が大変強くなる ので、外部からのどんな苦痛や攻撃にも屈しなくなる。 死に対する恐怖も、自分自身を知る怖れから生じている。死が終わり で、意識である自分自身が抹殺されると信じているので怖いのだ。

 自分 を深く見つめる怖れを失えば、心の奥底で「死は存在しない! 君は不死 身だ!」と叫んでいる魂の声を聞くことができよう。その時に、存在し なくなることへの怖れ、つまり死の恐怖は、消えるだろう。

*怖れは、魂の進化に、具体的にどのように影響しますか。

 すでに言ったが、怖れによる致命的な影響は、魂が自分を在るがまま に表現するのを止めてしまい、気持ちに従って行動するのを抑制してし まうことだ。人は自分自身でいなければ、自由意志が囚われているので、 霊的に成長できない。自由に決断ができず、いつも怖れにさいなまされ る。恐れに支配されるのだ。そして、失敗すると思い込むので、霊性進 化に有益となり得るどんな状況にも立ち向かおうとしない。

 怖れとは、地球の権力者たちが、人類を操り、霊的に停滞した状態に 保つために利用する感情だ。彼らは、人間が取り組もうとする霊的な挑 戦には、必ず架空の敵という脅威を創り出し、偽りの安全と引き換えに、 挑戦を止めさせるのだ。

 それは、彼ら自身も怖いからだ。人類に霊性・愛情・兄弟愛が目覚め て彼らの悪行が明るみになり、自分たちの犯罪が裁かれ有罪となり、特 権や全財産が剥奪されたり、他の人間を騙し抑圧し搾取して獲得した権 力を奪われるのが怖いのだ。

*例を挙げて下さいますか。

 たとえば、人類全体の友愛に賛同する全ての運動に対する恐れを作り 出し、非常に有害な勢力を作りあげ、その純真さを利用して、恐怖体制 を敷く。全人類のための連帯と協力に基づいた、もっと公正な政治・経 済体制を導入すれば、その後で混乱・無秩序・騒動や経済崩壊が起こる だろうと脅かして、恐れを生み出す。

 彼らは、自由は奔放となり、自由 思想は厄介な考えをもたらし、自由な感情は悪習・堕落・不道徳をもた らすと予告する。 地球の人類が、他の惑星にも愛に生きる人類がいることを発見して、 それを見習ってしまうことを恐れている。そのため、地球外生命の証拠 はどれも隠蔽し、他の世界の生物と接触することの危険性を映画を通し て助長する。映画では、宇宙人は忌まわしい姿(昆虫、爬虫類、ウィル ス)をしていて、体内に入り込んだり、人類を滅亡させる悪意を持って いるのだと思わせようとする。 人間が不死であることや、人生の目的は愛を深めながら霊的に向上す ることなのだと気づかれて、その努力を始められるのが怖い。

 そのため、 死後の生の存在を示すものは一切否定し、物質主義の科学教義の中に逃 げ込む。同時に、肉体の死後に起こることを追求したり、霊界と交信し たりすることの恐ろしさを、映画を介して助長する。その中では、生き ている人間の魂を支配して苦しめる、幽霊・悪魔・血に飢えた吸血鬼や ゾンビなどという恐怖の存在を創り出して、死後の命をどれもおぞまし く描いているのである。

 それに一役買っているのが、恐怖の産業(映画やテレビ)で、最も愚 劣な脅威を映像に仕立て上げ、ほぼ全世界で見せることによって、全て の人の脳にそれが浸透し、頭の中で現実に変わるようにするのだ。全映 画の90%は、テロリスト・連続殺人犯・レイプ犯・麻薬密売人・宇宙か らの侵略者・ゾンビ・様々な精神異常者といったあらゆる邪悪な存在に 姿を借りた恐怖を、何らかの方法で波及させるのが目的だ。こうして、 子どもや大人の想像力を過剰に刺激し、各人独自の怖れの上に、もっと もっと沢山の恐れが外部から加わるようにする。

*怖れはどう克服したらいいでしょう。

 自覚と勇気を持つのだ。先ず、自分が怖れているということと、何を 怖れているかに気づくのだ。 深く分析して見れば、怖れの一部には根拠がなく現実的な脅威とは結 びつかないことや、少なくとも思っていたほどではないことが分かるだ ろう。現実の脅威に根ざした怖れの場合には、それを生み出した状況や 環境に勇気を持って立ち向かい、決断を下す際に、恐れに負けないよう にすれば乗り越えられる。 「怖れがなく、完全に自由だとしたらこの気持ちをどうしたいと思う だろう」と自問してみるのだ。それが、選択されるべき正しい決断なの だ。試してみる価値はある。絶えず努力すべきなのだ。

 怖れと対面し勇敢な決断をしていくにつれて、自分の内面が進歩する のを感じ、怖れは力を失い、代わりに自信と明晰さを得る。そしていつ の日か、過去を振り返り「何であんなことが怖かったんだろう。今なら はっきり分かるぞ」と言えるようになるのだ。

*自分自身を知る怖れを乗り越えることで、特に配慮すべきことがあり ますか。

 自分自身を、美徳や欠点も含めて、在るがままに見るのは何も悪いこ とではない。自分を在るがままに受け容れるのだ。 改善途上であることを認め、自分に嫌なところを発見しても落胆しな いこと。自分の汚れたところに光を当てて欠点を認識することは、最初 は苦痛を伴い不快かもしれないが、そうする価値はある。それが霊的な 成長の道における最初の一歩になり、成長するには、我欲を排除するこ とと同様に、感情を発達させることが不可欠であるからだ。 自分の感情を怖れず、それが現れたり表したりするのを怖れず、そう する時に嬉しく感じるのを怖れないことだ。悪い事を恐れるだけで沢山 なのだから、その上、良い事を恐れるのは止めとしよう。

*同じ質問をしたかもしれないのですが、我欲とその具現形態である 「エゴ的感情」に関してのお話を全部まとめる意味で、もう一度質問を したいのですが。

質問したまえ。

*一般的に、自我とその形態を克服するにはどうすればいいのですか。

 最初の一歩は認識すること。アルコール中毒であった者は、中毒を克 服する最初の一歩は、自分がアル中だと認めることだと知っている。こ れと同じように、虚栄心・自尊心・尊大に打ち克つための最初の一歩は、我々一人ひとりに出現する我欲を識別することで、自分の我欲を認識す ることだ。

 そのためには、それぞれの欠点がどういうもので、どう表面化するの かを詳しく知る必要があり、今まで君と私はそれに取り組んできたのだ。

*それは難しく思えます。

 それほど難しくはない。我欲自体が難しく見せているのだ。 他者の誤りや欠点はあんなに簡単に見えるのに、自分自身のものを認 めることはなぜこんなに大変なのだろうか?(隣人の目の中のおが屑が 見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない)。我々がここにいるの は、自分を受け容れてそこから改善するためなのだと理解できれば、後 は簡単だ。

*我欲自体が混乱させようとするのでしたら、どのようにエゴを認識で きるのですか。

 有効なのは、自分の行動をあたかも他者のもので、自分が受け手であ るかのように分析してみることだ。つまり、自分と他者とを置き換える のだ。それから分析してみる。公正で正直な振る舞いだったろうか? そ れとも、利己的に動いただろうか? ある言動に対して、それをする時とそれをされる時とで、自分の意見 が変わらなければ、客観性に近いのだ。しかし同じ言動であっても、自 分がした時には容認して、他者がした場合に告発するのであれば、それ は不公平なのであって、自我に翻弄されているのだ。それゆえ、自分の 欠点に気づくためには、他者を分析する場合と同じ客観性を持つ必要が ある。

*そしてどうするのですか。

 次のステップは、態度を修正することだ。自分の利己的な思考を認識 しても、それが出現しなくなる訳ではない。自我があることを認識して 受容するのは大切だが、その意のままに行動することを避けて、エゴに 屈しないことだ。 別の言い方をすると、自分自身に「僕の中にエゴがあるのは知ってい るけれど、それに左右されずに行動して、愛に基づいた行いをするよう にするぞ」と言うのだ。 態度を変化させることで、我々は少しずつ、自分自身や他者への言動 や行為を修正できるようになる。利己的な態度は、自分にとっても他者 にとっても有害なのだ。

*どういう意味で自分に有害なのですか。

 愛を感じられなくなるからだ。愛は、人が味わえる感情の中では最も 素晴らしいもので、我々を真に幸せにしてくれるものだ。

*態度を変えることは、欠点を認めることよりもずっと難しく思えます。利己的な言動を改めるための助言をいただけますか。

 行動する際には、次のような内省が役立つだろう。「僕がそうされた ら、どんな反応をするだろうか? 僕だったら、その人にどうして欲しい だろうか?」こうして、他者も我々と同じなのだと想像すれば、自分に 災いを望む人は稀なので、自分の他者への否定的な態度を感知できる。 こう推察することで、「汝の隣人を愛せよ」という金言が生まれたの だ。もちろん、簡単ではない。改善しようという揺ぎない紀律と意志が 必要とされる。しかし辛抱強く続ければ、短期間のうちに別の心持ちに なり始め、もっと内面と調和して幸せに感じられるので、前進し続ける 励みとなる。

*「エゴ的感情」は、どう扱うべきでしょうか。

 それも、同じようにだ。最初に、我々皆が「エゴ的感情」を持ってお り、自分にもそれがあるのだと認めること。それらが、我欲が顕現した もの、または、我欲と愛との内面の葛藤が表面化したものだと認めるの だ。 次に、自己分析と内面の意識的な改革を通して、それらを打ち負かす 方法を見出すこと。

*内面の意識的な改革とはどういうことですか。

 それは、自分自身が指導する内なる魂の改革のことで、改革の目的 (愛における進歩と我欲の排除)が明確で、欠点がどういうものでどの ように具現するのか、根絶する手段は何なのかがはっきりしている。 完全を目指す道程では、他者の美徳や欠点から学ぶことができるのと 同じように、自分の美徳や欠点を観察することでも学ぶことができるの だ。 一日のうちで自分と繋がれる静かな時間を作り、欠点についてや、そ の日の自分の態度や他者の態度について振り返ってみる。自分がどの程 度愛に基づいて行動し、どれほど我欲によって行動したのか、また、他 の人たちはどれほど愛または我欲によって行動したのかを、内省してみ るのだ。こうして正直に考えてみれば、進歩に必要となる答えを見出す ことができ、確固とした意志を持って試練に立ち向かう励みとなるのだ。

 他者の利己的な態度に気づいても、それらを理解していれば受け容れ ることが容易になり、敵対的な態度を取らないでいられる。自分自身の 利己的な態度に気づけば、流されてしまったと分かるが、自覚すること ができたので、いいことだ。次の機会には、エゴは減らしてもっと愛あ る気持ちで行動しよう、と固く決意するのだ。 こうして、毎日少しずつ前進して行ける。君たちが、内面の意識的な 改革を忍耐強く続けるのなら、いつか過去を振り返った時に、見違える ような自分を見出し、驚くべき肯定的な変化を遂げたと気づける日が来るのだ。

*でも僕は、いい人である条件の一つは他者を批判しないことだと思っ ていたのですが、いい人になるには自分の欠点だけでなく他者の欠点も 見る必要があると言われるのと、矛盾しませんか。

 それは一般的に、人が他者の欠点に焦点を当てる時は、批判したり嘲 笑したりするためだからだ。人は悪い意図を持っていると、とても不公 平になり易く、嘲笑の対象となる者を罵倒しようと現実を曲げて大げさ にして、何の配慮もしないものだ。 もちろんこれは嘆かわしい態度で、イエス自身が何度も「隣人の目の 中のおが屑が見えるのに、自分の目の中の丸太に気づかない」と咎めて いる。このため、多くの善意ある者が、欠点について話すのは悪いこと だと信じている。

 しかし、ここで欠点について分析するのは、批判するためでも嘲るた めでも誰かを非難するためでもなく、それがどう作用するかを理解して 我々自身が改善するためと、他者も改善できるように助けるためである。 ここでは、現実を、誇張も隠蔽もせずに、在るがままに見ようとしてい るのだ。 実際、この舞台では、人類の大半が同じ欠点を共有しており、それを 排除することが進化の工程の一環となっている。それに、初めに認識す ることなく、どうやって利己的な行為を修正できるというのだろうか?

*我欲に触発されて攻撃してくる人がいたら、その人を許さないといけ ないのだと思っていました!

 許すためには理解が必要で、理解するにはどうして攻撃したのか、つ まり、原因となる場面ごとの我欲についても掘り下げる必要がある。

 たとえば、他者の欠点に焦点を当てて、公衆の場でそれを批判して中 傷する者は、虚栄心の顕現形態の一つである羨望という欠点の下に行動 しているのだ。 霊性進化の工程や克服すべき我欲の段階と、我欲がそれぞれの段階で どのように顕現するのかが理解できなければ、羨望・嘲笑・批判・中傷 などや、もっと酷い利己的な態度を許すことはとても難しいだろう。

*それでは、自分自身が我欲のどの段階にいるのかを知ることは可能で すか。つまり、自分の能力や霊的発展レベルがどの程度なのかを知るこ とはできるのでしょうか。

 ああ、知ることは可能だ。自分自身を知ろうと努力して、霊的に成長 しようという誠実な思いがあれば、自分がどの地点にいて、今生で取り 組むべき霊的な課題が何であるかが分かるだろう。 ここでは、美徳も欠点も含めて、自分自身を理解できるように幾つか の指標を与えようとしているのだ。手助けがなく、自分を理解すること はかなり難しい。だが、我々には旅の道連れがいるのだ。 もう話したことだが、一人ひとりにはガイド役がついていて、助けて 欲しければ、自分独りでは気づくのが困難なことを見せてくれるように 手を貸してくれるのだ。

 また、肉体を持った人の中にも、その内なる能 力によって、君たちに手を差し伸べられる人がいる。 しかしこれも全て、各人の意志による。我欲に捕らわれていて前進し たがらない者は、自分の欠点も認めようとはしないし、いかなる助言も 受け入れようとはしない。そのため、霊界から与えられる助言にも、も っと高次の同胞の意見にも、耳を貸そうとしない。嘆かわしいことに、 君たちの世界では、大半の人がその状況にいるのだ。

 自分が目も耳も不自由だと嘆いているが、目隠しを取ろうとも耳栓を 除こうともせず、「目隠しも耳栓も取りなさい。君は目が見えないわけ でも耳が聞こえないわけでもない」と言ってくれる人を聞こうともしな い。要は、自分の不幸を嘆いているのだが、自分が幸せになるのを阻む 主要因たる我欲を放棄したいとは思わず、幸福になるために必要な支援 を受けるつもりもないのだ。

 (P160~P175)

 

(作者あとがきをご覧ください)

 https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 ♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。


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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~強欲と執着

2019-09-17 22:04:09 | 魂の法則

  https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~強欲と執着

 P147~P160

(P147~P160)

強欲-執着

 強欲とは物財の蓄積を過度に熱望することだ。 欲張りな人は、物的には与えられるものを沢山持っているにも関わら ず、自分の物だと思っている物を他者と分かち合うことを拒否する。魂 の感情認識が進んでも共有ができない場合には、物的な強欲は、霊的な 強欲へと変化する。 霊的な強欲とは執着であり、不当に自分の所有物だと考えている人た ち、たとえば子どもやパートナーなどの愛情を分かち合うのが難しい。 執着に苦しむ者は、少数の人しか愛さず、その人たちにも同じことを 強要する。 多くの人が、誤って「愛している」のだと思い込み、相手を強く愛す るがために苦しいと言うが、実際には愛着による執着から苦しんでいる のだ。 魂が進歩して初めて、愛と執着との区別がつくようなる。

*愛と執着との違いを説明いただけますか。

 人が愛す場合は、愛する人と自分の自由意志を尊重しようと努める。 自分がその人と一緒にいられなくても、愛する人が自由で幸せでいられ るように尽くすのだ。 執着を患う場合は、愛す人のためになることよりも、自我を満たすこ とを考える。そのため、愛している筈の人の自由意志を侵害する傾向に あり、その意に反して自分の近くに置こうとしたり、自分のやりたい事 を強要したりして、相手と「自分の競争相手」と見なす他の人との関係 を最大限妨害しようとする。

 本当に愛す者は、愛する人を所有しようとはせず、愛する人が他の人 たちを愛しても不快に思わない。執着は底をつくかもしれないが、本当 の愛・真実の愛は決してなくならない。より沢山の人を愛せるようにな っていったとしても、その他への愛が減る訳ではない。しかし執着は、 そうだと思い込ませるのだ。他の人たちに与えられる愛は、自分から奪 われると思わせるのだ。 執着がある者は、感情を要求し強制し強要するのだ。自分がすること の見返りをいつも求める。要求し受け取ることばかりを考え、与える時 には利益と引き換えで、最初に自分が頼んだことをしてくれるのが条件 だ。執着すると、自分の自由意志すら侵害し、したくないことをするよ うに自己を強要する。

 真実の愛を感じる者は、無条件に与え、感情を束縛しない。強制も強 要もせず、愛する人に何の見返りも求めず何の要求もしない。

*違いが明らかになる例があればいいのですが。

 いいだろう。鳥を愛していると公言する二人が出会ったとしよう。 一人は、冷房の効いた部屋の美しい金のかごの中で鳥を飼っている。 高品質のえさをやり、瓶詰めの湧き水を与え、定期的に獣医に連れて行 く。もう一人は、単に食べ物を公園に持って行くだけで、鳥が止まれば なでてやり、怪我をして飛べない時は世話してやる。 最初の人は、「僕はなんて鳥たちを愛しているんだろう。野生であれ ば得られない快適さを享受できるように、鳥たちには多額を費やしてい る! でも直ぐに死んでしまうんだ! いつも病気で、薬や獣医に金を使 っても早死にしてしまう。それが酷く辛い! どうしたらいいだろう?」 と言う。

 二人目は、「僕が世話する鳥たちは、僕のものではない。かごに閉じ 込めてはいないし、自然の中で生きている。鳥が僕と一緒にいてくれる のは、かごの格子から出れないためではなく、そうしたいからなので、 僕は幸せだ。自由に飛び回り、望むがままに生きているのを見られるの で、嬉しい。友よ、君の鳥は自由でないから、悲しみで死んでしまうの だ。好きに羽ばたけるようにかごを開ければ、自由になれて幸せになる ので、生き続けるよ」と言う。 最初の者は「かごを開ければ逃げ出して、二度と会えなくなるじゃな いか!」と答える。 二人目は、「逃げたとしたら、それは意に反して捕らえられていたか らで、隷属した生活から離れたいのだよ。僕の鳥たちは、好きな時に行 ったり来たりできると知ってるから、逃げたりしないよ。その反対に、 僕が公園に着くのを見ると、直ぐに寄って来て取り囲んでくれて、僕の 上に止まるよ」と応じる。

 一人目は「それが僕の望みだ。鳥たちに好かれたいんだ」と言う。 二人目は、「強要してでは、絶対に君の望みは叶えられないだろう。 君は、彼らが最も切望することの埋め合わせのために、快適さばかりを 与えたのだ。鳥は自由に飛びたいのだ。鳥を本当に愛しているのなら、 自由に生かしてあげなさい」と返答する。

*愛しているのは誰で、執着しているのは誰ですか。

 鳥をかごに入れておきたい人に執着があり、鳥を自由にさせておきた い人が愛しているのだ。

*執着によって他の人の自由意志をどのように侵害してしまうのか、例 を示していただけますか。

 子どもが大きくなって、恋人ができたからとか、家から離れたところ で勉強や仕事をしたいからなどの様々な理由で独立したがる際に、自分 のそばに引き留めようとする母親には執着心がある。執着のある母親は、 子どもといたいという欲求を押し通そうとし、独立して自分の人生を歩 みたいという希望を尊重しようとしない。そして、それが叶わないと感 情的に傷つけられた気がして、「子どもは私を愛していない」などの発 言に至り、子どもをそばに置こうとする余り、彼らに罪悪感を抱かせる ように仕向ける。 「この職業に就きなさい、あの専門を学びなさい」と子どもに要求し て、そうしなければ相続権を奪う父親には執着がある。 恋人に着ていい服といけない服や、何時に家から出入りすべきだとか、 つき合って良い人と悪い人を指図する人には執着がある。 この偽りの愛が執着であり、それは執着の対象を閉じ込めておく監獄 や刑務所のようで、執着に負けた者を牢屋番に変えてしまう。鳥をかご に閉じ込めていた人のように、執着で苦しむ者は、生きることも生かす こともできないのだ。

*執着によって他者の自由意志を踏みにじるというのは理論的ですが、 自分自身の自由意志も侵害するかもしれない、ということには驚きまし た。執着がある時に、どのように自分の自由意志を侵してしまうのか、 例を出していただけますか。

 いいだろう。たとえば、前例の母親が、家族以外の人を支援すること など、自分の心が求めることに時間を割きたいと思っても、そうすると 子どもや夫の面倒が見られなくなると考えて、自制してしまう場合だ。 執着を乗り越えなければ、内面を充足させることをする際には罪悪感 を覚えるだろうし、その罪の意識によって、そうすることを自分に禁じ てしまうかもしれない。

*この例のような執着の顕れ方には驚かされます。家族に尽くす人は、 一般的に愛情に満ちた人だと思われていることが多いからです。

 それは、執着というものが君たちの文化に深く根づいており、頻繁に 愛と混同されているからだ。多くの人は、授かった教育のせいで執着が 大層深く、それを自分の個性の一部に同化させてしまっている。 女性には、自分の時間の100%を夫や子どもや仕事に捧げなければ罪 悪感を抱かせる。家族以外の人に時間を費やすと、味方である筈の家族 からでさえも口さがなく批判され、「自分の家族よりもあの人たちの方 が大事なの?」とか「一体何でそんな事に関わるんだ? おまえはここに 家族と一緒にいるべきだろ」、「人にどう思われるだろうか!」などの コメントで罪を意識させられる。 男性は、慣習的により大きな自由を謳歌してきたが、執着の感情から 免がれている訳ではなく、家族でも友達でも同郷(同文化)でもない人 に手を貸そうと時間を割くと、特にそれが何の経済的なメリットにもな らない場合には、他の人の執着によって非難される。

*でも、家族に専念していても、そこには愛があるのではないですか

 もちろんだ。一方を取ると他方をなくす訳でない。 すでに言ったがくりかえしておこう。真実の愛はなくなることがない のだ。愛す対象が段々と増えていっても、それで家族を愛さなくなる訳 ではないのだ。 だが愛の能力が大きいと、大勢の人との約束も多くなるので、自由時 間も多くの人と分かち合わねばならない。それが、執着に苦しむ者には、 前より少ししか愛してもらえていないと受け取られるのだが、実際には そうではない。

*人が変わろうと決意すると、家族はどうなるのですか。他者を支援す ることに時間を割くようになると、自分の家族に手がかけられなくなる のではありませんか。

 いいかい、自己変容したいと願い、内面の話ができる他の人たちと集 まりたいと思う者が出くわす最もきつい障害は、周囲の人たちに理解さ れることがなく、その人たちに、家族の義務を果たさないという罪悪感 を、弄ばれることだ。 良く観察すれば、誰かが週に一度二時間かけて、おまけにお金も使っ て、サッカーの観戦やディスコやバーに行っても、その人が家族をない がしろにしているという印象を持つ者はいないと分かるだろう。しかし、 同じ人が、自他に役立つように内面に関する話を二時間しに行く場合には、あらゆる難癖をつけられるので、家族を放任してしまったという罪 悪感を覚えてしまうのだ。 これは要するに、分かち合うのが困難だという執着のせいだ。執着は 愛ではないし、この障害を克服できなければ、君たちは停滞してしまう のだ。

*それでは、家族は霊的進歩の障害となり得るのですか。

 いや、障害となるのは、自己成長する気がなく他者にも成長させまい とする魂たちの理解のなさだ。彼らは、進化を願う者を、それが家族の ように血の繋がりがある者であっても、手中の全ての武器を駆使して押 し留めようと努める。 理解のある家族と暮らす者にとっては、家族が霊的な発展を遂げるた めの支えとなる。しかし、地上の人類はほとんど成長していないために、 霊的な覚醒に取り組もうとする者は少数である。しかも、同じ家族の中 に似通った魂がいて、霊的進歩に取り組むつもりであっても、同時に覚 醒できることは非常に稀だ。そのため、先陣を切るのが一番難しいのだ が、それができる人が、他の者のために道を切り開かないといけない。

 かのイエスでさえこれと同じ問題を克服し、執着による家族の理解の なさを乗り越えなければならなかった。イエスの家族は彼を理解できな かったので、霊的事柄に応じるために家の義務を投げ出している、と常 にイエスを非難した。気が狂っているとけなし、罪悪感を覚えるように 仕向け、ヨセフが亡くなって彼が大家族を養う責任を負う羽目になって からは、特にそれが高じた。だが、それは真実ではない。イエスは、母 親と兄弟姉妹が自立できるまで物質的支援をしたのだ。 しかし、彼の使命は、全人類の家族というもっと広範に及ぶものだっ た。イエスが体験した自分自身の家族の理解の欠如は、福音書の次の一 節に反映されている。 そしてイエスは言った、「預言者はどこででも尊敬されるが、自分の 郷里と家族の間では敬われない」

*でも、無条件に愛すためには、家族を放棄する必要があるのでしょう か。

 霊界が家族の放棄を要求するなど、どうして信じられるのかい? 家族 は、魂の最初の感情を刺激する手段として、まさに霊界で創られたのだよ。夫婦間の愛情や親子間の愛情は、魂が最初に出会う感情で、交配本能 や子に対する親の保護本能から発達したものだ。 唯一伝えたいのは、愛において前進するためには、心を開いて分かち 合い、家族の概念を広げて、全ての霊的存在がその一部であると考えね ばならないということだ。

 いいかね、人が愛す時にカテゴリーを設けるとしたら、真の兄弟愛の 実現は不可能だろう。自分の家族を一番先にして、同じ故郷・国・人 種・文化・宗教の者を優先し、それで残ったものがあれば他者にあげる、 となる。 何の見返りも期待しないで与える代わりに、常に何かと引き換えなの は、我欲がカモフラージュされたものなのだ。そのため、与える際には リストを作成し、最初に自分に沢山くれそうな人を載せ、次にそれ以下 の人を記載し、何もくれない人は欄外とするのだ。 このような利己的な態度は、どんなに会員だけの連帯を正当化しよう と頑張る人たちがいようと、「愛の法則」を侵害している。

 連帯する権 利から誰かを外してしまった瞬間に、連帯という言葉は意味を失うのだ。 このような集団的エゴがどこまでエスカレートできるのかという例は、 ナチズムに見ることができる。人種による見せかけの結託を謳い、他の 人種や信仰の権利と個人の自由意志を粛清したり排除して、それを捏造 したのだ。

*執着は、虚栄の段階にも尊大の段階にも見られると言われましたが、 これは克服するのがかなり難しい「エゴ的感情」のようですね。

 その通りだ。執着は虚栄の段階に始まり、尊大の段階の最後まで克服 されることがない。

*それなら、執着に関しては、虚栄から自尊を経て尊大へと霊的に進化 していっても、何の進歩もないのですか。

 もちろんあるとも。しかし、進歩は常に緩やかなのだ。 虚栄心の強い者の執着は、自尊心の強い者や尊大な者の執着と同じ強 さではないし、同じ要因で増長される訳ではない。虚栄心の強い者は感 情が余り発達していないので執着心はずっと強く、他者の自由意志への 配慮がなく、甘やかされたり構われたいという思いや進化への意志の弱 さなどでそれが増長される。

 自尊心の強い者と尊大な者では、執着心は徐々に愛に変化していって いるので(愛と執着の両方が混在している)それほど強くないが、愛さ れないという怖れや愛する者を失う怖れによって増長される。

*強欲と執着は、どう克服するのですか。

 強欲の反対は寛大なので、強欲に打ち克つためには、物的・霊的な寛 大さを発展させる必要がある。強欲と執着は、物的面・霊的面で、自分 が持っているものを他者と分け合うことで、乗り越えられるのだ。 貪欲-独占欲 貪欲とは、所有したいという過度の欲求が回を追うごとに募るもので (欲するものは物財でも他のいかなる性質のものでも良い)、それによ って他者が損害を被っても構わない。 貪欲な者は、自分の持ち物では決して満足できずに、いつも持ってい ないものや他者のものを欲しがり、それを手に入れるまで留まるところ を知らない。

 貪欲な者は、自分のものを評価しないので浪費癖のある魂 であり、いつも他者の持ち物を切望しているので羨み深い魂である。 魂が虚栄の初期段階から発展段階へと移行すると、物的な貪欲さは霊 的な貪欲さ、つまり独占欲へと変化していく。 人が意識してかしないでか、自己満足のために他者の注意を引こうと、 相手の自由意志を侵害したり強要してしまうことには頓着せずに、でき るだけ長く自分に構ってくれるように人の感情を操る場合は、独占欲だ。 独占欲に支配されている人は、自分の事しか考えないことが多いので、 他者を尊重することが非常に難しい。

 独占欲の強い者は、どんな手段を講じてでも注意を引こうとし、その ため、頻繁に犠牲者の振りをする。 独占欲は執着心との関係が深く、この二つの我欲の形態は、同時に同 じ程度の強さで顕れることが多い。つまり執着心に苦しむ者は、独占欲 も強い場合が多いのだ。 嫉妬は多くの場合、執着心と独占欲の混ざったものだ。貪欲-独占的 な人には羨望、つまり自分にはない欲しいものを所有する人たちへの反感、が目覚めがちである。欲望の対象となるのは、貪欲であれば物的所有物であり、独占欲では霊的所有物となる。

*それなら、愛して欲しいので構ってもらいたいと頼むのは、独占的に なるリスクがあるので、正しくはないのですか。

 その逆だよ。我々は皆愛される必要があるのだ。自分の必要性を認め て頼むのは、自己の感情表現の一部を成すので、良いことだ。

*それなら、愛して欲しいと頼むのと、独占的になることとの違いは何 ですか。

 強制せず、騙さず、操らず、誠実に頼む場合は、独占的ではない。 独占的なのは、強制し騙し操った時、要するに、他者の自由意志を侵 害した場合だ。しかも多くの場合が、愛を求めているのではなく、ちや ほやして欲しいだけなのだ。 愛とは自由に与えられなければならず、強制すればそれは愛ではなく、 義務となってしまう。そのため、家族や近親者なので自分を愛したり面 倒をみる義務がある筈だという思い込みだけで、特定の人たちに愛して くれと要求するのは間違っている。

*霊的に進化するにつれて、独占欲はどう変化しますか。

 執着と似通った方法でだ。 すでに話したことだが、独占欲は貪欲から派生して虚栄心の発展段階 で始まり、尊大の段階の最後まで完全には克服されることがない。 魂は、愛せる能力を獲得するにつれて、自分自身の感情で満たされ始 めて情緒的に他者に依存しなくなるので、感情面で寛大になると、独占 欲は徐々に力を失ってゆく。自尊と尊大の段階では、独占欲は次第に減 少してゆく。 攻撃欲(憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感) 攻撃欲の分野には、憎悪・恨み・憤り・怒り・無力感・罪悪感など、 自他を問わず痛めつけ傷つけたいという衝動と関連した全ての「エゴ的 感情」が含まれる。

 攻撃欲は、一般的に外部からの刺激で目覚めるが、自分が攻撃された 場合や、自分の欲求や願望の障害になると思える状況が要因となる。攻 撃欲とは、劣悪化した生存本能である。 攻撃欲は我欲のどの段階にも見られるが、それが誘発される原因は、 各レベル毎で異なる。 虚栄心の強い者では、注意を引いたり注目の的になろうとしたのに失 敗した場合や、欲求を満たせなかったり、人の意志を曲げられなかった 場合などに表面化する。そして、自分の要求を他者に押しつけようと、 攻撃的になる。 


 自尊心の強い者や尊大な者に攻撃欲が顕れるのはより限定的だが、も っと過激なケースとなり得る。確信していることが正しいと認めてもら えなかったり、望み通りに物事が運ばず途方に暮れた時や、やりたい事 をしたり表現するのを抑制されてしまったり、感情が傷つけられたと感 じた時などに、攻撃性が起動する。
憤怒すると虚栄心の強い者よりも暴 力的になり得るのは、ストレスを蓄め込む傾向があって、自己コントロ ールを失うと突然爆発するからだ。

 虚栄心の強い者と自尊心の強い者の攻撃性の違いは、ライオンとサイ とに例えられる。ライオンは肉食で、他の動物を餌とし本質的に攻撃的 なので、攻撃欲も生来のものと言えよう。この攻撃欲が、虚栄心の強い 者の攻撃性なのだ。 だが草食動物であるサイは、食べるために狩をする必要がないので、 乱暴に振舞う習性はない。脅かされたり怪我した場合など、ごく特別な 場合にのみ攻撃的になる。これが、自尊心の強い者の攻撃性に似ている のだ。

 尊大な者の攻撃欲は、自尊心の強い者の攻撃欲に似ていて、単にその 度合いが違うだけである。尊大な者は滅多に感情を損うことがないので、 攻撃性が触発されることも稀だが、爆発した場合には、他の者たちより もずっと破壊的になり得る。 攻撃欲には、憎悪から恨み・憤りや無力感に至るまで色々な異形態が 見られ、それぞれに独自の特徴がある。 憎悪は、他者に向けられる非常に強烈で持続的な攻撃欲である。これ は、最も愛からかけ離れ、最も有害な、一番原始的で致命的な「エゴ的 感情」である。宇宙の生命存在への分離と拒絶感情の最たるものだ。

 憎悪は、愛の学習が遅れている最も未熟な存在に特有のものだ。憎む 人を「嫌悪する者」と呼ぶとするが、この人はいつも、自分の憎しみは 正当なものでコントロール可能だと信じているのだが、しまいにはより 多くの人を憎むようになってしまい、周囲の人に隔絶感をまき散らす。 憎悪に身を委ねてしまう者は、暴力的で不公平で狂信的で冷酷で、全 てのものを破壊してしまう。普通の人たちからは避けられてしまうので、 孤独を感じないように似た者を探そうとする。 「嫌悪する者」は、異種と見なした者への憎悪を正当化する、過激で 暴力的な活動に参加しがちである。しかし魂は益々孤独になり、この世の他の存在からも離れてしまうので、憎しみ自体が彼らを破壊してしま う。

 とどのつまり、それが彼らが望んだことだったのだ。 怒りや腹立ちは、持続しにくい攻撃性で、その程度が大きい(怒り) か小さい(腹立ち)かの違いである。 憤りと無力感は、強く長く持続する攻撃性が内側に向けられた状態で、 他者や自分が逆境に陥った際に起動する。無力感の場合は、物事の流れ を変えるのは不可能だと感じる欲求不満が、状況を悪化させる。

 怒りっぽいイライラした人は、些細な事が原因で攻撃的になり易く、 不機嫌であることが多く、自分自身と人生とに不満である。自分の不快 感の原因は外のもので内にはない、と自己を納得させるために外部のせ いにして、不快感の本当の原因を探ろうとせず、進歩を拒むので苦しむ。 恨みはこうして生まれる。 罪悪感というカテゴリーに入るのは、攻撃欲や無力感が自分自身に向 けられた場合である。 自分への攻撃性が蓄積されると、アストラル体レベルの均衡を崩し、 その状態が長く続くと肉体的な病気を引き起こす。

 たとえば、抑圧された憎しみは、肝臓や胆嚢の病を引き起こす。 無力感は、消化器系の調子を狂わす。 抑圧された憤りや恨みが蓄積すると、歯牙の問題(歯痛や虫歯)が起 こる。 攻撃性が自分に向けられた罪悪感は、自己免疫疾患を生じさせる。

*罪の意識、つまり罪悪感はどこで生まれるのですか。

 感情と思考に葛藤がある場合に、感じることと考えること、つまり魂 と頭脳との戦いの中で生じる「エゴ的感情」が原因だ。 思考の中には、それまでに授けられた全教育が影響していて、社会規 範や規制、利己的な考えなども含まれる。 人は、気持ちに反して考えに従って行動すると、罪の意識を感じるこ とがある。それは多くの場合、愛に反した我欲での行動を意味する。た とえば、思考が発端となる利己的な行動をとった時に、魂が良心によっ て霊的な視点からは誤りだと感知すると、罪悪感が生まれる。魂は頭を 咎め、感情が思考に異を唱えるのだ。この場合は、自分の間違いを認識 することができ、成長の指標ともなるので、このような罪の意識は肯定 的なものだ。しかし、その逆も起こり得る。

 人は、気持ちを感じてしまうことに罪悪感を覚え、思考の代わりに感 情に従うことを悪いと思う場合がある。この場合は、頭脳が魂を咎める のであり、思考が感情を検証する。とても強い偏見や制約があって、特 定の感情が悪く誤りだと思い込んだ場合だ。そして残念なことにそれが 原因で、人は善悪を混同し、人生を混乱させる感情は悪いものに違いな い、との結論に行き着くのだ。こういう罪悪感は、霊的進歩と感情の発 達を阻むので、大変否定的なものだ。

*二つ目のケースがよく分かるように例を挙げていただけますか。

 よかろう。人を好きになったとしよう。最初の衝動は、そういう気持 ちが芽生えた人に、意思表示をしようと近づくことだ。これが、気持ち のままに行動するということだ。 だが今度は、頭がその思考回路に沿って、感情を分析することとなる。 これは、それまでに授けられた偏見と禁制に満ちた教育の全てに条件づ けられてしまっており、そこから感情の表現を咎める一連の思考が生ま れる。 たとえば、その関係が発展するために悪影響を与えるような不都合 (年齢差・人種・社会層・宗教・信仰・好みや趣味の違いなど)を示唆 したり、拒否される怖れを増長させる(彼女は同じ気持ちではない、 NOと返答するだろう、滑稽な真似はやめろ、何て思われてしまうだろ う、など)。 思考が感情を負かし、心で感じたことをするのを止めてしまうと、気 持ちに従わなかったことで罪悪感を覚える。 感情に委ねたとしても、自分の気持ちに適合するように思考を完全に 修正できなければ疑心暗鬼になり、再び思考に攻撃され、考えたことで はなく感じたことをしたことに罪悪感を抱かせられる。

*罪悪感はどのように克服できるのですか。

 利己的な行為を認識することで罪の意識が生まれる場合には、落ち込 んだりがっかりせずに、新たにそうならないように積極的に行動するこ とだ。たとえば、傷つけてしまった人に謝ることから始めるなど、自分 がしてしまった悪いことを可能な限り修復しようとするのだ。そうすれ ば、罪悪感は消えるだろう。 気持ちに反して、考えに従って行動したために罪悪感が生まれる場合 には、初めに、自分が感情に則った行動をしていないことを認識するこ と。次に感情に従う勇気を持ち、感じるままに生きることで、そうする ことを阻む抑圧的な思考回路を壊すことができる。

 このプロセスを開始し、気持ちに素直に生きて行動し始めてはいるも のの、まだ頭の制約が強く、その努力を放棄するように悩ませられてい る人には、非常な忍耐力が必要だ。自分の気持ちに大いに自信を持って、 それに従って行動する固い意志が必要となる。 苦しむとしたら、それは感じることのせいではなく、考えることのた めだと知るべきだ。それゆえ、感情ではなく、思考を修正すべきなのだ。 心で感じることが分からない人たちによって責められたなら、過去に 自分もそうであったように、その人たちがまだ利己的で偏見に満ちた考 えに捉われているのだと理解すべきだ。彼らには、忍耐と理解を持って 接する必要があるが、影響されてしまってはいけない。

*恨みとは何ですか。

 恨みとは時間が経って薄れたものの、憎悪が長期にわたり継続するも のだ。通常は、反対されたり被害にあったせいで、自分の不運を招いた 責任者だと判断した特定の人に向けられる。 攻撃欲が目覚めるきっかけとなる事件は、かなり以前に遡る場合もあ る。しかし恨み深い人はこの件をずっと記憶し、攻撃的な衝動を育み、 復讐すれば不快感を軽減できるだろうと思って、その機会を待つのだ。

*恨みはどこで生まれるのですか。

 気持ちに従って生きてこなかったという不満や、やりたかった事を実 行しなかった欲求不満、また自分が遭遇した逆境を受容しなかったため や、自分自身の欠点(怖れ、安楽さ、意志力の欠如、無理解、怠惰な ど)に負けてしまった後悔などから生まれる。 恨みは一般的に、気持ち通りにできなかったことに加担したり協力し た人たちや、やりたかった事に反対した人たち、自分の困難な状況に責 任があると思う人たちに、誤って向けられる。

*どうやってそれに打ち克つのですか。

 外部に責任者を探そうとする代わりに、内面の不快感がどこから生じ るかに気づいて、別の問題を誘発する可能性があるとしても、人生の中 の好きになれないところを修正する勇気を持つこと。 運命のいたずらに思えるネガティブな状況は、時には、欠点を乗り越 えて無条件に愛す能力を高めるために、自分自身が選んだ試練の場合が あることを理解するように努めるのだ。

 *前にした質問をもう一度くりかえすことになりますが、憎悪・憤り・ 怒り・恨みなどの感情を表に出せば、他者を傷つけることになりかねませんが、溜め込んでしまえば自分自身を痛めつけることになります。で すから、こういう感情はどうしたらいいのですか。

 根本から断ち切ってしまうのだ。それらの感情が内部に目覚めないよ うに努めるのだ。攻撃欲が外部ではなく内部に生まれることを認識して、 それが目覚めたのだとしたら自分の中に存在している我欲が顕れたのだ と気づくのだ。 自分の取り柄が表価されないために我欲が目覚めるならば、まだ虚栄 心を克服できていないのだ。感謝されなかったり中傷されたために苦し むのであれば、自尊心や尊大を超える必要があるのだ。 攻撃欲が外部ではなく内面に起因するのは、どんなに酷い無礼や非難 をされても、忍耐も笑顔も絶やさずに耐えられる人たちがいる一方で、 どんな些細な事にも制御不能なほど激怒してしまう人たちがいるのを見 れば明らかだ。

 最初の人たちは、自己の攻撃性の根絶において、霊的に進んだ人たち だ。二番目の人たちは、そう努めようとし始めてもいない。 ほとんど影響を及ぼすことのできない外側の世界を変えられないから といって、欲求不満になってはならない。自分が全権限を有する、内面 の世界を変えるように努力するのだ。そうした時に、外でのことは、も う怒りの原因とはならなくなるのだ。

*攻撃欲はどう乗り越えるのですか。

先ず自分にそれがあることを認め、次に理解によって克服しようとす るのだ。

*何を理解しないといけないのですか。

 自分自身を理解し、他者を理解し、直面する状況を理解する。 自分が間違っていると認めるのが嫌で、自分自身の利己的な態度を認 めたくないがために、怒ってしまう場合があると理解すること。 また、自分の意見を抑圧するために攻撃的になるのであれば、在るが ままに自分を表現するように努めるのだ。 誰かに傷つけられてそうなるのであれば、それは相手の魂の成長が足 りず、愛の認識に関してほとんど進化できていないためなのだと理解す べきだ。かつては自分も同じように霊的に無知な状態で、今されたこと と同じことを人にしていたのかもしれないと気づきなさい。自分の利己 的な行為が理解されることを期待するのなら、他者の利己的な行為に関 しても寛容な態度をとらなくてはならないと理解すべきなのだ。

 我々が直面する逆境の多くは、我々に嫌がらせをするために出現した のではなく、愛の学習と我欲の克服を促進させるためのもので、その多 くは生まれる前に自分自身で選んだものなのだと理解するのだ。そして 大半を占めるその他のものは、自分の頑固さ・不寛容・羨望や、他者の 欲求や意見を尊重・理解しなかったために、我々自身が招いてしまった ものなのだ。

*攻撃欲が触発されてしまった場合に、誰にも迷惑をかけずに、不快感 から解放されるにはどうしたらいいでしょうか。

 他者を傷つけずに不快感を解放する、いい発散方法がある。 それは、どう感じているかを言い表わすということで、自分にわき起 こった感情を認めて、そうなった理由を述べるのだ。聞き手は、傷つけ ないように当事者以外の穏やかな人が好ましく、攻撃欲には簡単に屈し ない信頼できる人でなければならない。 不快感を表現するだけで、攻撃欲から生じた不快が和らいでかなり楽 になる気がするし、もっと冷静に理性的になれる。

 その後でさらに落ち着けば、けんかをした人との話し合いを試みて、 解決策を模索することが可能だ。しかし、それには時と方法を選ばねば ならず、怒りや激情で爆発しそうな時は、絶対に避けねばならない。そ うなってしまえば、自分が受けたのと同等かそれ以上の苦痛を相手に与 えて、大いに傷つけてしまうかもしれないからだ。

(P147~P160)

 

(作者あとがきをご覧ください)

https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 ♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。



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Join The Resistance Movement (Japanese) Part 1~4

2019-09-17 13:11:32 | 宇宙

 

 Join The Resistance Movement (Japanese) Part 1

 

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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~愛の法則 (part 2)

2019-09-16 23:58:08 | 魂の法則

 https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

 「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~愛の法則 (part 2)

        p134~p146

(P134~P146)


*自尊から次の尊大への移行を決定づけ、両者を別々の段階とするもの は何ですか。

 自尊心の強い者は、愛を与え受け取る能力があるのに、傷つくのを恐 れるがためにその両方を抑制し、自分の周りに無感情という鎧を作って しまう。この無感情という鎧が、気位なのだ。 この鎧をほぼ完全に消滅できることが、次の段階への移行となる目印 だ。

*無条件の愛への道のりの最終工程に到着しつつあるようですね。

  まだそうではないのだ。 魂が自分の抑圧や恐れから充分に解放され、感謝されないなどの否定 的な態度を受容できるようになったとしても、その工程を完全に克服で きたことにはならない。自尊心を乗り越えた魂はまだ、自尊心が進化し たもっと巧妙な自我の形態である尊大を克服する必要がある。

*尊大というものが何で、どういう特徴があるのか説明して下さい。

  尊大とは謙虚さに欠けることで、君たちが誤って「自己愛」と呼ぶも のが過剰にあることだ。 この段階の魂に残された二つの克服すべき主要課題は、謙虚でないこ とと、執着、つまり愛する者の愛を分かち合うのが困難なことだ。 尊大な者は自信に満ち、他者を必要とせず、全てにおいて自己自足的 である。 他者を助ける気はあるが、助けを求めるのは弱さの証拠だと思う欠点 があるので、本当に助けを必要としていても自分では援助を頼むことが 滅多にない。そして、他者を優先してしまう。 自分の必要性や弱さや欠点、気落ちしていることなどを隠しがちで、 「どうしたの? 何かできることはない?」と聞かれることがないように、 誰にも気づかれないようにする。そして気づかれると神経質になり、自 分が自己充足できていないことを認められずに、腹を立てる。つまり、 不信感・怒り・傲慢が表面化するのだ。 尊大な者は自尊心の強い者よりも感化されにくく、忘恩で報われても 傷つくことも少ないのだが、中傷されたり裏切られたと感じると、自分 の計画通りにいかなかった時のように、怒りと傲慢が頭をもたげてくる。 たとえば、理解して助けてあげようとしている者から軽蔑されたりバ カにされたりすると、怒りと高慢が目覚め、「俺が誰なのか分かってる のか」とか「よくそんな真似ができるな」、「そんな口を叩くなんて、 一体何様のつもりだ?」などと返答をする場合がある。

 謙虚になれず、感謝されないことや侮辱を受容できない場合には、他 者を種別して偏見を持ったり、接し方を変えたりする。自分のエゴを自 覚し克服できなければ、助けて欲しいと近づいてくる人がいても、不信 感に支配されてしまう。自分の偏見で特定の人が苦手になり、それぞれ の必要性に応じて公正に平等に援助するのではなく、各人への不信感・ 恐れ・不得手の程度で判断することとなる。 尊大な者は独りでも平気だと思っているが、認め難くても実際には皆 と同様に、幸せになるためには、愛し愛されていると感じる必要がある。 そのため、感情面で自信がなくなると、独りで大丈夫だという外づら が崩れてしまう。確信していた愛を失う恐れは、不信感を募らせ、悲し ませ、絶望的で無気力にする。こうなるのは、まだ執着心に苦しんでい るからで、愛する者の愛を共有するのが困難なためだ。

*僕には、ごく普通の反応に思えますよ。愛する者の愛を失うのが怖い のは、皆に共通することではないですか。

無条件の愛の経験に至っていたなら、本物の愛は絶対に失われないと 知っているので執着で苦しむこともないし、何も怖いものがないだろう。

*ではどうやって、尊大の段階を超えるのですか。

  くりかえしになるが、愛して理解し、欠点のままに行動するのを避け るのだ。 魂が謙虚さを増し執着をなくすにつれて、傲慢も少なくなるだろう。 この二つの資質は、見返りを期待せずに他者を心から助けるという、隣 人愛の実践を通して発展するのだ。 尊大な者が、失望や屈辱を味わうことを怖れて、自分が与えることの できる援助を惜しめば、欠点を増長させることになり、停滞してしまう だろう。だが、自分の怖れや偏見を克服し、気持ちに従って行動すれば、 進歩できるだろう。

*進化の視点からは何が我欲の起源ですか。つまり、魂の進化のどの時 点で、エゴが生まれるのですか。

  利己主義は動物的な生存本能の延長であり、魂が自分自身で決断し、 自由意志で経験し始める時点で出現する。 進化が人間の段階に達した魂は、自由意志の力を発揮し始めたばかり だ。知能は基本的に発達しているものの、感情面がほとんど発達していないため、本能に影響されて決断することが多く、その中でも生存本能 に支配されている。その状態から、感情の学習を通して、自分の意志で 決めながら独自の道を模索するという、本能から完全に独立した進化を 遂げていくのだ。

*もう少し詳しく答えていただけますか。まだ理解できないのです。

 もちろんだ。魂が獲得したばかりの自由意志を行使し始める時は、本 能に基づいて行うが、本能は、動物界での進化段階で「魂の原型」が培 った知識を集めた生物的プログラムの一種であり、人間の独立意志が発 展する元となるものである。 本能は欠陥を補う仕組みであり、まだ自分自身で決定することのでき ない諸問題に関して、自動的に決断を下してくれるプログラムである。 それは自動操縦装置のように、操縦できなくても進路を修正してくれる のであり、まだ機体の舵取りを学んでいる段階でも、衝突せずに運転す ることを可能にしてくれる。 本能の中には、どんなに過酷な状況下であろうと、肉体の死を避ける 手段を探すように転生した魂を駆り立てるプログラム、とも言える生存 本能と、種の存続には欠かせない生殖本能とがある。

 しかし魂は、同時に、初めての感情的な欲求を満たさねばという未知 なる衝動も感じるので、満足はできない。だが、感情について無知であ るため、これまで通りに本能を過大に満足させていればいいと思い込み、 他の存在に与える害悪は考えずに知能をそのために使用する。

*お話によると、我欲は、進化の発展上に元々備わっていたように思え ます。

 完全性へと向かう過程において、魂がある程度の期間にわたり利己的 な段階を経ることと、それが多くの転生で継続し得るのは避けられない 現実だが、それは有益であるとも言えるのだ。なぜなら、自分の個別性 や意志を再認識して、愛がない時の気持ちを味わえるし、愛を感じられ るようになるにつれて、愛がある時の感情をありがたく思えるようにな るからだ。

 そのため、初期的虚栄心と名づけられる我欲の最初の顕現形態は、若 い魂に特有なものなのだが、基本的に物質主義で、最も原始的な本能を 充足させることに向けられる。 物質主義・消費主義・快楽主義といった姿勢につきものの貪欲・強 欲・色欲が目覚める。そして集団的には、帝国主義・植民主義、つまり 権力や物質的な富を切望して他者を搾取する態度となって現れる。人類の大部分はまだ霊的な思春期に浸りきっているので、君たちの惑 星では未だにこの段階が優勢である。

 魂が感情についての知識を得るに従って、このような物質的な我欲は 霊的な我欲へと変容していく。それがより発展した虚栄心の段階だ。 その段階でも魂は我欲にしがみついているが、同時に、感情も発達さ せ始めている。与えることにはまだ抵抗があるが、愛が存在するのを認 識できてその恩恵も分かるので、愛を受け取ろうとする。 強欲は執着に変わり、貪欲は独占に変わる。だが、それは一夜のうち に変化するのではなく、段階的にそうなるのであり、中間的な虚栄心と いう過渡期が存在する。

 中間期には、我欲のあらゆる顕現形態(貪欲・強欲・執着・独占)が 様々なレベルで混在しており、これが現在の地球の支配的な状況なのだ。 これらの我欲のうちの一つから脱却するのにも、計り知れない歳月が かかることがある。しかし魂が我欲を自覚し、それに流されれば他者を傷つけると認識した時から、自己の行為にもっと責任を持ち、自分がも たらす苦悩に関しても敏感になる。するとある時点で、魂は感情に目覚 め、愛す必要性を感じ、幸福になるためには愛さねばならないと気づく。

*それからどうなるのですか。

 愛を追い求め始めるのだ。そして自尊の段階が始まる。 この時期に魂は、愛を受けるだけでなく与えることも模索し始めるが、 多数の障害に遭遇する。感じたり自覚をし始めるが、理解されないこと や感謝されないことを身を持って体験し始める。それは、人類の四分の 三という大多数が、まだ虚栄のどれかの段階に陥ったままだからだ。未 だに自尊の前段階の因果を体験し、何が起こっているのか理解できない のだ。 だから世の中全体を敵に回したように感じ、改善して愛し愛されたい という自分の思いが拒絶される気がする。感情的に失望してそれに負け てしまうと、我欲が頭の中で再び勢いを得て、発見したての感情を傷つ けられまいと、自分の心を覆ってしまう。そして孤立することが苦悩を 回避する手段だと思って、再び不信・内向・孤独に陥る。 苦悩を避けるために諦めるという手段を選ぶ場合もある。利己主義者 からの攻撃をかわそうと、その期待通りに自分を変えようとするのだ。 霊的な病の中では最悪なものが芽を出し始めるのだが、それは、多くの 肉体的な重い病の原因ともなる。つまり、自分の意欲と自由意志を放棄することであり、極端な場合には、魂はありのままに行動することも生 きることもできずに、完全に周囲に隷属し、強制されたことを自分が望 んでいることだと信じ込むに至る。 しかし、これでは苦しみたくないがゆえに苦しむことになり、それは 何の霊的な成長ももたらさない不毛な苦悩である。 人類の四分の一ほどが、この自尊心の段階にいる。虚栄心から自尊心 のへの段階の移行も突然起こるものではなく、その過程は緩やかであり、 かなり長期にわたって両者の欠点が共存して顕れる。

*それで、この話はどう続くのですか。どのようにこの段階を超えるの ですか。

 愛すこと、それだけだ。愛のみが自尊の殻を破れるのだ。 説明した通り、気位の高い者の方が、見栄っ張りな者よりも理解力が あり、自分を傷つける者の仕打ちを受け止められるのだ。つまり、愛の ない利己的な者は単に進化途上のまだ若い魂に過ぎず、感情の学びと我 欲の放棄には時間かかるので多数の転生が必要かもしれないが次第に学 んでいくだろう、と理解できるのだ。 一つの人生で目立った変化が見られなかったとしても、進化していな いことにはならない。

 今生での善人は、前世の知恵を鞄に詰めてやって 来た生まれついての善人なのだ。一つの転生でも大きく進歩できるとは 言え、一夜のうちに海賊から聖人に変わるように求めるのは無理だろう。 子どもが一日で話せるようにならなくても、言葉は何年もかけて習得 していくものだと分かっていて絶望しないでいられるのなら、幼い魂が 愛せるようになるのに霊的に何年かかったとしても ―何回も転生するこ とだが― 焦ってはいけないのだ。

 それゆえ、感情についてもっと理解できている魂は、たった一度の人 生で自分と同レベルに達するように、自分以下の者に要求してはならな いのだ。自分も多くの転生と努力を要したからだ。だから、その人の能 力と意志力の許容範囲で学べることで良しとすべきだ。かつては自分も それと同じ程度で、傍らでは、もっと進んだ者たちが、利己的な態度を 我慢してくれていたのだと思い出すべきなのだ。

*そして、それを全部乗り超えるとどうなりますか。

  最大の難関に立ち向かう。まだ謙虚になることと執着を手放す必要が ある。つまり、愛情を共有する際に寛大になるという、尊大の段階で乗 り越えるべき目標が残っているのだ。

 尊大な魂は、平均的な魂と比較すると大変進化したもので、君たちの 若い惑星では僅かだ。大半はより進化した他の惑星を故郷とする魂で、 進化にかけてきた時間が長い。地球の平均的な魂よりも、霊的な年齢で は何千年も年上かもしれない。 彼らの惑星はもっと発展しているので、事実上不正も存在しないし感 謝されないということもないので、自己の欠点を呼び覚ます厳しい状況 に遭遇することがない。地球に来るのは、自分の短所を表面化させるに はちょうどいい環境だからだ。地球は不正や忘恩に満ち溢れた惑星なの で、これらの魂は自分の欠点と意志力を試そうとするのだ。こうしてよ り厳しい試練を通じて、より速い進化を成し遂げるのだ。 彼らは能力が高いので、余り進化していない惑星への転生に際しては、 他者を霊的に援助する使命を果たすように要請されることが多い。

 謙虚 さに欠けて愛情の共有が困難である、という自己の欠点を克服するため には、他者を援助して鍛錬することが役に立つのだ。

*これまでの説明を伺って、もっとずっと沢山の疑問が湧いてしまった ので、それらを明らかにして下さればと思うのですが。特に、情緒と感 情、我欲の様々な具現形態(虚栄心、自尊心、尊大)に関するものです。 それらをもう少し知りたいのです。

遠慮なく質問してごらん。

*以前、感情と思考とは起源が異なり、我欲は頭脳から生じると言われ ましたが、考えるのはそれ自体が悪いという意味でしょうか。

 とんでもない。言いたかったことは、感じることと考えることとの 区別ができるようになる必要があるということだ。君たちを混同させる ような利己的な考えは、頭を介して魂に入ってくるからだ。 感情を抑圧しない限り、思考自体は悪いものではない。思考が気持ち と調和していれば、感情を愛の行動へと変容させるための貴重な道具と なる。 君たちの世界の問題は、感じないまま考えることを教えたことだ。感 情に基づかない思考は、我欲を増長させる。愛における進化とは、我欲 ではなく感情の力で、思考を修正することを学ぶことにもなるのだ。

*お話がまだ理解できないので、例を挙げて下さいますか。

 もちろんだ。とっても好きな人に会ったと想像してごらん。君は男性 で、彼女は女性で、長いこと会っていなかったとしよう。 その人に対する愛情から君は喜び、ハグしてどれだけ好きだか表現し たい衝動に駆られる。しかし、君が性的偏見を持った人たちと一緒にいて、彼らには異性間の深い友情関係が理解できないことも、後で批判さ れ中傷されることになるだろうことも知っていたとする。この不都合の せいで、君は気を変えて感情を抑え込むので、愛する人に出会っても人 にどう言われるかを恐れて、そっけない素振りで礼儀正しく握手をする だけなのだ。 この場合、脳で状況分析された思考は、感情を変えてしまったのだ。

 つまり、最初の感情は喜びであったのに、頭で自制した後に冷淡に振舞 ってしまい、感情を押し殺してしまったのだ。

*でも、その人を好きなのなら、不必要に感情を表せば迷惑をかけてし まうかもしれないので、引き合いに出された状況では、慎重にならざる を得ないと思います。批判的な目のない場所で、より適切な瞬間を待っ て、気持ちを表せばいいと思います。

 確かに、慎重は美徳だ。多くの場合、人の意見は理解も尊重もされな いので、他者の自由意志を尊重する場合には、慎重でなければならない。 だが、怖れに慎重という衣を着せないように注意しないといけない。 慎重であれば、適切な状況でなければ感情の表現方法を変えるかもし れないが、感情を押し殺すことはない。だが、怖れはそうする。人は怖 れに捉われると、実際には危険も脅威もなくても、怖れが頭の中でそれ を現実化してしまい、感情の表現を抑え込んでしまう。他者の反応を恐 れる余り、自分自身の人生に関して決断しなくなる時から、感情の抑圧 が始まるのだ。

*頭はどうして感情を抑圧するような規制をすることになったのですか

 一部は我欲自体から生じ、残りは幼児期からの教育のせいだ。君たち の惑星での教育は、感情を強く抑制するものなのだ。 長い間、君たちの教育方針は頭脳を発達させることを重視し、頭脳そ のものを利用して感情の育成を抑えてきたのだ。子どもたちは、感じた り感情を表現する大きな能力を携えて、在るがままの姿を表現しようと、 心を思い切り開いて生まれてくる。しかし、愛情や喜びや自発性を抑制 され、喜びを味わうたびに罪悪感を覚えるように、小さい頃から愛の代 わりに執着を体験させられてきたのだ。 何世代にもわたって、子どもたちに教えてきたものは何か? 良い子と いうのは言うことを聞く子で、親や教師や大人の意志や、社会の規則や 便宜の奴隷であるということだ。

 子どもがどうしてそうしなければならないのか分からず、その理由を 尋ねた時「父親の私がそう言うからだ」と返答したことがどれほどあろうか? そして両親が不機嫌ならば、子どももそのイライラを我慢しな くてはならない。命令と厳格さばかりで、自由が少ない。 親や大人に聞かずにしたことは、全て悪いことになる。笑うことも、 泣くことも、話すこともいけないことで、親の許可を得ずに黙っても悪 いとされる。「私が認める人とだけつき合い、その人を好きになって、 言う通りにしなさい。お前のためだよ」と言うのだ。 非常に宗教的な社会では、全てが罪悪だ。いかなる喜びの表現や、ハ グやキスといった愛情表現も罪となる。それら全てに、罪深く、卑猥で、 暗く、悪魔的なものを見出し、幸せに感じると罪悪感を覚えなくてはな らない。犠牲者を刑吏に、無実な者を罪人に変えてしまう。

 そのために子どもは、苦しまずに済む唯一の方法は、感情を殺すこと だという結論に達してしまう。本来の自分とは似ても似つかない、他者 が求める自己像を世間に示すことを覚える。そして、社会の規制は余り にも厳しく、演技をし続けないといけないので、大人になると、見せか けてきた自分を本物だと思い込んでしまうのだ。 大半の子どもが大人になった時には、在るがままに愛してもらうこと などなく、ほんの少し愛してもらうためにも必ず何かいいことする必要 がある、という結論に無意識に達してしまっている。 つまり、支配的・条件的・強制的・利己的で偽りの愛である執着を信 じ、無条件で自由で自発的な愛を放棄するように、子どもたちを教育し てしまったのだ。その結果、愛を信じ、愛に生き、そこから湧き出る幸 福をほんの少しでも体験できる人は僅かなのだ。そして、愛がないため に、我欲とそのいとうべき表現形態が我がもの顔でのさばるのだ。

 君たちの世界の悪者の中で、子どもだった時に可愛がられた者は少な い。「父母を敬え」という訓戒があるのに、なぜ「子を敬え」という教 えがないのだろう? 君たちの世界の弊害の多くは、まだ感情に鎧を着せていない子どもた ちを愛せば、解決されることだろう。愛せば、愛を許容するだろう。子 どもたちを一世代にわたって愛せば、世の中は一世紀も経たないうちに 天国へと変わるだろう。

*感情を熟知していても、つまり愛の能力があっても、それを抑制して しまって、感情のない冷淡な人として社会に出る人もいる、と言いたい のですか

 そういうことだ。多くの人は、苦しむのが怖く、愛情不足だという弱 点を見抜かれたくないために気難しい。そしてそのため、鎧兜の中世の 騎士のように、衣や鎧で自分を隠す。 こうして、苦しみたくないということで苦悩する。愛し愛され、幸せ になるために不可欠な愛情を避けるがゆえに、苦しむのだ。 孤独を恐れる人が大勢いるのは、なぜだと思うかね? それは、本当の ところは自分自身と向き合うのが怖く、「自分は空っぽだ」という大き な真実を発見するのが怖いからだ。

 そのため自分から逃避して、多くの頭痛の種をもたらす物質的・精神 的な対象へと逃げ込んだり、頭を過度に刺激する娯楽を求めて、真の回 答には絶対にたどり着けない言い訳とするのだ。そうして、感情の声を 黙らせるほど、頭の声を大きくするのだ。 しかし、良心の囁きを永久に黙らせることは不可能なので、頭脳が油 断をしたり、予定外なことやトラウマとなるような事件が原因で考えら れなくなると、内なる声は再びこう叫び出すのだ。「私は空っぽだ。感 じられないから虚しいのだ。見せかけの自分とは違うから虚しいのだ。 外見とうわべだけになってしまった。自分自身であることを放棄し、愛 し愛されたい存在であることを諦めてしまったので、不幸なのだ」と。 現実を自覚するのは痛みを伴い、衝撃的なこともある。

  この時に多く の者は、事実を覆い隠してしまえば苦しみが軽減し、全てが通常に戻る だろうと間違った思い込みをして、愛情の欲求を放棄してしまったこと をなんとか正当化しようとするのだ。 「人生は僕にこんなに辛く当たった!」「なんて悪い人たちと一緒に なったんだろう!」「両親すら僕を愛してくれなかった!」「なんで僕 がもっといい人にならないといけないんだ?」などと言うことになる。 そして、憤り・恨み・不信・悲しみ・孤独が彼らを内部から蝕む。

 子どもができると、子は弱くなすがままになるので、「人生とはどう いうものか教えてやろう」となどと理由をつけながら、自分のフラスト レーションの復讐をするのだ。この時に、再び愛のない方向へとネジを 締め付けてしまう。

*でも、人生で酷く苦しんだ人が、何の努力の甲斐もない、という結論 に達してしまうのは、良く理解できることだと思います。

確かに人生とはとても厳しいものなので、心で感じようと努力する者 は、他者から理解されずに、多くの障害に遭遇し苦しむだろう。しかしそれは状況による外部からの苦痛で、結果的にその人が感じたり愛せる ようになるとするなら、その価値があるものだ。

 だが愛情を避けようと苦しむのは、自分自身が生み出す内部の苦悩で、 感情や愛を進歩させることには役立たない。全くその反対なのだ。 人は苦痛に浸りきってしまうと、他者にも痛みを味わわせていいよう に感じてしまうし、自分が与える損害を考えてみようともしないので、 多くの苦悩と苦痛を生み出してしまうことがある。

*でも、人は苦しみに慣れてしまうと、苦痛が全く普通のことに思える のです。多くの人が「苦しみを乗り越えられるだろうか、愛すことがで きるだろうか」と自問するではないですか。

 しかし私は、「僕が経験した苦しみは全て、もう沢山だ。自分にも他 者にも、もう結構。少しは人生が分かったよ。自分がされて苦しんだこ とは、他の人にはしないようにするぞ。父母に求めて貰えなかった愛の 全てを、僕は、自分の子どもや近親者や人生に現れる全ての人に与える ぞ」と言う人はいないものかと思うのだ。 変わろうという意志と感情の力によってのみ、人生というものは逆転 し、憎しみの連鎖を断ち切れるのだ。こうして、固く締められていたネ ジは緩み始め、愛のない方向へ回されたネジは一つまた一つと反転して 行き、最後には完全に引き抜かれるのだ。 苦痛を感じ愛のない状態にいる人の全てが、このような決断をしたと したら、世界は一世代で変わるだろう。

  両親から愛された子どもは、保 身の鎧を被らない世代であり、愛されて育てられたので、愛すことを恐 れない世代となる。 前に言った通り、愛せる能力とは、魂が生まれ持った資質である。そ のため、誰もにその能力がある。それを発見し、発達させることだけが 必要なのだ。そうだと信じれば、そうなるのだ。そしてすでに言ったよ うに、これは、他者を愛すことだけではないのだ。つまり、自分自身を 愛すことから手がけねばならない。

*でも、自分を愛するとはどういうことですか。

  もう説明したよ。自分自身を愛するというのは、自分の愛情の欲求と 感情とを認め、人生の牽引力となるように、それらを発展させることだ。

*それなら、自分自身を愛すのはいいことなのですね。

  もちろんだとも。自己を尊重することは、幸せになるために欠かせな いのだ。 もう一度くりかえそう。人が放棄しなくてはならないのは我欲であっ て、愛ではない。自分自身を好きでなければ、どこから他者を愛すため に必要となる力と意志とを引き出すのかね? 愛さずに生きるというのは、死んでいるも同然だ。そのため、愛さず に生きている多くの人たちが、死んだら苦悩が終わるのではないかとい う幻想を抱いていて、死にたいと思うのだ。そうして自分たち自身で、 君たちが病気と呼ぶ、肉体の自己破壊の過程を開始するのだ。多くの病 気は、その人が自分自身を愛せないことから生じる。 自己尊重レベルのとても低い人たちが、白血病やリンパ種などの免疫 系の病気や自己免疫疾患に罹りやすい。自己免疫疾患というものは、根 深い罪悪感にも関係している。その人たちは非常に気落ちしているため、 他者に捧げるのは難しい。先ず初めに、自分の尊厳を回復しなければな らない。

*では、自分自身を愛すには、どのような手順を踏んだらいいですか。

  最初に、自分に愛情の欲求と感情があることを認め、それらが表出す るがままに委ねて、自覚を高めていくのだ。つまり、それらを抑制する のを止め、代わりに発展させることで、人生の原動力へと変えるのだ。 次に、行動する際には、気持ちに基づいて行い、思考によらないこと。 教えられたことでも、それが気持ちに反するならば、正しくはないのだ。 あまたの理由に左右されてしまう思考に、君たちの感情が抹殺されるの を甘んじてはならない。

*多くの人が、その価値があるのかと悩むだろうと思います。

  価値があることは請合おう。感情に従って行動していくにつれて、愛 だけが与えてくれる内面の真の幸福を、少しずつ体験し始めるからだ。 また、こうして霊的にも進歩できる。感情は絶対に放棄してはならな い。それは努力し生きる甲斐のある、唯一のものだ。 最初は、ネジが固く締められているので一番難しい。ネジが緩み始め るまで、非常に努力せねばならない。しかし、その後で道は楽になり、 経験していく感情が君たちの心を(もちろん、愛で)満たし、それまで 味わったことがなかった気持ちにしてくれるので、継続する力を与えら れるだろう。

*では、他者を愛すにはどうしたらよいのでしょう。

  他者を自分と同様に見なすのだ。彼らも、同じ内面的な必要性を持っ た同じ本質の兄弟なのだ、と自覚するのだ。我々は皆、同じ資質を持ち、 幸せであるには、完全に自由に愛し愛される必要がある。

  もう一度くりかえそう。人が放棄しなくてはならないのは我欲であっ て、愛ではない。自分自身を好きでなければ、どこから他者を愛すため に必要となる力と意志とを引き出すのかね? 愛さずに生きるというのは、死んでいるも同然だ。そのため、愛さず に生きている多くの人たちが、死んだら苦悩が終わるのではないかとい う幻想を抱いていて、死にたいと思うのだ。

 そうして自分たち自身で、 君たちが病気と呼ぶ、肉体の自己破壊の過程を開始するのだ。多くの病 気は、その人が自分自身を愛せないことから生じる。 自己尊重レベルのとても低い人たちが、白血病やリンパ種などの免疫 系の病気や自己免疫疾患に罹りやすい。自己免疫疾患というものは、根 深い罪悪感にも関係している。その人たちは非常に気落ちしているため、 他者に捧げるのは難しい。先ず初めに、自分の尊厳を回復しなければな らない。

*では、自分自身を愛すには、どのような手順を踏んだらいいですか。

  最初に、自分に愛情の欲求と感情があることを認め、それらが表出す るがままに委ねて、自覚を高めていくのだ。つまり、それらを抑制する のを止め、代わりに発展させることで、人生の原動力へと変えるのだ。 次に、行動する際には、気持ちに基づいて行い、思考によらないこと。 教えられたことでも、それが気持ちに反するならば、正しくはないのだ。 あまたの理由に左右されてしまう思考に、君たちの感情が抹殺されるの を甘んじてはならない。

*多くの人が、その価値があるのかと悩むだろうと思います。

  価値があることは請合おう。感情に従って行動していくにつれて、愛 だけが与えてくれる内面の真の幸福を、少しずつ体験し始めるからだ。 また、こうして霊的にも進歩できる。感情は絶対に放棄してはならな い。それは努力し生きる甲斐のある、唯一のものだ。 最初は、ネジが固く締められているので一番難しい。ネジが緩み始め るまで、非常に努力せねばならない。しかし、その後で道は楽になり、 経験していく感情が君たちの心を(もちろん、愛で)満たし、それまで 味わったことがなかった気持ちにしてくれるので、継続する力を与えら れるだろう。

*では、他者を愛すにはどうしたらよいのでしょう。

  他者を自分と同様に見なすのだ。彼らも、同じ内面的な必要性を持っ た同じ本質の兄弟なのだ、と自覚するのだ。我々は皆、同じ資質を持ち、 幸せであるには、完全に自由に愛し愛される必要がある。

  全く反対のことなのに、言葉不足のせいで、感情という同一の単語を 使用してしまったからだ。混乱を招かないように、もう一度その概念を 明確にする必要があろう。 前に、感情に委ねなければならないと話した時は、愛から生まれる感 情に言及していたのだ。これらはもちろん、常に肯定的だ。区別できる ように、「愛的感情」と呼ぶとしよう。 我欲から生まれるもの、または愛と我欲の葛藤から生じるものは、否 定的な感情で「エゴ的感情」と呼べる別物であり、違う方法で扱う必要 がある(それは後で話そう)。「エゴ的感情」の意のままに行動するの は、他者に多大な弊害を与えるので、確かに避けるべきだ。 どちらの場合にせよ、感情を抑圧しても碌な事がない。自分の内部を 傷つけるだけだ。

*「エゴ的感情」についてお話し下さいますか。

 「エゴ的感情」は我欲が具現したものなので、虚栄心・自尊心・尊大 について話した時に、その幾つかは扱っただろう。だが、執着心のよう に複雑で理解が混乱するものを特にもっと深く掘り下げて、今からそれ らを見てみよう。 以下が最も重要なものだ。

A) 強欲・貪欲・淫乱・憎悪・攻撃性・羨望

B) 執着・独占・嫉妬・怒り・恨み・無力感・色欲・罪悪感・怖れ・ 悲しみ

*これらは七つの大罪を思い出させますが、関係はありますか

  確かにこれらに翻弄されれば、尊重されるべき「愛の法則」や「自由 意志の法則」に反する数多くの罪を犯すことになるだろうが、これらは 罪ではなく我欲の顕現形態なのだ。

*どうして二つのグループに分けたのですか。

  最初のものは、より原始的な我欲の形態だ。 二つ目も我欲が顕現したものだが、感情というものを言わずもがなに 認識しているという要素が付加されている。

*より正確なイメージが持てるよう、「エゴ的感情」の一つ一つが何か ら成り立っているのか定義して下さいますか。

  よろしい。強欲と執着から始めよう。執着は強欲から発展した形態な ので、まとめて分析するとしよう。


(P134~P146)


 

(作者あとがきをご覧ください)

 https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 

 ♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。




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アドロニスが語る ”宇宙のダウンロードは、どのように分かるか?”

2019-09-16 21:49:23 | 宇宙

 コンシャスネス  メタフィジックス通信より転載しました。

アドロニスが語る ”宇宙のダウンロードは、どのように分かるか?”

スピリチュアルな情報をダウンロードする

あなたが自分の真実を模索し、自分自身を洗練させる道のりを歩いていると、ごく日常的に、インスピレーションや啓示を受け取るようになります。それがダウンロードです。もちろん、これはあなたが大いなる変容のプロセスにいる時にも起こります。ダウンロードを受け取る時には、ちょうどアハ体験のような感覚が起こります。ダウンロードの瞬間、あなたの動きは止まり、あなたは自分の中心にセンタリングし、グラウンディングします。あなたはハッとして、「そうか、分かったぞ」となるのです。

 

参考: アハ体験 (心理学) by Wikipedia

ダウンロードをいつ受け取るか、前もって知ることが出来るのでしょうか?答えはノーです。だからこそ、ダウンロードと呼ばれるのです。受け取ろうとして準備できるものではありません。ただ自分をオープンにしていてください。そうすれば、適切な時にやって来ます。

 

・・・・・・・・・・

ダウンロードを受け取る時、あなたはタイムラインをジャンプする

たとえば何か疑問に思っていることがあるとしましょう。それに対するアハ体験は、突然やって来ます。ダウンロードの際、何が起きるかと言うと、あなたのエネルギーフィールドが貯水池のように大きく広がり、そこに情報をチャネルするのです。

この時、あなたは文字通り、ひとつの現実から別の現実へ、シフトを経験します。ダウンロードを受け取り、アハ体験が起きる時、実はあなたはタイムラインを移行しているのです。そのダウンロードをかわすことは出来ません。それはちょうど、スピリチュアルな情報の滝に打たれるようなものです。あなたの全身がスピリチュアルなインスピレーションで洗われるのです。この情報が、あなたを古い現実から新しい現実のタイムラインへと移行させます。

 

・・・・・・・

ダウンロードは、どのように分かるか?

ダウンロードの瞬間、物理的な感覚を感じる人もいるでしょう。体に衝撃のような感覚があるかも知れませんし、温かさを感じるかも知れません。ちょうど、電気ショックのような感覚です。

もちろん、あなたたちは毎秒、常に絶え間なく、ひとつの現実から別の現実へとシフトしています。けれどもダウンロードに関しては、2つのタイムラインの間を移動するようなものです。

ダウンロードを受け取り、新しいタイムラインへ移行すると、古いタイムラインにいる時に予測したことは無効化します。新しいタイムラインでは、これまでの予測とは異なる新しい体験があり、新しい人々が人生に現れるからです。新しい考えやアイデアに触れ、新しい望みも生まれます。ですから、自分に対しても新しい理解や予測が必要になります。新しいタイムラインに移動する度に、あなたは新しくなるのです。

現在、タイムラインを移動する人が非常に多く、しかも頻繁であるため、他の誰もあなたの未来を完全に予測することは出来ません。けれども、本来の自分の性質に従っていれば、ダウンロードは常に起こります。それは、あなが自分にとってより自然で、真実の道のりを歩む助けとなるのです。

Experiencing A Download | The Adronis Archive by Brad Johnson New Earth Teaching on YouTube

 

 


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💓エンジェルナンバーに導かれて(92) 宇宙は霊的な世界

2019-09-16 13:19:31 | エンジェルナンバー

宇宙は霊的な世界

 

 

9月9日(月)

今朝は台風の影響で暴風雨の中でしたが、宇宙からのエネルギーは同じように来ていました。それはちょっとびっくりしました。早朝に風が凄くて、目覚めてしまい起きていましたが、エネルギーは9時ごろまで続きました。

922は、あなたには生まれてきた意味を問うような、大事なお役目があります。間違いなくあなたがその道を進むことで、あなたに必要なものは全て与えられます。それはこれからだけでなく、今までもそうだったのです。

https://niconicohappy.com/angelnumber922/

 

9月10日(火)

宇宙からのエネルギーは今朝もやって来てくれました。

そして昼食後の昼寝の間もやってきてくれました。いつもありがとう!寝ている時がやっぱりわかるみたいですね。笑

♬昼寝のあと、また喫茶店に行き「魂の法則」の続きを読みました。行く途中のナンバーです。

2は、信じる心と前に進む勇気を持ちましょう。あなたの祈りはまだ現実として見えなくとも、形になりつつあります。

 https://niconicohappy.com/angel2/

は、アセンデッドマスターがあなたの傍にいます。あなたの祈りに応え、あなたをサポートしたいと思っています。

 https://niconicohappy.com/angelthree/

5115は、あなたの内面の変化が、あなたの人生に良い影響をもたらしています。今の気持ちを大切にして、どんどん明るい気持ちを放っていきましょう。

https://niconicohappy.com/angelnumber5115/ 

 

1001は、あなたの人生は、あなた自身によって作られていることを忘れてはいけません。また今の時期は、ポジティブな思考と前向きな行動を取るよう心がけてください。

 https://niconicohappy.com/angel1001/

 

5151は、あなたが望むことを考えれば、望む現実が、あなたが望まないことを考えれば、望まない現実があなたの元にやってきます。どうぞあなたが望むものだけに意識を集中させてください。

 https://niconicohappy.com/angelnumber5151/

 (♬本を読んでいる時に、違うことが思い浮かんできました。ですからいつものように、マスターに集中できるようにサポートをお願いしました。)

1188は、あなたの元に豊かさと成功の波が押し寄せています。これは、あなたが楽観的な気持ちと共に前向きな思考を持ち続けた結果です。

https://niconicohappy.com/angel313/ 

 

は、あなたは生まれ持った才能や情熱、興味を生かして人々に尽くすことを求められています。

https://niconicohappy.com/angel9/

 

 

515は、思考によって、あなたは良い方向へも悪い方向へも人生を導くことができるのです。望む未来が欲しければ、あなたが望むことだけに意識を集中させてください。

https://niconicohappy.com/angel515/ 

 

♬「魂の法則」を読んで、喫茶店をでてから見たナンバーです。


333は、アセンデッドマスターたちがあなたを見守っています。あなたは一人ではありません。彼らはあなたと共にいて、あなたを愛し、導いてくれています。

 https://niconicohappy.com/three3/

 

331は、あなたの考え方、心の持ち方を明るいもの、前向きなものにすれば、自ずとあなたの世界はあなたにとって喜ばしいものになります。

 https://niconicohappy.com/angelnumber331/

 

1717は、あなたは、正しい道を歩んでいます。その結果は、あなたの予想をはるかに超える素晴らしいものになるでしょう。

 https://niconicohappy.com/seventeen/

 

は、この変化によって、あなたの人生はさらに良いものになっていきます。また、目で見えるものだけでなく、自身の心境の変化など内面に関わることである可能性もあります。

 https://niconicohappy.com/angelnumber5/

2828は、あなたに豊かさが流れ込んできています。あなたはお金について悩み、祈っていたのかもしれません。願ったことは現実になるとあなたが信じ続けた結果が、今まさにやってきているのです。

 https://niconicohappy.com/angelnumber2828/

 

は、天使たちがあなたの傍にいます。そしてあなたを見守り、支え続けてくれています。悩み事があれば、彼らに語りかけ、委ね、癒してもらいましょう。

 https://niconicohappy.com/angel4/

 

2222は、すべては上手くいっています。願いは叶うと信じていてください。奇跡が起こるのを待っていてください。心配はいりません。

 https://niconicohappy.com/two3/

 

4440は、今あなたは天界との繋がりが強くなっています。そのため、天からの導きも天使たちを通じてしっかりとあなたの元に届けられています。安心して彼らに身をゆだねてください。

 https://niconicohappy.com/angelnumber4440/

 

 

9月11日(水)

今朝も宇宙からのエネルギーは来てくれています。毎日ありがとう!

5550は、あなたに人生の転機が訪れています。人生の中の何かがすでに変わったか、これから変わろうとしています。そしてその変化が起きた際は、恐れを抱くのではなく、ありのままに受け止めましょう。

https://niconicohappy.com/angel5550/

3636は、アセンデッドマスターたちは、あなたにスピリチュアルな行動を生活に取り入れることを提案しています。自然の中を散歩してみたり、祈りや瞑想の時間を作るのも良いでしょう。

https://niconicohappy.com/angelnumber3636/

(♬本当にそうでした。出かける前に少し洋裁の事を考えてコピーもしましたから。笑 当分できそうにないですね。もちろん自由意志は尊重されるのですが、私の望みが叶うことからは、遠くなりそうですから。) 

1000は、神は今、あなたを導いています。アイディアやひらめき、洞察などを通して、あなたを正しい道へと誘って(いざなって)います。

 

 https://niconicohappy.com/angel1000/

は、考えることを一度ストップしてみましょう。

 https://niconicohappy.com/angel1/

 

8008は、あなたの夢が叶うよう、あなたがより豊かな生活を送れるよう、神があなたに力添えをしています。

 https://niconicohappy.com/angel8008/

 

511は、あなたの世の中に対する考え方や見方がプラスに変化しつつあります。

https://niconicohappy.com/angel511/ 

 

8181は、あなたは今、思考のコントロールに成功しています。その兆候として、アファーメーションがあなたの経済状況に良い影響を与えています。

 https://niconicohappy.com/angel8181/

 

1515は、あなたの思考は今急速に実現に向かっています。意義のある人生の変化が訪れようとしています。

 https://niconicohappy.com/fifteen/

 

818は、あなたの人生の中の何かが終わりを迎えようとしています。人生の中に問題を抱えている人は、やがてそれが解決されます。

 https://niconicohappy.com/angel818/

 

1114は、思考の選択に細心の注意を払ってください。叶えたいことだけに思考を集中し、叶えたくないことに関心を向けないようにしてください。

 https://niconicohappy.com/angel525/

(♬私にはもっとも重要な内容です。つい、思ってしまいますから、そんなときには、「今の思考は訂正して、消去します。」あるいは「今の思考は手放します」といって、その思考を中止します。)

117は、あなたは今、何事も前向きにとらえ、とても明るい気持ちで人生を歩むことができています。

 https://niconicohappy.com/angelnumber117/

 

 

 9月12日(木)

今朝は、起きた時には宇宙からのエネルギーは遠くなっていました。昨夜雷がすごかったので、エネルギーは来ていなかったと思いました。

♬午前中に「魂の法則」を投稿しました。この内容を読んで、私の経験と全く同じことが書かれていて嬉しくなりました。私への後押しのような気持になり、天界が私に勧めてくれたのがわかりました。


5050×2回 神をあなたの思考の中心に置きましょう。天界の人々は、あなたがこの変化を起こすことを願っています。

https://niconicohappy.com/angel5050/

1122×2回 希望に溢れたイメージを持ち、楽天的な気持ちを添えてください。特に将来のことに関しては、ポジティブなことをイメージしてください。あなたには理想を形にする力があるのです。

https://niconicohappy.com/angel512/

 

7788は、今、あなたに経済的な豊かさが向かってきています。内なる叡智に耳を傾け、それに従いましょう。

https://niconicohappy.com/angel7788/

 

222は、あなたの中に芽生えた思考が現実になりつつあります。あなたはもう少しで、その兆しを知ることになるでしょう。奇跡が起こる直前で足を止めてはいけません。

https://niconicohappy.com/angel222/

 

33は、あなたの周りを大勢のアセンデッドマスターたちが取り囲んでいます。そして彼らはあらゆることに対してあなたに力を貸してくれています。彼らはあなたの祈りに応え、あなたが使命を全うできるようサポートしています。

https://niconicohappy.com/angel33/

 

99は、この数字は、スピリット界からの緊急メッセージです。『ライトワーカーよ、使命に向かって動き出してください。』

https://niconicohappy.com/angel99/

 

8118は、あなたに経済的な豊かさがやってきています。あなたの前向きな思考、そして創造的なアイディアや行動によって、豊かさを引き寄せることに成功しました。

https://niconicohappy.com/angel8118/

 

5511は、あなたのプラス思考やアファーメーション、前向きな姿勢などが、あなたの人生に良い影響を与えています。 あなたの人生がより素晴らしくなるような、大きな変化が生まれています。

https://niconicohappy.com/angelnumber5511/

 

2525×2回 あなたの人生の中の何かが良い方向へ変わろうとしています。この変化があなたに最善の結果をもたらすと信じてください。そして心を未来への信頼で満たし、これまでのやり方を手放しましょう。

https://niconicohappy.com/angel2525/

 

♬ 夜10時過ぎに、宇宙からのエネルギーが来ました。そしてその後に見たナンバーです。

2227は、あなたが頭の中で描いてきたことが、現実になりつつあります。自分の目でそれを確認できるまで止めてはいけません。現実化の5分前に足を止めてはいけません。

https://niconicohappy.com/angel2227/ 

 

♬今日は、神を思考の中心に、変化がやって来ます、現実になるまでアファメーション、ビジュアライゼーションを続けるように、そしてポジティブに変化することを、思考するようにでした。~~~「魂の法則」を読んで投稿するのを続けるつもりです。

そして、寝る前にベランダから、天界へ話しかけました。そして、見たナンバーです。


103は、あなたは今、アセンデッドマスターたちによってサポートされています。

彼らはあなたの願いが実現されていくように、あなたの内側をより良い状態へと導いてくれています。

あなたの意思をさらに強いものにしてくれたり、あなたの考え方をプラスの方向に運んでくれています。

心配することはありません。

あなたにはアセンデッドマスターという心強い助っ人たちがついているのですから。

どう進んだら良いかわからない、どうしても行動に移せない。

そういう悩みがある人もいるかもしれません。

しかしどんな悩みでも構いません。

アセンデッドマスターたちに祈り、彼らを頼ってください。

彼らはあなたが頼ってくれることを心待ちにしています。

一人で抱え込まずに、どんどん助けを求めてください。

 https://niconicohappy.com/angelnumber103/

(♬この内容はとてもうれしかったです。一抹の不安が心をよぎる時もありますからね。エンジェルナンバーやアセンテッドマスター達の事がよくわかる内容だと思いました。こんな風に助言や気づきだけでなく、頼ってお願いをすることも、大切なのがお分かりいただけると思います。小さな悩みも大きな悩みも、そうして話していけば、心に直観がきますから。)

 

9月13日(金)

今朝も宇宙からのエネルギーが注がれている中、目覚めました。そして声は久しぶりに早口の祝詞をあげるような感じでした。言葉はまったくわかりません。こうして私は多くの存在からの応援を得ているのだと思います。有難うございます!

5555は、あなたに重大な変化が訪れています。その変化はあなたにとってとても意義深いことです。サナギの姿から飛び出して、あなたにふさわしい人生を手に入れましょう。人生の転機を心から楽しみましょう。

 https://niconicohappy.com/five-2/

 

 (♬一つのナンバーだけでしたが、内容がジワーっときました。)

9月14日(土)

今朝も宇宙からのエネルギーの中目覚めました。ありがとう!

そして魂の法則を2つ投稿しました。

 

 

 

9月15日(日)

今朝も宇宙からのエネルギーが当てられている中、目覚めました。少しばかり眠いのですが、他は快適です。いつもありがとう!

 ♬今日は「魂の法則」の中の愛の法則について下書きをしましたが、投稿前の確認は明日にする事にしました。

 私にとっても、非常に意味のある内容でしたから、自分の中で消化したいと思いました。今日初めて私は「宇宙は霊的な世界である」と認識したのです。宇宙は何もないように見え、果てしない空間だけの世界のように見えるのですが、霊的な存在がいることは、私にも少しづつわかっていました。この地球を取り巻くもの、そして太陽系の中、銀河の中、またそれらを繋いでいる空間にも、果てしない程の霊的な世界が広がっているのです。それは一方ではまだ未知の世界ですが、こうして沢山の情報を心に刻んできて、見えてきたのです。

 私達人間もその霊的な存在であるはずで、それはDNAに刻まれており、それらを思い出す事を、止められた人間になっていたのです。それらを克服するのには、すべて波動を高くもつ事なのです。ですからこの私に、以前のようにして、社会の真実から遠ざかるようにと、何度もナンバーでも知らせてきたのでしょう。真実を知る事は、実は通り道であり、それは無駄なことではありませんでしたし、現在もその手法はいきています。

 私達人間はこれから愛をもっと知り、望むように生きて行く世界が来るのでしょう。そして霊的なものを感じ取れる人間になるには、なにを最初にするといいのか、それは自分の内側に入るということ、その意味は自問自答のようであり、自分を良く知ること、自分の感情すべてを知りそれを恥じるのではなく、認める事にあるようです。そして持っている過去の辛い経験を手放して、心を軽くして行く事が大切なのだと思います。それに宇宙の存在と繋がることは、自分の心の中で宣言するだけなのです。

 

 

8080は、あなたはこれまで光の導きに従い、成功に向かって一生懸命努力してきました。あなたが頑張ってきたからこそ、あなたに多くのものを授けることができるのです。

https://niconicohappy.com/angel8080/

 

212は、天使たちがあなたを導き、サポートしています。あなたの思考の中に宿るアイディアやひらめきに注意を払ってください。そしてそれらがあなたをより良い世界へ導くものであると信じてください。

https://niconicohappy.com/angel212/

 

808は、神があなたに豊かさを授けています。あなたに必要なものはすべて与えられます。両手を広げ、それらをすべて受け止めてください。

https://niconicohappy.com/angel808/

(♬創造主よ、いつもありがとうございます。私に豊かな心持ちをくださって何よりも嬉しいです。人はいくつになっても心の豊かさが授けられるのですね。)

7777は、あなたの守護天使たちがとても褒めていますよ。これまで一生懸命努力してきたあなたにご褒美があるそうです。そう、ついに!あなたの望みが叶います!!

https://niconicohappy.com/number7777/

911は、あなたが頭の中で考えていることが、どんどん現実になっていきます。特にあなたの使命やスピリチュアルに基づいた仕事について考えを巡らすときは、ポジティブな捉え(とらえ)方をすることが大切です。

https://niconicohappy.com/angelnumber911/

(♬何でもかんでも現実になるという考えは、3次元的なものです。5次元の世界を知れば、それは”愛”に基づいたものです。)

111は、エネルギーの通り道が開きました。あなたの思考はすばやく現実のものとなります。

https://niconicohappy.com/one5/

(♬天界からのギフトにより、私に素敵なことが起こっています。)

5055は、これはあなたが願っていたことに対する天からの応えです。あなたの願いが形になり実現されていくために必要なプロセスなのです。天使たちもあなたの変化を見守り、導いてくれています。

https://niconicohappy.com/angelnumber5055/

(♬天界に心の中で話しかけたことの、応えが「魂の法則」だったのです。私が身近な事で思い悩んでいた事への大きな応えがここにありました。そして、心のつかえがなんなく降りていきました。今日まで私が少しづつ納得できるように、導かれたのです。)

 

  夜11時頃にシャワーを浴びていると、凄い音が聞こえてきました。そそくさと浴室から出て、ベッドに入ると、その凄い音はいつものエネルギーではなくて、頭の左上にいつも聞こえている、(機械的な音、飛行機に乗った時聞こえてくる機内での音)がいつもよりも大きな音になって、聞こえてきました。それで私は何かみえるかもしれないと、カーテンを開けたのですが、残念ながら雨が降っていました。

疲れていたので、そのまま朝まで寝入ってしまいました。

 

宇宙の導きはシンプルです。

宇宙の霊的なギフトは、宇宙を信じる事で誰にでもやってくるでしょう。

今日も読んでいただきありがとうございます。ではまた。


http://massa0216.blog.fc2.com/blog-entry-186.html

Risultati immagini per 秋のコスモス


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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~愛の法則 (part 1)

2019-09-16 10:32:37 | 魂の法則

 https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

 

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~愛の法則 (part 1)

P110~P133

(P110~P133)

第四の法則: 「愛の法則」

• 魂の目的は、自身の自由な決断で、無償の愛の経 験を通して、幸福になることである。

• 愛なくして進化はなく、愛なくして叡智はなく、 愛なくして幸福はない。

• 愛は、霊的宇宙を調和し躍動させる力である。

 

 

*くりかえし、「愛の法則」と言われていますが、あなたにとって愛と は何ですか。

 愛は広義では、他者のことを自分自身のことのように感じる能力だと 定義される。

*でも、愛は実在するものですか、それとも単なる抽象的な概念なので しょうか。

 愛は実際に存在し、「生命の本質」または「魂の素」の強い振動とし て顕れ、霊的次元からメンタル・アストラルを経て物質次元へと、全て の存在次元に伝わる。 愛の顕現は、エネルギー的には最高の振動エネルギーで、星の光のよ うに最も明るい光となる。この振動・愛の波動は、光のものと同様に、 伝送し知覚することが可能だ。

*愛として、具体的に経験できるものは何ですか。

 人は真の愛を体験すると、充足して完全な幸福を感じ、えも言われぬ 波動と力と感覚で満たされる。そしてもうそれ以上、他には何も必要と しなくなる。愛に感化された魂は、他者を自分自身の一部のように感じ るので、他の人にも愛の至福を伝え、幸せになる手助けをしたいと望む。 愛に満たされると、アストラル体の振動が高まるので、オーラは非常 に大きくなり、さらに輝きを増す。愛の度量が大きければ大きいほど、 その人の波動は高くなり、伝送可能なエネルギー量も増える。

 人が愛す時には、この愛の波動を相手に伝えているのだ。受け手が敏 感であれば、熱くはないが温かい強いエネルギーが波のように押し寄せ る感覚と、体中を巡る波動を感じる。それは、魂の気孔の一つ一つを満 たすように、自分の一番奥深い隅々まで行き渡り、ぞくぞくさせ、平和 と調和の雲に包まれている感じにさせる。 このように内面が安定した状態では、人は楽観的で朗らかで、寛いで いて冷静で、自分自身の問題はそれほど深刻ではないと理解するのだ。

*お話を聞く限りでは、とても神秘的な体験のようです。僕たち人間に、 どの程度達成可能なものか分かりません。

 手は届くのだが、君たちは非常に物質的になっているので、愛を直接 与えたり感じたりする感受性に欠けている。ドリルが音を立てている脇 で、ラジオを聴こうとするようなものだ。 

 そのため大半の人は、愛を感じるというよりも、愛がゆえになされる 行為を評価する。もっとも、一体何が人をそう駆り立てているのかが理 解できていないのだが。

*愛がなぜ、「魂の法則」なのですか。

 魂の内部に、そう刻まれているからだ。魂は、幸せになるために愛を 必要とする。愛が欠如すれば、魂は、根っこから引き抜かれた花のよう に枯れてしまう。 「自由意志の法則」で、魂が幸せでいるために自由が必要だとしたら、 「愛の法則」では、魂が幸せでいるには愛すことが必要となる。これら 二つの法則を統合すれば、魂は幸せでいるためには自由に愛すことが必 要となる、と言えるであろう。

*魂の幸福のために愛が必須であるなら、皆が愛せるように生まれつい ていないのはなぜですか。

 愛せる能力というのも、魂が自分の進化において、独自に発達させな ければならない能力の一つなのだ。説明した通り、魂の火種は、創造さ れた時点で無数の能力を秘めているのだが、それらを発達させる必要が あるのだ。その一つが愛せる能力だ。愛すという能力を発展させること は、魂の進化の工程にとって最も重要な目標である。愛は、霊的宇宙を 調和し躍動させる力である。

*愛はどのように、宇宙の調和に影響するのですか。

 我々霊的な存在は皆、愛の所業によって存在しているのだ! 愛は、創 造しようとする衝動の全てを養う力である。 愛は、宇宙の魂の連帯を支える基礎となるものだ。愛に感化された魂 は、宇宙の全ての生命の進化を手助けし、愛から溢れ出る至福を誰もが 体験できるようにと願う。本当のものと永続的なものは、愛の基盤にの み構築できるのだ。

               

愛 VS 我欲

 

*愛せるようになるために、最初にするべきことは何ですか。

 愛すためには、自分自身でいなくてはならない。そして自分自身でい るためには自分を知らなければならない。 他者を愛したければ、自分を知り、自分を愛すことから学びなさい。 自分自身を愛せない者には、他者を愛すことができない。

*でも僕は、他者を愛すためには自分自身を放棄しなくてはならない、 と理解していたのですが。

絶対にそんなことはない。君がしなくてはならないのは、我欲を放棄 することだが、感情を放棄することではない。 君たちは、愛とエゴとを混同しているので、愛についての概念が、間 違ってしまっているのだ。自分を愛すというのは、自分が他者より優れ ていると思い込み、利己的な気まぐれを満たすことに専心することでは なく、自分の情緒的な必要性や感情を認めて、それを人生の原動力とな るように発展させていくことだ。

 だからこそ私は、真に愛すためには、自分自身を知ることが非常に重 要だと言っているのだ。自分を知るということは、感情と思考とを区別 できることを意味し、感情から生まれるものと我欲から生まれるものを 認識できることだ。

*それでは、愛と、愛ではないものをどう区別するのですか。

 愛は、その最高の顕現において、無条件でなければならない。本当に 愛する者は、何の見返りも期待しない。私益で行動する者は、本当には 愛していないのだ。 愛は自由でなければならず、そうでなければ愛ではない。人を強制し て、愛すように仕向けることはできない。 愛したいと願う者は、自我を放棄することも望まねばならない。愛と 我欲は、お互いに両立し得ない正反対の概念だ。エゴとは実際には愛の 欠如なので、エゴを放棄しなければ愛せない。愛すことを学ぶというの は、我欲からの脱却を学ぶに等しい。愛す能力を高めれば我欲は減少す るが、その逆も、また然りだ。

*魂はどうやって、愛すことを学ぶのですか。

 それは、長い時間をかけて進歩させてゆく永続的な工程だ。魂は、人 間の段階になる前に学び始めるが、愛に関して新しく学ぶことは尽きな いので、この工程も決して終わることがない。 話すことを学ぶ時のように、他者との絶え間ない相互作用による以外 には、愛を発達させることができない。 魂がほとんど成長していない初期の段階では、自分より進化している 存在から受ける愛を情緒として体験する。それを快く感じるのだ。また、 愛の欠如、すなわち自分のようにまだ愛すことができない者の我欲も体 験する必要がある。これは不快ではあるが、愛の欠如と愛の存在を認識 して両者を区別し、愛の実在を評価できるようになるので、自分の感情 を発達させるための刺激とはなる。 つまり、魂は、愛せるようになる前に、愛の送り手として手本を示し てくれる、自分より進化した者の愛の受け手として、感受性を磨く。ま た、愛の欠如という手本を示してくれる、自分と同等、あるいはもっと 利己的な者とも共存しなければならない。このような相互作用を総合し て、魂は最初に情緒を、それから感情を、成長させることができるのだ。

 魂が他者からの愛を認識できるようになるのは、愛の送り手になる準 備が整った時だ。最初に初めての愛情が芽生えるのは、自分を愛してく れた人(通常は家族の一員)に対してであり、自分に利己的な態度を取 った者には敵対心を抱き、関わりを持たなかった人は何の関心もないた だの人となる。この段階での魂は、愛すと情熱的であるが、愛を失うと 報復的で恨みがましい。 魂は、より進化した次の段階では、苦しみ自体が愛とは相容れない否 定的なことだと気づく。そしてもはや、自分を傷つけた者に害を与える ことを望まず、被った痛手を賠償させる手段であった復讐を放棄する。 この段階を、進歩した条件付きの愛、と呼べるだろう。

 そのうち魂の理解力と感受性のレベルがかなり高まると、自分を憎み 蔑んで、耐え難い苦痛を与えた者たちも含めて、この世の全ての存在を 愛す、という大きな飛躍を遂げる準備が整う。すなわち、イエスのよう な進化した存在たちが「汝の敵を愛せよ」と言って伝道したのと同じ、 無条件の愛に達する最終段階に入るのだ。 もちろんこれは一朝一夕にできることではない。最初の段階から最終 段階に到達するには、途方もない歳月が必要となろう。

*理解できるように、これらの段階を要約していただけますか

 いいだろう。この道程は継続的なものだと言ったが、良く理解できる ように、以下の段階に分けてみよう。

1.愛の受け手としても、送り手としても鈍感。

2.愛の受け手として部分的に敏感であり、送り手としては鈍感。

3.愛の受け手として敏感で、送り手として部分的に敏感(条件付きの 愛)

4.受け手としても送り手としても、とても敏感(進歩した条件付きの 愛)

5.受け手としても送り手としても、完全に敏感(無条件の愛)

 

*情緒と感情の源泉となるものは何で、両者はどう違うのですか。 

 魂は進化の初期の段階では、情緒を感じることしかできないが、通常、 このような情緒は、外界からの刺激に反応しているに過ぎない。 情緒の感知力は、人間以前の段階から発達し始めている。実際、犬や 牛や馬やイルカなど、多くの高等哺乳類が、様々な形でかなり深い情緒 を感じたり表現したりしているのを、認めることができるだろう。 情緒を感じる体験を重ね、決断をする際に情緒に配慮するようになる につれて、魂は感情を発達させ始める。感情は、情緒の進化した形態、 と考えてもらって良いだろう。

*情緒と感情の違いと、両者の関係を、より詳しく説明いただけますか。

 情緒の継続時間は短く、一般的には、外部または内部の何らかの刺激 によって誘発される。 感情はもっと長く続き、魂により深く根ざしており、外界からの影響 を受けるとは言え、外部の誘因が必ずしもその原因ではなく、魂自体の 意志による。 感情と情緒は緊密に結びついている。感情は、情緒を呼び覚ますこと が可能だ。感情は、情緒を湧き出させる内なる泉のようで、その意味で は、情緒は感情の表現形態の一つである。また、外界からの影響で感じ られた情緒は、特に感情に影響し、感情を起動させたり抑制する刺激剤 となる。 最も発達した感情は、愛である。無条件の愛の感情を体験するに至る と、それは永遠に尽きない感情なので、それを目覚めさせたり育てるた めに外界からのいかなる刺激も必要としなくなる。

*情緒や感情は、魂のどの部分で生まれるのですか。 

 愛の情緒や感情は、霊体で生まれる。 利己的な情緒や感情は、霊体で感じ取られるものの、エゴ的な要素は メンタル体で付加される。

*お話が分かりませんが、利己的な感情や利己的な情緒とは何ですか。

 利己的な姿勢から生まれる、否定的な感情や情緒だ。実際には、利己 的な態度は思考であるので、頭で生まれる。

*それでは、感情と思考は、別々の源から生まれるのですか。僕はこれ まで両方とも、頭脳の産物だと思っていました。

 それが実は、同じ源ではないのだ。 感情は魂(霊体)から生まれ、思考は頭脳(メンタル体)から生まれ る。

*我欲は頭脳で生まれ、愛は魂で生まれるということでしょうか。

 そうだ。今言った通り、利己的な情緒や感情は霊体で感じ取られるが、 エゴ自体は頭脳で生まれるのだ。

*その点を明らかにして下さいますか。どうしてエゴが頭脳から生じて、 そういう利己的な感情や情緒は魂で感じられるのか、分からないのです。

 もちろんだ。ガラス張りの丸屋根の下で懐中電灯をつけている人を思 い描いてみよう。 屋根のガラスが透明ならば、懐中電灯が発する光も、外から内部に入 る明かりも、ガラスを通って変化することはほとんどないだろう。しか し、丸屋根のガラスが透明ではなく不透明だとしたら、内部から外部へ 出る光も、外から丸屋根の中に入る光も、そこを通過することで屈折し てしまう。 懐中電灯を持った人は霊体に相当し、ガラスの屋根はメンタル体に相 当する。丸屋根の不透明さが我欲を象徴している。

 利己主義は、他者の感情や情緒(入ってくる光)をそれらが霊体に届 く前に変化させてしまうので、その捉え方が変わってしまうだけでなく、 霊体から生じる感情や情緒(発信される光)やそれらの表現の仕方さえ も変えてしまい、頭脳を通過する際の利己的要素にまみれたままで、他 の人に受け取られてしまう。

*愛と我欲の関係が、人間の本質にどう作用するのか、まだ良くイメー ジできません。一体なぜ人は、愛することも利己的になることもできる のですか。この点を、どうか明らかにして下さい。

 ああ、もちろんだ。人間というものが玉ねぎで、芯に愛という光を放 つ魂を持っていると想像してみなさい。 中心の光の発信元は何重もの層に包まれていて、その各々が少しずつ 光の進行を妨げるので、全部の層に覆われてしまうと、外に出て行く光 はほぼ完全に遮られてしまう。 これらの層の一つ一つは我欲を表しているのだが、最終的に愛という 光を輝かせ、その最高の表現が可能になるように、序々に取り除かれて いかねばならない。層を除去していくにつれて、内部の光(愛)は外に 出易くなる。

 一番外側の層は、最も原始的で表面的な我欲に相当する。それは、虚 栄心である。中間層は自尊心であり、一番内側のものは尊大である。 人はそれぞれ、我欲を消去する工程の様々な地点にいる。 地球に住む魂の大半は、最初の層の幾つかを除去できたに過ぎない。 中間層の何枚かを取り除くことに成功した者もいるが、我欲の最も深層 部を排除する過程にいる者は僅かである。 この工程は連続的なもので種々様々なレベルの魂がいるとは言え、大 きく三つのグループに種分けしてみることができる。 層の除去段階に従って、親切で見栄っ張りな魂、寛大で気位の高い魂、 愛情深く尊大な魂に分けられる。

*なぜ、肯定的な形容詞と否定的な形容詞の二つを使って分類するので すか。

 分類によって、魂の利己的な部分を際立たせるのではなく、各段階の 魂が発達させている資質も認めるようにしたいからだ。最初の形容詞は、 魂が愛の育成に努める際に到達可能な代表的な資質を表し、二番目の形 容詞は、魂の我欲の段階を示している。 虚栄心に満ちた者は大変親切になれ、自尊心の強い者はとても寛大に、 また尊大な者は、自我に打ち克ち感情のために戦おうとする時には、と ても愛情深くなれるのだ。 我々一人ひとりの中に我欲が存在することを認めて、それを自覚して 克服するために定義づけをすることは、何も悪いことではない。 魂にとって悪いのは、自我の存在を認めようとしないことだ。つまり、 本当に愛し真に幸せになるために除去すべき利己的な部分を全員が持っ ている、という現実を認めないことである。アルコール中毒者が自覚しない限り治療できないのと同様に、認めないものを克服することはでき ないので、我欲を認識できないと霊的に停滞してしまう。

*あなたが、虚栄・自尊・尊大と呼んだ我欲の三つの顕現形態のそれぞ れの特徴について、さらに詳しく説明して下さいますか。

 いいだろう。虚栄心・自尊心・尊大という風に、最も低俗なものから 巧妙なものへと、少なくとも三つの形態に我欲を分類することが可能だ。 我々は、通常の会話の中でこの三つの言葉を頻繁に使用しているが、 これから見ていくように、霊的な概念はずっと幅広く奥深く、多くの面 で通常使用する意味とは異なっている。これからその一つ一つを定義し て、顕現形態を分析してみよう。

*虚栄心とはどういうもので、どんな顕れ方をするのでしょうか。

 虚栄心は我欲の最も原始的な形態だ。これは、若い魂と、知的面では 充分進歩したにも関わらず、感情面ではまだ初心者の魂に特有なものだ。 虚栄心の最大の特徴は、自分本位なことだ。特に自分が必要とするこ とや基本的欲求を満たすことに熱心で、他者の必要性にはほとんど、あ るいは全くというほど関心を示さない。多くの場合に、他者の自由意志 を侵害していることには気づかず、自分の自由意志ばかりを優先しよう とする。 見栄っ張りな人は自分が中心であろうとして、他の人たちから注目さ れることを望む。愛をほとんど知らないので、真の愛とおだてとの違い が良く分からない。愛よりも要求が多い。

 それゆえ、人間関係では、愛 され愛すことよりも、知名度や賞賛や賛美を求め、おだてられたり自分 の要望が叶うことを好む。 見栄っ張りな人は常に自分と他者とを比較し、いつも人よりも上位に 立とうとする。能力や物的面で自分より下だと見なした者を馬鹿にした り蔑むことが多く、自分にとって有益だと思う人を過剰に賞賛する。 常に自分の利益を優先し、不公平な行動を取ることが多い。

 そして、 利己的な行為をカモフラージュしようと、しょっちゅう事実を曲げる。 感情が未発達なので自分自身に不満を覚えることが多く、孤独になるの を極端に嫌う。 他者を大いに必要とし、自分の必要性のみならず趣味や気まぐれまで を満たそうと、しばしば相手を操り思い通りにするので、周囲の人を肉 体的にも精神的にも隷従させてしまうほどだ。しかし、期待する満足感が得られなければ、直ぐにその人間関係に飽きてしまう。そのため、家 庭では伴侶や子ども、仕事では部下などの弱者を、自分の影響下から逃 れられない所有物のように見なし、蹂躙することがしばしばである。

 自分に値すると思っていた注目が得られない場合には、被害妄想や攻 撃、脅しや嘘など、思いつく限りの策を弄し、いかなる手段や代償を払 ってでも、注意を引こうとする。 この欠点が顕著に顕れると、そのネガティブな息詰まる波動で周りの 人びとが消耗してしまうので、虚栄心というものを知らず、どう扱って いいのか分からなければ、長時間我慢できる人など滅多にいないだろう。 これが、彼らには知人は多いのに、余り友人ができない理由だ。誰も 何もせず自分だけがどれほど頑張っていることか、としょっちゅう自慢 するにも関わらず、努力が要ることには直ぐに飽きて、他者に責任を負 わせようとする。

 私心なく人にさりげなく尽くすことは稀で、いつもそれを誇示し、一 般的に自分の行為以上の返礼を見返りに求める。見栄っ張りな人は、善 い人になるつもりはなく、そう見せかけようとしている。

*それなら、そんな人が余りいないことを願いますよ。

 実のところ、人類の四分の三はまだこの初期の進化段階にあり、君た ちの世界の政治家層の一番の欠点が虚栄心なのだ。もっとも、自認でき ること自体がより進歩していることになるので、今話したことが自分に 当てはまると言う人はいないと思うがね。君たちの惑星がこんな状態な のも、そのせいだ。

*そんな風に利己的な人と暮らすのは、耐え難いでしょうね。

 このようなものや、もっと目立たないエゴから、君自身が無関係だと でも思っているのかね? 進化していない人と一線を画そうとして、理解 しかねると言い切ること自体に、君自身の我欲がチラついている。 虚栄心の段階は、その後の自尊心と尊大という段階と共に、完全性へ の道程において、全ての魂が一つ残らず通過しなくてはならないものだ。

 これらの段階を超えられた者は、ある時点で自分の欠点に気づき、克 服の努力をしたのであり、高次の人の見習うべき手本のお陰で、それを 成し遂げることができたのだ。進化した魂たちが自分たちだけで前進し て、進歩の遅い同胞を見捨てたとしたら、一体どんな愛を育んでいると 言えるのだろうか?

 このように露骨な説明をしてしまうと、大変手厳しく思えるだろう。 しかし私には、誰かを差別したり除外する意図はなく、君たちが虚栄心 という我欲の形態を理解し、その知識を自己改善に役立てるよう望んで いるのだ。

*この場合は、虚栄心になって顕れる我欲のことですが、魂は、自分の エゴをどのように自覚して、克服していくのですか。

 通常は、自分と似たレベルの者の利己的な行為を、身を持って痛感す ることによる。「霊的裁きの法則」(♬”愛の法則の”後に投稿する予定です。 )は、他者の行為を通してであろうと、 各人を自分の行為と向き合わせ、自己改革のために最大の恩恵が得られ るようにする。 魂は実際に苦しむことで感受性を高め、特に自分と似通った状況を経 験した他者の苦悩を、より敏感に感じ取れるようになる。その者に対し て芽生える連帯感は、愛の萌芽なのだ。

*魂は、自分の行為が生み出した苦悩を必ず実体験して、それらの行為 が他者に有害であった、と学ばねばならないのですか。

 いや、自分の行動が他者に与えた害を自覚でき、自分の過ちや他者の 経験から学ぶことができれば、理解したことになるので、その必要はな い。しかしそのためには、感受性や愛が充分に発達していなければなら ない。なぜなら、愛がある場合にのみ、他者の気持ちを苦悩も含めて、 自分のことのように感じられるからだ。 初歩段階の魂の場合は、自分の利己的な行為を自分自身が味わって苦 しんだ方が、速く進歩することができる。一方、愛を育むことができれ ば、自分の過去の体験や他者の体験を理解することで、もっと速く進歩 できるのだ。

*理解によって、虚栄心を克服するにはどうしたらいいのですか。

 最初の一歩は欠点を自覚することで、その次は態度を是正することだ。 自分の欠点を認識したからと言って、それが表面化しないようにでき る訳ではない。自覚し認めるだけではなく、我欲に従った行動を避け、 その言いなりにならずに気持ちに従って決断するなら、我欲は次第に力 を失い、最終的には克服されるだろう。自覚すれば、虚栄心がどういう ものかを深く認識でき、それがどのように自分に顕れ、何によって増長 されるのかを知ることができる。

 幸せになるためには周囲の注目の的となるのが重要で、皆から褒めた たえられたりちやほやされて、喜びや贈り物や注目を山ほど貰うのがい い、と信じることで、虚栄心は増大する。 虚栄心は、幸せになるためには、物であろうと人であろうと身の周り の全てのものを所有する必要がある、と自分にも他人にも思い込ませる ように現実を変えてしまう傾向となって顕れる。 虚栄心は、進路にある全てのものを吸い込む掃除機みたいに自分に溜 め込みはするが、持っているものを何一つ評価しない。それは、見たと ころ世界一素晴らしくそれなしには幸せになれそうにないおもちゃを買 ってくれと、地団太踏んで親に要求する子どものようだ。だが、おもち ゃを手に入れると、何分とも遊ばず、直ぐに飽きて壊してしまう。

 したがい、感情を呼び覚ます努力をせず、自分の気まぐれを満たすこ とばかりに夢中でいる限り、彼らは常に不満・空虚・不幸であり、他者 から愛されてもそれが分からず評価もできない。 自分自身の努力や意志によって成し遂げることでなければ、それを本 当に理解して評価することも楽しむこともできないが、虚栄心の強い者 は、何に対してもほとんど努力をせず、他人が自分のためにしてくれる のを望む。 目的を持った場合には、外見的・物質的・表面的なものが多く、魂の 内面的目標であることは滅多にない。

 見栄っ張りな者は、自分で火を起こすのが面倒なので、いつも隣人の 焚き火で暖を取る人に似ている。常に他人に依存し、自分自身では何も しない。自分に独自の火を起こせば、他人に頼って暖まる必要はない。 この火は、霊的次元では愛の炎であり、魂を慰め暖め、進歩して本当に 幸せになる力を与える。

*でも、幸せになろうとして成功を求める人は大勢いますが、彼らに言 えることはありますか。

 自分自身を偽っていると言いたい。成功は虚栄心を満足させるが、感 情にとっては落とし穴となる。幸福を勝ち取る唯一の方法は、自分を愛 で満たすことだ。

*理解を通して虚栄心を克服するにはどうするべきかを、短くまとめて いただけますか。

 いいだろう。虚栄心の強い者が欠点を克服する第一歩は、幸福は外部 にあるのではなく、内面次第なのだと理解することだ。

 

我々全員が学ぶべき大切な教訓は、 真の幸福とは、他者が自分を愛す かどうかで決まるのではなく、自分が愛せるかどうかによるということ だ。だから幸せになりたければ、他者が自分を愛してくれるのをがむし ゃらに求めるのを止め、自分自身の感情を目覚めさせるようにしなさい。

*見栄っ張りな人にはどう助言して、自己進化に役立ててもらいますか。

 他者の賞賛や慈しみ、成功や信任を得ることでは、絶対に幸せになれ ない。 自分の人生に不満足で、孤独感や虚無感があるとしたら、不幸の原因 を外部に探さないことだ。原因は外にあるのではなく、自分の中にある からだ。 満ち足りることは絶対にないので、他者の火で暖まろうとしてはいけ ない。他者が君のためにしてくれたりしなくなることに自分の状態が左 右されないように、自分自身の炎を起こしなさい。 利己主義は脇に置いて愛しなさい。内面の虚無感を満たす唯一の方法 は、無条件に愛すことなのだ。

*今言われたことは、前に話されたことと矛盾しているようです。他者 から愛されることを放棄したとしたら、どうして自分を愛せるのでしょ う。

説明が良くなかったかもしれない。愛されるのを放棄する必要はない。 間違ったやり方で幸せを求めている、と言いたいのだ。天秤の片方の皿 にだけ重りをかけて、均衡を保つように要求しているのだ。

*どういう意味かがはっきり分かりません。理解できるように例を示し て下さいますか。

 良いだろう。世界にある全ての愛を分配するために、全人類を巨大な 広場に集合させたとしよう。 そして先ず「愛が欲しい人はいますか」と聞くのだ。すると、100% の人が「僕だ、僕だ。最初に僕だ。僕が最も必要としている」と訴えな がら手を挙げることだろう。 しかし次に「愛を与えようという人はいますか」と聞けば、広場は直 ぐに空っぽになり、手を挙げようと居残る者は僅かだろう。 分与できるものは何か? 少数の者が与える愛だけだ。 これが君たち人類に起こっていることで、大半は愛を受け取るつもり しかないので、世界を支えているのは僅かな者の愛なのだ。しかも大半 の者は、愛を受け取っているのではなく、主に我欲を満足させているだ けなのだ。

 我々は主体性に欠け、愛が外からやって来るのを待っているのだ。外 部からの愛が、あたかも魔法のように我々に達して幸せにしてくれて、 秘薬のごとく何をする必要もないと思い込んでいるのだ。

 しかし、必要なものを全て受け取っても、受身であり続けて我欲を克 服しようと努めないのであれば、内面の全てを与えて君を愛してくれる 存在が現れても、「まだ足りないよ。僕はまだ幸せではない。もっと愛 してもらう必要があるよ」と言うだろう。そして、絶対に内面の虚しさ を満たすことができないので、もっともっと、と要求するのだ。 くれたものは決して評価せずに、貰っていないものばかりにこだわる。

 人生のどんなに些細な障害であろうと、文句の口実となる。朝起きた時 に、曇り空なら寒いとぼやき、天気が良ければ暑いと愚痴るのだ。 これは、幸福の求め方が間違っているからなのだ。自他に対して能動 的に呼び起こす愛のみが、空虚な感覚を満たすことができるのだ。それ ゆえ、幸せになるためには、愛を受け取るだけではなく、愛を与える必 要があるのだ。

 *虚栄心の問題に戻りますが、虚栄の段階にいる全ての人に同じ特徴が あるとは言えないと思うのですが。

 同じ特徴ではなく、虚栄には様々な段階がある。 虚栄の初期の段階では、我欲は、強欲(自分の持っているものを他者 と分かち合いたくない)、貪欲(他者を犠牲にしてもどんどん欲しが る)、羨望(自分が欲しがる物的なものを持つ人を拒絶する)といった、 より原始的で物質的な顕れ方をする。

 魂が感情面を認識して進歩した次段階では、物質的な利己心は、霊的 なものへと変化する。この段階での魂は、まだ我欲にしがみついてはい るが、同時に感情も発展させ始めている。まだ愛を与えようとはしない が、愛の存在を認知し心地よいと分かっているので、愛を受け取ろうと する。 強欲が執着(特定の人からの思いやりや愛を他者と共有したくない) に変わるのはこの時で、貪欲は独占(皆が自分だけに注目して優しくし てくれるのを望む)に変わる。一方、羨望はもっと上手く化けて、自分 にはないが欲しいと思う美徳を持つ人たちに対する反感へと変わる。

 感受性が強くなって正義の概念はもっと発達するものの、我欲から離 れられていないため、損得が絡むと、故意に自分の得になる不公平な行 動を取ることが多く、自覚している分だけ余計に罪深いと言える。

*根本的にどのように進歩すれば、虚栄心の段階を克服したと言えるの ですか。

虚栄と自尊とを区別する主な進歩は、魂の愛を目覚めさせることであ る。 虚栄心の強い者は一方的に愛を受け取るだけだが、自尊心の強い者は、 もう愛の送り手となれる魂である。それは、かなりしっかりと主体的に、 本当に愛すことができる能力を獲得したことを意味する。

*虚栄心の強い者は愛すことができない、または愛を体験したことがな い、ということですか。

 もちろんそうではない。全ての魂は愛すことができる。実際、自尊心 のレベルに達した魂は、全てがそれ以前に、虚栄心の段階を経ている。 また当然のことながら、一夜にして愛の発信者となったのではなく、 愛の炎を灯すか消すかという、感情の発露とエゴとの葛藤が長く続いた 期間があったのだ。 虚栄心の強い者の炎は弱く、絶えずついたり消えたりをくりかえす。 感情面で努力する確固たる意志に欠け、利己的な気まぐれを満たすこと にまだ一生懸命なので、炎を育むことに力を注がないのだ。

 別の言い方をすると、虚栄心の強い者がまだ自分の炎を灯せず活性で きずに、他者の火で暖まろうとする一方で、自尊心の強い者は、すでに 自分の内面に炎を起こす方法を発見している。また、その火が力強く燃 える時に生じる真の愛の片鱗を認識し経験したことがあるので、より鮮 明な体験ができるように、確固たる意志で炎が消えないように努力して いる。

*魂はどうやって、自分の火を起こす方法を学ぶのですか。

 自分自身の体験と、進化した魂たちを手本にして学ぶのだ。 虚栄心の強い魂は、通常、身近に転生した愛の送り手となるもっと進 化した魂によって、手ほどきを受ける。それは自分の伴侶であったり、 父親や母親、息子や娘、兄弟や姉妹などの家族である。多くの場合、他 者が自分に尽くすことに慣れ切っている進化の遅い魂は、その時点では 与えられていることを自覚できずに、もっともっとと要求し...遂に は失う羽目になる。

 その時になって失われた愛を懐かしみ、かつての愛を再び味わいたい と願い、愛されていたのに評価できなかったことを自覚し認識し始める。 この欲求によって、自分をそれほど愛してくれた人たちに対する最初の 感情が芽生え、それが以後の転生に持ち越される。つまり、人が愛を与 えられるようになるには、最初に愛を受け取れなければならない。 要求ばかりしていた魂は以後の転生では、自分より進化の劣った者と 身近に共存する体験を課され、過去に他者に求めたのと同じように要求 されるであろう。

 こうして、他者の利己的な行為の中に自分のエゴを認 識し、自分自身と向き合うことになるのだ。 この学習は、愛の受け手または送り手という、主な役割を転生ごとに 交代しながら、数え切れないほど継続することもある。送り手として与 えれば与えるほど、受け手として受け取れるようになる。 愛の道を歩むのか、それとも我欲の道を続行するかは、魂の意志次第 なのだ。

*虚栄の段階を超えた魂は、他にはどんな進歩ができたことになるので しょうか。

 虚栄心から充分に解放され、完全に自尊の段階に入った魂が成し遂げ たことを大まかに説明しよう。それは、しっかりとした愛の送り手にな り、感情を理解できる魂になったことで達成できたものだ。 先ず、正義の概念がもっと進歩している。自尊心に達した人は、外見 的なものよりも本物で公正なものに気づいている。一般的に気位の高い 者は、より公平に行動する。不平等になりそうな場合は、自分が得しよ うとはぜず、他者が被るであろう損害も考慮して決断する。 もはやちやほやされたいとは思わず、真に愛され愛すことを求める。 気位の高い者が獲得した見栄っ張りとは反対の資質は、控えめになる ことであり、目立つことはしようとせずに、公正で寛大であることに満 足を覚える。 自尊心の強い者は、自分が愛する者には寛大である。それゆえ、人間 関係においても注目の的になろうとはしない。百の表面的なつき合いよ りも、一つの本物の友情を望むのだ。

*気位の高い人は、見栄っ張りな人よりも霊的に進化しているので、進 化の仕方も速いということでしょうか。

 そのようなことはない。進化の速度は、我欲から脱却して愛そうとす る、魂の意志と力のかけ方によるのだ。

 自尊心の強い者でも進化が止まってしまって、多くの転生で停滞した ままになることもあるし、虚栄心に満ちた者でも大いに努力して、素早 い進歩を遂げることがある。 だが、感情面の知識や自覚が大きいので、進化した者の方が能力があ ることも確かだ。彼らは進化しようとする意志がより一層固く、停滞す ると苦しみが募るので、その不快感に後押しされて前進する。 多くの転生経験を持つ進化した魂と、まだ若く余り進化していない魂 とを比較することは、七歳の子どもと十五歳の若者に同じ知能検査をし て、その結果の有効性を信じることのように、馬鹿げている。七歳の子 がどんなにIQが高くても、普通は十五歳の方がいい結果を出すだろう が、それは、その子の方が年上で学習にかけた時間が違い、肉体的にも 精神的にももっと発達しているためで、比べることには何の価値もない。

 それゆえ、他者と進化度合いの比較はするべきではなく、自分自身が 前回からどれだけ進歩できたのかを比べるべきだ。進化のレベル差は、 どれだけ速く学んだかだけで決まるものではなく、魂がどれだけの時間 をかけて進化してきたのかにもよるからだ。 霊的な年齢は人それぞれだが、一般的には、古い魂の方が若い魂より も進化している。それは進化にかけた時間がその分長いからだ。 しかしながら、若い魂が大変速く進歩して、自分より年上の魂を追い 抜くという特別なケースもあるし、その反対に、大変古い魂が霊的に長 時間停滞してしまって、もっと若い世代の魂に追い抜かれるということ もある。

*進化レベルと進化速度との違いがはっきりする例を出していただけま すか。

同地点からスタートする二台の車のうち、一台が、もう一台よりも一 時間早く出発するようなものだ。初めは二番目に発車する方が遅れてい るが、もっとスピードを上げれば、いずれ一台目に追い着けるだろう。 走った距離が魂の進化レベルに相当し、速度がその時々の進化のリズ ムだ。

*自尊心の問題に戻りますが、自尊とは何で、どういう顕れ方をするの でしょうか。

 自尊心の強い者の最大の問題は、他者に感謝されなかったり、利己的 に振舞われたり、愛してもらえないことを、なかなか受け容れられないことだ。

 特に、愛情の絆を築いてしまった場合は、そうすることが難し い。 気位の高い者は、自分を愛してくれる者は容易に愛せるのだが、自分 を愛してくれない者を愛すことがまだ難しい。そのため、自分が好きな 者を在るがままに認めようとはせず、その美徳にも抵抗があるが、特に 欠点は認めがたい。 また、自分の考えが間違っているかもしれないと認めるのが、本当に 難しい。 報われない愛、すなわち、どんなに愛しても利己的な態度を改めても らえないことが、我慢できない。

 両親・兄弟・伴侶・子どもなど、非常 に身近な家族の場合は、特にだ。彼らを変えようと自分が努力して変化 を期待するのだが、何も変えられないと絶望し、気落ちして怒ったりす る。 思いやりのあるちょっとした態度を示されると意のままになるのに、 操られていたと気づくと激怒し、その人に恨みを抱く。 表面的には自分の行為の代償は求めていないが、感謝されなければ、 たとえば、相手を助けようと一生懸命やったのにその代わりに殴られた りすると、気持ちをどう整理していいのかまだ分からない。

 そのため、気位の高い者が感謝をされなかったり、失恋したりという 目にあうと、自尊が次々に形をとって顕れる。感情を害されたり傷つい たりすると、自分の殻に閉じこもり、人間関係から孤立する。そして、 怒り・憤り・無気力・意固地・恐れ・罪悪感が目覚める。 自分の奥深い感情を傷つけられるのが怖いので、気持ちを表現するの を恐れ、感情や情緒を隠そうとする傾向がある。憐れみの対象になりた くないので、否定的な感情は抑圧し、弱みにつけ込まれ傷つけられるの が嫌なので、他人に弱さを見せようとしない。

 一方、見栄っ張りな人た ちの嫉妬を買って睨まれたくないので、肯定的な感情も抑制する。肯定 的な感情を抑制しがちなことで、彼らは不幸な気持ちになる。 否定的な感情を抑圧したり隠したりして黙って耐えると、突発的に、 激怒・憤り・怒りなどが爆発してしまうが、その後で罪悪感を覚える。 人を信用せず、いかなる問題も自分だけで対処できると思い込む態度 が、最も他の人たちから孤立させることとなる。

*自尊心が最も有害な形で顕れるとどうなりますか。

 自分には、真に愛されたり愛を受ける価値がないと信じ込んで、愛す ことも無意味だと思うようになる。これは、自分自身で孤立してしまう態度で、寡黙で無気力、臆病、陰気、憂鬱で怒りっぽく、生きる気力の ない人へと変貌させてしまうこともある。

 前に、虚栄心の強い者は愛されてもそれを評価できないと言ったが、 自尊心の強い者は、愛されることを拒んでしまう。だから、どちらの理 由であろうと、その人たちは欠点のせいで、愛されていても愛されてい ると感じられないのだ。 虚栄心の強い者は、愛情を受け取るよりも、自分の我欲を満たしても らうことに夢中だからだ。

 そして自尊心の強い者は、傷つけられるのを 避けようと自分の殻に閉じこもってしまい、どんな愛情ですら受け取ろ うとはしないからだ。 それは子どもの時から、僅かな注意を引くために、あらゆることをす る必要があったためかもしれない。だから、もっといいことはないし、 在るがままに愛されることもない、と自分を納得させてしまったのかも しれない。 そしてどうなると思うかね? 自分が何をするかに関係なく、無条件に 在るがままに愛してくれるという人が現れると、驚いて自分の内に隠れ てしまうのだ。ただ単に信じられないので、拒絶してしまうのだ。

 「僕を利用しようとせずに、愛してくれるなど信じられない。これは きっと罠に違いない。受け入れようと心を開けば、きっとグサッと刺さ れて、もっと苦しむに違いない。だから心を開く甲斐はない」と思うの だ。 こうして幸せになるために必要とされるものがあり、それを評価でき るにも関わらず、気位が高いとそれを拒んでしまう。そして、苦しみた くないと苦悩し、感情を優先しなかったことで苦しむ。

*自尊心を克服するにはどうしたらいいでしょう。

 虚栄心の場合と同じで、最初の一歩は欠点を自覚することで、その次 は態度を是正することだ。 欠点を認識してそれがどのように具現するかの知識を得ただけでは、 その出現を防ぐことはできないが、認識できさえすれば、人生で決断を 下す際に、自尊心に従った行動を回避する助けにはなる。我々が心が命 じるままに決断するとしたら、自尊心は徐々に弱くなり、最終的には制 覇されるだろう。 自覚すると、自尊心とは何か、自分にどのように顕れるか、何がそれ を増長させるのかを深く知ることに繋がる。

自尊心は、恐れ・不信・自己充足から発展し、孤立や感情の抑制とい う形態で出現する。自尊心は、魂の感受性にとっては鎧のようで、難攻 不落の城壁のごとく魂を取り囲み、感情の出入りを妨げる。それゆえ、 この鎧を剥ぎ取る努力をせねばならない。 気位の高い者が自尊心を克服するために最初にするべきことは、自分 には愛される資格はないし本当に愛してくれる人に出会うこともない、 という思い込みから自由になることだ。

 真の相思相愛を求める者は、遅 かれ早かれそれを見つける。似通った魂はお互いを探し求めるし、出会 った時にお互いが分かるからだ。 だが、悪いことから身を守ろうとして扉をピッタリ閉じてしまうと、 固く閉じ過ぎたがために、善いことも経験できなくなるので、辛抱強い 揺ぎない努力が必要だ。危害が及ばないように慎重になるのは良いが、 感情を放棄しては駄目なのだ。

 忘恩を忘恩で返したり、憎しみを憎しみで、恨みを恨みで返すのも良 くない。我々を苦しませることは、他者をも苦しませるからだ。感受性 が発達して苦悩をより良く理解できた者は、自覚がないままに苦痛を与 える者よりも、苦しみを生み出す責任が重い。 すでに言ったが、くりかえしておこう。君たちは独りではないのだ。 我々は一人残らず全員が、神や守護霊やその他無数の霊的存在や友人、 そして肉体の有無を問わず霊的な家族に、深く愛されているのだ。しか もそれだけではない。

 つまり 君たちの一人ひとりには、魂の伴侶である 双子の魂が存在し、それを介して、純粋な無条件の愛の目覚めを体験す るのだ。ただ、そのことを自覚すればいいだけなのだ。

 また、自分を傷つけた恩知らずでも、赦すことを学ばねばならない。 気位の高い者は、まだ気づけていない者を理解する力があるので、かつ ては自分も同じ状態であったと認識すべきなのだ。 同時に、本当の自分自身になる恐れを手放さなくてはならない。 口では愛していると言いながら、従わせたいだけの人が仕掛けた罠か らは自由にならねばならないが、反対の道を選んでもいけない。つまり、 苦しみを恐れて、人間関係で孤立するのも良くない。 愛して欲しいと望むのは悪くはないが、皆の愛の能力が同じではない、 と知っておかねばならない。報われたいがために、親族だからとか一緒 に暮らしているからという理由だけで、相手に自分と同じ強さで、愛し たり尊重してくれるように要求してはならない。

愛情がない場合に、もっと責任が重いのはどちらだろう? 愛すことを 知らずに愛さない者(虚栄心が強い者)か、それとも愛せるのに欠点の ためにそうしない者(自尊心の強い者)だろうか。 自己の自由意志を放棄してしまうことになるのであれば、他者を喜ば せるために過大な努力をしないことも大切だ。相手のまだ目覚めていな い感情を覚醒できると信じて、報われないのに過剰な努力をすると、い ずれ失望や悲しみ、幻滅や苦々しさ、怒りや無力といった形のつけを払 わされる。

 すでに言ったが、真の愛は、何の見返りも期待もせずに無条件に与え るもので、お返しする気のない人や全く与えることのできない人に、愛 を強要できないのだ。

*進化に役立ててもらえるように、気位の高い人に簡潔に言えることは ありますか。

 悲しみや虚しさを感じる時には、自分自身に閉じこもらないように。 感じさえしなければ苦しみが緩和されるだろうと考えて、感情を抑圧 してはならない。そうすればもっと苦しむことになるし、解消できない 不毛な苦悩となるからだ。 考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。他者 を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分 の気持ちに従うこと。 人から傷つけられたことを口実にして、自分の不信感や孤立を正当化 してはならない。自分の感情を利用したいのだと思う者には慎重になり、 誠意を持って近づいてくる者には心を開くのだ。

*人の意のままにならずに、他者を傷つけないようにするにはどうした らいいのですか。

 相手の苦悩が我々の利己的な行為によるものなのか、それともその人 自身の我欲、つまり我々の意思や自由意志を尊重したくないためなのか を知る必要がある。 我々の利己的な行為が原因なら、我々が是正の努力をするべきだし、 相手の我欲のせいなら、苦しみを生み出しているのはその人自身なので、 その人が改善しなければならない。他者のせいで苦しんでいると思って いても、独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。

*でも、その人が変わりたくなければ、どうしますか。

 その人にとって自己改善することが有益であっても、そう強制すれば 本物ではなく自由意志を侵害してしまうので、相手に強要はできない。 そうは言っても、その人に、他の人の意志を曲げる権利がある訳ではな い。だから、自分本位な人の利己的な態度に従わされている人は、自分 の感情や信念を曲げるべきではないのだ。

*たとえば、ある人といざこざがある場合に、相手がその人自身のエゴ で苦しんでいるのか、それとも僕の利己的な態度によって苦しんでいる のか、どうやって見分けられるのでしょうか。

 相手の立場になって、どう感じるだろうか、その状況でどうして欲し いだろうかと分析してごらん。 自分が発信者・執行者となって行おうとしていた行為についての判断 が、その行為の受け手となれば変化するのなら、君の態度に何らかの利 己心や不公正な部分があったということだ。送り手としても受け手とし ても同じ姿勢でいられるのなら、公正に近い判断だ。 でも大抵のケースは様々だ。つまり、両者に利己的な部分があり、双 方が自分のエゴを改めねばならないのだが、自我によらなければ確固と した態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。 最終的には「自分にして欲しくないことは他者にしてはならない」と 「苦悩の原因であり意志の侵害だと知っていることを、他者が、自分や 自分の庇護下の者にしないように尽くせ」という金言に要約できるだろ う。

*よく理解できるように、例をいただけますか。

よろしい、例を挙げよう。教育の一環として子どもを叩く母親を想像 してごらん。子どもに与える肉体的・精神的苦痛を考慮していない母親 によると、それは、子どもを従わせる方法だそうだ。 もし本当にその方針が正しいと信じているのなら、自分が夫に殴られ ることも問題なく容認できるということで、彼女が子どもに使ったのと 同じ論拠を夫が持ち出して正当化しても、承服できることだろう。だが 誰でもそうだが叩かれれば痛いので、彼女はこの状況を苦々しく嘆き、 当然だが非常に苦痛なので、夫が殴り続けることには同意しないであろ う。 この母親は、夫に殴られて痛いのであれば、彼女がそうする時も子ど もは同じように痛いだろうと気づくべきだ。そして現実から学ぶ気があ れば、叩くことは苦痛を生み正当化できないので、それ自体が悪いこと だという結論に達するであろう。

この女性には、どんな解決策があるだろうか? 子どもに対する暴力の 行使を放棄するのだ。そうすることによって、自分自身のエゴを克服し、 力づくで弱者の意志を曲げようと懸命になることもなく、同時に、自分 の自由意志を踏みにじる、暴力的で利己的な夫の支配から逃れることに 力を尽くせるのだ。 攻撃する者がいじめる対象を失って苦しむのであれば、それは相手に 苦しめられているのではなく、他者の意志を力ずくで曲げたいという我 欲を放棄するのが嫌なだけなのだ。

*先ほど、他者を喜ばせようと過剰な努力をしてはならないと言われま したが、誰かを愛すと、その人が幸せでいられるようにあらゆることで 喜ばせてあげようとすることと、矛盾しませんか。

喜ばせてあげればあげるほど愛していると考えるのは、大きな間違い で、善意ある者の多くが陥る大きな罠だ。 愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重 しなければならない。 喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。と、言う のは、誰かの機嫌を取る時に、手を差し伸べる代わりに弊害を与えてし まって、喜ばせたのは相手の我欲だけだった、ということもあるからだ。 しかも、自分の自由を失って、相手の我欲に自分の意志を服従させて 機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。

*手助けと機嫌取りとを、どう見分けるのですか。

 自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばす だけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の 魂の停滞に一役買ってしまう。 真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決できるよう に、支え励ましてあげて、前進できるようにしてあげることだ。

*援助することと機嫌を取ることの違いがはっきりする例を挙げて下さ いますか。

そうしよう。先生に学校の宿題を家でするように言われた同じクラス の二人の子どもをイメージしてみよう。二人ともずっと遊んでいたいし 宿題はうんざりするものなので、しないで済ませようとする。 

一人の父親は、息子が怒らないように、しかも宿題をやらずに学校に 行くという羽目にならないように、自分が代わりにやることにするが、 その間子どもは楽しく遊んでいる。 もう一人のお父さんは、子どもがしばらくの間遊びを止めなくてはな らなくても、子ども自身が宿題をするように、一緒に座って手伝ってあ げることにする。 最初のお父さんは、息子が嫌いな作業をしてあげているので機嫌を取 ってはいるが、宿題は子どもに課された状況であり、その子の学習に必 要なものなので、援助をしてはいない。この父親は、息子が怠惰で依存 的で我がままになり、どんな状況でも自分の問題を解決してくれる人を 求めるようになることに、加担してしまっているのだ。

 二番目のお父さんは自分の姿勢によって、遊びを中断したくない息子 が怒る可能性を冒しているので、機嫌を取ってはいない。だが、子ども が学んで自己責任を受容することに寄与しているので、子どもを援助し ていることになる。

*それなら愛する人を喜ばすのは、いけないことなのでしょうか。

いつも悪いとは限らない。自分自身の自由を犠牲にしてしまう場合と、 相手が独力で超えねばならない試練の肩代わりをして魂の停滞に加担し てしまう場合が良くないのだ。

*自尊心についてに戻りますが、自尊の段階を超えた魂は、どんな進歩 を遂げたことになるのですか。

 魂はもっと自信に満ち、自分の感情を自覚し、幸せに生きるためには 気持ちに従って生きねばならないことを認識している。 自分をありのままに見せることを、以前ほど恐れない。そのため、以 前より打ち解け、明るく、自然で自由で、感情の防壁が少ない。 自分の内にこもらなくなり、感謝をされなくても気にしなくなる。 他人に、より共感できるようになる。 ご機嫌取りに過大な努力を払わない、つまり、人の思い通りにされる ことが少なくなり、簡単に言いなりにならないので、恨みや怒りを覚え ることも減る。 愛しても見返りを期待しなくなる。 心を開いて自分に向けられる他者の愛を感じ取り、心を許して自分の 愛を他者に与える。 否定的な状況にあまり影響されなくなり、以前より受け容れることが できる。 肯定的なことをもっと楽しめるようになる。

(P110~P133)

 

(著者あとがきをご覧ください)

 https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 

♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。


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「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~自由意志の法則

2019-09-14 21:54:04 | 魂の法則

  https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)

「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~自由意志の法則

P87~P92

(P87~P92)

*多くの説明の中で、自由意志を、尊重すべき重要なものとされていま すが。

 その通りだ。

*でも、厳密に言うと、自由意志とは何でしょうか。

 魂が、自分自身でしたいことを決められる能力だ。

*それでは自由意志を尊重するのが、なぜそんなに重要なのですか。

 それが基本となる「魂の法則」の一つで、魂の進化向上の支柱となる からだ。

*では、「自由意志の法則」とは何ですか。

 「魂の法則」の一つで、魂には自分自身で自己の運命を選ぶ自由があ る、とするものだ。

*なぜ、自由意志によって、魂が進化向上するのですか。

 なぜなら霊的な進歩は、本人自身の決断でそれを心に誓った時、つま り何の強制・強要もなく、魂の自由意志で進歩しようと決めた場合にの み、本物となるからだ。

*なぜ、そうなのですか。

 進歩が強いられたものなら、強制または強要していたものが失われる や、魂は元の状態に戻ってしまい、あてがわれた環境には順応できない からだ。

*「自由意志の法則」が「魂の法則」なら、なぜ地上ではこれが適用さ れていないのでしょうか。

 適用されているよ。「魂の法則」は、各魂の真髄に刻まれている。 魂には、常に幸福を求めるように駆り立てる力があって、幸福を追求 することによって進化する。魂は本質的に自由な存在なので、愛がなけ れば幸せになれないように、自由でいられなければ、霊的に完全に幸せ でないのだ。 神が魂に自由でいることを望まなければ、奴隷であっても幸せでいら れるような性質に創ったことだろう。しかし、実際は、全くその逆なの だ。すなわち、魂は、どのような形であろうと隷属していると不幸なの で、自由であるために創造された、と結論づけられる。宇宙のどこでも そうであるように、地球でも、魂は自由なのだ。

*しかし現実には、僕たちの惑星の大半の人は、自由に行動するどころ か、無理をしてやりたくもない事をしたり、そうするように強いられた りしています。

 全くその通りだ。君たちの世界ではそうなのだ。 大多数の住人がほとんど進化していないために、「自由意志の法則」 は、いつも守られることがない。それは、人がまだこの法則を知らない せいか、自由意志を尊重するには我欲の放棄が不可欠なので、故意にこ の法を尊重したくないかのどちらかだ。 霊的学習の狙いの一つに、他者の自由意志の尊重があるが、自分の自 由意志も尊重しなければならないのだ。

*「自由意志の法則」は、もっと進化した他の世界では、住人側から理 解され、尊重されているのでしょうか。

 その通りだ。これは、宇宙レベルの「魂の法則」なのだから。 そして、それらの世界では、他の「魂の法則」と共に、自由意志の尊 重が重視されるがゆえに、君たちのよりもずっと幸せなのだ。

*彼らにこちらに来て、幸せの秘訣を教えてもらえませんか。

 進化した魂は、「自由意志の法則」を理解し尊重し遵守しているがた めに、進歩が少ない魂が住まう世界と関わる時は、特に、この法則に違 反しないように非常に気を遣うのだ。 害を与えるつもりがなくても、関与し過ぎると、進歩の遅れた魂や文 明がより高度なものに依存してしまい、その惑星の進化を停滞させてし まう。 そのため、霊界や高次の世界から下級界に与えられる援助は、いつも とても精妙でなければならず、絶対に要請側の意に反してはならず、そ の自由意志を無理強いしてもならない。それぞれが、支援を受けて成長 したいという意志表示をする必要があるのだ。

*問題の焦点がはっきりしないのですが、分かり易く例を示して下さい ますか。

 いいだろう。高度な世界から地球に人がやって来て、皆がその人の能 力を認めて、地球の政府を明け渡し、全ての問題を解決してもらおうと 決めたと想定しよう。 その出身地では、魂の諸法が理解され、動物を尊重し、その殺傷を禁 じ、菜食主義であったとする。そのため、その人が、そのやり方を模倣 し、狩猟や闘牛、肉の消費などを禁止する動物保護法の奨励を決めたな ら、君たち地球人は、自ら進んでそれを放棄するだろうか?

*どうするか、分かりません。賛同する者も反対する者もいると思いま す。

 どんなに甘く見ても、現状では人類の80%以上が、その方策に反対す るだろう。そして新しい法律の導入を阻止しようと、地球上で、酷く暴 力的な抗議運動や反乱が起きるだろう。 ジレンマに陥った主導者は、どうすべきであろうか? 人民を満足させ るために、自分自身の信念を放棄すべきか、またはその反対に、大多数 が反対しても法律を押しつけるべきだろうか? 最初の選択をすれば、自分の意に反したことを行う必要があるので、 自分自身の自由意志に背くこととなる。二つ目を選べば、民衆の意に反 する法律を課すので、彼らの自由意志に背くことになる。

*それは、解決策のないジレンマですね。

 実は解決法はあって、現にそうなっている。つまり君たちの世界では、 進化した者が統治していない、ということだ。 君たちレベルの世界で、実際に進化した者が政治の要職に就いていな いとしたら、それは単に、君たちの大半が彼らに指導されたくないか、 それとも、その改革案を受け入れたくないからなのだ。そして彼らも、 強制しても無駄なことを知っているので、自分たちの意志を強要しよう としない。 君たちの惑星の歴史では、ある程度正直な者たちが権力の高職に就い て、より良い方向に舵取りをしようと試みたケースが数多くあった。そ れなのに、どうなってしまったろうか? 短い期間しか存続できなかった のだ。周囲の者が、彼らを排除してしまったのだ。 だから進化した魂は、助言を与え、強要せずに手本を示して説得する に留まり、それぞれの人が、納得したものを選ばなければならないとい う訳だ。

*地上に「自由意志の法則」を適用して、進化した世界のように、僕た ちがそれを守ることを決意したとしたら、どんないいことがありますか。

 隷属・強要・抑圧・懐柔・傷害のあらゆる形態がなくなるだろう。 進化した存在は、絶対に他者の生命の権利を侵すことがない。それゆ え、戦争や死刑、殺人や堕胎など、他人の命の権利を侵害する行為はな くなるだろう。子どもや大人への暴力や性的虐待もなくなるだろう。よ って幼児偏愛・強姦・売春や、他者の意志を捻じ曲げたり強要する性行 為 ―特にもっと弱く無防備な場合― の全ての形態が消滅するだろう。

 思考や感情の自由な表現を阻む全てのものが消えるだろう。よって、 検閲、操作、詐欺、弾圧や誘拐も存在しないだろう。 人種・宗教・文化・経済・政治やその他の違いから、他人への抑圧・ 攻撃・統制・暴力を正当化する利己的な宗教・哲学・学説は、どれも消 滅する。それゆえ、人種差別、全体主義、ファシズム、宗教的狂信、軍 国主義、帝国主義、資本主義なども、少数の者の利得がその他大勢の苦 悩の上に成り立つイデオロギーなので、なくなるだろう。 魂を強要して隷属させる形態は、それが物的であろうと精神的なもの であろうと、どれも失敗に終わるだろう。 なぜなら、魂の内面は、隷従させられるものに反抗し、遅かれ早かれ、 自由を求めて全力で戦うからだ。魂の「自由意志の法則」を尊重しない 教義・宗教・イデオロギー・政治及び経済体制の、どれもが不安定で短 命なのはこの理由による。一方、「魂の法則」に基づいたものは、安定 しており永続的だ。 家族の輪の内外を問わず、親が子をまたは子が親を、夫が妻をまたは 妻が夫を、上司が従業員を、強者が弱者を、奴隷化したりや肉体的・精 神的に虐待することは、全てなくなるだろう。 他の生き物に苦痛を与えたり殺したりする趣味や気晴らしは、どれも なくなる。特に高等哺乳類など進化が近い存在に対する、闘牛、狩猟、 釣りや、発展国での畜産など、それをしなければ人間の生存が脅かされ てしまうと反論できないような行為はなくなるだろう。

*でも、法則に従うには、それを知るのが大事ですよね。どうすれば興 味のない人たちに、何らかの形で強要せずに、教えることができるので すか。登校を拒否する反抗的な子どもに、学校に行くよう強制するのと 同じようにする必要はないでしょうか。

 「自由意志の法則」を守るのは、魂が自由に決断することを尊重する ためだ、と言ったばかりだろう。どんなに霊性の高い法則でも、それを 押しつけてしまえば、法則自体に違反することになるので、本質的にそ うできないのだ。 強要するのは、最善策ではない。くりかえすが、押しつけたり強制し て得られたものは、強制力がなくなると、失われるのだ。魂は本来の姿 に戻ってしまい、あてがわれた環境には順応できないのだ。

 輪廻転生をして前世の記憶を忘却するのは、まさしく、魂が自由意志 を経験し、何の規制も受けずに自分の力で進化するためのものだ。その こと、つまり前進するか否かや、進歩するための試練の種類を決めるの は、魂自身の自由であることは、前に充分話しただろう。 君が言った、子どもと学校の例に関しては、霊的に最も進化した教育 の潮流では― それは君たちの世界にも届いているが ―学習を退屈なもの ではなく魅力的にして、強制せずに子ども自身の能力を刺激する方法を 模索している。義務ではなく熱意、それが、子どもが学ぶ一番いい方法 だ。

*それなら、どれが、「魂の法則」を教える正しい方法でしょうか。 

 唯一の方法は、手本を示して説得することで、それが地球に転生した 高次の存在が行ったことだ。 私は、「愛の法則」や「自由意志の法則」、その他の「魂の法則」を 教えるために地上に転生した、イエスや仏陀やクリシュナ、ゾロアスタ ー、アントリオンや、他の神格者など高次の者のことを言っているのだ。 彼らは、法則を個人的に適用した自分自身の生き方で、魂の諸法と協 調した生活の手本を示した。しかし、それを真似するように人を強要す ることは決してなかった。

*イエスの信奉者だとされる人たちには、「自由意志の法則」は、きち んと伝わらなかったようですね。暴力や強制や恐怖を通して、自分の信 仰を、他者に力づくで押しつけたのですから。宗教裁判や十字軍を行っ た、カトリック教会を指しているのですが。

 それは、信奉者たちが、授かったメッセージのレベルに達していなか ったのだ。しかしそれは、イエスやその他の神格者のせいではなく、総 体的に進化が乏しい君たちの世界の我欲のせいで、それが特定の人たち に元は真実であった教えを独占させ、他人を支配し操るために、教え自 体を歪めてしまったのだ。 押しつけたり強要する宗教や信仰は、魂を進化させることなどできな いし、真実だとも、神や高次の霊性と調和しているのだとも考えられな い。「自由意志の法則」を破る者は誰であれ、神の仲介者であろうと、 神の意向に沿う者とも見なすことができないので、時間が経てば、成す 術もなく地上から消えるであろう。しかし、それはかなり大事な話にな るので、別の機会に特別に扱おう。

*でも、高次の存在が関与してくれたにも関わらず、この世界で、物事 が大きく改善されたようには見えないのですが。

幾らかは改善されたよ。過去の時代には、人間が食用に、家畜のよう に飼育されたこともあったが、今の君たちには、嫌悪すべきことに思え るだろう。今日地上では、事実上、人肉食は淘汰された。 合法的な奴隷制度が存在し、全世界で奴隷の売買が行われていた時か らまだ二百年も経っていない。現在では別の形の隷属化が存在するとは 言え、少なくとも合法的な奴隷制は全ての国々で追及され罰せられたの で、法の陰に潜んでいる。 世界ではまだ複数の地域で、宗教上の理由から迫害されることもある が、激しさも残虐性も緩和され、宗教改革以前の欧州では想像もできな かった信仰の自由の権利を保障する法規が、多くの国に存在する。 懲罰の方法としての死刑は、多くの国で廃止された。 国連のような国際組織で、人権宣言憲章が草稿され承認されたことは、 それが実際に遵守されている訳ではないが、蹂躙できない基本的権利に 同意できる進化した魂が、君たちの惑星にも存在するのを示す明確な例 だ。 その中では、自由意志の行使を保障する権利がはっきりと具体的に記 載され、人類の自由意志を侵害するものを阻止する行動を確約するよう、 諸国に要請している。 それゆえこの憲章は、「自由意志の法則」が上手く応用されたもの、 と見なすことができる。十戒の中でも、「殺すなかれ」「盗むなかれ」 のように、自由意志に言及した戒律が幾つかある。 しなくてはならない事がまだまだ沢山あるとは言え、過去の時代の状 況と比較すれば、進歩しているのだ。

(P87~P92)


 

(作者あとがきをご覧ください)

 

https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea

 

♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。

 




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