♬ この本の日本でのタイトルは、「さとりをひらくと、人生はシンプルで楽になる」です。
エックハルト・トール「さとりをひらくと、人生はシンプルで
楽になる」より
第3節 完全になろうとして、「中毒症」になってしまう私達・・・P202
問い どうして私達は、相手に「おぼれて」しまうんでしょう?
答え 「ロマンチックな恋愛関係が、こんなにも鮮烈で、しかも普遍的に求められるのには、それなりの理由があります。それは、さとりをひらいていない人間には不可欠な感情である、「恐れ」、「飢え」、「欠如」、「不完全」を恋愛関係が取り除いてくれるように思えるからです。「不完全な状態」には、からだと心の両面があります。
からだの面では、人間は明らかに完全ではありません。しかし、私達は永遠に完全に等、なれないのです。わたしたちは、男性か女性のどちらかであり、たとえて言うなら、「一個のりんごの半分」みたいなものです。からだのレベルでは、完全になることを求めて「すべてはひとつ」の状態に戻りたいという思いが異性に惹かれるという形で表れているのです。男性と女性が正反対のエネルギーの極を持っているために、ひとつになろうとする衝動は、抵抗しがたいものになります。
肉体的な衝動の根底にあるのは、魂の衝動です。「二元性にピリオドを打ちたい」「完全無欠な状態に戻りたい」という魂の叫びなのです。
セックスで得られる一体感が「すべてはひとつ」の状態を一番からだのレベルで体験できる方法です。これがセックスがもっとも大きな満足感をもたらす肉体的な行為である理由です。しかしながら、性的な一体化は、「すべてはひとつであること」を一瞥(いちべつ)しているようなものです。その喜びはほんのつかの間です。セックスを、完全になるための方法にすることは。物質界のレベルで、完全になることを求めている事になりますが、もちろんそこでは達成できません。わたしたちは天国を一瞬だけ、のぞき見出来るかもしれませんが、そこに留まることはできず、あっという間に「すべては別々の世界」に戻らなければならないのです。
心のほうの「不完全」という感覚は、からだの面よりも、いっそう深刻です。すでにお話ししたとおり、思考を「ほんとうの自分」とみなしているかぎり、外界のものを拠り所にして、アイデンティティを作っています。言い換えるなら、肩書き、所有物、ルックス、成功や失敗、信念体系など、究極的には自分となんの関係もないもので、「ほんとうの自分」を定義づけているのです。思考がつくる「にせの自分」、すなわち「エゴ」は、もろく、不安を感じているため、常にアイデンティティを探し求めています。しかし、なにものも、エゴを永遠に満足させられません。恐れはいつもそこにあります。なにかを渇望する感覚もなくなりません。
しかし、そこに「救世主」が現れます。「恋愛関係」です。「愛する人が〖エゴ問題〗をすべて解決し、『エゴの必要』をすべてみたしてくれる!」と、私達は考えます。少なくとも最初の内は、そう確信できるでしょう。相手に出会う前に、アイデンティティのよりどころにしていたものも、いまは、比較的どうでもよくなっています。それらすべてに変わる、「人生の中心」と言えるものがあるのですから。もちろんそれは「愛する人」です。このひとが、あなたが生きる理由であり、あなたは、この人で自分を定義するようになります。あなたはもはや自分のことをちっともかまってくれない(と、あなたは考えている)宇宙で、ポツンと取り残された「かけら」ではありません。
あなたの世界は、いまでは「愛する人」を中心に回っています。中心を自分の外界に据え、相変わらず外界のもので自分を定義していることから生じる不都合も、初めの内は気になりません。重要な事は、「不完全」「恐れ」「欠乏」「不満」というネガティブな感情を、そっくり取りのぞくことができた、ということです。でも果たしてそれは事実でしょうか? ネガティブな感情は、ほんとうに雲散霧消してしまったのでしょうか? それとも幸福の裏側に、しぶとく存在し続けているのでしょうか?
恋愛関係の中で、愛と「愛の対極にいちするもの(攻撃、言葉の暴力など)」を両方経験しているなら、それはエゴの「中毒的なしがみつき」を愛と混同してしまっている可能性が高いのです。だれかを、在る時には愛し、次の瞬間には攻撃するということは、不可能です。「ほんとうの愛」には対極がありません。もしあなたの愛に対極があるなら、それは愛ではなく、完全になりたがっているエゴの欲求を相手が一時的に満たしてくれているだけなのです。それはエゴにとってさとりの「代用品」です。ほんの短いあいだなら、本物のさとりみたいに」感じられるでしょう。しかし、遅かれ早かれ、パートナーがあなたの必要(というより、むしろエゴの必要)を満たし損ねる時がやってきます。すると「恋愛関係」が覆い隠してきたエゴの恐れ、痛み、欠乏という感情が、どっとあふれてきます。
恋愛関係もそのほかのすべての中毒症状とおなじく、「麻薬」が手元にある時には「ハイ」でいられますが、麻薬が効かなくなってくる事態は、避けられません。痛みの感情が、ふたたび表面化してくる時には、始末の悪いことに、その度合いは輪をかけてひどくなっています。それだけではありません。あなたは自分のパートナーを痛みの犯人だとみなしているのです。そこで相手を攻撃するという方法で、自分の痛みの感情を外界に投影させます。
この攻撃が、パートナーの痛みを喚起する起爆剤となり、あいてはあなたに反撃することもあるでしょう。
どんな中毒症状も、自身の痛みを直視することを無意識のうちに、恐れているために、痛みを克服できずにいることが根本原因なのです。中毒症状はすべて痛みにはじまり、痛みにおわります。(略)
たくさんの人達が、「いまこの瞬間」から逃れ、未来に目を向けようとする理由は、自分の痛みと向き合うことを、なによりも恐がっているからです。惜しむらくは、「いまに在る」ことで生まれるパワーは恐れの根源である過去の痛みを溶かしてしまえることに、この人たちが気づいていない事、実態である「いま」のパワーは過去という幻影をいとも簡単に溶かしてしまえるのです。もちろんこの人たちは、「大いなる存在」がすぐ手が届くところにある、ということにも、気づいていません。(略)・・・・・・・・・・・・・P206
(♬つぎは、中毒的な人間関係を目覚めた人間関係に変える方法です。)