https://www.uv.es/vguillem/Tamashii_no_Housoku.pdf (日本語訳全文)
「魂の法則」 ヴィセント・ギリェム著~愛の法則 (part 1)
P110~P133
(P110~P133)
第四の法則: 「愛の法則」
• 魂の目的は、自身の自由な決断で、無償の愛の経 験を通して、幸福になることである。
• 愛なくして進化はなく、愛なくして叡智はなく、 愛なくして幸福はない。
• 愛は、霊的宇宙を調和し躍動させる力である。
*くりかえし、「愛の法則」と言われていますが、あなたにとって愛と は何ですか。
愛は広義では、他者のことを自分自身のことのように感じる能力だと 定義される。
*でも、愛は実在するものですか、それとも単なる抽象的な概念なので しょうか。
愛は実際に存在し、「生命の本質」または「魂の素」の強い振動とし て顕れ、霊的次元からメンタル・アストラルを経て物質次元へと、全て の存在次元に伝わる。 愛の顕現は、エネルギー的には最高の振動エネルギーで、星の光のよ うに最も明るい光となる。この振動・愛の波動は、光のものと同様に、 伝送し知覚することが可能だ。
*愛として、具体的に経験できるものは何ですか。
人は真の愛を体験すると、充足して完全な幸福を感じ、えも言われぬ 波動と力と感覚で満たされる。そしてもうそれ以上、他には何も必要と しなくなる。愛に感化された魂は、他者を自分自身の一部のように感じ るので、他の人にも愛の至福を伝え、幸せになる手助けをしたいと望む。 愛に満たされると、アストラル体の振動が高まるので、オーラは非常 に大きくなり、さらに輝きを増す。愛の度量が大きければ大きいほど、 その人の波動は高くなり、伝送可能なエネルギー量も増える。
人が愛す時には、この愛の波動を相手に伝えているのだ。受け手が敏 感であれば、熱くはないが温かい強いエネルギーが波のように押し寄せ る感覚と、体中を巡る波動を感じる。それは、魂の気孔の一つ一つを満 たすように、自分の一番奥深い隅々まで行き渡り、ぞくぞくさせ、平和 と調和の雲に包まれている感じにさせる。 このように内面が安定した状態では、人は楽観的で朗らかで、寛いで いて冷静で、自分自身の問題はそれほど深刻ではないと理解するのだ。
*お話を聞く限りでは、とても神秘的な体験のようです。僕たち人間に、 どの程度達成可能なものか分かりません。
手は届くのだが、君たちは非常に物質的になっているので、愛を直接 与えたり感じたりする感受性に欠けている。ドリルが音を立てている脇 で、ラジオを聴こうとするようなものだ。
そのため大半の人は、愛を感じるというよりも、愛がゆえになされる 行為を評価する。もっとも、一体何が人をそう駆り立てているのかが理 解できていないのだが。
*愛がなぜ、「魂の法則」なのですか。
魂の内部に、そう刻まれているからだ。魂は、幸せになるために愛を 必要とする。愛が欠如すれば、魂は、根っこから引き抜かれた花のよう に枯れてしまう。 「自由意志の法則」で、魂が幸せでいるために自由が必要だとしたら、 「愛の法則」では、魂が幸せでいるには愛すことが必要となる。これら 二つの法則を統合すれば、魂は幸せでいるためには自由に愛すことが必 要となる、と言えるであろう。
*魂の幸福のために愛が必須であるなら、皆が愛せるように生まれつい ていないのはなぜですか。
愛せる能力というのも、魂が自分の進化において、独自に発達させな ければならない能力の一つなのだ。説明した通り、魂の火種は、創造さ れた時点で無数の能力を秘めているのだが、それらを発達させる必要が あるのだ。その一つが愛せる能力だ。愛すという能力を発展させること は、魂の進化の工程にとって最も重要な目標である。愛は、霊的宇宙を 調和し躍動させる力である。
*愛はどのように、宇宙の調和に影響するのですか。
我々霊的な存在は皆、愛の所業によって存在しているのだ! 愛は、創 造しようとする衝動の全てを養う力である。 愛は、宇宙の魂の連帯を支える基礎となるものだ。愛に感化された魂 は、宇宙の全ての生命の進化を手助けし、愛から溢れ出る至福を誰もが 体験できるようにと願う。本当のものと永続的なものは、愛の基盤にの み構築できるのだ。
愛 VS 我欲
*愛せるようになるために、最初にするべきことは何ですか。
愛すためには、自分自身でいなくてはならない。そして自分自身でい るためには自分を知らなければならない。 他者を愛したければ、自分を知り、自分を愛すことから学びなさい。 自分自身を愛せない者には、他者を愛すことができない。
*でも僕は、他者を愛すためには自分自身を放棄しなくてはならない、 と理解していたのですが。
絶対にそんなことはない。君がしなくてはならないのは、我欲を放棄 することだが、感情を放棄することではない。 君たちは、愛とエゴとを混同しているので、愛についての概念が、間 違ってしまっているのだ。自分を愛すというのは、自分が他者より優れ ていると思い込み、利己的な気まぐれを満たすことに専心することでは なく、自分の情緒的な必要性や感情を認めて、それを人生の原動力とな るように発展させていくことだ。
だからこそ私は、真に愛すためには、自分自身を知ることが非常に重 要だと言っているのだ。自分を知るということは、感情と思考とを区別 できることを意味し、感情から生まれるものと我欲から生まれるものを 認識できることだ。
*それでは、愛と、愛ではないものをどう区別するのですか。
愛は、その最高の顕現において、無条件でなければならない。本当に 愛する者は、何の見返りも期待しない。私益で行動する者は、本当には 愛していないのだ。 愛は自由でなければならず、そうでなければ愛ではない。人を強制し て、愛すように仕向けることはできない。 愛したいと願う者は、自我を放棄することも望まねばならない。愛と 我欲は、お互いに両立し得ない正反対の概念だ。エゴとは実際には愛の 欠如なので、エゴを放棄しなければ愛せない。愛すことを学ぶというの は、我欲からの脱却を学ぶに等しい。愛す能力を高めれば我欲は減少す るが、その逆も、また然りだ。
*魂はどうやって、愛すことを学ぶのですか。
それは、長い時間をかけて進歩させてゆく永続的な工程だ。魂は、人 間の段階になる前に学び始めるが、愛に関して新しく学ぶことは尽きな いので、この工程も決して終わることがない。 話すことを学ぶ時のように、他者との絶え間ない相互作用による以外 には、愛を発達させることができない。 魂がほとんど成長していない初期の段階では、自分より進化している 存在から受ける愛を情緒として体験する。それを快く感じるのだ。また、 愛の欠如、すなわち自分のようにまだ愛すことができない者の我欲も体 験する必要がある。これは不快ではあるが、愛の欠如と愛の存在を認識 して両者を区別し、愛の実在を評価できるようになるので、自分の感情 を発達させるための刺激とはなる。 つまり、魂は、愛せるようになる前に、愛の送り手として手本を示し てくれる、自分より進化した者の愛の受け手として、感受性を磨く。ま た、愛の欠如という手本を示してくれる、自分と同等、あるいはもっと 利己的な者とも共存しなければならない。このような相互作用を総合し て、魂は最初に情緒を、それから感情を、成長させることができるのだ。
魂が他者からの愛を認識できるようになるのは、愛の送り手になる準 備が整った時だ。最初に初めての愛情が芽生えるのは、自分を愛してく れた人(通常は家族の一員)に対してであり、自分に利己的な態度を取 った者には敵対心を抱き、関わりを持たなかった人は何の関心もないた だの人となる。この段階での魂は、愛すと情熱的であるが、愛を失うと 報復的で恨みがましい。 魂は、より進化した次の段階では、苦しみ自体が愛とは相容れない否 定的なことだと気づく。そしてもはや、自分を傷つけた者に害を与える ことを望まず、被った痛手を賠償させる手段であった復讐を放棄する。 この段階を、進歩した条件付きの愛、と呼べるだろう。
そのうち魂の理解力と感受性のレベルがかなり高まると、自分を憎み 蔑んで、耐え難い苦痛を与えた者たちも含めて、この世の全ての存在を 愛す、という大きな飛躍を遂げる準備が整う。すなわち、イエスのよう な進化した存在たちが「汝の敵を愛せよ」と言って伝道したのと同じ、 無条件の愛に達する最終段階に入るのだ。 もちろんこれは一朝一夕にできることではない。最初の段階から最終 段階に到達するには、途方もない歳月が必要となろう。
*理解できるように、これらの段階を要約していただけますか
いいだろう。この道程は継続的なものだと言ったが、良く理解できる ように、以下の段階に分けてみよう。
1.愛の受け手としても、送り手としても鈍感。
2.愛の受け手として部分的に敏感であり、送り手としては鈍感。
3.愛の受け手として敏感で、送り手として部分的に敏感(条件付きの 愛)
4.受け手としても送り手としても、とても敏感(進歩した条件付きの 愛)
5.受け手としても送り手としても、完全に敏感(無条件の愛)
*情緒と感情の源泉となるものは何で、両者はどう違うのですか。
魂は進化の初期の段階では、情緒を感じることしかできないが、通常、 このような情緒は、外界からの刺激に反応しているに過ぎない。 情緒の感知力は、人間以前の段階から発達し始めている。実際、犬や 牛や馬やイルカなど、多くの高等哺乳類が、様々な形でかなり深い情緒 を感じたり表現したりしているのを、認めることができるだろう。 情緒を感じる体験を重ね、決断をする際に情緒に配慮するようになる につれて、魂は感情を発達させ始める。感情は、情緒の進化した形態、 と考えてもらって良いだろう。
*情緒と感情の違いと、両者の関係を、より詳しく説明いただけますか。
情緒の継続時間は短く、一般的には、外部または内部の何らかの刺激 によって誘発される。 感情はもっと長く続き、魂により深く根ざしており、外界からの影響 を受けるとは言え、外部の誘因が必ずしもその原因ではなく、魂自体の 意志による。 感情と情緒は緊密に結びついている。感情は、情緒を呼び覚ますこと が可能だ。感情は、情緒を湧き出させる内なる泉のようで、その意味で は、情緒は感情の表現形態の一つである。また、外界からの影響で感じ られた情緒は、特に感情に影響し、感情を起動させたり抑制する刺激剤 となる。 最も発達した感情は、愛である。無条件の愛の感情を体験するに至る と、それは永遠に尽きない感情なので、それを目覚めさせたり育てるた めに外界からのいかなる刺激も必要としなくなる。
*情緒や感情は、魂のどの部分で生まれるのですか。
愛の情緒や感情は、霊体で生まれる。 利己的な情緒や感情は、霊体で感じ取られるものの、エゴ的な要素は メンタル体で付加される。
*お話が分かりませんが、利己的な感情や利己的な情緒とは何ですか。
利己的な姿勢から生まれる、否定的な感情や情緒だ。実際には、利己 的な態度は思考であるので、頭で生まれる。
*それでは、感情と思考は、別々の源から生まれるのですか。僕はこれ まで両方とも、頭脳の産物だと思っていました。
それが実は、同じ源ではないのだ。 感情は魂(霊体)から生まれ、思考は頭脳(メンタル体)から生まれ る。
*我欲は頭脳で生まれ、愛は魂で生まれるということでしょうか。
そうだ。今言った通り、利己的な情緒や感情は霊体で感じ取られるが、 エゴ自体は頭脳で生まれるのだ。
*その点を明らかにして下さいますか。どうしてエゴが頭脳から生じて、 そういう利己的な感情や情緒は魂で感じられるのか、分からないのです。
もちろんだ。ガラス張りの丸屋根の下で懐中電灯をつけている人を思 い描いてみよう。 屋根のガラスが透明ならば、懐中電灯が発する光も、外から内部に入 る明かりも、ガラスを通って変化することはほとんどないだろう。しか し、丸屋根のガラスが透明ではなく不透明だとしたら、内部から外部へ 出る光も、外から丸屋根の中に入る光も、そこを通過することで屈折し てしまう。 懐中電灯を持った人は霊体に相当し、ガラスの屋根はメンタル体に相 当する。丸屋根の不透明さが我欲を象徴している。
利己主義は、他者の感情や情緒(入ってくる光)をそれらが霊体に届 く前に変化させてしまうので、その捉え方が変わってしまうだけでなく、 霊体から生じる感情や情緒(発信される光)やそれらの表現の仕方さえ も変えてしまい、頭脳を通過する際の利己的要素にまみれたままで、他 の人に受け取られてしまう。
*愛と我欲の関係が、人間の本質にどう作用するのか、まだ良くイメー ジできません。一体なぜ人は、愛することも利己的になることもできる のですか。この点を、どうか明らかにして下さい。
ああ、もちろんだ。人間というものが玉ねぎで、芯に愛という光を放 つ魂を持っていると想像してみなさい。 中心の光の発信元は何重もの層に包まれていて、その各々が少しずつ 光の進行を妨げるので、全部の層に覆われてしまうと、外に出て行く光 はほぼ完全に遮られてしまう。 これらの層の一つ一つは我欲を表しているのだが、最終的に愛という 光を輝かせ、その最高の表現が可能になるように、序々に取り除かれて いかねばならない。層を除去していくにつれて、内部の光(愛)は外に 出易くなる。
一番外側の層は、最も原始的で表面的な我欲に相当する。それは、虚 栄心である。中間層は自尊心であり、一番内側のものは尊大である。 人はそれぞれ、我欲を消去する工程の様々な地点にいる。 地球に住む魂の大半は、最初の層の幾つかを除去できたに過ぎない。 中間層の何枚かを取り除くことに成功した者もいるが、我欲の最も深層 部を排除する過程にいる者は僅かである。 この工程は連続的なもので種々様々なレベルの魂がいるとは言え、大 きく三つのグループに種分けしてみることができる。 層の除去段階に従って、親切で見栄っ張りな魂、寛大で気位の高い魂、 愛情深く尊大な魂に分けられる。
*なぜ、肯定的な形容詞と否定的な形容詞の二つを使って分類するので すか。
分類によって、魂の利己的な部分を際立たせるのではなく、各段階の 魂が発達させている資質も認めるようにしたいからだ。最初の形容詞は、 魂が愛の育成に努める際に到達可能な代表的な資質を表し、二番目の形 容詞は、魂の我欲の段階を示している。 虚栄心に満ちた者は大変親切になれ、自尊心の強い者はとても寛大に、 また尊大な者は、自我に打ち克ち感情のために戦おうとする時には、と ても愛情深くなれるのだ。 我々一人ひとりの中に我欲が存在することを認めて、それを自覚して 克服するために定義づけをすることは、何も悪いことではない。 魂にとって悪いのは、自我の存在を認めようとしないことだ。つまり、 本当に愛し真に幸せになるために除去すべき利己的な部分を全員が持っ ている、という現実を認めないことである。アルコール中毒者が自覚しない限り治療できないのと同様に、認めないものを克服することはでき ないので、我欲を認識できないと霊的に停滞してしまう。
*あなたが、虚栄・自尊・尊大と呼んだ我欲の三つの顕現形態のそれぞ れの特徴について、さらに詳しく説明して下さいますか。
いいだろう。虚栄心・自尊心・尊大という風に、最も低俗なものから 巧妙なものへと、少なくとも三つの形態に我欲を分類することが可能だ。 我々は、通常の会話の中でこの三つの言葉を頻繁に使用しているが、 これから見ていくように、霊的な概念はずっと幅広く奥深く、多くの面 で通常使用する意味とは異なっている。これからその一つ一つを定義し て、顕現形態を分析してみよう。
*虚栄心とはどういうもので、どんな顕れ方をするのでしょうか。
虚栄心は我欲の最も原始的な形態だ。これは、若い魂と、知的面では 充分進歩したにも関わらず、感情面ではまだ初心者の魂に特有なものだ。 虚栄心の最大の特徴は、自分本位なことだ。特に自分が必要とするこ とや基本的欲求を満たすことに熱心で、他者の必要性にはほとんど、あ るいは全くというほど関心を示さない。多くの場合に、他者の自由意志 を侵害していることには気づかず、自分の自由意志ばかりを優先しよう とする。 見栄っ張りな人は自分が中心であろうとして、他の人たちから注目さ れることを望む。愛をほとんど知らないので、真の愛とおだてとの違い が良く分からない。愛よりも要求が多い。
それゆえ、人間関係では、愛 され愛すことよりも、知名度や賞賛や賛美を求め、おだてられたり自分 の要望が叶うことを好む。 見栄っ張りな人は常に自分と他者とを比較し、いつも人よりも上位に 立とうとする。能力や物的面で自分より下だと見なした者を馬鹿にした り蔑むことが多く、自分にとって有益だと思う人を過剰に賞賛する。 常に自分の利益を優先し、不公平な行動を取ることが多い。
そして、 利己的な行為をカモフラージュしようと、しょっちゅう事実を曲げる。 感情が未発達なので自分自身に不満を覚えることが多く、孤独になるの を極端に嫌う。 他者を大いに必要とし、自分の必要性のみならず趣味や気まぐれまで を満たそうと、しばしば相手を操り思い通りにするので、周囲の人を肉 体的にも精神的にも隷従させてしまうほどだ。しかし、期待する満足感が得られなければ、直ぐにその人間関係に飽きてしまう。そのため、家 庭では伴侶や子ども、仕事では部下などの弱者を、自分の影響下から逃 れられない所有物のように見なし、蹂躙することがしばしばである。
自分に値すると思っていた注目が得られない場合には、被害妄想や攻 撃、脅しや嘘など、思いつく限りの策を弄し、いかなる手段や代償を払 ってでも、注意を引こうとする。 この欠点が顕著に顕れると、そのネガティブな息詰まる波動で周りの 人びとが消耗してしまうので、虚栄心というものを知らず、どう扱って いいのか分からなければ、長時間我慢できる人など滅多にいないだろう。 これが、彼らには知人は多いのに、余り友人ができない理由だ。誰も 何もせず自分だけがどれほど頑張っていることか、としょっちゅう自慢 するにも関わらず、努力が要ることには直ぐに飽きて、他者に責任を負 わせようとする。
私心なく人にさりげなく尽くすことは稀で、いつもそれを誇示し、一 般的に自分の行為以上の返礼を見返りに求める。見栄っ張りな人は、善 い人になるつもりはなく、そう見せかけようとしている。
*それなら、そんな人が余りいないことを願いますよ。
実のところ、人類の四分の三はまだこの初期の進化段階にあり、君た ちの世界の政治家層の一番の欠点が虚栄心なのだ。もっとも、自認でき ること自体がより進歩していることになるので、今話したことが自分に 当てはまると言う人はいないと思うがね。君たちの惑星がこんな状態な のも、そのせいだ。
*そんな風に利己的な人と暮らすのは、耐え難いでしょうね。
このようなものや、もっと目立たないエゴから、君自身が無関係だと でも思っているのかね? 進化していない人と一線を画そうとして、理解 しかねると言い切ること自体に、君自身の我欲がチラついている。 虚栄心の段階は、その後の自尊心と尊大という段階と共に、完全性へ の道程において、全ての魂が一つ残らず通過しなくてはならないものだ。
これらの段階を超えられた者は、ある時点で自分の欠点に気づき、克 服の努力をしたのであり、高次の人の見習うべき手本のお陰で、それを 成し遂げることができたのだ。進化した魂たちが自分たちだけで前進し て、進歩の遅い同胞を見捨てたとしたら、一体どんな愛を育んでいると 言えるのだろうか?
このように露骨な説明をしてしまうと、大変手厳しく思えるだろう。 しかし私には、誰かを差別したり除外する意図はなく、君たちが虚栄心 という我欲の形態を理解し、その知識を自己改善に役立てるよう望んで いるのだ。
*この場合は、虚栄心になって顕れる我欲のことですが、魂は、自分の エゴをどのように自覚して、克服していくのですか。
通常は、自分と似たレベルの者の利己的な行為を、身を持って痛感す ることによる。「霊的裁きの法則」(♬”愛の法則の”後に投稿する予定です。 )は、他者の行為を通してであろうと、 各人を自分の行為と向き合わせ、自己改革のために最大の恩恵が得られ るようにする。 魂は実際に苦しむことで感受性を高め、特に自分と似通った状況を経 験した他者の苦悩を、より敏感に感じ取れるようになる。その者に対し て芽生える連帯感は、愛の萌芽なのだ。
*魂は、自分の行為が生み出した苦悩を必ず実体験して、それらの行為 が他者に有害であった、と学ばねばならないのですか。
いや、自分の行動が他者に与えた害を自覚でき、自分の過ちや他者の 経験から学ぶことができれば、理解したことになるので、その必要はな い。しかしそのためには、感受性や愛が充分に発達していなければなら ない。なぜなら、愛がある場合にのみ、他者の気持ちを苦悩も含めて、 自分のことのように感じられるからだ。 初歩段階の魂の場合は、自分の利己的な行為を自分自身が味わって苦 しんだ方が、速く進歩することができる。一方、愛を育むことができれ ば、自分の過去の体験や他者の体験を理解することで、もっと速く進歩 できるのだ。
*理解によって、虚栄心を克服するにはどうしたらいいのですか。
最初の一歩は欠点を自覚することで、その次は態度を是正することだ。 自分の欠点を認識したからと言って、それが表面化しないようにでき る訳ではない。自覚し認めるだけではなく、我欲に従った行動を避け、 その言いなりにならずに気持ちに従って決断するなら、我欲は次第に力 を失い、最終的には克服されるだろう。自覚すれば、虚栄心がどういう ものかを深く認識でき、それがどのように自分に顕れ、何によって増長 されるのかを知ることができる。
幸せになるためには周囲の注目の的となるのが重要で、皆から褒めた たえられたりちやほやされて、喜びや贈り物や注目を山ほど貰うのがい い、と信じることで、虚栄心は増大する。 虚栄心は、幸せになるためには、物であろうと人であろうと身の周り の全てのものを所有する必要がある、と自分にも他人にも思い込ませる ように現実を変えてしまう傾向となって顕れる。 虚栄心は、進路にある全てのものを吸い込む掃除機みたいに自分に溜 め込みはするが、持っているものを何一つ評価しない。それは、見たと ころ世界一素晴らしくそれなしには幸せになれそうにないおもちゃを買 ってくれと、地団太踏んで親に要求する子どものようだ。だが、おもち ゃを手に入れると、何分とも遊ばず、直ぐに飽きて壊してしまう。
したがい、感情を呼び覚ます努力をせず、自分の気まぐれを満たすこ とばかりに夢中でいる限り、彼らは常に不満・空虚・不幸であり、他者 から愛されてもそれが分からず評価もできない。 自分自身の努力や意志によって成し遂げることでなければ、それを本 当に理解して評価することも楽しむこともできないが、虚栄心の強い者 は、何に対してもほとんど努力をせず、他人が自分のためにしてくれる のを望む。 目的を持った場合には、外見的・物質的・表面的なものが多く、魂の 内面的目標であることは滅多にない。
見栄っ張りな者は、自分で火を起こすのが面倒なので、いつも隣人の 焚き火で暖を取る人に似ている。常に他人に依存し、自分自身では何も しない。自分に独自の火を起こせば、他人に頼って暖まる必要はない。 この火は、霊的次元では愛の炎であり、魂を慰め暖め、進歩して本当に 幸せになる力を与える。
*でも、幸せになろうとして成功を求める人は大勢いますが、彼らに言 えることはありますか。
自分自身を偽っていると言いたい。成功は虚栄心を満足させるが、感 情にとっては落とし穴となる。幸福を勝ち取る唯一の方法は、自分を愛 で満たすことだ。
*理解を通して虚栄心を克服するにはどうするべきかを、短くまとめて いただけますか。
いいだろう。虚栄心の強い者が欠点を克服する第一歩は、幸福は外部 にあるのではなく、内面次第なのだと理解することだ。
我々全員が学ぶべき大切な教訓は、 真の幸福とは、他者が自分を愛す かどうかで決まるのではなく、自分が愛せるかどうかによるということ だ。だから幸せになりたければ、他者が自分を愛してくれるのをがむし ゃらに求めるのを止め、自分自身の感情を目覚めさせるようにしなさい。
*見栄っ張りな人にはどう助言して、自己進化に役立ててもらいますか。
他者の賞賛や慈しみ、成功や信任を得ることでは、絶対に幸せになれ ない。 自分の人生に不満足で、孤独感や虚無感があるとしたら、不幸の原因 を外部に探さないことだ。原因は外にあるのではなく、自分の中にある からだ。 満ち足りることは絶対にないので、他者の火で暖まろうとしてはいけ ない。他者が君のためにしてくれたりしなくなることに自分の状態が左 右されないように、自分自身の炎を起こしなさい。 利己主義は脇に置いて愛しなさい。内面の虚無感を満たす唯一の方法 は、無条件に愛すことなのだ。
*今言われたことは、前に話されたことと矛盾しているようです。他者 から愛されることを放棄したとしたら、どうして自分を愛せるのでしょ う。
説明が良くなかったかもしれない。愛されるのを放棄する必要はない。 間違ったやり方で幸せを求めている、と言いたいのだ。天秤の片方の皿 にだけ重りをかけて、均衡を保つように要求しているのだ。
*どういう意味かがはっきり分かりません。理解できるように例を示し て下さいますか。
良いだろう。世界にある全ての愛を分配するために、全人類を巨大な 広場に集合させたとしよう。 そして先ず「愛が欲しい人はいますか」と聞くのだ。すると、100% の人が「僕だ、僕だ。最初に僕だ。僕が最も必要としている」と訴えな がら手を挙げることだろう。 しかし次に「愛を与えようという人はいますか」と聞けば、広場は直 ぐに空っぽになり、手を挙げようと居残る者は僅かだろう。 分与できるものは何か? 少数の者が与える愛だけだ。 これが君たち人類に起こっていることで、大半は愛を受け取るつもり しかないので、世界を支えているのは僅かな者の愛なのだ。しかも大半 の者は、愛を受け取っているのではなく、主に我欲を満足させているだ けなのだ。
我々は主体性に欠け、愛が外からやって来るのを待っているのだ。外 部からの愛が、あたかも魔法のように我々に達して幸せにしてくれて、 秘薬のごとく何をする必要もないと思い込んでいるのだ。
しかし、必要なものを全て受け取っても、受身であり続けて我欲を克 服しようと努めないのであれば、内面の全てを与えて君を愛してくれる 存在が現れても、「まだ足りないよ。僕はまだ幸せではない。もっと愛 してもらう必要があるよ」と言うだろう。そして、絶対に内面の虚しさ を満たすことができないので、もっともっと、と要求するのだ。 くれたものは決して評価せずに、貰っていないものばかりにこだわる。
人生のどんなに些細な障害であろうと、文句の口実となる。朝起きた時 に、曇り空なら寒いとぼやき、天気が良ければ暑いと愚痴るのだ。 これは、幸福の求め方が間違っているからなのだ。自他に対して能動 的に呼び起こす愛のみが、空虚な感覚を満たすことができるのだ。それ ゆえ、幸せになるためには、愛を受け取るだけではなく、愛を与える必 要があるのだ。
*虚栄心の問題に戻りますが、虚栄の段階にいる全ての人に同じ特徴が あるとは言えないと思うのですが。
同じ特徴ではなく、虚栄には様々な段階がある。 虚栄の初期の段階では、我欲は、強欲(自分の持っているものを他者 と分かち合いたくない)、貪欲(他者を犠牲にしてもどんどん欲しが る)、羨望(自分が欲しがる物的なものを持つ人を拒絶する)といった、 より原始的で物質的な顕れ方をする。
魂が感情面を認識して進歩した次段階では、物質的な利己心は、霊的 なものへと変化する。この段階での魂は、まだ我欲にしがみついてはい るが、同時に感情も発展させ始めている。まだ愛を与えようとはしない が、愛の存在を認知し心地よいと分かっているので、愛を受け取ろうと する。 強欲が執着(特定の人からの思いやりや愛を他者と共有したくない) に変わるのはこの時で、貪欲は独占(皆が自分だけに注目して優しくし てくれるのを望む)に変わる。一方、羨望はもっと上手く化けて、自分 にはないが欲しいと思う美徳を持つ人たちに対する反感へと変わる。
感受性が強くなって正義の概念はもっと発達するものの、我欲から離 れられていないため、損得が絡むと、故意に自分の得になる不公平な行 動を取ることが多く、自覚している分だけ余計に罪深いと言える。
*根本的にどのように進歩すれば、虚栄心の段階を克服したと言えるの ですか。
虚栄と自尊とを区別する主な進歩は、魂の愛を目覚めさせることであ る。 虚栄心の強い者は一方的に愛を受け取るだけだが、自尊心の強い者は、 もう愛の送り手となれる魂である。それは、かなりしっかりと主体的に、 本当に愛すことができる能力を獲得したことを意味する。
*虚栄心の強い者は愛すことができない、または愛を体験したことがな い、ということですか。
もちろんそうではない。全ての魂は愛すことができる。実際、自尊心 のレベルに達した魂は、全てがそれ以前に、虚栄心の段階を経ている。 また当然のことながら、一夜にして愛の発信者となったのではなく、 愛の炎を灯すか消すかという、感情の発露とエゴとの葛藤が長く続いた 期間があったのだ。 虚栄心の強い者の炎は弱く、絶えずついたり消えたりをくりかえす。 感情面で努力する確固たる意志に欠け、利己的な気まぐれを満たすこと にまだ一生懸命なので、炎を育むことに力を注がないのだ。
別の言い方をすると、虚栄心の強い者がまだ自分の炎を灯せず活性で きずに、他者の火で暖まろうとする一方で、自尊心の強い者は、すでに 自分の内面に炎を起こす方法を発見している。また、その火が力強く燃 える時に生じる真の愛の片鱗を認識し経験したことがあるので、より鮮 明な体験ができるように、確固たる意志で炎が消えないように努力して いる。
*魂はどうやって、自分の火を起こす方法を学ぶのですか。
自分自身の体験と、進化した魂たちを手本にして学ぶのだ。 虚栄心の強い魂は、通常、身近に転生した愛の送り手となるもっと進 化した魂によって、手ほどきを受ける。それは自分の伴侶であったり、 父親や母親、息子や娘、兄弟や姉妹などの家族である。多くの場合、他 者が自分に尽くすことに慣れ切っている進化の遅い魂は、その時点では 与えられていることを自覚できずに、もっともっとと要求し...遂に は失う羽目になる。
その時になって失われた愛を懐かしみ、かつての愛を再び味わいたい と願い、愛されていたのに評価できなかったことを自覚し認識し始める。 この欲求によって、自分をそれほど愛してくれた人たちに対する最初の 感情が芽生え、それが以後の転生に持ち越される。つまり、人が愛を与 えられるようになるには、最初に愛を受け取れなければならない。 要求ばかりしていた魂は以後の転生では、自分より進化の劣った者と 身近に共存する体験を課され、過去に他者に求めたのと同じように要求 されるであろう。
こうして、他者の利己的な行為の中に自分のエゴを認 識し、自分自身と向き合うことになるのだ。 この学習は、愛の受け手または送り手という、主な役割を転生ごとに 交代しながら、数え切れないほど継続することもある。送り手として与 えれば与えるほど、受け手として受け取れるようになる。 愛の道を歩むのか、それとも我欲の道を続行するかは、魂の意志次第 なのだ。
*虚栄の段階を超えた魂は、他にはどんな進歩ができたことになるので しょうか。
虚栄心から充分に解放され、完全に自尊の段階に入った魂が成し遂げ たことを大まかに説明しよう。それは、しっかりとした愛の送り手にな り、感情を理解できる魂になったことで達成できたものだ。 先ず、正義の概念がもっと進歩している。自尊心に達した人は、外見 的なものよりも本物で公正なものに気づいている。一般的に気位の高い 者は、より公平に行動する。不平等になりそうな場合は、自分が得しよ うとはぜず、他者が被るであろう損害も考慮して決断する。 もはやちやほやされたいとは思わず、真に愛され愛すことを求める。 気位の高い者が獲得した見栄っ張りとは反対の資質は、控えめになる ことであり、目立つことはしようとせずに、公正で寛大であることに満 足を覚える。 自尊心の強い者は、自分が愛する者には寛大である。それゆえ、人間 関係においても注目の的になろうとはしない。百の表面的なつき合いよ りも、一つの本物の友情を望むのだ。
*気位の高い人は、見栄っ張りな人よりも霊的に進化しているので、進 化の仕方も速いということでしょうか。
そのようなことはない。進化の速度は、我欲から脱却して愛そうとす る、魂の意志と力のかけ方によるのだ。
自尊心の強い者でも進化が止まってしまって、多くの転生で停滞した ままになることもあるし、虚栄心に満ちた者でも大いに努力して、素早 い進歩を遂げることがある。 だが、感情面の知識や自覚が大きいので、進化した者の方が能力があ ることも確かだ。彼らは進化しようとする意志がより一層固く、停滞す ると苦しみが募るので、その不快感に後押しされて前進する。 多くの転生経験を持つ進化した魂と、まだ若く余り進化していない魂 とを比較することは、七歳の子どもと十五歳の若者に同じ知能検査をし て、その結果の有効性を信じることのように、馬鹿げている。七歳の子 がどんなにIQが高くても、普通は十五歳の方がいい結果を出すだろう が、それは、その子の方が年上で学習にかけた時間が違い、肉体的にも 精神的にももっと発達しているためで、比べることには何の価値もない。
それゆえ、他者と進化度合いの比較はするべきではなく、自分自身が 前回からどれだけ進歩できたのかを比べるべきだ。進化のレベル差は、 どれだけ速く学んだかだけで決まるものではなく、魂がどれだけの時間 をかけて進化してきたのかにもよるからだ。 霊的な年齢は人それぞれだが、一般的には、古い魂の方が若い魂より も進化している。それは進化にかけた時間がその分長いからだ。 しかしながら、若い魂が大変速く進歩して、自分より年上の魂を追い 抜くという特別なケースもあるし、その反対に、大変古い魂が霊的に長 時間停滞してしまって、もっと若い世代の魂に追い抜かれるということ もある。
*進化レベルと進化速度との違いがはっきりする例を出していただけま すか。
同地点からスタートする二台の車のうち、一台が、もう一台よりも一 時間早く出発するようなものだ。初めは二番目に発車する方が遅れてい るが、もっとスピードを上げれば、いずれ一台目に追い着けるだろう。 走った距離が魂の進化レベルに相当し、速度がその時々の進化のリズ ムだ。
*自尊心の問題に戻りますが、自尊とは何で、どういう顕れ方をするの でしょうか。
自尊心の強い者の最大の問題は、他者に感謝されなかったり、利己的 に振舞われたり、愛してもらえないことを、なかなか受け容れられないことだ。
特に、愛情の絆を築いてしまった場合は、そうすることが難し い。 気位の高い者は、自分を愛してくれる者は容易に愛せるのだが、自分 を愛してくれない者を愛すことがまだ難しい。そのため、自分が好きな 者を在るがままに認めようとはせず、その美徳にも抵抗があるが、特に 欠点は認めがたい。 また、自分の考えが間違っているかもしれないと認めるのが、本当に 難しい。 報われない愛、すなわち、どんなに愛しても利己的な態度を改めても らえないことが、我慢できない。
両親・兄弟・伴侶・子どもなど、非常 に身近な家族の場合は、特にだ。彼らを変えようと自分が努力して変化 を期待するのだが、何も変えられないと絶望し、気落ちして怒ったりす る。 思いやりのあるちょっとした態度を示されると意のままになるのに、 操られていたと気づくと激怒し、その人に恨みを抱く。 表面的には自分の行為の代償は求めていないが、感謝されなければ、 たとえば、相手を助けようと一生懸命やったのにその代わりに殴られた りすると、気持ちをどう整理していいのかまだ分からない。
そのため、気位の高い者が感謝をされなかったり、失恋したりという 目にあうと、自尊が次々に形をとって顕れる。感情を害されたり傷つい たりすると、自分の殻に閉じこもり、人間関係から孤立する。そして、 怒り・憤り・無気力・意固地・恐れ・罪悪感が目覚める。 自分の奥深い感情を傷つけられるのが怖いので、気持ちを表現するの を恐れ、感情や情緒を隠そうとする傾向がある。憐れみの対象になりた くないので、否定的な感情は抑圧し、弱みにつけ込まれ傷つけられるの が嫌なので、他人に弱さを見せようとしない。
一方、見栄っ張りな人た ちの嫉妬を買って睨まれたくないので、肯定的な感情も抑制する。肯定 的な感情を抑制しがちなことで、彼らは不幸な気持ちになる。 否定的な感情を抑圧したり隠したりして黙って耐えると、突発的に、 激怒・憤り・怒りなどが爆発してしまうが、その後で罪悪感を覚える。 人を信用せず、いかなる問題も自分だけで対処できると思い込む態度 が、最も他の人たちから孤立させることとなる。
*自尊心が最も有害な形で顕れるとどうなりますか。
自分には、真に愛されたり愛を受ける価値がないと信じ込んで、愛す ことも無意味だと思うようになる。これは、自分自身で孤立してしまう態度で、寡黙で無気力、臆病、陰気、憂鬱で怒りっぽく、生きる気力の ない人へと変貌させてしまうこともある。
前に、虚栄心の強い者は愛されてもそれを評価できないと言ったが、 自尊心の強い者は、愛されることを拒んでしまう。だから、どちらの理 由であろうと、その人たちは欠点のせいで、愛されていても愛されてい ると感じられないのだ。 虚栄心の強い者は、愛情を受け取るよりも、自分の我欲を満たしても らうことに夢中だからだ。
そして自尊心の強い者は、傷つけられるのを 避けようと自分の殻に閉じこもってしまい、どんな愛情ですら受け取ろ うとはしないからだ。 それは子どもの時から、僅かな注意を引くために、あらゆることをす る必要があったためかもしれない。だから、もっといいことはないし、 在るがままに愛されることもない、と自分を納得させてしまったのかも しれない。 そしてどうなると思うかね? 自分が何をするかに関係なく、無条件に 在るがままに愛してくれるという人が現れると、驚いて自分の内に隠れ てしまうのだ。ただ単に信じられないので、拒絶してしまうのだ。
「僕を利用しようとせずに、愛してくれるなど信じられない。これは きっと罠に違いない。受け入れようと心を開けば、きっとグサッと刺さ れて、もっと苦しむに違いない。だから心を開く甲斐はない」と思うの だ。 こうして幸せになるために必要とされるものがあり、それを評価でき るにも関わらず、気位が高いとそれを拒んでしまう。そして、苦しみた くないと苦悩し、感情を優先しなかったことで苦しむ。
*自尊心を克服するにはどうしたらいいでしょう。
虚栄心の場合と同じで、最初の一歩は欠点を自覚することで、その次 は態度を是正することだ。 欠点を認識してそれがどのように具現するかの知識を得ただけでは、 その出現を防ぐことはできないが、認識できさえすれば、人生で決断を 下す際に、自尊心に従った行動を回避する助けにはなる。我々が心が命 じるままに決断するとしたら、自尊心は徐々に弱くなり、最終的には制 覇されるだろう。 自覚すると、自尊心とは何か、自分にどのように顕れるか、何がそれ を増長させるのかを深く知ることに繋がる。
自尊心は、恐れ・不信・自己充足から発展し、孤立や感情の抑制とい う形態で出現する。自尊心は、魂の感受性にとっては鎧のようで、難攻 不落の城壁のごとく魂を取り囲み、感情の出入りを妨げる。それゆえ、 この鎧を剥ぎ取る努力をせねばならない。 気位の高い者が自尊心を克服するために最初にするべきことは、自分 には愛される資格はないし本当に愛してくれる人に出会うこともない、 という思い込みから自由になることだ。
真の相思相愛を求める者は、遅 かれ早かれそれを見つける。似通った魂はお互いを探し求めるし、出会 った時にお互いが分かるからだ。 だが、悪いことから身を守ろうとして扉をピッタリ閉じてしまうと、 固く閉じ過ぎたがために、善いことも経験できなくなるので、辛抱強い 揺ぎない努力が必要だ。危害が及ばないように慎重になるのは良いが、 感情を放棄しては駄目なのだ。
忘恩を忘恩で返したり、憎しみを憎しみで、恨みを恨みで返すのも良 くない。我々を苦しませることは、他者をも苦しませるからだ。感受性 が発達して苦悩をより良く理解できた者は、自覚がないままに苦痛を与 える者よりも、苦しみを生み出す責任が重い。 すでに言ったが、くりかえしておこう。君たちは独りではないのだ。 我々は一人残らず全員が、神や守護霊やその他無数の霊的存在や友人、 そして肉体の有無を問わず霊的な家族に、深く愛されているのだ。しか もそれだけではない。
つまり 君たちの一人ひとりには、魂の伴侶である 双子の魂が存在し、それを介して、純粋な無条件の愛の目覚めを体験す るのだ。ただ、そのことを自覚すればいいだけなのだ。
また、自分を傷つけた恩知らずでも、赦すことを学ばねばならない。 気位の高い者は、まだ気づけていない者を理解する力があるので、かつ ては自分も同じ状態であったと認識すべきなのだ。 同時に、本当の自分自身になる恐れを手放さなくてはならない。 口では愛していると言いながら、従わせたいだけの人が仕掛けた罠か らは自由にならねばならないが、反対の道を選んでもいけない。つまり、 苦しみを恐れて、人間関係で孤立するのも良くない。 愛して欲しいと望むのは悪くはないが、皆の愛の能力が同じではない、 と知っておかねばならない。報われたいがために、親族だからとか一緒 に暮らしているからという理由だけで、相手に自分と同じ強さで、愛し たり尊重してくれるように要求してはならない。
愛情がない場合に、もっと責任が重いのはどちらだろう? 愛すことを 知らずに愛さない者(虚栄心が強い者)か、それとも愛せるのに欠点の ためにそうしない者(自尊心の強い者)だろうか。 自己の自由意志を放棄してしまうことになるのであれば、他者を喜ば せるために過大な努力をしないことも大切だ。相手のまだ目覚めていな い感情を覚醒できると信じて、報われないのに過剰な努力をすると、い ずれ失望や悲しみ、幻滅や苦々しさ、怒りや無力といった形のつけを払 わされる。
すでに言ったが、真の愛は、何の見返りも期待もせずに無条件に与え るもので、お返しする気のない人や全く与えることのできない人に、愛 を強要できないのだ。
*進化に役立ててもらえるように、気位の高い人に簡潔に言えることは ありますか。
悲しみや虚しさを感じる時には、自分自身に閉じこもらないように。 感じさえしなければ苦しみが緩和されるだろうと考えて、感情を抑圧 してはならない。そうすればもっと苦しむことになるし、解消できない 不毛な苦悩となるからだ。 考えたことではなく、感じたことに従って生きようとしなさい。他者 を思いやらねばならないが、その期待に沿おうとするのではなく、自分 の気持ちに従うこと。 人から傷つけられたことを口実にして、自分の不信感や孤立を正当化 してはならない。自分の感情を利用したいのだと思う者には慎重になり、 誠意を持って近づいてくる者には心を開くのだ。
*人の意のままにならずに、他者を傷つけないようにするにはどうした らいいのですか。
相手の苦悩が我々の利己的な行為によるものなのか、それともその人 自身の我欲、つまり我々の意思や自由意志を尊重したくないためなのか を知る必要がある。 我々の利己的な行為が原因なら、我々が是正の努力をするべきだし、 相手の我欲のせいなら、苦しみを生み出しているのはその人自身なので、 その人が改善しなければならない。他者のせいで苦しんでいると思って いても、独りで苦しんでいるのだと知るべきなのだ。
*でも、その人が変わりたくなければ、どうしますか。
その人にとって自己改善することが有益であっても、そう強制すれば 本物ではなく自由意志を侵害してしまうので、相手に強要はできない。 そうは言っても、その人に、他の人の意志を曲げる権利がある訳ではな い。だから、自分本位な人の利己的な態度に従わされている人は、自分 の感情や信念を曲げるべきではないのだ。
*たとえば、ある人といざこざがある場合に、相手がその人自身のエゴ で苦しんでいるのか、それとも僕の利己的な態度によって苦しんでいる のか、どうやって見分けられるのでしょうか。
相手の立場になって、どう感じるだろうか、その状況でどうして欲し いだろうかと分析してごらん。 自分が発信者・執行者となって行おうとしていた行為についての判断 が、その行為の受け手となれば変化するのなら、君の態度に何らかの利 己心や不公正な部分があったということだ。送り手としても受け手とし ても同じ姿勢でいられるのなら、公正に近い判断だ。 でも大抵のケースは様々だ。つまり、両者に利己的な部分があり、双 方が自分のエゴを改めねばならないのだが、自我によらなければ確固と した態度を保ち、相手の利己的な行為に屈してはならない。 最終的には「自分にして欲しくないことは他者にしてはならない」と 「苦悩の原因であり意志の侵害だと知っていることを、他者が、自分や 自分の庇護下の者にしないように尽くせ」という金言に要約できるだろ う。
*よく理解できるように、例をいただけますか。
よろしい、例を挙げよう。教育の一環として子どもを叩く母親を想像 してごらん。子どもに与える肉体的・精神的苦痛を考慮していない母親 によると、それは、子どもを従わせる方法だそうだ。 もし本当にその方針が正しいと信じているのなら、自分が夫に殴られ ることも問題なく容認できるということで、彼女が子どもに使ったのと 同じ論拠を夫が持ち出して正当化しても、承服できることだろう。だが 誰でもそうだが叩かれれば痛いので、彼女はこの状況を苦々しく嘆き、 当然だが非常に苦痛なので、夫が殴り続けることには同意しないであろ う。 この母親は、夫に殴られて痛いのであれば、彼女がそうする時も子ど もは同じように痛いだろうと気づくべきだ。そして現実から学ぶ気があ れば、叩くことは苦痛を生み正当化できないので、それ自体が悪いこと だという結論に達するであろう。
この女性には、どんな解決策があるだろうか? 子どもに対する暴力の 行使を放棄するのだ。そうすることによって、自分自身のエゴを克服し、 力づくで弱者の意志を曲げようと懸命になることもなく、同時に、自分 の自由意志を踏みにじる、暴力的で利己的な夫の支配から逃れることに 力を尽くせるのだ。 攻撃する者がいじめる対象を失って苦しむのであれば、それは相手に 苦しめられているのではなく、他者の意志を力ずくで曲げたいという我 欲を放棄するのが嫌なだけなのだ。
*先ほど、他者を喜ばせようと過剰な努力をしてはならないと言われま したが、誰かを愛すと、その人が幸せでいられるようにあらゆることで 喜ばせてあげようとすることと、矛盾しませんか。
喜ばせてあげればあげるほど愛していると考えるのは、大きな間違い で、善意ある者の多くが陥る大きな罠だ。 愛している人には、その人を喜ばせる以前に、援助し、理解し、尊重 しなければならない。 喜ばすのと支援することの違いを知っておくことは大切だ。と、言う のは、誰かの機嫌を取る時に、手を差し伸べる代わりに弊害を与えてし まって、喜ばせたのは相手の我欲だけだった、ということもあるからだ。 しかも、自分の自由を失って、相手の我欲に自分の意志を服従させて 機嫌を取る時は、自分自身を犠牲にしているのだ。
*手助けと機嫌取りとを、どう見分けるのですか。
自分で超えなければならない試練や状況を背負っている人を、喜ばす だけで助けなければ、能力を試す機会を奪うことになるので、その人の 魂の停滞に一役買ってしまう。 真の手助けというものは、その人自身で試練や状況を解決できるよう に、支え励ましてあげて、前進できるようにしてあげることだ。
*援助することと機嫌を取ることの違いがはっきりする例を挙げて下さ いますか。
そうしよう。先生に学校の宿題を家でするように言われた同じクラス の二人の子どもをイメージしてみよう。二人ともずっと遊んでいたいし 宿題はうんざりするものなので、しないで済ませようとする。
一人の父親は、息子が怒らないように、しかも宿題をやらずに学校に 行くという羽目にならないように、自分が代わりにやることにするが、 その間子どもは楽しく遊んでいる。 もう一人のお父さんは、子どもがしばらくの間遊びを止めなくてはな らなくても、子ども自身が宿題をするように、一緒に座って手伝ってあ げることにする。 最初のお父さんは、息子が嫌いな作業をしてあげているので機嫌を取 ってはいるが、宿題は子どもに課された状況であり、その子の学習に必 要なものなので、援助をしてはいない。この父親は、息子が怠惰で依存 的で我がままになり、どんな状況でも自分の問題を解決してくれる人を 求めるようになることに、加担してしまっているのだ。
二番目のお父さんは自分の姿勢によって、遊びを中断したくない息子 が怒る可能性を冒しているので、機嫌を取ってはいない。だが、子ども が学んで自己責任を受容することに寄与しているので、子どもを援助し ていることになる。
*それなら愛する人を喜ばすのは、いけないことなのでしょうか。
いつも悪いとは限らない。自分自身の自由を犠牲にしてしまう場合と、 相手が独力で超えねばならない試練の肩代わりをして魂の停滞に加担し てしまう場合が良くないのだ。
*自尊心についてに戻りますが、自尊の段階を超えた魂は、どんな進歩 を遂げたことになるのですか。
魂はもっと自信に満ち、自分の感情を自覚し、幸せに生きるためには 気持ちに従って生きねばならないことを認識している。 自分をありのままに見せることを、以前ほど恐れない。そのため、以 前より打ち解け、明るく、自然で自由で、感情の防壁が少ない。 自分の内にこもらなくなり、感謝をされなくても気にしなくなる。 他人に、より共感できるようになる。 ご機嫌取りに過大な努力を払わない、つまり、人の思い通りにされる ことが少なくなり、簡単に言いなりにならないので、恨みや怒りを覚え ることも減る。 愛しても見返りを期待しなくなる。 心を開いて自分に向けられる他者の愛を感じ取り、心を許して自分の 愛を他者に与える。 否定的な状況にあまり影響されなくなり、以前より受け容れることが できる。 肯定的なことをもっと楽しめるようになる。
(P110~P133)
(著者あとがきをご覧ください)
https://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/d644c9fe4a68408429a35f4b1e30b3ea
♬著者ヴィセント・ギリェム氏は、広めることを希望していますので、抜粋して投稿しています。氏および翻訳者のご厚意に感謝いたします。